中途失明との闘い……N(株)の郡さん、ハンディを乗り越えて職場復帰へ
弁護士 大森 浩一
東京東部法律事務所 一九八七年弁護士登録
著作権者許諾年月日 1999.2.5)
掲載にあたり、著作検者の了解を得て、一部原本を修正してあります。
1 「タートルの会」との出会い
平成一〇年一〇月、都内で一人の労働者の復職を祝う会が開かれました。
この日の主役は、葛飾区在住の郡(こおり)悟さん、三八歳(以下、K氏という)。
網膜色素変性症の進行により現在では視力を殆ど失っているが、この日のK氏は晴れ晴れとした笑顔で駆けつけた人々と勝利の美酒を酌み交わしていました。
思いがけず来賓として招待された私にとっても当日の祝杯は格別なものでした。
正直いって、解雇通告という最悪の状況からわずか一年一〇ヶ月でこのような劇的な展開となることを予想できなかったからです。
「都内の大手コンピュータ会社に勤務する郡さんという方が視覚障害の悪化を理由に解雇されそうだ。今後の対処法について助言して貰えないか。」
平成八年一二月のある日、そんな相談が持ち込まれたのがK氏そして「中途視覚障害者の復職を考える会(=略称・「タートルの会」)」の方々の闘いに関わるきっかけでした。
タートルの会は、疾病や事故などで人生半ばにして視覚障害者となった方々がそれまで勤めていた職を失うことがないよう復職を強力に支援するネットワークとして平成七年に設立されています。
右設立以後、タートルの会は、苦悩する中途視覚障害者を励ましつつ、「目が見えなくなって果たして仕事などできるのか?」という社会の偏見とも闘い、公務員労働の職場を中心に様々な職場で先駆的実例を積み上げていく活動を展開していました。
K氏にとっても、タートルの会との出会いが、視力を殆ど失うという絶望的事態から立ち直り、遂に復職を勝ち取るまでに至る過程においてのターニングポイントとなったのです。
2 K氏のプロフィールと退職勧奨・解雇通告に至る経過
K氏の視覚障害の原因となった網膜色素変性症とは、徐々に視力低下と視野狭窄が進行する先天性の疾病であり、K氏は六歳の頃から視覚障害との闘いを余儀なくされました。
K氏は、持ち前の頑張りで大学を卒業し、都主催の「障害者と企業の合同面接会」に参加する中で、現在の勤務先であるN社に総合専門職として採用され経理部に配属されました。
視力低下と視野狭窄が急速に悪化していったのは三〇歳を過ぎてからのことでした。
迫りくる失明への恐怖と仕事ができなくなるのではという不安に苛まれる中で、K氏にとっての唯一の救いは、介助者的役割を果たす職員が職場に配置されていたということでした。
しかし、K氏の補佐をしていた職員が平成8年三月に退職してからは、職場の雰囲気が一変、同年六月にそれまでの経理部から人事部付に異動となり、仕事らしい仕事が与えられなくなると同時に、上司から退職を勧奨されるなどこのままいけば解雇通告は必至という厳しい局面となりました。
視力を殆ど失ったK氏にとっては、会社での仕事を続けてゆくためには、生活訓練と職業訓練等のリハビリが必要とされていましたが、リストラの波が押し寄せている職場の中ではとてもリハビリ休職などが認められるような雰囲気はなく、職場の労働組合の理解を得ることも困難という状況でした
刻一刻と職場にいたたまれない事態が進んでいく中で、平成八年一一月下旬、K氏に対し、「今のあなたは労務提供能力がない。就業規則により一二月三一日を以て解雇します。自ら依願退職を申し出るかどうか、今月末まで返事をして欲しい。」との通告がつきつけられました。
3 K氏の仕事への情熱と支援の広がり
解雇通告と相前後して、K氏とタートルの会との交流が生まれ、同会と全日本視力障害者協議会(全視協)が中心となって「郡さんの解雇を許さない支援会議」が急遽結成されることになりました。K氏は集会参加者に次のように訴えました。
「訓練を受ければ、それなりの仕事はできると思います。会社もその可能性を頭から否定しているわけではないと思っています。しかし、会社はあくまでも現在の能力だけを問題にします。リハビリや復職への可能性と希望も奪ってしまうような解雇は認めることはできません。なぜ在職中にリハビリが受けられないのか。中途視覚障害者が生きるために、働き続けるためには、リハビリが権利として保障されなければどうすることもできません。残念なのは、障害者として雇用されながら、その障害により、こういう形で解雇されるということです。会社は嫌いではないし、会社には仲間もいます。これからも後に続くであろう中途視覚障害者のためにも、リハビリを権利として保障させることが必要だと思います。私は訓練を受けて復職し、仕事を続けたいのです。もし、解雇になれば、裁判で闘うしかありません。どうぞ皆さんの支援をお願いします。」
K氏の仕事への情熱は多くの人々の心を動かし、江東区労働組合総連合等の支援も得る等運動の輪は急速に広がっていきました。
会社との交渉・説得に際しては、タートルの会に集積された民間会社を含む復職のこれまでの実例の紹介、日進月歩で開発されてきている視覚障害者用OA機器(オプタコンや音声ワープロ等)のデモンストレーションを始め、労基署や職業安定所からの働きかけ等あらゆる工夫をこらした波状的な取組がなされました。
4 解雇通告の撤回を勝ち取る
右のような支援団体とK氏の取組に対し、会社は、暮れも押し詰まった段階で、新たな選択肢として一年契約での嘱託への切り替えを提案してきました。
これは会社としてのギリギリの妥協案と考えられました。
解雇を回避するために嘱託としての処遇を受け入れるか否か、通告された日限が迫る中でK氏と支援団体は困難な選択を迫られました。嘱託を拒否すれば間違いなく解雇が強行されると推測されたからです。
「たとえ解雇されようと嘱託は受け入れられません。」……K氏の決断は周囲も驚くほど明快でした。
対策会議の場は、一瞬裁判闘争へ臨む覚悟を決めた緊張感が張りつめました。
仕事納めの日を翌日に控えた一二月二六日朝、K氏は会社に対して「解雇通告を受け入れることはできない。私傷病休職制度を準用し、リハビリ休職を認めて欲しい。」との文書回答を提出しました。
この日、支援者の間では「来年は解雇撤回を求めて壮大な闘いの年の幕開けだ。」との激文が飛び交いました。
そして二七日。毎日新聞千葉版のコラム「街の色 人の詩」には『見えなくたって働ける』との表題でK氏の闘いが仮名で紹介されました。
解雇予告を撤回するとの会社決定をK氏が告げられたのはその日の午前一〇時のことでした。苦楽を共にした支援の仲間にとっても予期せぬ朗報でした。
5 一年3ヶ月のリハビリでの苦闘を経て
土壇場で解雇を撤回されたK氏の処遇は、無給の特別休職を準用するというものでした。
一難去ってまた一難。K氏には、一定期間の中で生活訓練(歩行や点字修得など介助なしに身の回りのことができるようにするための訓練)、職業訓練(視覚障害者用OA機器の操作法の修得など)をやり遂げ、会社にK氏が立派に業務遂行能力を身につけたことを認めさせなければなりません。
そのために要求される努力は健常者のそれの数倍にもなるでしょう。
解雇を撤回させたとはいえ、復職に至るまでのハードルは相当高いものがあると想像されました。
しかし、K氏は血のにじむような努力を重ねて幾多のハードルを超え、固唾をのんで見守る周囲の期待を裏切りませんでした。
休職期間も一年を過ぎるとK氏は会社から徐々に職場復帰に向けた具体的な課題を与えられるようになりました。
そして平成一〇年一〇月、K氏は会社から一一月に職場へ復帰させるとの決定を得るに至りました。復帰先は古巣の経理部です。
6 K氏の生き方に学びながら
今、この国では、様々な職場・分野で、人間らしく生き、働くための感動的な闘いが数多く取り組まれています。私がこの間学んだことは、K氏や同じ障害を持つ人々の復職に向けての取組は、職場に人間性を取り戻すための極めて貴重な闘いであり、この国の人権水準を高めてゆく一翼を担っている運動だということです。
会社の厚い壁を突破した原動力になったのは、K氏が復職に向けた情熱を終始失わずにいたことだと思います。K氏の情熱は、周囲の人々を動かし、職場を変え、社会を変えていくエネルギーに満ちたものでした。
私自身は、K氏の復職には何ほどのこともできませんでしたが、中途視覚障害者の方々の闘いはもっと多くの人に知られ、担われるべきだとの思いから本稿を投稿させていただきました。K氏の解雇撤回の闘いが展開されるのと時期を同じくして、関西電力に勤務する中途視覚障害者の二見徳雄氏が障害を理由に解雇されるという事件が発生しています。二見氏の解雇撤回を求める裁判は現在も大阪地方裁判所で審理が進められています。タートルの会には中途視覚障害者の方からのたくさんの相談が寄せられています。同会の運動の前進と共に法律家がこの問題に関わる機会が増えてゆくものと思われます。各位のご支援とご協力を心よりお願いする次第です。
(「季刊・労働者の権利」VOL.228 日本労働弁護団編)
日本労働弁護団
所在地:東京都千代田区神田駿河台3−2−11 総評会館4階
電 話:03−3251−5363
[参考]
郡さん職場復帰を果たす(新聞記事から) 〜 郡さんの職場復帰に関する「しんぶん赤旗」(1998年10月29日付)からの記事転載。
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