目次
今月の表紙写真
いつもタートルがお世話になっている「日本視覚障害者職能開発センター(2019年10月施設名称変更)」の職員の皆さんです!
左から杉江常務理事。3人目、タートル松阪理事長。4人目、伊吾田施設長。9人目、坂田部長。
巻頭言
「9年間を振り返って」
理事長 松坂 治男(まつざか はるお)
2010年度総会において、理事長に推挙された当時のことを思い出してみました。民間の企業でしかも理系の技術者という経歴を持つ私ですから、いろいろととまどうこともありました。
就任時の総会でこんな発言をいたしました。
「肩書きや看板が仕事をするのではなく、自分自身が納得して仕事を行うをモットーに、私より優れた専門家の意見を聞き、ベターな判断をしていきたいと考えております。会発足の思い・精神を継続しつつ、時代に合った会を目指して行きたい。」
そして、就任時の当面の第1の課題は、財政を健全にすることでした。経営委員会を立ち上げて、議論しましたが妙案は見つかりませんでした。そんな時にWEBでテキスト広告を掲載することにより、広告収入になると掲載を始めました。しかし2年余りで終了となりました。
続いて、新たな事業として、大学などの視覚障害者向けアンケートに協力して手数料をもらうことにしました。現在では実証実験も受注するまでになりました。
一方、NPO法人法が改定され、「認定NPO法人」が取りやすくなり、2015年5月に取得しました。寄付された方が税制の優遇が得られるので徐々に寄付が増えています。この4年収支が黒字になり、ひとまず安心しました。会員の皆様のお力を得ながら、今後も認定NPO法人として存続していけるように頑張っていきますので、引き続きのご支援をお願いいたします。
第2の課題は、会員相互の交流の場所の提供でした。従来はテーマを決めての交流会を年3回、さらに総会、そして忘年会の計5回行ってきましたが、行事が何もない月がありました。
「タートルサロン」を行事のない月に組み入れて、毎月第3土曜日には、タートルの行事があることにしました。最近は、初参加者が増えて、情報交換の場として大変にぎやかに開催されています。多くの方が、情報と交流を求めていることを痛感して、タートルの存在の大切さを再確認しています。
第3は理事の若返りでした。この間の活動で、若い方が多くタートルの活動に参加してくれています。これは素晴らしいことです。役員や会員の高齢化の中で、新たな展開がなかなかできない視覚障害者団体が多い現状です。しかし、タートルは新しく参加してくれている方の意見をどんどん反映して活動していくことが可能であると判断しました。
タートルの理事会は、なるべく多くの会員に活動内容を理解してもらうため、各事業ごとに運営委員を置いています。運営委員の中から理事になってもらうという仕組みを実施しています。新理事も活動内容がよくわかり、スムーズな移行が進んで、活気ある活動がなされています。
私が、つなぎとして理事長を引き受けて9年目となりました。これも理事・運営委員の支援によってなしえたことで、皆様に感謝しております。多くの皆様の思いをしっかりと受け止めながら、残りの任期を精一杯活動して参りますのでよろしくお願いいたします。
11月交流会講演
「パラリンピックへの挑戦〜諦めたくない夢がある〜」
株式会社マッシュスポーツラボ所属
パラアスリート 澤田 優蘭(さわだ うらん)氏
澤田優蘭と申します。「澤田」の澤は旧字の難しい澤に田んぼの田で、「優蘭」は優しいとか優秀という優の字に蘭の花の蘭と書いて「さわだうらん」と読みます。パラ陸上では、走り幅跳びと100メートルを、重度弱視のT12クラスというカテゴリーで競技しています。
今は29歳になりましたが、中学生から陸上に触れ始めたので、競技を始めてから14〜15年というところになります。今日は私がパラ陸上にどういう形で出会い、就労か進学かという選択肢の中で一度就労し、そこから再び陸上競技に復帰したこと。さらにまた、今も競技を続ける原動力や、続けていく中で自分が感じてきたこと、自分がパラリンピックを目指すうえで大切にしていることなどを織り交ぜながら、皆さんにお話ができたらいいなと思っています。
さて、先日になりますが、アラブ首長国連邦のドバイに行ってきました。11月1日夜に出発し16日まで世界選手権に出場してきましたが、4位以内に入れば東京パラリンピックの内定が取れるということで、非常に重要な大会でした。ただ、幅跳びでは5位、100メートルでは8位ということで、残念ながら今回はパラリンピック出場の内定は獲得できませんでした。でも、まだまだチャンスはありますから、引き続き出場を目指しながら、メダル獲得も目標に競技に取り組んでいきたいと考えています。
自己紹介になりますが、網膜色素変性症が病名になります。見え方を言うと、中心暗点のため今は正面の視野はありませんが、左右と下の視野が少し残っています。視力的には0.01〜0.02程度ですが、見えていない部分の方が多くて、進行性のため状況も少しずつですが変わってきています。今は、人の顔や文字を認識するのはすごく難しくて、パソコンなどでは基本的に音声ソフトを使いながら拡大鏡のアプリと併用してものを認識しています。
略歴を簡単にご説明します。私は6歳の時に目の病気の症状が出始めました。その時は病名がわかりませんでしたが、何となく目が悪いことには6歳頃から気付いていました。日常生活は支障なくずっと過ごしていたのですが、高校生の途中から都立文京盲学校に入学をしました。そこで陸上競技に出会い、2008年には北京パラリンピックに出場することができました。
その後は立教大学に進学し、体育会の陸上競技部に所属しながら競技を続けていました。ただ、大学を卒業する際の進路選択では、いったんは競技を辞め、社会人としての道に進むことにしました。そして「キリンビバレッジ株式会社」に入社をして、約3年間そこで仕事をしました。
その後、アスリートとしての道に再度チャレンジをしたいと考え、アスリート雇用という形で現在の「株式会社マッシュスポーツラボ」に入社し、現在も東京パラリンピック出場を目指して競技しているという流れになります。
ここからは、私がなぜ陸上競技に、パラ陸上に挑戦してきたのかを、少しずつお話していきたいと思います。実は6歳頃に、視力が悪くなったことに両親が気づいて、すぐに病院にも行ったのですが、病名がわかったのは16歳の時になります。それまでは、病名がわからなかったために、障害者手帳も持っていませんでした。
そういう形で、視力の低下や見えづらさについては少しずつ感じていたのですが、病院では「特に異常は無いから、精神的なものではないか」と言われていて、進行するとは思っていませんでした。そして、何となく見えづらさを感じながらも、中学や高校には何とか進むことができました。
中学校の時には陸上競技部にも入っていたのですが、次第に飛んで来るボールが見えないとか、走っていると物にぶつかりそうになることが増えていきました。スポーツに対して恐怖を感じるようになり、中学2年生の頃にはスポーツが好きではなくなってしまいました。
ただ、なぜ見えないのかわからないこともあって、悩みながらでしたが何とか高校進学をして、周りからのサポートをいろいろ受けながら高校生活を送っていました。でも、次第に教科書の文字などもすごく見づらくなって、いよいよ「ちょっとしんどいな」と思った時に眼精疲労と肩こりで行ったのが、偶然にも視覚障害の方のやっている鍼灸院でした。私は、そこで初めて自分と同じように目の悪い人に出会ったのです。
そして、視覚障害という言葉や、障害者手帳の存在を知りました。また、「盲学校に行っていた」という話を聞いて、盲学校というのは見えない人だけではなくて、見づらい人でも行けるということや、私も視覚障害者に該当するということを知ったのです。
そして、様々な話を聞いていく中で、自分も盲学校に入って勉強をしていった方が、高校卒業や大学などの後の人生を考える時に、必要なスキルを身につけられるのではないかと考えました。このまま頑張れば辛うじて高校や大学には行けるかもしれません。でも、その先の人生を考えた時に、盲学校への入学は視覚障害者として必要なスキルや知識に加え、全く知らなかった福祉の制度なども知ることのできるチャンスではないかと思ったのです。自分としてはかなり前向きな気持ちで盲学校への入学を希望し、障害者手帳取得などの手続きもいろいろと行って、両親も納得のうえで盲学校に入学することが決まりました。
その時は、高校1年生の12月頃でしたから、入学するとなれば高校2年生に編入するようなタイミングでした。でも、2年間では少し足りないような感じがしました。せっかく勉強をするのなら、3年間しっかりやらなければいけないと思いました。3年生になると進路も決めなければいけませんから、「1年生から盲学校に入り直したい」と盲学校の先生に伝えたところ、盲学校の先生は「いいと思うよ」と共感をしてくれました。
ただ、1つ下の学年で勉強することに関しては、両親からは「ちょっと大変じゃないの」「嫌ではないの」と言われて心配をされてしまいました。でも、「1年ぐらいなら、浪人と思えば大したことではないから大丈夫」と答えて、盲学校に高校1年生から入り直すことに決めました。それで17歳になる年に、本来であれば高校2年生になる年に、私は高校1年生として文京盲学校に入学したわけです。
そして、初めてパラスポーツに出会ったのです。当時は「障害者スポーツ」という言い方でしたが、視覚障害のある人たちが球技を楽しんだり、陸上で走ったりする姿を盲学校で初めて見て、私は大きな衝撃を受けました。見えづらくなった結果、私はスポーツが怖くなり、好きではなくなってしまいましたが、盲学校ではかなりの割合の人がスポーツを楽しんでいました。運動神経の良し悪しにかかわらず、スポーツをすごく楽しんでいる姿を見たことは、この時の私にとっては大変ショッキングなことでした。 ただ、すぐには「陸上競技をしよう」とは思いませんでした。でも、授業の合間に廊下に偶然立っていたところ、近寄って来た体育の先生から「いい脚をしているわね」といきなり言われて、私はすごく驚きました。思春期でしたし「えっ、何だろうこの人」と思っていたら、すぐに「何かスポーツをしていたでしょう」と言われました。「陸上を少しだけやっていました」と言うと、「やっぱり、そう思ったよ。そんな脚をしているもの」と言われて、「もう1回スポーツをしてみようよ」と声をかけられたのです。
でも、その時はスポーツに対してはまだ消極的でしたから、すぐにはイエスと言えませんでした。ただ、今でもその先生は私の競技をサポートしてくださっていますから、その先生との出会いは、私にとっては非常に大きなものだったと思っています。
そんなわけで、最初は「障害者スポーツ大会」から競技をスタートさせたのですが、いろいろな方からのご支援やご指導をいただくことで、本格的に陸上競技をするチャンスがもらえました。それが2007年のことです。翌年には北京パラリンピックもあるため「今、頑張れば狙えるかもしれないから頑張ろう」と言ってもらいました。しかし、私もまだパラ陸上を始めたばかりでしたから、いきなりパラリンピックという世界の話をされて、最初は動揺をしました。でも、「やってみたいな」「あきらめてしまった陸上をもう1度やりたいな」と思って、そこからは陸上を真剣にやり始めたのです。
先ほどお話をした先生も、陸上経験のある方でした。その先生がいつも練習を見てくださったり、体育科の他の先生方からも競技するための道筋を教えてもらったりしました。そういう周りの方からのご支援もあって、北京パラリンピックを目指す環境が整い、結果を少しずつ出していくことで、北京パラリンピックへの出場を果たすことができました。
当時、何とか出場はしたものの、結果として幅跳びは9位でした。8位なら入賞になりますが、9位のために予選落ちでした。また100メートルは14位でした。自分としてはやりきったのですが、悔しい結果となりました。ただ、その時にパラリンピックの世界を初めて見て、「世界のレベルの高さから見れば、アスリートとしての自分は他選手に比べて非常に未熟だな」と痛感したことが、このパラリンピックでの経験になります。私は、競技者としても人間としてもまだまだ未熟ですが、「次にこの舞台に立つ時は『澤田優蘭を抜いてやりたい』『勝ってやりたい』と思わせるような競技者に自分がなって、この場に立ちたい」ということを強く感じた大会でした。
その後、私は陸上競技を続けながら、進路選択では大学進学を選び、立教大学に進学することになりました。そして、大学に入った時に「やはり、体育会の陸上部で練習をしたい」と思って相談をしたところ、大学側では体育会の運動部に視覚障害の人が所属するのは初めてのことでしたが、コーチや監督も含め、快く受け入れてくれることになりました。
そして、同級生の部員仲間や先輩方からも大きなサポートをいただきながら、大学生活と競技を続けることができました。その中で、アジア大会や世界選手権といった大会にも出場していくのですが、この時あたりから、思うような結果が残せないような時期にぶつかっていくことになります。
当時、私はT13クラスというカテゴリーで競技をしていました。パラ陸上の場合には、視覚障害ではT13、T12、T11という3つのカテゴリーでクラス分けをしています。11は全盲のクラスで、12が重度弱視、T13がやや軽度な弱視というクラスですが、私は最初、視覚障害では一番障害の軽いカテゴリーのT13クラスで競技をしていました。
ただ、少しずつ見づらさが増していたことに加え、その頃T13クラスでは「国際大会での走り幅跳びが無くなる」という話が出始めていました。今もそうですが、パラリンピックでは種目が減ってしまうことがあるのです。現状、T13クラスの短距離種目では、100メートルと400メートルだけとなり、跳躍種目では幅跳びはなくなってしまいました。
私はメインを幅跳びにしていたので、自分のやっている競技でパラリンピックを目指せなくなるため、モチベーションの持ち方で悩んだ時期がありました。その結果、実力もなかなか発揮できず、ロンドンパラリンピックへの出場はかないませんでした。それが2012年のことになります。
その頃、私は大学の3年生で、そろそろ進路を決めなくてはいけない時期になっていました。アスリートとしての道を選ぶのか、それとも社会人としての道を選ぶのか。それにより、就職活動をするかどうかを決めなければいけませんでした。
当時は、まだ東京オリンピック・パラリンピックも決まっていなかったので、今ほどアスリート雇用というのは多くありませんでした。アスリートを受け入れてくれる企業は本当に限られていましたが、当時の私がいろいろ悩む中で考えていたことの1つは、「アスリート雇用という形で、完全にアスリートになる道は選ばない」ということでした。
まずは社会人としてのスキルも身につけたいと思いました。それは、アスリートとしての人生よりも、それを終えてからの人生の方が圧倒的に長いため、大学を卒業したら仕事を経験したいと、以前から思っていたためです。
では、競技をどのような形で続けていくのか。視覚障害があるアスリートにとって、「環境を整える」という部分が、多分とても難しいのです。例えば、私にとっては「1人で、競技場で走る」ということはかなり難しいです。なぜなら、競技場というのは基本的には共用になりますから、いろいろな人が走っている中で、自分の安全を確保しながら走るということは、とても難しいのです。
加えて、競技場というのはかなり混雑しますから、そんな中で、どうやって時間を確保して安全な場所で練習をするのか、(サポートしてくれる)人をどう確保をするのかといった問題もあります。そして、今の自分がそこまでして競技を続けられるのかという問題もありました。
つまり、先ほど言ったような様々な伸び悩みに加え、思い描くような競技ができないもどかしさや、モチベーションが上がらない状態もありました。正直に言えばとてもホワホワした状態でしたから、こんな状態で多くの人に時間を割いてもらったり、サポートをしてもらったりしても、できるのかと思ったのです。
私にそれなりの覚悟ができていなければ、サポートをしてもらう人にも悪いですし、仕事をしながら競技をするのはそんなに簡単なことではありません。ですから、どうしようかとすごく悩みました。そこで、悩んだ末に一度は競技から離れて、仕事をする道を選ぶことに決めました。就職活動を開始して、いろいろと企業を訪問する中で、私は入社をすることになりました。その時には、パソコンの訓練を受ける機会もいただきました。
そして、入社してからの最初の1年間はスポーツからはずいぶんと離れ、ひたすら仕事に追われる日々を過ごし、次第に仕事にも慣れてきました。最初はマーケティング部に所属をしたのですが、途中で営業部に異動となり、仕事が変わることで再び慌ただしくなるような、本当にそんな感じの日々を過ごしていました。
入社した2014年から1年経った2015年の中頃には、アジアのパラ大会がテレビで放送されました。私は同期の仲間が旗手をしたり、金メダルを取っているのを見て、「すごく格好良くなっている」と感じましたし、競技者としてすごく大きくなってキラキラしている姿を見ることで、居ても立ってもいられなくなったというのでしょうか、「自分もこういう姿になりたかったんだ」という気持ちが再び呼び起されたのです。
それは、次第に仕事にも慣れ、自分の時間を確保できるようになり、少し余裕が出てきた頃でした。陸上競技というのは年をとってもできる競技ではありませんから、本当に「記録を残したい」とか「パラリンピックに出たい」と思うのであれば、今やらなければチャンスがないということをすごく感じたのです。
それで、1年半ほど離れていましたが、私はお世話になった先生にすぐに連絡をしました。先ほどの「脚がいい」と褒めてくださった先生ですが、その先生に「すみません、また陸上をやりたいのです」と連絡をすると、「待っていましたよ」と言ってくださって、そこから陸上競技に少しずつ復帰することになりました。
ただ、会社にはフルタイムで働く普通の会社員として入っていますから、会社での位置づけ上、私のスポーツは趣味でしかありません。それで、仕事が終わってから競技場に行って、夜の9時頃から11時頃まで人気のない競技場で練習し、朝には出社するような生活をスタートさせたのです。
そして、大会にも久々に出てみると、最初は長いブランクのため思うような記録が出ませんでしたが、少しずつ練習をしていく中で次第に記録も伸びていきました。そして、2016年のリオパラリンピックが近づいてくる中で、「もうすぐ標準記録も切れるね」という感じになってきました。
しかし、標準記録を切るだけではパラリンピックには行けないのです。協会から選ばれなければなりませんし、そのためには世界ランキングを上げなければなりません。私は条件を満たせていなかったので、大会ではもっと良い記録を出さなければいけませんでした。
ちょうどその頃に、私は軽度弱視のT13クラスから、T12クラスへのカテゴリー変更が必要でしたが、それには国際クラス分けステイタスということで、資格を持ったお医者さんに認定してもらわなければなりません。ただ、それは国内ではあまり行われていないため、海外大会に遠征することで、クラス分けステイタスを取りに行かないといけませんでした。そのため、会社を休んで海外大会に出場しなければならないこともあり、上司や一緒に働いているチームの人たちに相談しました。
周りの方々は私が競技することを応援してくれましたから、行かせてもらっていたのですが、3、4日とか一週間近く休まなければならなかったり、大会が土日のため金曜日から行かなければならないこともあって、休まなければいけない状況が増えてきました。
一方で入社3年目を迎え、仕事もそれなりに任せていただける機会も増えていました。次第に仕事の難易度も上がって、1人で回す仕事も増えていく中でしたから、頻繁に仕事を休んだり早く上がったりするのは、難しくなっていました。ですから、周りの方々の理解を得たうえで、その人たちにサポートをしてもらわないといけないような、大変難しい状況になっていました。
そんな時に、一緒に働いていたチームの先輩に「中国の大会にどうしても行きたい」という相談をすると、先輩は「やれる仕事は自分でやって、行っている期間にどうしてもしないといけない仕事があれば、マニュアルを作ってくれたら私がするから行って来て。頑張って来てね」と言ってくれました。そういう理解とサポートがあったおかげで、私は競技を続けることができたのです。
ただ、先ほどもお話をしたような形で夜中に練習をしていましたが、競技を優先した生活はもちろん送れませんから、あと1つというところでは自分で納得のいく練習や、スキルを身につけることができないのです。つまり、身体を元の状態に戻すことはできても、それ以上にはできません。そのうえ、周りの人たちにいろいろと負担をかけたり、犠牲を払ってもらっているという部分ですごく悩みました。
そして、今まで仕事のために陸上競技を優先してきませんでしたが、今まで応援してくれた人たちに恩返しをしたいという思いもあり、陸上競技の優先を決意し、当時働いていた会社を退職して、アスリート雇用を選ぶことを決断したのです。
つまり、アスリート雇用となることで、本当に専念できる環境で競技に取り組みたいと思ったのです。それは、3年間仕事をしたからこそ、できた決断でもありました。そして、「自分はアスリートとしての道を選ぼうと思っている」、だから「アスリート雇用で働ける環境の会社に行こうと思っている」という旨を、会社の人に伝えました。
仕事で恩返しができないままに会社を辞めて、自分の好きな道に行くというのは本当に勝手なことだと思いましたし、申し訳ないという思いもありましたが、会社の上司に伝えました。そして「そうか、頑張ってね」という返事が来ると思っていたのですが、「ちょっと待ってね。まだ次が決まっていないのなら、会社にそういう雇用の仕方がないか、相談するから時間をください」と言われたのです。
私としては、正直そんなことをして貰えるとは全く考えてもみなかった返事でしたから、本当に人の温かさに触れた瞬間だったと思います。制度を変えるということはとても難しいため、残念ながらアスリート雇用にはできませんでしたが、そんなふうに言ってくれた上司や会社の人たちに対しては、今でも本当に感謝をしています。
ですから、そうした人たちの思いも含めて、「自分は絶対に東京パラリンピックに出て、皆さんに最高のパフォーマンスをして恩返しをしたい」と思いました。そういう思いが、本当に強くなった瞬間でもありました。
そして、実際に東京パラリンピックを見据え、アスリート雇用という形で就職活動をした結果、現在の「株式会社マッシュスポーツラボ」という会社に出会いました。現在、基本的には競技を中心としていて、出社をするのは月に1〜2回程度になります。また、こういった講演会やイベント等にも積極的に参加することで、パラスポーツを広めたり、視覚障害についての理解をさらに深めるような活動なども併せて行っています。
今、100メートルを走る時は、ガイドランナーの人と一緒に走っていますし、幅跳びには幅跳び専門のコーチがついています。私はそういった人たちと一緒に、競技をする上では本当に最高の環境の中で、パラリンピックを目指しているのです。
そして、アスリート雇用になってからは記録も伸びてきて、去年はアジア大会に出場し、今年は世界選手権ということで、本当に少しずつではありますが、実力もついてきました。また、東京パラリンピックへの出場についても、少しずつ近づいて来ていると思います。
ただ、最初にお話をしたように、今回は世界選手権の内定が取れなくて本当に悔しかったのですが、「これまで関わってきた人たちに、どうしても良い報告をしたい」「カッコイイ姿で恩返しをしたい」という思いをバネにすることで、今は競技に取り組んでいます。
これは陸上競技だけではないかもしれませんが、競技をする中で感じるのは、視覚障害を持ちながらやっていくには、すごく困難が伴います。そして、私が特に難しいと感じているのは、技術の習得です。なぜなら、良い走りや良い跳び方をイメージするのがすごく難しいのです。映像で見ることができないため、それをどう再現するのか、それをどう習得していくのかというと、やはり言葉によるコミュニケーションに尽きるのかと思います。
私たち視覚障害の場合は運動機能そのものには障害がありませんから、やろうと思えば恐らく健常のアスリートと同じ動きができるはずなのです。しかし、どういう動きをすればそこに近づけるのかというと、それをイメージしてから再現するのが本当に難しいために、今はその作業にとてつもない時間をかけてトレーニングをしています。
そして、それは仕事をしている時に感じた感覚とすごく似ていると思うのです。1つの動作を習得するために様々な練習を繰り返すわけですが、見えないからできないだけなのか、それとも見えなければできない動きなのか、あるいは反復練習等の努力をすれば感覚を掴んでできるようになるのか、そういった点がすごく難しいのです。それで、コーチとはそういう相談をしながら今は練習をしています。
仕事をしている時にも同じような思いを感じました。1つの仕事を任された時にも、「他のやり方をすればできるようになるのか」、「慣れればできるようになるのか」、それとも「見えなければこの仕事は非常に難しいのか」といったようなことが、結構あったかと思うのです。
今、私はアスリートということで、パソコンを使った仕事からは完全に離れていますが、仕事をしていた時に感じたことと、アスリートとして高レベルのパフォーマンスを目指すことには、共通点が結構あるのだと思います。ですから、まずコミュニケーションをしっかり取っていくことを大切にしながら、練習に取り組んでいるのです。
例えば「自分はこんなふうに見えているから、こういう動きはすごく怖く感じるけれど、これだったらできるような気がする」とか、「こうしたらできるかもしれない」と感じれば、コーチは視覚障害の人と関わりがあった人ではありませんから、私の感覚をなるべく言葉で伝えることで、理解してもらっています。そして、相手がそこから何か新しいアイデアを見つけるチャンスとなるように言語化をすることで、お互いに共有していくことを私はすごく大切にしています。
話は少しそれますが、パラリンピックでは急速にレベルが上がっているため、私のT12クラスでは、女性のトップレベルの選手は、100メートルを今11秒前半で走ります。また、男子も10秒代前半がトップレベルの選手の記録になります。一方、日本人のレベルでいうと、女子は11秒8ぐらいで日本選手権に出られますし、12秒を切っていれば十分にトップレベルのスピードになります。男子も10秒代半ば辺りが日本のトップレベルです。しかし、パラリンピックに出場しようとか、メダルを取ろうと思うのであれば、健常者の中のトップレベルと闘える力が必要になってくるのです。
ですから、メディアの方から視覚障害で大変なことは何かということで、「真っ直ぐ走るのは(どうですか)」「走っていて怖くないのですか」と聞かれたりするのですが、正直に言うとそういうレベルの話ではないのです。そういうことは、パラ陸上をしている選手すべてがとっくに乗り越えてきたレベルの話であり、それよりも上に行こうと思うなら、健常者ができる動きが必要になるわけです。
なぜなら、陸上というのは単純なもので、速く走ったり遠くに跳んだりすれば良いのですから、そのためには無駄をそぎ落として効率良く走ることが必要なのです。無駄な力を使わずに、地面との反発を上手く使って速く走るということ、ただそれに尽きるのです。そして、私たちの場合は「走る」という動き自体が運動的にできないわけではありませんから、結局女性が11秒代で走ることを目指すのであれば、健常者の人たちの動きと同様の動きをしなければ、とても到達などできないのです。
ですから、厳しい難しさがあります。人よりたぶん何十倍もの時間を割かなければなりませんし、それこそ私だけの努力ではなくて、コーチやトレーナーさんと一緒になって、かなり根気強く粘り強いやりとりをしながら、時間をかけて取り組んでいかなければいけません。
そして、今私が目指すのはそういう動きですから、何とか技術の習得をしていくためには、先ほどお話をしたような細かい点を言葉で伝え、「マル、バツ」「マル、バツ」といったやりとりをずっとしています。「これは合っているからマル」「はい、今のはバツ」「バツで駄目」「はい、もう一回やってみて」といった形で感覚を掴む練習をずっとしています。
話は前後しますが、今私が大切にしていることの1つは、そういったコミュニケーションです。やはり、見えなければ視覚的に得られる情報はかなり少なくなるため、言葉を使ってなるべく情報を得るとともに、相手にも自分の情報を伝えることが必要ですから、私はそれを大切にしています。
そして、大切にしていることの2つ目は、練習をしていく中でのことになります。競技の本番自体には危ないことはあまり無いのですが、例えば練習の際には、「ハードルを跳んでみよう」とか、「障害物がある高いボックスの上からジャンプをしてみよう」といった様々なトレーニングをします。これは必要なトレーニングなので行いますが、中にはやはり怖い動きもあって、実際に去年も一昨年も練習中に捻挫をしています。そういったケガと隣り合わせにあることは事実です。
ただ、様々な練習をしていくことは重要ですから、「どう、できそうかな」と言われたら、「まずやってみます」と答えることを大切にしています。必ず心がけているのは「チャレンジする」「やってみる」ということで、明らかに危険と感じる場合は、必ずそれも口に出すようにしています。「やってみたいけど、この部分はすごく危なくて不安なので、ここを払拭できる方法は何かありますかね」というように、相談をしながら練習に取り組んでいます。そして、やってみても「これはちょっと難しいね」とか、「やったところであまり効果が得られないよね」となれば、また違う方法を見つけたり工夫をしていくことを繰り返しています。
これも話は戻りますが、仕事をしていた時も同じでした。「どう、これをやってみますか」「この方法はできそうかな」と言われたら、「まず、やってみます」と言うのは、私が心がけていたことで、これはすごく共通している大切なことだと感じています。
最後に大切にしていることの3つ目になります。それは、支えてくれる人ということで、周りの人たちとの関係を大切にすることです。正直に言うと、陸上競技を始めた頃もサポートの大切さは感じていましたが、いろいろな経験をする中で様々な人々と出会って、サポートをしていただく機会が大きく増えていくほど、このことの大切さを本当に痛感しています。なぜなら、私が競技を続けるためには、サポートしてくれる人たちが犠牲を払っていること、その人たちに迷惑をかけてしまっていることが、すごくたくさんあると思うからです。
思い返せば、私が就職をすると決めた時にも、就職できるように数多くのサポートをしてくださった方がいました。そして、就職後も私のキャリアプランを考え、どう成長させていくかと真剣に考えてくれた上司や先輩方がいました。そんな中、私はアスリートの道を選ぶことになりましたが、そういったすべての人たちや、今でも応援をしてくれる人たちを私はずっと大切にしたいし、その繋がりを大事にしていきたいと思っています。そういうご縁があって、私の競技が上手くいっていることもたくさんありますから、人との関わりというのはすごく大切だと思うのです。
まだ以前の会社に勤めていた頃にも、私が夜遅く練習しているのを見ていた1人の社員の方が、少しでも力になれたらということで、取引先の会社に話をしてくれました。そして、私にプロテインの提供ができないかというお願いをしてくれたのです。実は、今でもその会社さんからは、そういったサポートをいただいています。
私が会社を辞めるという話になった時にも、「会社を離れても、そのサポートが受けられるようにしておいたから、頑張ってね」と言ってくださって、そのお陰で今も支援を受けることができています。そんなふうにしてもらえるとは全く思っていませんでしたが、本当に人との繋がりというのは、温かくて大切なものだと感じています。
会社で仕事をしていた時にも、最初は周りの方の顔も覚えられず、コミュニケーションを取ることは難しかったのですが、次第に職場の人と親しくなっていく中で、「優蘭ちゃん、仕事忙しそうだね。大丈夫かな、何か手伝おうか」と、仲良くなった先輩が声をかけてくれました。
親しくない人と上手にコミュニケーションを取ることは難しいのですが、徐々に親しくなっていく中で、快くサポートをしてくれたり、「何かお手伝いしようか」と言ってくれる方々が増えていきました。障害を理解してもらうこともすごく大事だと思いますが、やはり人とのコミュニケーションができれば、意外とそういうところに関しても、人との繋がりの中でスムーズにやっていけるのだと、私はすごく感じています。
ですから、競技をしている時も同じですが、自分の傍にいる人たちを、私はすごく大切にしています。その人たちへの恩返しや、その人たちに対する思いも含めて、今の自分は競技を続けているのです。そういうことで、私が競技をしていく中で大切にしているのは、この3つになりますが、それを大切にしながら今も練習に取り組んでいます。
繰り返しになりますが、陸上を目指す中では多くの方に支えられながら、私は今もこの競技をしています。これまでにも上手くいかなかったり、悩んだりと、様々なことがありました。ただ、私がどうしても陸上競技を諦めたくない理由には、もちろん陸上が大好きでどうしても成し遂げたい目標があることもその1つですが、ここまで私に期待し応援してくれた人たちに対しては、最後に胸を張ってしっかりと良い報告ができるようになりたいという思いがあります。だから、今は陸上を続けたいと考えています。今回のタイトルにもしましたが、「諦めたくない夢」というのはそういうところから来ていて、私は今競技に対して熱中をしているわけです。
また、私が競技をしていく中で、これは講演会等をしていても感じることですが、「弱視」という言葉は結構知られていなくて、「視覚障害イコール全く見えない」と理解されている方が多いということです。でも、実はいろいろな見え方があって、視覚障害と言っても一括りではないこと、弱視も含めて視覚障害にもいろいろあること、また、パラスポーツの存在についても、多くの人に知ってもらえたら良いなという思いもあって、活動を続けています。
パラ陸上に関しても、少しずつ人口は増えているものの、なかなか視覚障害の人は増えていきません。「目が悪いとスポーツができないのではないか」と思ってしまう人もいるのかもしれませんが、「陸上はできる」「スポーツは目が悪くてもできる」という人を、今後1人でも増やしていけたら良いなという思いも込めて、私は陸上競技をしています。
次第に、東京パラリンピックも近づいて来て、メディア等に取り上げられる機会も増えてきました。2020年は東京パラリンピック、2021年には陸上の世界選手権もあります。日本ではパラスポーツも盛り上がってきました。視覚障害への理解も少しずつですが広まって来ていると思います。私も、皆さんと一緒にいろいろと盛り上げていけたらいいなと思っています。今後も頑張っていきますので、どうぞよろしくお願いします。
職場で頑張っています
「見えなくてもキャリアアップし続ける喜び」
会員 株式会社ラック 高原 健(たかはら けん)氏
はじめまして、株式会社ラックの高原と申します。現在は、2019年4月に弊社に転職し、弊社の研究部門であるサイバーグリッドジャパン・次世代技術開発センターに所属し、研究員をしています。
両親からの遺伝で、先天性白内障、小眼球症、眼球振盪、10歳のころから緑内障を発症し、現在の視力は、左は0.02、右は手動弁の、強度のロービジョンです。
私の職歴を簡単にご紹介します。大学を卒業後、2006年4月、大手電気メーカーの情報システムのグループ会社にシステムエンジニアとして入社しました。当時は、左目の視力は0.05ほどはあり、スクリーンリーダーは利用せず、拡大表示でシステム開発や研究の仕事をしていました。次世代ネットワークやバイオメトリクスの研究開発、ISP向けのポータルサイト、電力需給管理システムなど、様々なプロジェクトに参画し、実績を上げてきました。20代の頃は、毎日朝8時半から夜12時まで働いていたこともありました。システム開発に関する資格も少しずつ取得して、順調にキャリアを積み上げていきました。プロジェクトは短いと3ヶ月、6ヶ月の短期間で、鳶職のような働き方をしていました。
多忙の中、私の視力は徐々に低下し、拡大表示での作業ではものすごい眼精疲労が発生し、ひどい頭痛と眼振からのめまいに襲われ、長時間の勤務が難しくなってきました。昨今のソフトウェア開発の現場では、IDEと呼ばれる統合開発環境で、マウスで部品を配置するだけで素早くソフトウェアが完成する開発手法が主流になっており、その開発環境やプログラミング言語、標準規約はプロジェクトごとにまちまちで、すべてを視覚的に使いこなすことが困難になってきました。また、プロジェクトごとにメンバーが交代するので、理解が得られないまま孤独になり、どうしたらよいかわからない状況の中、精神的にも追い詰められて、毎日イライラする日々を過ごしていました。いわゆる炎上プロジェクトでは、画面を拡大し、反転表示して画面に近づいて作業する私を後ろからずっと覗き込まれ、進捗を監視され続けて、とても傷ついたこともありました。
そんな時、かかりつけの眼科のソーシャルワーカーから、NPO法人タートルに相談してはどうだろうかと提案していただきました。相談スタッフの方からは、全盲でもソフトウェア開発の現場で活躍する方を何人か紹介していただきました。紹介していただいた有識者と情報交換を進める中で、独学でスクリーンリーダーを学習し、現在の視力で最もパフォーマンスが高いPCの操作方法を探求し始めました。そして、今までのスキルを活かしつつ、更にキャリアアップする進路の可能性を模索し始めました。
いろいろなご縁に恵まれ、2019年4月から、現在の株式会社ラックで働くことになりました。私の所属するサイバーグリッドジャパン・次世代技術開発センターは、3名の晴眼者と4名の視覚障害者で構成された部署で、情報セキュリティに関する知見の収集・分析・創出を様々な視点から研究しています。各種言語のプログラミングをはじめ、統計学などを用いた分析、AIなどの最新技術の活用、インフラ構築まで、チーム一丸となって研究に取り組み、実績を挙げています。
PCの利用方法は、オフィスソフトだけでなく、研究開発に必要な専門的なソフトウェアをスクリーンリーダーで活用する知見が多く共有されており、存分に働ける環境が整っています。また、弊社は視覚障害の先輩社員が培った晴眼者とのコミュニケーションが社内に浸透しており、とても良好な職場環境です。また、働き方改革を推進しており、テレワークを活用して、台風時など通勤が困難な状況でも柔軟に働ける制度も充実しています。
当部門の情報誌「CYBER GRID JOURNAL Vol.9」に、私の部署で働く晴眼者1名と、私を含む視覚障害者3名の座談会の特集記事が掲載されておりますので、併せてご覧くだされば幸いです。
〓CYBER GRID JOURNAL 総合ページのURL
https://www.lac.co.jp/lacwatch/cyber_grid_journal/
末筆ではございますが、NPO法人タートルの更なるご発展と、視覚障害者の就労環境が益々改善されますよう、心から祈念いたします。
お知らせコーナー
☆タートル事務局連絡先
Tel:03-3351-3208
E-mail:m#ail@turtle.gr.jp
(SPAM対策のため2文字目に # を入れて記載しています。お手数ですが、上記アドレスから # を除いてご送信ください。)
◆ ご参加をお待ちしております!!(今後の予定)
・タートルサロン
毎月第3土曜日 14:00〜16:00
*交流会開催月は講演会の後に開催します。
会場:日本視覚障害者職能開発センター(東京四ツ谷)
情報交換や気軽な相談の場としてご利用ください。
◆一人で悩まず、先ずは相談を!!
「見えなくても普通に生活したい」という願いはだれもが同じです。職業的に自立し、当り前に働き続けたい願望がだれにもあります。一人で抱え込まず、仲間同士一緒に考え、気軽に相談し合うことで、見えてくるものもあります。迷わずご連絡ください!同じ体験をしている視覚障害者が丁寧に対応します。(相談は無料です)
◆正会員入会のご案内
認定NPO法人タートルは、自らが視覚障害を体験した者たちが「働くことに特化」した活動をしている「当事者団体」です。疾病やけがなどで視力障害を患った際、だれでも途方にくれてしまいます。その様な時、仕事を継続するためにはどのようにしていけばいいかを、経験を通して助言や支援をします。そして見えなくても働ける事実を広く社会に知ってもらうことを目的として活動しています。当事者だけでなく、晴眼者の方の入会も歓迎いたします。
※入会金はありません。年会費は5,000円です。
◆賛助会員入会のご案内
☆賛助会員の会費は、「認定NPO法人への寄付」として税制優遇が受けられます!
認定NPO法人タートルは、視覚障害当事者ばかりでなく、タートルの目的や活動に賛同し、ご理解ご協力いただける個人や団体の入会を心から歓迎します。
※年会費は1口5,000円です。(複数口大歓迎です)
眼科の先生方はじめ、産業医の先生、医療従事者の方々には、視覚障害者の心の支え、QOLの向上のためにも賛助会員への入会を歓迎いたします。また、眼の疾患により就労の継続に不安をお持ちの患者さんがおられましたら、どうぞ、当認定NPO法人タートルをご紹介いただけると幸いに存じます。
入会申し込みはタートルホームページの入会申し込みメールフォームからできます。また、申込書をダウンロードすることもできます。
URL:http://www.turtle.gr.jp/
◆ご寄付のお願い
☆税制優遇が受けられることをご存知ですか?!
認定NPO法人タートルの活動にご支援をお願いします!!
昨今、中途視覚障害者からの就労相談希望は本当に多くあります。また、視力の低下による不安から、ロービジョン相談会・各拠点を含む交流会やタートルサロンに初めて参加される人も増えています。それらに適確・迅速に対応する体制作りや、関連資料の作成など、私達の活動を充実させるために皆様からの資金的ご支援が必須となっています。
個人・団体を問わず、暖かいご寄付をお願い申し上げます。
★当法人は、寄付された方が税制優遇を受けられる認定NPO法人の認可を受けました。
また、「認定NPO法人」は、年間100名の寄付を受けることが条件となっています。皆様の積極的なご支援をお願いいたします。
寄付は一口3,000円です。いつでも、何口でもご協力いただけます。寄付の申し込みは、タートルホームページの寄付申し込みメールフォームからできます。また、申込書をダウンロードすることもできます。
URL:http://www.turtle.gr.jp/
≪会費・寄付等振込先≫
●郵便局からの振込
ゆうちょ銀行
記号番号:00150-2-595127
加入者名:特定非営利活動法人タートル
●他銀行からの振込
銀行名:ゆうちょ銀行
金融機関コード:9900
支店名:〇一九店(ゼロイチキユウ店)
支店コード:019
預金種目:当座
口座番号:0595127
口座名義:トクヒ)タートル
◆ご支援に感謝申し上げます!
本年度も多くの皆様から本当に暖かいご寄付を頂戴しました。心より感謝申し上げます。これらのご支援は、当法人の活動に有効に使用させていただきます。
今後とも皆様のご支援をお願いい申し上げます。
◆活動スタッフとボランティアを募集しています!!
あなたも活動に参加しませんか?
認定NPO法人タートルは、視覚障害者の就労継続・雇用啓発につなげる相談、交流会、情報提供、セミナー開催、就労啓発等の事業を行っております。これらの事業の企画や運営に一緒に活動するスタッフとボランティアを募集しています。会員でも非会員でもかまいません。当事者だけでなく、晴眼者(目が不自由でない方)の協力も求めています。首都圏だけでなく、関西や九州など各拠点でもボランティアを募集しています。
具体的には事務作業の支援、情報誌の編集、HP作成の支援、交流会時の受付、視覚障害参加者の駅からの誘導や通信設定等いろいろとあります。詳細については事務局までお気軽にお問い合わせください。
☆タートル事務局連絡先
Tel:03-3351-3208
E-mail:m#ail@turtle.gr.jp
(SPAM対策のため2文字目に # を入れて記載しています。お手数ですが、上記アドレスから # を除いてご送信ください。)
編集後記
グレタ・トゥーンベリさんの国連での衝撃的な演説にも代表されるように、今や世界で様々な国や企業が気候変動対策に積極的に取り組み始めています。「二酸化炭素が増えると温室効果で気温が上昇する」という方程式は、もはや不変のようですね。積極的に声を上げることで、何かが変わるかもしれない。若い世代のみならず、すべての人々が思いを巡らせる。これもまた不変かもしれません。
ところで、障害者に対する社会のスタンスはどうでしょう? 移動の支援、就労の問題、教育について…。もっといえば、存在そのものに対する考え方のような…。声を上げることを、ずいぶん前からしているのですが、変化というところはどうなのでしょう?
所謂ITの発達が、視覚障害者の生活や、就労などたくさんのことを変化させてくれています。その中にあって、何か「不変」のようなものがあるとしたら、それは何でしょう?もしかしたら、人の不理解や、偏見みたいなものかもしれないです。
立場は違えど、障害者というくくりでは同じではないかと思う、相模原での残酷な現実。司法の判断が下される中で、様々な意見が飛び交い、とてつもなく大きな「不変」を見てしまった気がするのは私だけなのでしょうか?
さて、今回の「情報誌」はいかがでしたでしょうか? これからも、会員の皆様に楽しんで頂けるような誌面にしていきたいと思っております。どうぞ宜しくお願い致します!!
(イチカワ ヒロ)
奥付
特定非営利活動法人 タートル 情報誌
『タートル第50号』
2020年2月14日発行 SSKU 増刊通巻第6681号
発行 特定非営利活動法人 タートル 理事長 松坂 治男