「タートルの会」の交流会は、昨年9月から6回開催された。どのテーマも中途の視覚障害者にとって大きな課題である。その主なものは、歩行訓練、職場での仕事、パソコンの使い方とその学習、そして情報障害の克服であった。
私は、3年ほど前に交通事故が原因で視覚障害者になった。退院した翌日、視覚障害者の団体に行って、その実情と概要を尋ねるとともに白杖を手にした。専門の方に白杖の使い方の基本を習い、毎日妻や子供達と歩行訓練に没頭した。これは職場まで通勤できるようになるためであった。はじめは、真っ直ぐに歩けず雪の中に突っ込んでいくことも間々あった。しかし、1か月ほどすると一人で通勤できるようになっていった。
歩行訓練は、地理を熟知するとともに体力をつけることが必要であると痛感し、昨年フルマラソンにも完走することができた。お陰で諦めていた旅行にも一人で東京へ行くこともでき、夢を膨らませてヨーロッパまでの海外渡航にも挑戦した。
しかしながら、吹雪のなかルートを誤ったり、JRのホームの柱で頭を強打したりという失敗にも事欠かない。安全の確保は必須であり、歩行訓練は永遠のテーマである。
入院中にパソコンがなければ職場に戻れないと真剣に考えた。このことを妻が職場に話して、職場に戻ると音声付のパソコンが購入してあった。時間がかかったが何とか文書作成やEメール、ホームページへのアクセスなどをマスターできるようになった。少しずつではあるが使える機能を拡大するように努めている。
視覚障害になり、仕事は前のようにはいかないが、発想を転換して、できるようになったものを素直に喜ぶ気持ちを大切にしている。
視覚障害者になって、一番苦しいことは、本や資料を読めなくなったことである。情報障害は仕事ばかりではなく、人生のあらゆる局面に波及する。初めは最低限の資料は同僚や妻に読んでもらっていた。しかし、パソコンに音声読み上げソフトを入れてからは、図表や写真を除き、かなり自分で読めるようになった。Eメールを用いて打ち合わせができるようになり、ホームページにアクセスして新聞や資料を読むことができるようになった。若干遅くなり、年数がかかるが点字を覚え込んでいる。情報障害を乗り越えることは、私の生命線であると考えている。
パソコンの普及が仕事の幅を広げたと言われているが、それも実質的には僅かでしかない。このような中、中途の視覚障害者は、元雇用されていた職場に再雇用されることが、これまでの経験や人脈を活用できるなど最善の道であろう。しかしながら、視覚障害者としてハンディを背負っていることは紛れもない事実である。これを克服して仕事をこなしていくことは並大抵の努力ではない。そのためにも、これまで以上に視覚障害者はパソコン等を簡単に使いこなせる必要があると思う。
このほか大切なことは、心のケアであろう。あまり表面には出ないが、中途の視覚障害者の中にも心の病んでいる方もかなりおられるものと思う。
健康は通常の姿ではない。明日どうなるか誰も予測できない。このような状況から、一日一日に全力を尽くし、精一杯努力を重ねていこうと思う。
生きていることが不思議なほど大きな事故であった。生きていることは何かの機縁であろう。そうなら視覚障害者として、思い切って生きていこう。
教習所型訓練からの脱却
1970年に日本ライトハウスとアメリカ海外盲人福祉協会が、日本で初めて本格的な歩行訓練の専門家の養成を行いました。私もこのとき受講生の一人として参加し、それ以後は歩行訓練士として活動しています。そして、経験を積み重ねた結果、訓練の方法論には意識の改革が必要だと考えるようになりました。
従来の歩行訓練は自動車免許の取得に例えられます。免許は教習所の中、そして教習所が指定した路上コースに合格すれば取得できます。習った所以外は応用になるわけですが、この考え方が歩行訓練にも同様に取り入れられています。しかし、この方法で歩く環境や状況、そして能力も大幅に異なる人々に教えることができるのでしょうか。
むしろ、私は視覚障害者の行動特性を考えることが大切だと思います。しかし、この行動特性は従来の訓練ではあまり問題にされていませんでした。この特性をどうにか見出し、目の見えない人が、うまく歩けないポイントを探すことが重要でしょう。
そして、試行錯誤をへて視覚障害者の特性を考えるうちに、駅での転落事故はパターン化がしやすいことに気づきました。ホームはだいたい形が決まっています。しかも、事故が起こったのが何駅か、どこの階段を利用したか、何輌目から降りたか、利用時間もはっきりしています。だから、一般道路などに比べて事例を分析しやすいのです。
視覚障害者の歩行と人間工学
このように転落事故は比較的分析しやすくなりましたが、それによると歩行訓練で教わった技術をきちんと守ってさえいれば安全というわけでもないことが分かりました。つまり、教習所型の訓練だけで防ぐことは難しいのです。そこで、視覚障害者の特性を考慮した訓練を心がけるためにも、私は人間工学を参考にするようになりました。
私が師事した人に田中一郎という方がいます。中途で全盲になった方で医者で生理学者でした。また、先生は視覚障害者の行動を科学的に考察していますが、私も一緒にいろいろと学ばせていただきました。その中には視覚障害者にとっていくつかの貴重なポイントとも言うべきことがあります。
例えば、「先天盲の人は障害物知覚、エコー定位が優れている」、あるいは
「視覚障害者は直線歩行が可能なのか」などをテーマに研究しました。よく歩行訓練士が「真っ直ぐに歩きなさい」と言いますが、これは最初から無理な話をしているのです。
また、最近では視覚障害者はスムーズに歩いているように見えても、心電図で計測するとかなり緊張を強いられていることが分かってきました。このストレスも歩行の失敗、ひいては転落などの事故につながることもあると思われます。このように、人間工学的研究は転落のほかに、視覚障害者の歩行に関する問題解決に重要な示唆を与えてくれます。
モビリティーの3要素
視覚障害者の行動特性を知ることは、これまで述べてきたように非常に大切なことです。そして、その特性の基本とも言うべきものがモビリティーの3要素です。
まず、基本要素の1つめは、物に沿って歩くことがあげられます。白杖で縁石など辿って歩くことですが、この縁石などを専門家は境界線やガイドラインと言います。視覚障害者を誘導する境界線には、ご承知のようにさまざまな物が利用されています。点字(誘導)ブロックも境界線とは言わなくても概念としては同じことになります。
要素の2つめは、点とか物に向かって直進することです。道路を横断するときをイメージしますと分かり易いのですが、対岸を目指してゼブラゾーンの中を渡りますが、必ず何か目標を設定して歩いているわけです。
ただし、このときに歩行偏軌を考える必要があります。これは曲がる傾向、つまり真っ直ぐに歩こうとしても、結果は直線には進んでいないことを言います。これは、いくつかの実験から分かっていますが、曲がったことが自分ではなかなか気づかないのです。
要素の3つめは障害物に当たったときの方向感覚の狂いです。柱や自動車など何かを避けた後、コースをはずしてしまうことは視覚障害者の歩行にはよく起こりがちです。これに関しても、国立身体障害者リハビリテーションセンターなどで私たちのグループが実験を行ったのですが、障害物を回避すると、方向感覚が狂い、それを修正するのは大変なことだというのが分かっています。
数字から見たプラットホームからの転落
さて、視覚障害者のホームからの転落の実態はどうなのでしょうか。転落事故に関しては私自身も調査を行っています。最初の調査は1985年のもので、このときは転落された方だけを対象に48名にお聞きしました。そして、驚いたのは、このうちで28名が2回以上の転落をしていたという事実です。「2、3回は転落するよ」というよく聞く話は誇張でもなかったのです。また、この調査の全員の転落回数を合計しますと、48名で102件になりました。そのうちの69件は、日頃よく利用する駅で起きています。つまり、駅の状態を知らないから落ちるわけではなかったのです。
さらに、このときの調査ではホームでどのような行動をしていたのかも分析しています。転落102件の分析結果は、60パーセント強が線路と平行に歩いているときに事故を起こしています。残りの約30パーセントが線路に直角に向かっているとき、約10パーセントがその他になります。数字上からは線路に平行に歩いているときの転落が最も多いわけですが、この原因としては先ほどの歩行偏軌、障害物を避けたときの方向感覚の狂いなどが考えられます。また、線路に直角に向かったときの数字も意外に多いと思われるかもしれません。これは、連結部をドアと誤認した結果だったり、向かい側のホームに入った列車を自分が乗車するホームの列車と誤認した結果だったりなど、さまざまな原因が分かってきました。
これからの対策
では、転落事故防止に向けて具体的にどのようにすればいいのでしょうか。物づくりで言いますと、最も理想的なのは東京の南北線のような新交通システムに見られる方式です。ホームの四方を壁で仕切りホームのドアは列車のドアに連動して開閉する方式などがあげられます。南北線ではホームドアといってますが、英語ではクローズドプラットホームというようです。このホームドアのような試みはほかの路線や駅でも、わずかながら行われていて、これは事故防止に万全な策だと言えるでしょう。ただし、実現化には莫大な予算と時間がかかりますので、早急な対策としては無理があるでしょう。また、ホームドアのようなものはできたらできたで別の問題が生じてきます。要は視覚障害者の行動特性を考えて対策を講じることです。
それと、物づくりと並んで人的な支援が考えられます。ほんとうならば、人に依存することは支援を受ける過程に問題があり、あまり歓迎できませんが、自助努力の一環として福祉制度を利用することはやむを得ないでしょう。例えばガイドヘルパー、周囲にいる駅員なども含めてそういった人的な支援を依頼することになります。
それから、これはどのような対策とも並行して行えることですが、歩行訓練を受けることから歩行能力を高めることも大切になります。しかし、これも訓練士増員の必要性については専門家だけが要望しているという声があります。訓練を受けたくても、訓練士が足りないのが実情ですから、視覚障害者の方々が要求の声を上げることも大切でしょう。
(この文章は1998年12月19日のタートルの会の交流会で行われた東京都心身障害者福祉センター・村上琢磨氏による講演を要約したものです。)
無理解と弾圧の中で
私は1929年(昭和4年)に鹿児島で生まれ、50年に官立宮崎農林専門学校林学科を卒業し、翌51年に横浜税関に就職しています。そして、税関職員として定年退職するまでの39年間を過ごすことになりましたが、それは決して平坦な道ではありませんでした。
問題は目の病気です。まず、58年に左、68年に右と続きついに両眼失明です。そこで、71年から国立東京視力障害センターでさまざまな訓練を受け、74年には三療の免許を取得しています。ところが、この前後には復職という難題が待っていました。
私の職場復帰は、当時としては考えられないことでした。目が見えなくなったらやめるのが当然と仲間でさえそう思う人が多いのですから、この意識を変えるのは大変です。本音を言えば、私自身も職場に戻ることはほとんどあきらめていました。そういう雰囲気の中で、復職運動を闘ってくれたのは『職場に光を掲げて』を書いた中村紀久雄さんをはじめ、私の所属する全税関という労働組合の人々です。皆さんは労働組合が障害者を守るために闘ったのですから、うまくいくのも当然と思うかもしれません。しかし、この全税関労働組合は、全職員の5分の1の勢力しかありません。しかも、全税関組合はものすごい弾圧を受けています。むしろ、こんな毎日の中で職場復帰によく取り組んでくれました。
もっとも、最初は運動をどう展開したらいいかが分からなかったのが実情です。それで、雇用促進法などの関連法を勉強したり、いろいろなところに話を聞きに行きました。また、前例を調べ、国税局のキャリアで復職した人がいることが分かり、当局との交渉ではこの件でだいぶやり合いました。
闘いの日々
当局とやり合ったと言えば、国家公務員法78条に「心身の故障のため、職務の遂行ができなくなった者は、降任または免職をすることができる」とある分限免職の規定は、復職運動の大きなネックとなり、この件でも当局と激論を交わしています。
とにかく、復職運動はまさに暗中模索の日々が続きましたが、障害者団体である「神奈川視覚障害者の生活と権利を守る会」などと結び付いて運動を進めたことは画期的でした。やがて、73年の夏には「馬渡を守る会」が、秋には「馬渡職場復帰支援会議」が結成されて、運動の輪はますます広がっていきました。それを数字として実証するかのように、署名も全国から1万5,000から1万6,000人にお願いできています。
そして、運動のピークともいえる出来事は、私の復職問題が国会で議題になったことでしょう。それは73年12月18日のことで質問者は社会党の山本政弘議員と革新共同の田中美智子議員です。ここでは、具体的でかなりきびしい追及がなされ、雇用促進法の精神から「元に戻すのが筋道」と労働大臣に発言させるという成果も得ています。
また、この時にはかねてから悩みの種であった誓約書の件を解決できています。誓約書とは、72年の秋に休職期間が満了した後は視障センター卒業までを、病気休暇として扱われることに同意したものです。しかし、この誓約書は簡単に読み上げられただけで署名捺印しています。読まれなかった部分に何が書かれているか分からず、ずいぶん不安な思いをしていました。それが、国会での追及のおかげで「書類は破棄しました。今後は拘束するものではありません」という当局の回答を得ています。
仲間の声に励まされて
このような経緯の後、74年2月に税関当局から私の復職についての条件が示されました。それは、電話交換手か案内所で相談官として働く、あるいは退職して鍼灸院を開業、そのための費用は援助するというものでした。この条件にはずいぶん悩み、また迷わされました。それまで、私は、当時は産業マッサージ師といったヘルスキーパーとして税関に戻りたいと考えていたからです。しかし、この希望は一蹴されてしまいました。私はそれならば鍼灸院を開業しようかとも考えました。目が見えないのに、所属する組合が違う職員の中に入り、人間関係で苦労するのが嫌だという思いもあります。
ところが、こんな私の気持を中村さんに伝えたところ「そんなに戻りたくないのなら、みんなに説明しろ」と言われてしまいました。それで、74年3月10日の関係者の間では話題になった「激励と涙の集会」になります。ここでは、素直に税関を退職したいと自分の心境を語りました。すると「何のために運動をしてきたんだ。好きな職業についている人間ばかりではない。戻って頑張れ」という声がいっぱい出てきました。さらに「いじめや嫌がらせは許さない」という言葉もあり、私の不安は一掃されたのです。そこで、この時は仲間をもっと信頼すべきだと思い、案内所係として税関に戻ることを決意しました。
紆余曲折を経て、私が税関に復職したのは74年4月22日です。その日は桜木町の駅で待ち合わせ、一緒に歩いてくれる人もいましたし、税関の玄関で出迎えてくれる人もいました。新聞の取材も来て、何もない案内所の机の上に「税関案内」と書いた厚紙を置き、まだつながっていない電話を持って、写真を撮影されたのも、いまは懐しい思い出です。
視覚障害者のために
復職後に担当した税関案内の仕事は堅苦しいものばかりではなく、コストを安くするための方法など、さまざまな相談事がありました。しばらくすると、この仕事は税関相談官の制度となって組識も充実して、私にとって結構やりがいのある職場になりました。
ただし、税関での日常がすべて順調だったわけではありません。まず復職してすぐに住居が問題になりました。通勤に便利な公務員住宅を求めて交渉したのですが、当局は空いている住宅があるのに私の入居を拒否します。このために、組合の仲間が毎日の通勤時に、ゼッケンを付けてビラをまきながら練り歩くなど、入居要求運動を展開しています。それで、最終的には当局が折れて、復職後半年にして、私は通勤に便利な住宅に転居できました。また、給料も差別を受け、昇格要求の結果、どうにか主任にはなりましたが、同期とは雲泥の差です。金額を決定する等級は据え置かれ昇給ペースは遅々としていました。そのほか、細かいところでいろいろと当局の嫌がらせがありました。
そして、この間には前述の神奈川の視覚障害者の生活と権利を守る会のほか「視覚障害者の雇用を進める会」や「視覚障害者雇用促進連絡会」などで活動し、自分なりに尽力してきました。結局、私は定年退職するまで復職後の16年を税関で勤め、現在はそれからさらに9年の歳月が過ぎて、悠々自適の日々を送っています。しかし、この生活も復職できての話です。何とか、これからの若い人の就職の道を広げようと運動に参加しました。
視覚障害者の雇用問題は「総論賛成、各論反対」で、一般論としては認めても、隣りで仕事をするのは歓迎できないのが大多数の考え方でしょう。これからは、視覚障害者でも、サポートがあれば仕事が行える実例を示して、社会に認知させる努力が必要です。そのために、私もまだまだ頑張っていきたいと思います。
(この文章は1999年1月23日のタートルの会の交流会で行われた雇用連顧問の馬渡藤雄氏による講演を要約したものです。)
障害は社会全体の問題
障害者を同情の目で見てしまうという人がいます。これは、障害を社会の問題として認識していないからです。対等な関係であれば、共感はしても同情は生じません。アメリカのような実用主義の社会では、病気や事故、あるいは老齢に達し体が衰えることにより、だれもがそうなる可能性があるとして障害を考えています。すなわち、現状は障害がなくても、それは一時的に健常な体であり、障害のことも真剣に考えなくてはいけないという文脈になります。しかし、これはあくまでも障害を対岸視するもので、社会保険の必要性を説く根拠になっても、社会の問題であると理解する根拠にはなりません。
障害が環境と関わり、社会の問題であることを論じたもので有名なのが世界保健機構(WHO)の出している国際障害分類です。その分類では、目が見えないというような肉体的な状況を表わしているインペアメント=機能障害、次にそれが例えば本を読めない、歩行できないなどの生活上何らかの支障を及ぼすようになった時には、ディスアビリティ=能力障害、さらにそれを周囲の無理解や社会の偏見によって職場復帰を阻まれたり、就職ができなかった時は、ハンディキャップ=社会的不利であると述べられています。
これは、障害を構造的にとらえ、社会の問題として認識していこうという意味で画期的でした。目が見えなくても、みんなが同じ状況になるとは限りません。環境との関連、もしくはその人を取り巻く家族関係、人間関係、本人の性格など、多種多様な要素の相互作用によって、いろいろと変わってきます。そのように環境との関わりの中で、総合的に障害をとらえることが、支援する側とされる側の関係を対等に保つ第一義にもなります。
支援者のジレンマ
日本の法律では、ほとんどが医学的な判定に基づいて障害者の定義づけをしています。これは、特定のサービスをだれに与えるかを決定するための区切りですが、この作業は、本来は区切れないものを区切るものと言えるでしょう。ところが、このような区切りがあると、一般の人は障害者をつい特別な目で見てしまいます。
例えば、障害者の心理にしても、それが特殊なものと考えがちです。しかし、実際はそのようなことはありません。国立身体障害者リハビリテーションセンターの精神科の医師をしていた永井先生は「障害とは自分の夢とのずれ、または周りの現実とのずれを指し、障害者の心理はだれでもが経験していることで、想像のつく心理状態である。だから、特別なグループの特別な反応というよりも、異常な状況における普通の人の反応という考え方が妥当」と語っています。つまり、障害者を特殊化せず、1人の人間として接していくことは、対等性を追求するうえでも重要になると言えます。
ところが、視覚の障害なら視覚の障害で、固有の困難やその負担を軽減させたいという要望があるのは当然です。障害者を対等な人間として理解した上で、障害特性について話を進めていく必要があります。もっとも、これはそれほど容易ではなく、2つのテーマを満足させにくい、いわゆるジレンマとなります。みんな同じだからと言ってしまうと、それぞれが持つ個別の困難が分かりにくくなり、逆に個別の困難ばっかり着目すると、特殊性ばかりが見え、同じ対等な人間だということが分かりにくくなってしまいます。支援者はそういうジレンマを抱えていることを自覚しないと、いずれかに片寄った見方をして、ほんとうの意味で対等性を追求するのが難しくなります。
構造的に生じる権力関係と自立生活運動
入所や通所の各施設を利用するなどの場合、現状では措置制度に基づいてサービスが割り当てられます。ところが、この制度は自分の意志だけで決定できないシステムのため、自由な選択ができません。そういう構造の中では、どんなに優しく親切に接してくれても、訓練をする人と障害者の関係が対等であるとは言えないでしょう。
また、措置制度はいろいろと問題点も指摘され、それを変えようとする動きもあります。措置制度をなくせばすべてが対等な関係になるほど問題は単純ではありません。少なくとも個人レベルの善意などを越えた部分で人対人の関係が対等になり得ない要因になっていることを理解する必要があります。
併せて、組織が持つ官僚制も対等性を阻む要因になります。例えば、入所施設では時に、担当者の裁量や同一人物による管理と援助の矛盾などが見られます。これも相手との関係が対等とはなり得ない要因になっています。この点も、個人の頑張りとか、人の善さというレベルを超えた構造的な問題と言えるでしょう。
このような中で、自分の意志で生活を営んでいくことを目指した自立生活運動は、構造的に生じる権力関係に一石を投じるものでした。この運動はアメリカで1970年代後半から障害者たちが「問題点は機能障害や能力障害ではなく、そのために家族や専門職者に依存する状態である。だから、問題点が見出されるのは環境であり、社会である。それゆえ解決法は専門職者による指導ではなく、同じ困難を抱える人たちのカウンセリング、またバリアを打破していくための社会運動である。障害者は、サービスを消費するコンシューマー、消費者としての市民である」と提唱したものです。特に、サービスを消費する市民という言葉は重要で、自分のことは自己決定するのを原則とし、したがって専門職者との関係も対等になります。この運動が主張した概念の転換は、支援する側とされる側の関係性を考えるうえでとても画期的でした。
多様性を認め合う社会
以上、3つの項目について話してきました。まず、障害は社会全体の問題であり、次が支援者のジレンマ、3つ目が構造的に生じる権力関係と、それを打破するために非常に大きな意味を持ってきた自立生活の考え方です。結論としては、多様性を認め合うような社会では、より対等な関係性を追求できるのではないかという項目になります。
最近はエステティックなど、女性の美容に関するコマーシャルが見られます。その影響もあって女性の体は腹部から腰にかけてがくびれ、胸が豊かであることなどが美しいと限定される傾向があります。そして、女性はそれに向けて、一生懸命に努力します。私の通う女子大では、そのために拒食症や過食症などの摂食障害を抱える学生もいるくらいです。しかし、このように多様性を認めないある限定された美しさだけに価値観を持ち、そのために努力している人が、一方で障害のある人と対等になり得るでしょうか。つまり、自分を承認できなくて、他人を承認できるわけはありません。多様性を認め合う社会ならば、支援する側であれ、される側であれ個々の人と人がより対等な位置に立てるはずです。
さて、これまで話してきた項目のどれかだけを取り上げても、対等性を保てるものではなく、常にさまざまな角度から検討することが大切でしょう。最後に、私がエステやダイエットに走らず、のんびりとしていられる多様性を認め合える社会ならば、支援する側とされる側の関係も、さらに対等になるとまとめさせてもらい話を終わらせていただきます。
(この文章は1999年3月13日のタートルの会の交流会で行われた日本女子大学専任講師の小山聡子氏による講演を要約したものです。)
タートルの会のメーリングリスト(ML)を立ち上げたのが97年8月、ホームページは同年11月ですから、既に1年半以上経過したことになります。4月20日現在、MLの参加登録アドレス数は106となっています。一人で二つのメールアドレスを登録されている方もいますので、実際のメンバー数は101〜102といったところでしょうか。同日の段階で、その通算書き込み数は2423になっています。
この100名強のメンバーが通信ネットワークを経由して織りなしているのがタートルの会のサイバーコミュニティです。MLでは様々な話題が交換されています。例えば、一つにはタートルの会の会務にまつわる連絡・打ち合わせがあります。幹事会開催に関する事柄のほか、交流会についても情報交換され、参加しての感想等が投稿されたりもします。「その場」で行えなかった更なる意見交換の場にもなっているわけです。
また、「視覚障害に関係する話題で、こんな内容の記事があったよ。」というような投稿もけっこうあります。最近では、幹事の松坂さんがテレビに出たという話題がありました。音声によるインターネットアクセスにまつわるデモで出演されたようです。和泉会長の「見たよ」の書き込みに触発され、出演者ご本人も書き込みされました(スマイル)。
それぞれのメンバーの方が、ご自分の近況・経験等を書き込んで下さるケースも少なくありません。失明した当初のこと、歩行のこと、仕事にまつわる工夫あるいは悩みごと、便利グッズ、NPO法に関すること、マラソンなどのスポーツにまつわること、パソコンを使う上でのノウハウ等々、話の範囲は実に多岐にわたります。
そんななか、個人の経験談で少し毛色が変わったというと失礼になりますが、ファンの多いのが和泉一雄さんの連載です。東京ディズニーランドにご家族で遊びにいった時のことを、確か10回にわたって書いて下さったほか、盛岡での「わんこそば体験記」も5回シリーズで投稿していただきました。103杯食べられたそうです。今は大相撲観戦ツアー体験記が連載中です。
そのほか、ソフトクリームを食べるための集まり、東京三鷹での「みえない展覧会」見学&ラーメンを食べるためのミーティングがMLから生まれるようになったというのも、最近のちょっとした動向として上げられるでしょうか。ML参加者以外の方には「何それ?」という話かと思いますが。
ホームページのほうは、MLとの連携も保ちつつ、「会報タートル」や「雇用連情報」を関係者のご協力でコンスタントに登録させていただいており、価値ある資料になってきていると思います。
1998/12/19 村上氏講演会と忘年会 1999/ 1/16 幹事会(案内発送と相談) 1999/ 1/23 交流会(馬渡氏講演) 1999/ 2/ 9 幹事会(案内発送と年間日程) 1999/ 2/19 幹事会(案内発送と相談) 1999/ 3/13 交流会(小山氏講演会) 1999/ 4/ 9 幹事会(年次総会企画)
○年次総会 日時:1999年6月5日 AM.10:30〜 場所:東京都障害者福祉会館 東京都港区芝5−18−2 03−3455−6321 講演:高橋秀治氏 ○99年度年間日程(予定)
◆1999/ 6/ 5(土) 年次総会 ◆1999/ 7/ 3(土)〜7/4(日) 一泊旅行 ◆1999/ 9/18(土) 連続交流会(1) ◆1999/10/16(土) 連続交流会(2) ◆1999/11/20(土) 連続交流会(3) ◆1999/12/11(土) 忘年会 ◆2000/01/22(土) 交流会(歩行) ◆2000/3/18(土) 交流会
「タートル」(13号)がようやく出来上がりました。
本号は交流会が3つ続き、その編集には全く他力本願となりました。 本会会員でもあるプロのフリー編集者で「東京ワークショップ」在籍の田部井範夫さんにお願いしたのです。
村上琢磨さんに歩行指導を受けたことから、「先生の話は自分がテープ起こしをしたい」と、自発的に申し出てくれました。「ついでに編集までしてみたい」ということになり、渡りに船と頼んだわけです。
次の馬渡さんの講演は、テープ起こしを「ワークアイ船橋」に、編集を田部井さんに。そして編集は2段階に、1万字と3千字。3千字は本紙に、1万字はタートルのホームページに掲載しました。
最後の「多様性を認め合う関係性」も同様に3千字にして本紙に掲載。
機関紙「タートル」はテープ版を制作しています。ご希望の方は事務局まで連絡ください。 (篠島永一)