情報誌タートル 第45号

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表紙の説明

<今月の表紙>
「簡単でわかりやすい!視覚障害者との接し方講座」の講師、スタッフ、参加者。
左から二人目、塚本講師。三人目、市川理事。四人目、六川運営委員。六人目、芹田事務局長。

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【巻頭言】

『ウェアラブル端末に思う未来の視覚障害者の自立への期待』

理事 石原 純子

はじめに、この度、平成30年の台風21号、および北海道胆振東部地震により被災された皆さまに、心よりお見舞いを申し上げるとともに、被災地の一日も早い復旧をお祈り申し上げます。

網膜色素変性症の診断から、早いもので13年が経ちました。医師から、徐々に視力が低下する病気だと告げられ、そのとおり、年々視力低下が進み、日常生活で不便だなと感じることが多くなってきました。私の場合、中心が見えないため文字処理に苦労し、文字を拡大したり、OCRを使用して処理をするため、多くの時間が必要となります。例えば外出時は、電車の乗り換え案内や出口の表示が見えないため、迷子になることもしばしばあります。また、買い物に行っても商品が何かわからなかったり、値段が見えなかったりして困ります。洗剤や食品、調味料などのラベルや注意書きにある、使用量、用途がすぐにわからなかったり、人の顔もあまり見えないので、バッタリ会った時に、一瞬誰かわからないことも多いです。

ほかにも、日々届くDMや手紙、カタログ、様々な書類やレシートなどが、見てすぐ処理できないため、少し油断すると、どんどんたまっていきます。「あー、前だったら、さっさとできたのになあ」「見えていたら、もっと効率よくできるのになあ」と、考えても仕方がないことを考え、ため息が出てしまいます。

このように、活字の処理に日々困難を感じていますが、昨年、活字を音声で読み上げる「スマートグラス」に出会いました。メガネをかけて、見た文字を代わりに読み上げてくれ、しかも翻訳までできます。多くの視覚障害者が困難を抱えている活字を、メガネ型のデバイスで、いとも簡単に読むことができるようになるなんて、想像できないことでありましたし、遠い未来の話だと思っていました。

「スマートグラスとは何か?」知っている方も多いと思いますが、ざっくりと説明してみましょう。

「スマートグラス」とは、ウェアラブル端末(身に着ける機械)の一つで、眼鏡をかけるように使います。センサーやカメラ、マイクなど様々な機能が搭載され、インターネットにもつながるので、メガネの形をしたスマートフォンと考えてもよいでしょう。

今年に入り、さらにバージョンアップした機械が発売になり、その機械は活字を読むだけでなく、人や物、色の認識もでき、簡単なジェスチャーによって操作が可能です。こうした機能の元になっているのは、多くの視覚障害者が困りごととして挙げていることであり、これらの手助けができると、困りごとの解消につながることでしょう。

今年、タートルでも「スマートグラス体験会」を2回開催し、たくさんの方々が関心を寄せてくださり、参加されました。このような機器が身近になることで、新たな楽しみや希望が発見できるかもしれません。とかく、視覚障害者は受け身になりがちで、誰かのサポートを受けないとできないことも多いですが、文字情報を含む外界の認識機能の精度が上がれば、一人でできることが増え、「自立した生活」の一助になることも期待できます。

技術の進歩により、「スマートグラス」のような機器が広く浸透し、私たち視覚障害者の未来がどのように変わっていくか、思いを巡らせることは楽しみです。

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【9月交流会講演】

「理療就労の現状と展望〜次世代のために為すべきことは何か〜」

筑波技術大学教授 鍼灸学博士
一枝(ひとえだ)のゆめ財団専務理事
藤井 亮輔(ふじい りょうすけ)氏

ただいまご紹介いただきました藤井亮輔と申します。今日お話をする内容ですが、まずは自己紹介をさせていただきます。そして、三療の仕事の簡単な歴史を少したどってみたいと思います。また、三療の魅力や素晴らしさ、現状と課題について、最後は今の厳しい状況を打開するにはどうしたら良いかという構成で話を進めたいと思います。

〈自己紹介〉

まずは、私の自己紹介です。1954年に福井県福井市で生まれました。5歳上の兄と1歳上の姉がおりますが、9年経って妹ができたので、4人兄弟の3番目になります。物心がついた頃から弱視のため非常にまぶしがりやで、どの写真を見ても目を細めている写真しかありません。角膜が濁ってくる病気のため、移植をすると見えるようになります。これを「障子の張り替え」と言っているのですが、見えるようになったり見えなくなったりしています。ですから、点字も使えれば墨字も使える両刀遣いということで、大変便利な目であります。何の因縁か、私を含む上の3人の兄弟は皆同じ病気で、障害のある子どもだったわけです。

そして、父の仕事の関係で福井から転々として、兄はもう中学校でしたが、青森県三沢市の小学校に行きました。そこに盲学校の先生方が勧誘に来られたので、3人同時にそろって八戸市の八戸盲学校に、私が小学校4年、姉は5年、兄は中3の学年で転校することになりました。これが私たちの大きなターニングポイントになったと思います。この辺りについては、また後ほどお話をします。

現在は東京の板橋に家があり、毎日、筑波にある筑波技術大学に通い始めて17年になります。来年で定年になります。大学は定年が65歳ですので18年勤めて辞めることになります。その前は筑波大附属盲学校に17年おりました。盲学校の最初の赴任地は沖縄盲学校で3年いましたから、教員生活20年ということで、38年の教員生活に来年でピリオドを打つことになります。

そこで、今日に至るまでの私の簡単な足跡についても、少し紹介をさせていただきます。今日のお話ですが、理療の素晴らしさだけではなくて、現状に関しても、皆さん方にご理解をいただければありがたいという趣旨になります。その話をする前提として、少しばかり私の歩いてきた道のりをご紹介したいと思います。

〈足跡〉

私は八戸盲学校で中学部を終えましたが、父の仕事の都合というよりも、父は不器用な人であまりきちんとした仕事に就けなかったため、東京の知人を伝って行くことになり、我々も一緒に東京に出ることになりました。そして、今は筑波大附属盲学校という名称ですが、当時は東京教育大学教育学部の附属盲学校の理療科に入学をします。当時、理療科では3年で高校の卒業認定と、あん摩の知事試験の受験資格が得られました。そのあとの2年で鍼灸の勉強をするということで、試験に合格をすれば5年であん摩・鍼・灸の三療の免許資格が取れるコースに入りました。

入ってみて驚いたのは、今で言うと当たり前なのですが、何と普通科があったことです。普通科というのは普通高校のことです。やはり、東京はすごいなと思いました。何も知らなかったのですが、八戸盲学校の先生方は普通科の科目なんて教えてくれませんでした。

とにかく目が悪くて地方の盲学校に入った生徒は、そのまま理療科に入って、あん摩・鍼・灸で飯を食うというのが、当時は当たり前で地方の常識だったわけです。そういうことで、疑いもせず理療科に入ったわけですが、理療科に入ってあん摩・鍼・灸に出会ったことが、私にとって2つ目の大きなターニングポイントになったのだろうと思います。

そして5年の課程を終え、マッサージ師として静岡県の中伊豆リハビリテーションセンターに就職をしました。当時は、まだリハビリテーションが世間に知られていない時代でしたが、リハビリテーション専門の病院に運よく入ることができて、そこでリハビリを勉強しつつ仕事をしていました。入ってみると仕事も面白かったし、非常に待遇が良くて、今で言うワンルームマンションのような職員宿舎があてがわれ、水道代や食事代は無料で本当に天国のようなところでした。

私のクラスにも何人かいましたが、当時はマッサージの免許を取れば、国公立病院や大学附属病院などの非常に大きい病院に就職できた時代でした。まさに昭和30年代から50年代の半ばぐらいまでが、そういう意味では三療の黄金時代でした。病院でそのまま終わる人もいましたが、病院では「先生」と言われ、社会的にはかなり安定もしていたし、身分もそれなりにあったのだろうと思います。

病院で経験を積んでから開業をする人も多かったと思います。当時、開業をしている人はほとんど羽振りが良くて、「自分もあのようになりたい」「あのような仕事をしたい」という気持ちにさせるような、そういう時代でした。

しかし、私は中伊豆リハビリセンターを4年半で辞めることになります。当時は、まだマッサージ師がリハビリを担っていた時代でしたが、PT・OT法が40年にできて、かなりPTが増えてきたため、「PTに全部置きかえるから、あなたもPTの学校に行け」ということで、リハセンターから追い出されることになりました。そこで私は教員になる道を選んで、筑波大学の理療科教員養成施設というところの、2年課程の教員養成コースに入ります。そして、その課程が終わった最初の赴任地が沖縄盲学校で、冒頭の話になるわけです。

盲学校に20年勤めて、今は筑波技大の保健科学部というところにおります。ご存じかと思いますが、筑波技術大学は視覚障害と聴覚障害を持っている人だけが入れる大学で、世界的にも珍しく、少なくともアジアではここだけです。そういう大学の保健科学部で、鍼灸マッサージ師養成コースの教員をしています。現在は第3学年の担任を持ちながら、日がな一日、教育・臨床・研究業務で忙しい毎日を送っています。

教育の部分ではあん摩やリハビリテーションを教えたり、社会鍼灸学という座学を教えたりしています。また、本学には医療センターというものがあります。いくつかの科がありますが、その1部門の鍼灸施術部門で、毎週月曜日に1日10人ほどの患者さんに対して、これは私自身の仕事と学生実習の臨床指導を兼ねて行っております。また、研究では主に三療と社会の接点で起きている様々な事象を、具体的に言うと「国民がどのくらい三療を受療しているのか」「いま施術している業者の収入など業態はどうなっているか」といった調査をしています。また、マッサージ・鍼・灸のエビデンスとして「どうして鍼・灸・あん摩に効果があるのか」「どういう病気や症状に効果があるのか」「その根拠は何か」という研究もしています。

〈人生は小説よりも奇なり〉

では、どうしてこういう人生を歩むようになったのか、今があるのかというところを、少し履歴書から読み解いてみたいと思います。「人生は小説よりも奇なり」と言いますが、これはまさに私に当てはまる言葉です。目の悪い私が今の仕事や今の暮らしにありつけたわけですし、兄と姉も含めて目の悪い私の兄弟は3人とも教員になったわけですが、どうして目の悪い我々が教員になれたのかと考えると、もし目が見えていたのなら、恐らくはあり得なかったのではないかと思います。

なぜかといいますと、私の家は非常に貧乏でした。教員になるには大学に行かないといけませんが、そのような余力の無い家で育ちました。仮に経済的に何とかなったとしても、あるいは教員になろうという気持ちになったとしても、学力や能力の問題も含めて、大学教員になることはなかったのだろうと思います。

では、なぜなれたのかと言うと、直接的には附属盲学校の教員時代に私を筑波技大に誘ってくれた先生がいたからです。しかしながらこれを遡ると、私が理療科の教員になったところに源があるわけです。他のアジアの国々は、マッサージはまだまだという状況です。なぜなら、それは教員を養成する学校が無いためです。つまり、私が理療科教員になれたのは、理療科の教員を養成する制度が日本にあったからです。

さらに遡ると、理療科教員になる学校に入るには、あん摩マッサージ指圧師、はり師、きゅう師の免許がなければ入れません。私が20歳の時に取った三療資格のおかげになるわけです。さらにそれを遡れば、小学校4年の時に盲学校に入ったおかげなのです。そして、さらに遡ると盲学校を作った、あるいは理療科という制度を作った、あるいは理療科教員の養成制度を作った、かつての先輩や先人のおかげだと思いますし、こういう制度は世界に冠たるものと言っても良いと思うのです。

〈理療の歴史〉

日本が世界に誇ることのできる文化はたくさんありますが、日本の理療科の教育制度や、理療科の教員養成制度、業の免許制度というのは、紛れもなく日本が世界に誇ることのできる文化だと思います。特に盲人の職業史をひもとけば、盲人の福祉と自立の手段をかすがいにかけて実現させてくれるわけです。そういう意味では世界に例のない職業文化だと思っています。

そういう文化を築き上げた最初の人は杉山和一という江戸時代中期の全盲の鍼医(鍼医者)です。1680年代〜1690年代にかけて、幕府の補助を得て鍼やあん摩を教える稽古所の鍼治講習所というものを作りました。世界的にみると、パリでバレンタイン・アユイという人の創った盲人職工学校が、ヨーロッパでの盲人職業教育の最初ですから、鍼治講習所はまさに世界の先駆けだったのです。

そして、2番目は山尾庸三という人です。日本にも盲唖教育の学校を作るべきだと、明治4年に盲唖学校建設の建白書を太政官に出し、楽善会訓盲院という、今の筑波大附属盲学校の前身が作られますが、楽善会の校舎を作る時の筆頭寄附者が山尾庸三でもありました。

それから、奥村三策です。この方は、楽善会訓盲院の鍼按科と言いましたが、そこの助教(助手・教諭)になる人です。とにかく優秀な方で、鍼灸の研究や鍼灸教育の教科書をたくさん書いていて、「近代鍼灸教育の父」と言われています。彼が教諭時代に、楽善会はちょうど財政難のために文部省に移管されるのですが、この移管を機に文部省は楽善会で行われていた鍼の教育を禁止します。もし、鍼の教育がそのまま禁止となっていれば、今の鍼灸学校は無いわけです。彼は、当時の帝国大学の先生を介して近代医学の病理学、解剖学、生理学をきちんと教え、鉄のような太い鍼を使わず細い鍼を使うのであれば盲人に鍼を教えても良いという内容の「鍼治採用意見書」を出させた功績もあります。

4人目は芹澤勝助先生です。我々の恩師で、戦後の荒廃した理療教育、鍼按教育を立て直した先生です。今の理療科教育の制度や業の制度も含めて、この芹澤先生が中心になって作ったのです。

〈三療の魅力〉

「一般労働者17%」、「あん摩・鍼灸業者88%」。これは何の数字だと思われますか。これは「あなたは今の仕事にやりがいを感じていますか」という質問で、やりがい度を調べた調査の結果です。一般労働者は2008年の労働白書になりますが、労働省では一度しかこの調査をしていないため、少し古いデータになります。当時は3割前後の非正規労働者も含んでいますが、「今の仕事にやりがいを感じている」という人は一般労働者では17%でした。

ところが、三療業者に調査を行ったところ、晴眼も盲人も含めて88%で、晴眼に至っては9割が今の仕事にやりがいを感じていました。これは「医療職だからでしょう」とよく言われますし、「たまたまあなたがやった調査だったからでしょう」とも言われますが、この調査は1万件を対象としたデータであって、現状の縮図と言える程度のサンプル数になります。

では、なぜ三療にやりがいを感じている業者が多いのかというと、おそらく感謝される仕事であるからだと思います。私も毎週月曜日に10人ほどに会いますが、とにかく感謝をされます。感謝された上にお金を貰えるのは、ありがたい話です。

また、政党支持率を調べる郵送調査と同じような方法で2,000人の国民を対象に調査を行った結果、「今後、あん摩を受けてみたい」と思っている人はなんと43%もいて、市場が非常に大きいわけです。市場が非常に大きいこともこの魅力の1つであるし、国民はあん摩を非常に愛しています。江戸時代から300年以上にわたって、あん摩は地域住民に浸透して来ました。ですから、国民は「こういう症状の時にはあん摩にかかると良い」ということがわかっています。

さらに、あん摩の仕事は、厚生労働大臣の免許が必須で、大変立派なものになっています。 ですから、88%のやりがいを感じている人は、患者に感謝されるのと同時に、社会貢献度が高いわけです。同時に、ある意味で知的な好奇心や知的な探究心を十分に満たしてくれる医学・医療ですから、そういう仕事であることにやりがいを感じているのだと思います。

「医学・医療」と言いましたが、医業はお医者さんでなければやってはいけないことが医師法第17条に書いてあります。あん摩・鍼・灸の法律の第1条には「あん摩・鍼・灸は本来は医者がやらなければいけない」ということが書いてあります。ただし、あん摩・鍼・灸の専門的な免許を持った人に限っては、医師法17条を一部解除するということです。そこまで詳しくは書いていませんが、お医者さん以外で免許を持っている人に限っては、あん摩・鍼・灸をやっても良いと、つまり本来はお医者さんがやるべき医業の一部であると解釈のできる条文になっているわけです。

その結果、健康保険法や国民健康保険法など様々な医療関係法には、きちんとあん摩・鍼・灸が位置づけられています。マッサージを提供すれば診療報酬を請求できる。あるいは健康保険で鍼灸やあん摩ができるという仕組みになっています。最近では、機能訓練指導員として介護報酬を算定できたり報酬加算の対象になったりする基礎資格にあん摩マッサージ指圧師は数えられています。

現状はどうなっているのかと言うと、これはちょっと古い資料ですが、現在マッサージを受けている人の割合は国民の16.5%になります。成人を対象にしているので約1億人とすれば、大体1,650万人が今マッサージを受けています。鍼は8.3%なので830万人ですから、マッサージの人気は非常に高いといえます。

ここからは魅力の話に移りますが、なぜマッサージを受ける人が多いかというと、企業に代表されるいわゆる過労死の問題ですが、今は企業社会をストレスや疲労が覆っているわけです。そして企業のみならず、今の日本社会は非常にストレス化社会だと言われていて、マッサージはストレスや疲労に対して大変に効果があることを、国民は経験として知っているのです。

これは私の研究ではありませんが、科学的なエビデンスを出すために調べてみると、マッサージをすると、リラックスさせるホルモンであるセロトニンというものが血液中に出てきます。一方で、アドレナリンは「頑張るぞ」という時に出てきて、仕事を一生懸命にやっている時に値が高くなりますが、このセロトニンはそれと拮抗するホルモンであって、逆に心地良さを与えてくれる物質です。

自律神経で言いますと、アドレナリンは交感神経を高ぶらせます。これはこれで必要ですが、ストレスをつくる原因にもなるし、疲労の原因にもなります。一方で、セロトニンは逆に副交感神経を高ぶらせるホルモンです。脳波で見ると、リラックス脳波と言われるα波が、マッサージをすることでずっと強く出てきます。

ここからは、去年、私どもが筑波大学と共同でやった研究ですが、肩こりや眼精疲労に対して20分のマッサージをある方法で行います。心地良さを与える程度のマッサージです。そうすると、マッサージを行う前や行っていない群と比べ、心地良さ感や快適感が非常に上がって、脈拍が大きく下がります。この脈拍が下がるというのは、副交感神経という気持ちを和らげストレスを取る神経の興奮がかなり優位になるからです。

さらに、血圧には最高血圧と最低血圧がありますが、最高血圧が大きく下がってきます。これも副交感神経が高まったという証拠です。また、唾液中のアミラーゼに関して言うと、腎臓の副腎から出るコルチゾールというホルモンが高まると、それが交感神経を高ぶらせ唾液中のアミラーゼ値が高くなります。しかし、マッサージを行うことで、この唾液中のアミラーゼ値が大きく下がります。

それから、オキシトシンというホルモンがありますが、これは最近評判のホルモンで、お聞きになった方も多いかと思います。以前から、オキシトシンはお産で赤ちゃんを産む時に子宮をぐっと収縮させ、赤ちゃんが生まれたら乳汁を分泌させるため、お乳のところにある筋肉をぎゅっと収縮させるホルモンとして知られていました。

しかし、最近わかってきたのは、とにかく人間と人間の絆を深める「絆ホルモン」だということです。幸福感を与えてくれる「幸せホルモン」など、いろいろな呼び方をされている非常に素晴らしいものです。赤ちゃんをお母さんが抱きしめると、双方の血液中にオキシトシンがぐっと増えてきます。

今度はひざの痛みです。これは数年前の臨床研究ですが、とにかくひざの痛い人は多いですね。今、要介護認定を受けている人たちは高齢者の約18%ですから、3,500万人の約2割になりますが、その2割の3分の1ほどが軽度要介護で「要支援者」と言われています。そして「要支援」となった原因の多くは運動器疾患で、腰痛やひざ痛です。

ですから、ひざ痛を防いだりひざ痛の悪化を防止する方法について、厚労省では躍起になって研究費を投じ試験をさせています。これは複数の他施設間臨床試験として大規模に行ったものですが、我々の研究でひざ痛へのマッサージに効果が確認されました。これは経験として昔からわかっていたことですが、厚労省はエビデンスが無いと信用しませんから、これをデータとしてきちんと出したということです。

しゃがませるとひざに痛みの出る角度が、マッサージ前後で全然違います。また、歩く時や階段を上り下りする時の痛みの度合いが全然違ってきます。こういう指標でひざ痛に対するマッサージの有効性が確認されたわけです。

このように、運動器も含め、いろいろな症状を緩和させオキシトシンもたくさん出すことのできる素晴らしい技術が、このマッサージなのです。

〈マッサージ業の現在・未来〉

NTTのタウンページ(2016年)で毎月データを公表していますが、全国のあん摩・鍼・灸などの手技に関するデータを全部集めて分析したことがあります。広告料を伴う数ですので、実際の数より少ないわけですが、あん摩・鍼・灸施術所の広告数は約3万件です。一方で接骨院は3万2,000件を超えています。そして、整体・カイロはなんと1万9,000件、リラクゼーションは4,200件くらいでした。

今、あん摩やマッサージを、「整体・カイロ」「リラクゼーション」「リフレクソロジー」「ボディケア」など、別の名前で呼んでいるような店舗がたくさんありますが、これは全部無免許です。また、接骨院は非常に繁盛していますが、なぜかと言うと保険で安いマッサージができるからです。ただ、接骨院でマッサージを行っているのは柔道整復師ですが、柔道整復師は骨折、捻挫、脱臼、打撲という、柔道などに伴う外傷性疾患にしか施術ができず、腰痛や肩こりには一切施術できないことになっています。さらに、あん摩マッサージ指圧師ではないため、マッサージを行うことは許されていません。

にもかかわらず、接骨院では柔整師による無免許マッサージが横行しているのと、整体などの無免許のあん摩問題がこの業界を大きく揺るがしています。この問題で、消費者庁にはいろいろな相談が来ています。整体・カイロ等の無免許者による問題が大きいのは、正当な業者の業を侵害するだけではなく、国民の健康被害を起こしていることです。毎年大きく増える傾向にあって、重症化しています。「整体に行ったら頸髄損傷で四肢麻痺になってしまいました」「骨折を起こしていた」「打撲傷と診断されました」というように、病院で1か月以上の治療を受けるほどの重症例が多発しています。消費者庁のホームページを見ると一覧で出ていますから、こういう問題があることを知っていただければと思います。

接骨院も昔は本当に少なかったのですが、平成10年頃と比べると2万3,000件から約5万件と、倍以上となっています。こういう無免許業者や接骨院の急増が、今ではあん摩業を著しく圧迫しています。

そして、もう1つの問題は病院に従事するマッサージ師が減っていることです。ピーク期には7,000人いた病院マッサージ師が今は1,300人余りというように激減しています。退職したマッサージ師の補充を病院がしない状況となっているのです。原因はいろいろありますが、マッサージがPTと類似の業種であるため政府がPT一本化の政策誘導をしていて、診療報酬の上でマッサージ師を雇っても病院が儲からない仕組みになっているからです。

かくして、あん摩・鍼・灸の免許を持った正当業者の年収は、2007年に晴眼者400万円、視覚障害者200万円でしたが、2014年にはさらに少なくなって視覚障害者は180万円となり、2016年の調査では130万円になってしまいました。惨たんたる状況で、三療業者は今では大変苦しい生活を強いられています。

最後になりますが、今、業が低迷し閉塞感が覆っていますので、未来に対し非常な危機感を持っています。今のままでは先輩たちや先人に対して非常に申し訳ないと思います。何しろ理療科に入って来る生徒が少なくなりました。業者が高齢化した結果としてリタイアする者が増える。その一方で若い人が入って来ないために盲人業者が急速に減ってきています。このままでは「三療文化」が10年後、20年後にはかなり廃れてしまうでしょう。

三療は、いわば盲人社会のセーフティネットなのです。皆さんもご存じかと思いますが、長谷川きよしさん。仕事が厳しい時に函館の温泉であん摩で飯をつないだと。やはり「最後はあん摩で飯が食える」というのが、今までの時代でした。しかし、そう言い切れない時代になってしまいました。これをどうすれば良いかということです。関係する教育関係者も含めて、私たち一人ひとりがこれを真剣に考えなければいけません。三療が廃れれば日本の盲人福祉全体が大きく傾くことは確実です。なぜならば、視覚障害者の3割がこの業に依存しているからです。だから、盲界全体でこの三療をどうしていくべきかと。

今、あはき法19条に関する裁判では、これを憲法違反として、「晴眼者を抑制し規制している19条をなくせ」とか「撤廃しろ」と原告は言っています。しかし、もしこれが撤廃されると一気に晴眼業者が増え、晴眼業者と無資格者、無免許あん摩の狭間で盲人はますます苦しくなります。やはり、若い人たちに夢を与える業でなければいけない。そう考えて、ささやかですが、私どもの実践として「一枝(ひとえだ)のゆめ財団」を作りました。

19条を守ることも大事ですし、無免許業者をなくす運動も大事ですが、それだけでは三療業の賑わいは帰って来ないのです。そうであるなら、夢を与えることで、若い人たちにどんどん学校に入ってもらい、業界を若返らせて業を活性化することです。そういう形で夢を与え、元気を吹き込むために、様々な活動をするステージとして、明治国際医療大学学長の矢野忠先生を理事長に、去年「一枝のゆめ財団」を立ち上げました。

この7月末には夢を与える一つの実践として、あん摩・マッサージ・指圧コンテストを行いました。残念ながら入賞者3人は全部が晴眼者でしたが、盲人業者にとっては大変良い刺激になったと思います。ヘルスキーパー関係からの「ぜひ、品質保証をしてほしい」という声に応え、近い将来、技能検定制度も検討しています。また、昨日は大手の業者から「訪問マッサージの品質保証を」という話があり、「何とか財団で技能検定をして欲しい」という声も来ています。資質の高いあん摩師・鍼灸師を育てることが、この財団の大きな仕事になっているのかと思います。皆様方におかれましても、物心両面でのご支援を是非お願いしたいと思います。

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【定年まで頑張りました】

『絶望の中から起ち上がれ! そしてこれからも自分らしく生きる!』

会員 川口 雅晴

30歳の時から緑内障による視覚障害と付き合いながら、何とか生きる道を模索し、会社を辞めることは最後の最後と自問自答しながら働き続け、制度上の定年60歳を迎えました。再雇用で65歳までは働くつもりですが、定年という節目を過ぎると、あの時もう少し我慢できていれば、要領よく生きられたのかな、などと振り返って思うことが多くなりました。定年の1年前から、自分自身の業務上の必要に合わせて月に6回出社し、そのほかは、在宅勤務とする形態を会社から提案され、これに円満に応じて働き続けています。

私の場合、視覚障害になってしばらく、心情的には比較的配慮していただけたため、その雰囲気に甘えてしまった感がありました。また当時は、現在のようなネット社会ではなかったため、外部の支援機関や同様の当事者の情報が入りにくい、探しにくいという状況で、様々な支援制度やパソコンにおける音声活用等、合理的方策にうとい期間が長くありました。今思うと、会社が優しい内に先手を取って、自分に必要な支援技術を習得し、仕事上の確実性をより早期に高めておきたかったと悔やまれます。

勤続期間の前半は、人事部門で採用業務も担当し、視覚障害になってからも10年以上、採用面接に関わりました。今振り返ると、見えているふり、見えているつもりであった自分に冷や冷やします。私自身は、ほとんど異動していませんが、上司や同僚、後輩は、何度か入れ替わりました。そんな様々な局面を経て、最終的に毎月の経営会議で使用する数種類の労務関係資料の作成と、その派生的業務をほとんど一手に引き受ける現在のスタイルが確立しました。本来上場企業としては、仕事の属人化は、内部統制上、好ましくありませんから、この業務をいかに手放して部署内に定着させるかが次の課題です。その方策は、まだ不確かですが、このスタイルが確立できたから再雇用も円滑に進められたと思っています。

ある時、私と相性がよくなかった方が経営トップになり、視覚障害を抱える私への攻撃が激しくなったことがあります。部署の上司も私をかばい切れなくなり、その後、長らく辛い日々が続きました。私が視覚障害者を支援する制度や支援技術、障害年金等を徹底的に調べ、活用しようと必死になったのは、そんな境遇にあった2003年のことでした。そういう意味では、そのトップの方が、私にぬるま湯状態からの覚醒をもたらしたとも言えます。

また、勤続30年の表彰時に旅行券が支給されたことがありました。これに費用を足して妻とヨーロッパ5ヵ国を旅行した際、パリのあるレストランで私が、肉料理が苦手なので魚料理に変更して欲しい旨、うろ覚えのフランス語でギャルソンに伝えたところ、その発音を褒められました。その時、直接仕事には関係なくても、自分がかつて打ち込んだことを簡単に捨ててはいけないと悟り、過去の学習教材を聞き直したうえで、新たに音声を聞いて学ぶ某教材を全巻揃え、フランス語の学習を再開しました。するとある日、フランス人の方から電話があり、この教材を全巻購入した人は、2年間、月2回、電話でフランス語会話を体験する無料サービスが利用できるとのことで、早速、話してみましょうということになりました。必死に応答したところ、「ずいぶん発音が良いが、どこで覚えたのか。このサービスを利用しないと、もったいない」と言われ、以来、このフランス語による雑談は、有料期間も含め、既に6年近く続けています。このサービスは昼休みの時間帯も利用可能でしたので、会社で昼休みにフランス語で話していると「一体、誰と話してたんですか」と声をかけてくれる人も現れ、私は、「視覚障害の川口」から「フランス語の川口」になり、一定の敬意をもって接してもらえるようになりました。

私のフランス語は、まだまだ道半ばですが、仕事から離れた後も自分らしく生きるための糧として、研鑚を続けたく思います。

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【お知らせコーナー】

☆タートル事務局連絡先

Tel:03-3351-3208
E-mail:m#ail@turtle.gr.jp
(SPAM対策のため2文字目に # を入れて記載しています。お手数ですが、上記アドレスから # を除いてご送信ください。)

◆ ご参加をお待ちしております!!(今後の予定)

◎タートルサロン

毎月第3土曜日  14:00〜16:00
*交流会開催月は講演会の後に開催します。
会場:日本盲人職能開発センター(東京四ツ谷)
情報交換や気軽な相談の場としてご利用ください。

◎交流会

3月16日(土)
演題:「たくさんの方の支援を受け復職〜充実の毎日〜」
講師:六川真紀氏(東京海上日動あんしん生命保険葛ホ務)

◎勉強会

2月2日(土) 14:00〜16:00
テーマ:「プレクストークでのメモ取りから、業務への活用の可能性を考える」
情報提供:村田拓朗氏(東京都在住 ヘルスキーパー)

4月27日(土)14:00〜16:00
テーマ:ビジネスマナー第二弾、実践編。
前回の講演をベースに、ビジネスマナーについて具体的な事例を出し合い、意見交換をします。

※東京・大阪・福岡をテレビ会議で結んで行う予定。

◎「簡単でわかりやすい!視覚障害者との接し方講座」

2月(第3土曜日)10:00〜12:30
※詳細はタートルMLにてお知らせいたします。

◎第2回ロービジョン・ブラインド川柳コンクール開催のお知らせ

このコンクールは、川柳を通して視覚障害に関する理解や共感を深めることを目的に、視覚障害当事者だけでなく、それぞれの立場から日常の出来事や、思いを川柳で表現するもので、昨年に続きタートルも協力団体となり開催されます。

昨年は、会員の方々や、ご家族・ヘルパーさん、先生などたくさんの方々が応募されました。ペンネームを使われている方を含め会員のすべての方を把握できておりませんが、少なくとも次の方が入選されました。

見えちゃうよ 心の中の あっかんべー
大脇 多香子さん

持つべきか 持たざるべきか 白い杖
重田 雅敏さん

バーゲンで 値段間違え 大慌て
野村 耕一さん

夫には 今でも30代の 私の顔
工藤 良子さん(家族)

以下、今年のコンクールの概要です。
1、応募期間 2018年12月1日 2019年1月31日
2、応募部門
見えにくさを感じている方部門
もうろう、色覚障害、眼瞼痙攣を含む様々な視覚障害当事者
メディカル・トレーナー部門
医師、看護師、視能訓練士、訓練施設職員等
サポーター部門
家族、友人、ヘルパー、職場関係者等
3、応募方法 次のコンクール特設ホームページの専用フォームより
http://lv-senryu.com
4、優秀賞発表 2019年3月下旬
 その他の詳細も上記特設ホームページをご覧ください。皆さまも五・七・五に思いをのせて応募してみませんか。

問い合わせ先
ロービジョン・ブラインド川柳コンクール事務局
メール l#v-senryu@paris-miki.jp
(SPAM対策のため2文字目に # を入れて記載しています。お手数ですが、上記アドレスから # を除いてご送信ください。)
電話 090-4912-4972(神田)

◆一人で悩まず、先ずは相談を!!

「見えなくても普通に生活したい」という願いはだれもが同じです。職業的に自立し、当り前に働き続けたい願望がだれにもあります。一人で抱え込まず、仲間同士一緒に考え、気軽に相談し合うことで、見えてくるものもあります。迷わずご連絡ください!同じ体験をしている視覚障害者が丁寧に対応します。(相談は無料です)

◆正会員入会のご案内

認定NPO法人タートルは、自らが視覚障害を体験した者たちが「働くことに特化」した活動をしている「当事者団体」です。疾病やけがなどで視力障害を患った際、だれでも途方にくれてしまいます。その様な時、仕事を継続するためにはどのようにしていけばいいかを、経験を通して助言や支援をします。そして見えなくても働ける事実を広く社会に知ってもらうことを目的として活動しています。当事者だけでなく、晴眼者の方の入会も歓迎いたします。
※入会金はありません。年会費は5,000円です。

◆賛助会員入会のご案内

☆賛助会員の会費は、「認定NPO法人への寄付」として税制優遇が受けられます!
認定NPO法人タートルは、視覚障害当事者ばかりでなく、タートルの目的や活動に賛同し、ご理解ご協力いただける個人や団体の入会を心から歓迎します。
※年会費は1口5,000円です。(複数口大歓迎です)
眼科の先生方はじめ、産業医の先生、医療従事者の方々には、視覚障害者の心の支え、QOLの向上のためにも賛助会員への入会を歓迎いたします。また、眼の疾患により就労の継続に不安をお持ちの患者さんがおられましたら、どうぞ、当認定NPO法人タートルをご紹介いただけると幸いに存じます。

入会申し込みはタートルホームページの入会申し込みメールフォームからできます。また、申込書をダウンロードすることもできます。
URL:http://www.turtle.gr.jp/

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【編集後記】

執筆時点(10月末日)、中央省庁の障害者雇用偽装問題は、報道こそされてはいますが、政権を揺るがすようなところにまでは至っていません。今までもモリカケ(学園)問題、自衛隊日報問題などいくつもの話題がありましたが、そのことがきっかけで“何か改善された”と感じるような結論が示されたことは無いのではないかというのが、筆者の感想です。大きな問題であるのにもかかわらず、その発覚前と発覚後にまったく変化がないとしか感じられないのです。

『障害者がごく普通に地域で暮らし、地域の一員として共に生活できる「共生社会」実現の理念の下、すべての事業主には、法定雇用率以上の割合で障害者を雇用する義務があります(障害者雇用率制度)。』というように、民間には義務を履行するよう、半ば強制しているにもかかわらず、自らには甘くずるく…。何故、まるで詐欺のようなことをするのでしょうか。そして、世間はこの偽装問題にはあまり関心が無いようで、このことがきっかけで、我々当事者の就労環境が前向きに変化するような兆しは見えません。そう、今回も変化なしなのです。

その様ななか、人事院は、障害者を国家公務員の常勤職員として採用する統一選考試験を2019年2月3日に実施すると発表しました。障害者限定の公務員採用試験は、国では初めてであるとのこと。これは一つのきっかけ。我々の仲間が、これから就労を目指す一つの選択肢として、大いに活用できればよいのですが。

いくつもの当事者団体が声明を出しています。大勢の方々が尽力してくださっています。こういった活動が変化への起爆剤となることを期待してやみません。

(市川 浩明)

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奥付

特定非営利活動法人 タートル 情報誌
『タートル第45号』
2018年11月9日発行 SSKU 増刊通巻第6254号
発行 特定非営利活動法人 タートル 理事長 松坂 治男

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