以下は、1999年1月23日のタートルの会の交流会で行われた馬渡藤雄氏による講演を要約したものです。
更に簡潔にまとめたものが会報「タートル」第13号のほうにあります。
いま思う復職への道のり
馬渡 藤雄
古稀に思う苦難の時代
今年は1999年(平成10年)ですが、同い年の友人から送られた年賀状に「おたがいに古稀だ」と書かれていました。私も70歳になり、復職問題で苦労したのは30年近くも前になりますが、少しでも皆さんの参考になればと思い、復職前後の体験お語らせてもらいます。まずは、簡単な自己紹介から始めましょう。
私は1929年(昭和4年)に鹿児島で生まれました。50年に官立宮崎農林専門学校林学科(現在の宮崎大学農学部)を卒業し、宮崎の農林省の統計調査事務所勤務を経て、翌51年に公務員試験の5級職、いまで言えば中級職に合格して横浜税関に就職しました。
税関は分かりやすく言えば、税務所と警察を一緒にしたような役所です。大蔵省の間税局のもとに函館、東京、横浜など全国に9カ所の税関があり、輸出入に関わる税金の管理や出入国禁止品の監視、取締まりを行っています。私は農林専門学校を出ていますので、失明するまでは主に農産物を担当していました。結局、税関で停年までの39年をすごすことになりましたが、それは平坦なものではありませんでした。
最初の波瀾は入所後1、2年たってから結核にかかってしまったことです。そこで2年半ほど、鹿児島へ帰っての療養を余儀なくさせられました。そして、そのときの結核の方は何とか回復し、復職できたのですが、問題はそれ以後に悪化した目の病気でした。
まず、58年に左目を網膜剥離で失明しました。右目を失明したのは、それから9年後の68年です。それで、とうとう両眼失明ということになりました。
そのようなわけで当時は阿佐ヶ谷にありました国立東京視力障害センターに入所したのは2年後の71年で、74年には三療の免許を取得して、ここを卒業しています。また、詳細は後述しますが、紆余曲折の後にもとの税関の職場に復職できたのもその年のことです。それからは90年に60歳で停年退職するまで16年間を税関で勤務し、さらに9年の歳月を経て現在に至っています。
周囲の無理解と激しい弾圧の中で
私の職場復帰、すなわち視覚障害者が税関職員として職場に復帰するというのは、当時としては考えられないようなことでした。例えば、横浜税関の隣にある県庁の組合に署名を依頼しましたが、県庁の組合の書記長でさえ「目が見えなくて、またもとの職場に戻るのか」と言うくらいです。このように、目が見えなくなったらやめるのが当然なことと、自分たちの仲間もそう思っていました。この意識を変えるのは、大変です。本音を言えば、私自信も職場に戻れるとはほとんど考えられませんでした。
皆さんは労働組合が障害者を守るために闘ったのですから、うまくいくのも当然と思うかもしれません。しかし、私が所属した全税関労働組合というのは、全職員の中の5分の1の勢力しかありません。職員の多数はいわゆる第2組合に所属しています。しかも、全税関組合はものすごい差別と嫌がらせを受けていました。また、この61年ころから税関の労働組合に対する分裂攻撃も起こっています。むしろ、このような毎日の中で私の職場復帰によく取り組んでくれたと思います。
とにかく、この組合に対する弾圧はすごいものでした。「出世させない」とか「公務員宿舎に入居させない」とか「遠くに配置転換する」とか、組合を脱退させるためには、なりふりかまわずに脅しの言葉を浴びせてきます。しかし、それでも脱退しない全税関の組合員に対しては、さらにものすごい攻撃をかけてきます。係長などの役付きにはしないし、ボーナスもカットします。それから、遠隔地への配置転換も行われました。村八分という言葉がありますが、冠婚葬祭の付合いも禁止です。
結局、このような攻撃のため当時だけでも、6600人いた全税関の組合員が690人に減ってしまいました。横浜税関でも1300人いたのが190人です。もっとも、現在は190人どころか、150人ぐらいでしょう。そういう状況の中で、私の闘いは始まりました。
道筋を求めての暗中模索
私の復職闘争は『職場に光を掲げて』という本を書いた中村紀久雄さんをはじめ、いろいろな方のお世話になりました。ところが、最初は何をしたらいいか分からなかったのが実情です。それで、どうしたらいいかを勉強したり、話を聞きに行ったりしました。例えば、「雇用促進法」をはじめ関連の法律を詳細に研究しています。
それから、当局は目が見えない者が復職した前例がないと繰り返していましたが、前例があることが分かりました。国税局のいわゆるキャリアでやはり失明した人がいて、その人が東京国税局に相談官として復職していました。しかし、その話をすると「それとは違う」などと言って、私の復職は認めようとはしません。
また、復職運動の障害になったことに分限免職の規定というのがあります。国家公務員法78条に「心身の障害には職務の遂行ができなくなった者は、降任または免職をすることができる」とあります。これは明らかに雇用促進法の精神とは矛盾するのではと、当局を組合がだいぶ追及しています。当局の方も、この分限免職の規定を理由にすぐに首にすることはないと言ってましたが、労働省や人事院に行ったり、あるいは総理府に行ったりして、随分いろいろ勉強しています。
ただし、こんな状況の中で、神奈川視覚障害者の生活と権利を守る会と接触して支援を仰ぎ、労働組合と障害者団体が結合して運動を進めたのは非常に画期的なことだったと言えるでしょう。また一方で、当局は私に対して退職勧告を重ねて行っています。「いまやめれば、退職金をいくら出す」とか、あるいは「開業するなら援助する」とかいろいろなことを言ってきました。ついには塩原にある視障センターの教官になることまで勧められたくらいです。もちろん、私はこのような話はすべて断っています。
禍根を残した誓約書
やがて72年の秋、視障センターを卒業する1年半前に休職期間が満了することが問題になってきました。休職期間は3年間ですが、この間は全額でなくても給料分に近いものが保障されます。その3年間がもう終了するわけです。
視障センターを卒業するまで、経済的な保障を望むのは私の立場にしてみれば当然でしょう。それで、卒業するまで身分が継続するようにできないかと仲間にも相談し、組合でもこの問題を取り上げてもらいました。
だいたいが休職期間中に視障センターに行くこと自体がはばかられていて、いきなり首になる心配もあったのです。それは、どうやら黙認されていましたが、法律によりますと、休職期間が満了した場合はただちに出勤するか、やめるかということになっています。もしくは、やめなくて出勤しなければ欠勤扱いとなります。欠勤が続けば、次には免職です。 それで、この時も組合と当局との間で激しいやり取りがあり、最終的に当局が示した条件は、休職期間満了後は卒業まで病気休暇として扱うというようなものでした。
そして、当局が示した条件を誓約書にするという話になりました。誓約書への署名は東京の視障センターで行われました。立会人としては家内と私の姉の夫である義兄(当時、埼玉県庁勤務)が出席し、それから視障センターの指導課長たちも同席させられていました。当局側は物々しい雰囲気で、書類を広げて「この病気休暇扱いは74年の3月卒業までとする」と読み上げます。問題はこれを認めるかどうかです。納得したら、署名捺印をすることになります。
結局、私だけでなく立会人も署名捺印させられてしまいました。
その後、この誓約書への署名の経過を聞かれ、以前から署名に反対していた中村君たちは少しがっかりしたようでした。ところが、私としては、卒業まで首がつながれば儲けものだという気持も半分ありました。1年半先まで首がつながっただけでもいいと思い、その時は署名捺印しています。もっとも、この誓約書に記されていたことには不明な点もあり、仲間が心配するのも当然でした。読んでくれない部分に何が書いてあるかは分かりません。想像するに「ただちに退職する」とか「当局の指示に従う」という文言が書かれていたはずです。なお、この誓約書に関しては後に国会でも問題になっています。
広がる支援の輪
私は視障センターにおりますので、組合との連絡は電話や組合員のだれかにセンターまで来てもらったりしていました。また夏、春、冬の休みなど、自宅に帰った時に組合の集会に出て、自分の気持やいまどのような勉強をしているかを話したりしました。しかし、常に一緒に行動しているわけではないので、おたがいにどうしても意志の疎通が十分でなかった点もありました。誓約書への署名の件などは、その一例でしょう。
さて、復職の1年前になりますと、だんだん運動が盛り上がってきました。73年の夏には「馬渡を守る会」が出来ています。そこでは「守る会ニュース」を発行するなど、いろいろな活動をしています。
そのうちに、先ほど言いました、神奈川の視覚障害者の生活と権利を守る会との話し合いもどんどん進んでいきました。73年の秋には「馬渡職場復帰支援会議」がつくられています。この支援会議ができたことで、運動は大きく全国的に広がったと言えるでしょう。税関は函館から九州までありますが、全税関だけではどうしても組合関係になってしまいます。守る会の活動を足がかりとして、全視協とつながりができ、それと共闘することで、いろんなところへ署名やカンパなどの運動が広がりました。さらに、この署名用紙は、革新市長会、社会党や共産党などの国会議員、それから文化人たちにも送られています。
そして、カンパはどれくらい集まったか知りませんが、署名は1万5,000から1万6,000人にお願いできたそうです。弟が宮崎の盲学校で教員をしていて、その関係で署名をたくさん集めてくれたり、妻が琴を教えていて、そのお弟子さんが署名してくれたという話もあります。それやこれやが積み重なり、前記の数字になったのですが、ずいぶんいろいろな人に力になってもらったとあらためて感謝しています。
復職問題国会へ
このように、運動がだんだん進んできますと、中村君から「当局はやがて譲歩せざるを得ない」と、よく励まされました。それが実証されたのが復職の5カ月前です。73年の12月18日に国会の社会労働委員会で私の復職問題が議題になりました。
この社労委で追及してくれたのは、社会党の山本政弘さんと革新共同の田中美智子さんです。もちろん、私も傍聴に行きました。その日は午前中に山本政弘議員、午後に田中美智子議員の追及がありました。
追及はかなり具体的で厳しいものでした。退職金の額をめぐって、やり取りがあったり、また労働大臣に「雇用促進法の精神ではどうなんだ」という質問を行っています。この質問に対して、労働大臣に「それは元に戻すようにするのが筋道だ」と答えさせていました。
さらに、この場では例の誓約書の件も問題になりました。追及したのは田中議員ですが、誓約書に関して「目の見えない人にそんな誓約書をさっと読み上げただけで署名させるのはおかしいのではないか。もし、それがあるんならここに出してください」という主旨の質問をしています。
税関側の政府委員は、この追及にはしどろもどろになってしまいました。「検討した上で何とか…」と言葉をにごらせたのに対し「いつまで検討するんだ」と言って追及の手をゆるめません。とうとう「1週間後には御返事ができると思います」と言質を取っています。結局、それから1週間後に田中議員のところへ電話がありました。それは「あの書類はもう破棄いたしました。今後いっさい本人を拘束するものではありません」という内容だったそうです。役所の文書というのは簡単に出てきたり、なくなったりするとはよく聞きますが、まさにその通りでした。とにかく、それで誓約書の問題も解決して一安心です。あの時は署名したものの、この誓約書のために、私もずいぶん脅されて不安な日々を過ごしていました。
仲間の声に励まされて
このような経緯の後に私の復職について、74年の2月に税関側からの回答がありました。それは、電話交換手か税関案内所で働く、あるいは税関を退職して鍼灸院を開業するというものでした。開業の場合は援助するという条件付きです。この回答に対して、私自身もずいぶん迷い、また悩みました。というのも、私はそれまで、当時には産業マッサージ師と言ったヘルスキーパーとして税関に戻りたいと考えていたからです。しかし、こんな希望は「税関ではとても無理」などと言われ、退けられてしまいました。私はそれならば鍼灸院を開業しようかと思いました。
その理由には、職場に戻るとしても周りはほとんどが第二組合の人間ばかりだったことが上げられます。そんなところへ戻っても、どんな嫌がらせやいじめがあるかが心配だったのです。また、当時の私は経絡治療にのめり込んでいました。これは鍼の治療法の一種ですが、中国の古典を基にしていて、勉強のやりがいがある治療法でした。
そして、このような私の気持を中村君に伝えたところ「そんなに戻りたくないのなら、みんなに説明しろ」と言われてしまいました。それで、74年3月10日に関係者の間では話題になった例の「激励と涙の集会」になります。 そこで私は素直に自分の心境を「当局の回答には乗れない」と語りました。ところが「何のために運動をしてきたんだ。好きな職業についている人間ばかりではない。戻って頑張れ」というような声がいっぱい出てきました。この時は仲間をもっと信頼すべきだったと改めて思いました。また「いじめとか嫌がらせは絶対に許さない」という仲間の激励の言葉もありまして、案内所係として税関に戻ることを決意したのです。いま振り返りますと、仲間がありながらどうして自分勝手な結論を出してしまったかと考えます。これは情報不足が大きいのでしょう。やはり、情報が十分に与えられないと、正しい判断はできないと反省をしています。
復職、そして新たな挑戦
このような過程を経て、私が税関に復職したのは1974年(昭和49年)の4月22日です。その日は桜木町の駅で待ち合わせをして、一緒に歩いてくれる人もいましたし、税関の玄関では皆さんが出迎えてもくれました。新聞社の取材もかなり来ていました。何もない案内所の机の上に、厚紙に「税関案内」と書いたものを置き、まだつながっていない電話を持たされて写真を撮影されたのも、いまは懐しい思い出です。
ところで、この税関案内という仕事の内容を、私はあまりよく知りませんでした。しかし、担当してみると、税関のイメージとは違い肩苦しいものばかりではありません。中には、費用を安くするために、税関専門の運送屋を紹介することさえありました。この税関案内の仕事というのは、1日にそう何件もあるわけではありません。せいぜい2、3件くらいですが、時に電話での相談もありました。私が復職した当時はカセツト・テープが普及したころで、これにはたいへん重宝しました。相手の用件や電話番号を録音したものです。特に、点字では数字を打つ場合に、点の以置が少し違ってもとんでもないことになります。なるべく録音して後でゆっくり点字で打つようにしました。
また、カセット・テープはほかにもいろいろなことに使いました。この案内所はしばらく兼任の所長と私だけの2人勤務でしたが、私は5年半も仕事から離れていて、相談を受けるにはどうしても知識不足です。そこで、所長が関税法や関税定率法などの条文を読み、それをテープに取り、これも後で点字で打って整理しました。そのうちに相談の傾向も分かり、適当なアドバイスができるようになりました。上司のほうは2、3年で替わりますので、まぎらわしい相談がきて、所長がよく分からない時でも、私が前の事例を覚えていて説明することも少なくはありませんでした。
やがて、この税関案内の仕事はだんだん認められ、私が復職して5、6年もたちますと、税関相談官の制度ができました。現在では全国の各税関にそれぞれ5、6人から7、8人の相談官がいて、人数も増えたことはもちろん、組識としても充実しています。
通勤に便利な住居へ
復職してから担当した案内所の仕事のほうはだんだん慣れていきましたが、当局の嫌がらせがまったくなかったわけではありません。私の所に同じ全税関の組合員が何かの用事で来たりしますと「時間中だから来たらいけない」などと牽制します。そのような雰囲気の中で、復職してすぐに大きな問題になったのは住居のことでした。
当時、私は大船からバスで15分ぐらいの団地に住んでいました。ここからだと、バスと電車を利用して、駅からもけっこう歩かなければなりません。これでは大変なので、通勤に便利な公務員住宅への入居を組合でも要求してくれたのです。そこで、最も便利そうなのが老松宿舎でした。これは野毛の動物園のそばにあり、空きもあって入居も可能だったのです。しかし、当局側が入居を拒否したので、組合も態度を硬化せざるを得ません。
桜木町駅から税関まで、組合員みんなが「盲人をいじめるな」とか「馬渡さんを老松宿舎に入居させよ」などと書いたゼッケンを付け、またビラもまきながら、毎日の通勤時にまるで行進するように税関まで歩いていました。もちろん、私自身もゼッケンを胸と背中に付けてサンドイッチマンみたいに歩いていました。こっちは目が見えないから平気ですが、周囲の様子が分かる同僚たちはずいぶん恥ずかしかったろうと思います。
ところが、それでもなかなか入居させてくれません。とうとう最後の手段として、当時の税関長の自宅周辺に宣伝カーで乗り付けて、ビラまきを行うという計画が練られました。さすがに、これは当局も困ってしまいました。ついには組合の役員が呼ばれ、近々のうちの老松宿舎への入居を約束させることができました。それで、復職してから約半年後の10月にその老松宿舎にやっと転居することができたわけです。ここからだと、バス停まで5分歩き、後はバス1本で税関の前まで行きますから、通勤はずいぶん楽になりました。
相談官としての日々
職場でどういう気持ちで仕事をしていたかは、皆さんにとってもいくらか参考になるかもしれません。私の場合は歓迎されない招かれざる客として、職場に戻ったので、それなりの覚悟を決めていました。最終的には診療室のマッサージ師に配転されるまではと、ある種の居直りの姿勢で仕事をしていました。
しかし、相談官としてはいろいろな質問に答えられないと困ります。分からないところは各セクションの担当者に聞かねばなりません。しかも、事例によってはいくつかのセクションに問い合わせます。ところが、責任を避けるためか、こちらの質問にきちんと答えてくれないことも少なくはありませんでした。それに、税関のシンクタンクは為替課であるという風潮もありました。確かに、為替課の回答はしっかりとしていました。
また、私自身としても点字で資料はたくさんつくっておいて、なるべくその場で答えができるようにと考えていました。役所というのは法律によって仕事をしていると思われがちですが、実際は通達によって細かく規定されています。この通達書をまわりの相談官にお願いして読んでもらったり、調べてもらったりするのは欠かせない仕事でした。
このように、本来の希望とは違う職種ながらも、私なりに相談官として頑張ってきたつもりです。それに、相談官は人に感謝されることが多くその点ではやりがいのある仕事でした。ただし、給料に関しては明らかに差別を受けました。昇格要求をずいぶん行い、どうにか主任にはなりましたが、同期の人と比べたら雲泥の差です。公務員は等級と号俸で給料の額が決まりますが、いつまでも等級が据え置かれて給料は上がりませんでした。
このように復職後はすべてが順調ではなかったのですが、あまり腐らずに仕事をやってこれたのは、障害者運動に参加するなど、忙しい毎日を過ごしていたせいもあるでしょう。それに、仲間の支えが大きかったことは言うまでもありませんが、やはりお世話になるのですから、仕事の同僚とも組合が違っても仲良くするように努めています。
視覚障害者のために
視覚障害者の就職は現在でも厳しいものですが、往時はさらに狭き門でした。そのような中で、私は神奈川の視覚障害者の生活と権利を守る会で横浜の班長を勤めて尽力してきたつもりです。併せて、神奈川の「視覚障害者の雇用を進める会」という組織ができ、そこでも活動しています。この会も一昨年の97年には、区切りの20年を迎えましたが、私たちの運動の意義は小さくはなかったと思います。いまでは公務員関係だけでも、県庁など、神奈川県に約100人の視覚障害者が働いています。
さらに、残念ながら、いつも励ましてくれた中村君が81年に亡くなり、私が彼の後を継ぎ「視覚障害者雇用促進連絡会」の仕事をやることになりました。この会も今年で20年になりますが、幹事、事務局長、副会長などを歴任して自分なりに頑張ってきたつもりです。私は65年に36歳で結婚し、69年には長男が誕生しています。現在はその長男も独立し、妻と妻の母親と一緒に暮らしています。満足のいく家庭生活と言えますが、これも復職できてこその話です。自分だけでなく、何とか、これからの若い人たちの就職の道を広げてあげようという気持で運動に参加してきました。
しかし、そんな私でも聴力などの衰えがあります。昨98年に雇用連、神奈川の雇用を進める会の役員を引退させてもらいました。もっとも、雇用連の20年記念誌の編集員委長を任されるなど、完全に運動から身を引けません。また、生活と権利を守る会の機関誌の編集委員、視覚障害者のための情報テープ雑誌「声」を出すことも続けて行っています。
視覚障害者の雇用問題は「総論賛成、各論反対」という言葉があてはまります。目の見えない人が就職する権利があることは認めるとしても、自分の隣りで仕事をするのは歓迎できないのが、いまなお社会で多数を占める考え方でしょう。ところが、現在はパソコンも普及シ、事務などの仕事はずいぶんやりやすくなりました。これからは、視覚障害者でもサポートをすれば、ある程度の仕事を行えることを、実例を示して人々に認知させる努力が必要です。そのために、私もまだまだ頑張っていきたいと思います。
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