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税関長は、当局がこれまで執拗にくりかえしてきた開業強要の脅しを追及されて、ただ弁解するばかりであった。結局、この交渉において「切り捨て御免」はしないという明確な回答を引き出し、近日中にその方向で何らかの結論を出すことを約束させたことが最大の成果であった。
税関長交渉が行われた直後のことである。「最近、公田(くでん)町団地自治会の代表が税関に来て、馬渡さんを職場復帰させるよう当局と交渉したらしい」という話が伝わってきた。公田町団地というのは、馬渡さんが住んでいる公団住宅で千二百戸くらいの大きな団地である。昨年の秋、馬渡さんの奥さんがここの団地自治会に署名協力のお願いに行ったのだが、まさか税関にまで来てくれて交渉するとは思ってもみなかった。奥さんから要請を受けた自治会では、さっそく広報ニュースに掲載し全戸に協力を呼びかけ署名用紙を配った。さらに、自治会だけで取り組むのではなくもっと広範な支援体制をつくるために、これを「公田町団地福祉委員会」にかけて運動しようということになった。福祉委員会は、自治会長、自治会厚生部長、PTA会長、老人クラブ会長、子供会育成会会長、民生委員、児童委員、青少年指導員など十二名の委員で構成され、団地内の総合的な福祉問題を協議する組織である。その結果、一ヶ月足らずの間になんと千六百九名分の署名が集められたのである。
積み上げられた署名を前に福祉委員会では、「これを税関の労働組合に渡すだけでは主体性が無さすぎる。われわれとしても、税関に馬渡さんを復職させるよう陳情して交渉してみよう」ということになり、さっそく陳情書が書き上げられた。 代表には松田栄吉氏(民生委員・児童委員)、武田三易氏(市立桂台小学校PTA会長、民生委員、児童委員)の二名が選ばれ、税関へ行くことになった。一月二十二日、二人は税関の小田総務部長、矢野総務課長等と、約二時間にわたって話し合った。席上、総務部長は、「馬渡さんの復職問題では、今一番頭を悩ましている。税関なりの善処の方向で考えてはいるが、診療室ではり灸をやるというのはむずかしい。税関でやったとしても、かかる人が居ないと思う。それより団地の方にお願いしたいのは、団地で馬渡さんが開業した場合今の一DKの部屋では狭すぎるので、広い部屋のある棟に移すよう努力してもらえまいか」と言ったそうである。それに対し松田さん達は、「住宅を移すのはむずかしい事ではありませんが、馬渡さんの将来を考えたら税関に復職するのが一番良いと思うのです。団地で開業してもはたして成功するかどうか疑問です」と話した。
しかし、総務部長等は馬渡さんを辞めさせて開業させることしか頭にないような口ぶりであったという。福祉委員会では、この陳情の様子をくわしく検討した結果、もしどうしてもうまくゆかないようなら、今度は大蔵省の関税局と陳情交渉しようということになり、それを公団公報ニュースに掲載した。松田さんと武田さんは訪問した私に、「私たちは労働組合がこのような問題に真剣に取り組んでいるのを見て、びっくりしました。組合がこんなに一生けんめいやっているのに自治会が何もしないというのでは申し訳がたたないというのでやり始めたのです。私たちは税関の組合のためにやっているのではなく、同じ団地の住人として馬渡が一番幸せになれるように考えてやった事ですから誤解しないでください。しかし、最終的に職場復帰が全くダメになった時には、団地内で開業してゆけるよう皆で骨を折ろうと、福祉委員会の中でも話し合われたところです」と、おっしゃった。この話は、税関の職場の人たちに大変な感激を与えた。住民自治会から、これほどの心のこもった援助の手をさしのべられたことは、組合にとっても守る会にとっても思ってもみなかった出来事であった。
馬渡さんの奥さんによる訴えが、このような反響を呼んだのだが、この運動において馬渡さんとその家族の方がたの活躍に、どうしてもふれる必要があると思う。奥さんの実家が川崎市にあるが、そこの自治会でも署名運動を取り組んでくれている。もちろんお父さんやお母さんたちの働きかけの結果である。奥さん自身もいつも署名用紙を持って、会う人ごとに訴えた。宮崎県は馬渡さんの実家がある所であるがここで弟さんの幸三郎さん(宮崎盲学校教諭)が大活躍して、馬渡さんの学生時代の友人や近所の人、さらに学校の先生などにも訴えてたくさんの署名を集めている。これに宮崎県の高校教職員組合が協力してくれている。
馬渡さん本人の活躍にも目を見張るものがある。視障センターの学生はもちろん、職員やそこへ来るボランティアの女学生、鍼灸研究会の仲間等々、当るをさいわいとばかり署名用紙を渡して訴えてまわった。こうして集められた署名は、馬渡さんから四五六名分、奥さんとその御両親から五一一名分、宮崎県の幸三郎さんから四五一名分、あわせて一、四一八名という数に達している。これに公田町団地の分も加えれば三、〇〇〇名を突破するのである。最終的に集約された署名の総数は一万五千余であるから、全体の二割もの数をわずか数人で集めたことになる。なお、この中には宮崎県高等学校教職員組合が集めてくれた一、一九一名分は加えられていない。
当局は税関内で行なう職員に対するはり灸治療に対し否定的な考えを持っていた。こうしたある日われわれは耳よりな話をきいた。はり灸の職場内治療「産業鍼灸師」の効用を説いて、全国的な東洋医学雑誌に発表している人が居るというのである。その人の名は小野文恵氏。小野氏は東京の高田馬場に東方堂という鏡灸専門の治療院を経営するかたわら、古典鍼灸研究会会長、東洋鍼灸専門学校講師などに任じて、東洋医学の普及と発展にっとめている方である。私たちは、さっそく小野氏のところへ出かけた。これまでの経過を話したうえで、ぜひとも税関当局に対し「職場内鍼灸師」の必要性を説得してほしい、あわせて税関の労働組合員にそれを講演してもらえないかと訴えた。小野氏は快くそれを承諾してくれた。忙しいスケジュールを割いて、税関に来てくれる日取りまで決った。組合では二月六日に講演会を行なうというビラを配るとともに、税関当局にも小野文恵氏に会って話を聞いてもらうよう申し入れた。だが当局は直前になって、小野氏とは絶対に会わないと言い出した。会議があるからというのがその理由であったが、明らかににこじつけであった。結局、この計画は流れてしまった。
二月一日には、労働省と人事院に対する交渉が行われた。労働大臣あての請願署名一万八百七十名分を積み上げての労働省職業安定局との交渉には、障全協の永田一視事務局長をはじめ、守る会、神視障、ベーチェット病友の会、全税関労組中央執行部の面めんが参加した。労働省側は「大蔵省が馬渡さんの機能を生かすことができるならば、身体障害者雇用促進法の立場から見て非常に望ましいことと思う。大蔵省にもその旨を話す」と約束した。午後から行われた人事院任用局職員課との交渉においても人事院は「馬渡さんを職場復帰させることは、法律上からも人事管理上からも何も問題はない。はり灸マッサージ師として働くことは職員の健康管理上よいかもしれないし、賃金の格付けも支障ない」と言い切った。結局、残された大蔵省と横浜税関の裁量いかんに、すべてがかかっていることが明確になった。
二月五日、大蔵省関税局と全税関労組との交渉が行われ、横浜支部から八名の代表が出席した。「労働省と人事院は、職場復帰について何ら問題ないと言っているが、関税局の態度はどうか」との追及に対し、「最終的な判断は任命権者である横浜税関が決定する。大蔵省としては、現段階では何とも言えない」と逃げを打ち、関税局の回答はさっぱり要領を得ない。横浜税関では、「大蔵省段階で協議中なので答えられない」というし、お互いに責任をなすりつけ合っている。こうした状況を打開し最後の決着をつけるべく、労働組合は大だい的なキャンペーンをはることにした。二月十四日早朝、六十名の組合員を動員して桜木町駅と関内駅の二カ所で、八千枚のビラを配って市民へ支援を訴えた。二月十六日には、馬渡支援会議の呼びかけで決起集会が開かれた。全税関労組からは東京支部や神戸支部の仲間たちが駆けつけてくれ、全視協も橋本会長、黒岩事務局長のほか東京から東視協の仲間も参加してくれた。神奈川県社会福祉協議会の職員や全障研神奈川県支部の会員たち、脳性マヒ者が中心の働く身障者友の会の仲間たちなど初めて接した人びとも多かった。
またこの集会では脳性マヒの前田豊さんが応援演説をしてくれた。不自由な言葉でトツトツと語る彼の話に、満場の参加者は驚きと感激をかくさなかった。続いて二月十八日から二十三日までの一週間、全税関横浜支部組合員によるプレート闘争が決行された。制服の胸に「馬渡さんを理療師として税関に復職させよ」と書かれた六センチと九センチのプラスチック板を着けて勤務するのである。当局側職制によるかなりの妨害も加えられたが、組合員の毅然とした態度を前に、「そのプレートをはずして仕事をしなさい」という声は弱よわしかった。二月十九日、神奈川県地方労働組合評議会が支援を決定した。県下最大の労働組合組織で、傘下組合員数二十二万人を擁する県評が支援に立ち上がったのであるから、こんな心強いことはなかった。馬渡さんのところへ「二月二十二日にゆくから必ず居るように」という、いかめしい電話が入った。ついに当局の回答が下される日が来たのだ。
最後のたたかい
職場復帰の回答下る
一九七四年二月二十二日、この日こそ馬渡闘争三年半の航跡が一点に集約されるべく、当局回答の下される日であった。税関当局がどのような結論に達したのか、職場復帰を認めるのか、それとも・・・。私たちは不安に耐えて、馬渡さんからの連絡を待った。この日税関当局が下した回答は要旨つぎの通りであった。
一 大蔵省がイニシアチブをとり労働省、厚生省、人事院、総理府との間で協議した結果「馬渡さんの三療師(はり灸あんまマッサージ指圧師)としての復帰は、必要性妥当性において不適当である」との結論に達した。これは政府の決定であると思ってもらいたい。必要性及び妥当性が認められないという理由は、
(1)税関診療所には医師が週三回来ており、かなり多数の患者を診ているが、それも非常勤である。三療師を置いても、それにかかる患者はほとんど居ないと見られる。あんまマッサージについては、医師がそれを受けるよう指示することもあるが、これも一ヵ月に二〇回程度しかないと推定される。ほり灸を受けるよう医師(税関の)が指示したという事例は無い。
(2)民間企業を調査したが、従業員の疲労回復、健康管理のためにはり灸マッサージ師を置いている所は全く無い。にもかかわらず、官庁が率先して積極的に置くということは、国民感情からみて好ましくない。
二 以上の結論が大蔵省から出されたので横浜税関として協議した結果、つぎの点であったら認めてもよいということになった。
(一) 行政職(一)(注、一般事務官)として、三療師以外の職種で職場復帰させる。具体的には
(a){税関案内所勤務}これは、輪出入申告の手続きなどの問い合わせに答える仕事である。一日四、五件の照会があるだけで特に忙しくはない。たんなる案内の仕事である。新たに勉強しなくても、馬渡さんならできると思う。むずかしいことがあったら、所長と二人勤務なので、その援助が受けられるだろう。
(b){電話交換の仕事}これは新たに講習を受けなくてはならないが、馬渡さんならできないことはない。
(二) 辞職して開業するならば、できるだけ援助する。
以上が当局の回答であるが、税関案内所というのはどういう事を行なう部門であるかについて「横浜税関案内所設置規則」にはつぎのように定められている。
第一条 部外者に対して税関手続の説明を行ない、これに習熟させて税関行政運営の円滑化をはかるため、本関に横浜税関案内所を置く
第二条 税関案内所においては、次に掲げる事務をつかさどる
(一)税関手続の相談に関すること
(二)税関手続案内書等の配布
(三)その他税関案内に関する事項
割れた評価
この回答は、その日のうちに全職場に伝えられた。職場では全税関組合員、第二組合員を問わず課長連中まで含めて大歓迎された。「よかったじゃないか。とうとう馬渡さんが税関に戻れるようになったんだね」「馬渡さんが働けるようになったの、よかったわねえ」「大丈夫だよ、はり灸の方は税関に戻ったあと何とかなるよ」などの声が圧倒的であった。だが、当の馬渡さんの評価はちがっていた。「僕は当局に何回も{三療以外の仕事では復職できない}と言ってある。それなのに、こういう回答を出してきたということは、僕がこれを絶対に呑まないだろうということを見越してにちがいない。電話交換だとか税関案内なんてやる気ないよ。当局にはこれを受けるかどうか考えさせてくれって保留してある」というものであった。
組合執行委員会の中では評価が二つに割れた。「本人の希望する三療職での復帰が認められなかった。この回答では馬渡さんは職場に戻ることができない。これは税関当局の新たな攻撃だ」という意見と、「ともかく当局は職場復帰を認めたのだ。これは画期的な回答だ」の意見に代表される。私自身もこの二つの評価の間を揺れ動いた。はげしい討論の末、執行委員会は全員一致でつぎのような結論に達した。
回答に問題があるとは言え、われわれの長期にわたるたたかいによって、税関当局はついに馬渡さんの復職回答を出さざるを得ないところに追い込まれたのである。盲人となった者がこれまで例外なく解雇(または辞職)させられてきたことを考えるならば、今回の回答は画期的なものであり、馬渡闘争における飛躍的な前進である。この回答を受けて税関案内所などに復職するならば、馬渡さんの生活は保障され公務員としての身分も確固としたものとなる。しかし障害者の復職という場合、特に本人の希望、能力、特技等を尊重しないならば、永く働き続けてゆくことはできない。だが、この回答を蹴ってさらに三療師配置をたたかった場合、早期に決着がつくとは考えられない。それに馬渡さんが耐えられるかどうかも心配である。当面本人にとっては不満かもしれないが、当局の回答を受けて職場復帰し、その上で配置転換闘争を展開することがよい。それはけっして不可能ではなく、これまでのたたかいの力を生かすならば、三療師としての職務に配置換えさせることは充分可能性がある。
今回の回答の主要な点は「当局が職場復帰を認めた」というところにある。
馬渡さんの動揺
しかし馬渡さんは執行委員会の結論に納得しなかった。「あの回答では職場復帰できない」と言い張った。執行委員会と守る会は、これまで運動にたずさわってきたすべての団体を召集し、本人と奥さんを交えて協議する必要を感じた。当局回答のくわしい報告と集団的な回答の評価、本人の意向を汲んだ今後の運動の進め方などがその課題である。市川議長もその必要を認めた。開催日は三月十日(日曜日)ときめられた。馬渡支援会議による招請状が発送された。ところが、その会議が開かれる前日の土曜日、センターの馬渡さんから勤務中の私のところへ電話が入った。「かぜぎみで身体の調子が悪いし、あさって灸師の実技試験があるから、大事をとって明日の会議は休みたい」と言うのであった。明日の会議には、招請状を出したすべての団体から参加する旨の連絡がきており、いまさら会議の日程を変更することはできない。なによりも、回答への否定的評価をもっている当の本人が出席しなくては、会議を開いても何の意味もない。
私は電話で、何としてもぜひ出席してほしいと話すと、馬渡さんから「僕が出ても考えていることは今までと同じだよ。みんなには中村君から適当に話してくれればいいよ」というきわめて無責任な返事がかえってきた。たんなる身体上の都合が理由ではないらしい。午後、守る会の緊急幹事会が開かれ、「最終的にどうしても復職したくないというのであればやむを得ない。しかし、どのような決着をつけるにしても支援団体にはすべて了解を得なくてはならないから、明日の会議には馬渡さんの出席が絶対に必要だ」ということになった。その旨を本人に伝えるとともに身体の状態、本人の考え方などをよく知るために、私が視力障害センターへ駆けつけることになった。
横浜から「今からそこへ行くから話をきかせてほしい」と電話をすると、「もう来ないでくれよ、どうせ来たってこのまま職場復帰するつもりはないし考えは変わらないよ。それに、かぜをひいているから来ては困る」というつれない返事。しかし運動の瀬戸際である。どうしても本人に会わなくてはならないので、私は強引に押しかけることにした。センターに着いてみると、意外に元気で顔色もそんなに悪くない。かぜをひいているにしても、明日の会議に出られないほどには見えない。病気で出られないというのは口実であると感じた。
このとき、馬渡さんは「僕が今、これから一生を生きていく上でやってゆこうと考えているのは三療だけなんたよ。自分で自信が持てる仕事をやってゆくなら、どんなことがあっても耐えられると思うけど、そうでないと精神的に耐えきれなくなってしまうと思う。それなのに当局から三療復職を断られた以上、僕には納得しようがない。それと、税関案内所などで働くということは、僕にはとても恐いんだ。全税関組合員である上に目が見えないのだから、当局からどんないやからせをされるかわからない。組合がこれ以上三療師の復職のために運動を続けられないと言うのなら、税関を辞めて開業するしかない。三療以外の仕事では絶対に職場復帰したくはない」と、しみじみ語った。
馬渡さんの苦しむ気持が痛いほどわかったが、かと言って、三療師としての復職が短期に決着がつくとはけっして約束できなかった。運動というのは、あくまでも該当者が主体である。たとえそれが本人のためになることであったとしても、本人が断る以上続けてゆくことはできない。馬渡さんが三療以外の仕事を一切やりたくないというからには、当局の回答をもとに税関案内所なり電話交換での職場復帰はできない。ただし運動を終結するためには、きちっとした総括をする必要があるし、また、馬渡さん本人や家族と組合員、それに運動を支援してくれてきた団体に納得を得た上で終わらせなければならない。しかしその場合、馬渡さんをけっして孤立させたり絶望に追いやることは絶対に避けなくてはならない。本人の動揺によって運動が挫折した場合、ともするとその人への不信が生じ非難の目が向けられがちであるが、こうした事態を何としても回避しなくてはいけない。
そこで私は、「馬渡さんがそれほど意志を固めているのなら、その方向で運動に決着をつけよう。ただしそのためには、明日の会議には必ず出席して、自分の考えていることをすべて出して皆の納得を得るようにしてほしい。その場では会議参加者から色いろな意見が出ると思うけれど、馬渡さんはその一つひとつに素直に答えていってもらいたい。運動の終結の仕方としては、このまま馬渡さんが復職も何もしないで辞めてしまうというのは良くないから、税関案内所などに短期間勤務し、その上で改めて辞職するという形にしたらよいのではないかと思う。こうすれば、いちおうは職場復帰に成功したということになり、運動が挫折したことにはならない。組合員や支援をしてくれた人たちから不信を受けないで済むし、馬渡さんも安心して開業することができると思う。私も馬渡さんがつらい思いをしないで皆の納得が得られるよう会議を進めるからどうだろう」と提言した。
これには馬渡さんも了解し、三月十日の会議に出席することが決まったのである。その夜開かれた組合の三役会議では、私と馬渡さんの間で話合われた内容をもとに、闘争終結の方向が決められた。私は一晩かかって、明日報告すべき闘争総括をまとめ上げた。
激励と涙の支援会議
一九七四年三月十日、この日開かれた馬渡支援会議の討議は、三年半に及ぶ馬渡闘争を締めくくるうえで、忘れることのできない劇的な会議であった。この日出席したのは、馬渡さん及び奥さんの敏子さん、全税関労組中央執行委員、同横浜支部三役、馬渡守る会幹事全員、神視障守る会、平塚視障協、ベーチェット病友の会、全視協、横浜高教組盲学校分会、横浜地区労の各代表、それに脳性マヒ者の前田豊さんら二七名である。会議は、市川邦也支援会議議長の司会で進められ、事務局長の私は当局回答のくわしい説明及びそれをめぐる評価、これまでの運動の経過、教訓などについて報告した。二、三の質問のあとただちに討議に入った。討議は、初めに馬渡さん自身による当局回答への評価と意見が出され、それをめぐって進められた。
馬渡 この回答は、当局の勝手なことしか言っていないと思っています。もしも税関案内所などに配置させようというのであるなら、なぜ三年か五年前からそれを準備して訓練させなかったのか。当局はそれを何もしないでいて、私が自分の努力で一生けんめい勉強して三療師の資格を取った今になって、案内所だとか電話交換の仕事をやれというのでは困ってしまう。私は当局に何回も「三療以外の仕事では職場復帰できない」と言ってきました。それを充分知っていながら、あえてこのような回答を出してきた裏には、私がこの回答を絶対に呑むまい、その結果自分から税関を辞めるだろうと考えているに相違ありません。私としても、この回答では職場復帰はできません。障害者の場合、特に本人に意欲の無いところには就労は無理だし、ありえないと思います。私は回答があった日、これを受けて復職するかどうかについては、三月十一日のはり師・灸師資格試験が終わったあとに答えると言っておきました。
ここに来て私が取るべき態度としては、つぎの三つに絞られると思います。第一は、あの回答を蹴って、あくまでも三療師としての復職を要求してゆくこと。二番目は、一応税関案内所に復職し、適当な時期に税関を辞職するというやりかた。三番目は、病気休暇の切れる四月二十日で辞職し、すぐ三療を開業するということです。私は一番目だけでは無理があると思うし、かと言って、いきなり辞職するというのも問題があるので、二番目の線でいったらよいと考えています。しかしその場合でも、希望しない仕事ではいつまでも耐えきれないので、そう永く勤めるわけにはいきません。いったん税関案内所に復職し、一ヶ月たったらそこで改めて辞職するという形が良いのではと思います。そうすれば、職場復帰運動は成功した事になるし、私もつらい思いを永く続けないで済み、三療の開業に取りかかることができます。私は、三療以外の仕事は全くやる気がないのです。(一同「まさか」と唖然とした表情である)
馬渡敏子(奥さん) 私は今どうしたらいいか、毎日思い悩んで夜もよく眠れません。回答を新聞で見て、中村さんからも話を聞いて「ああ、これで生活の見通しがつく」とホッと安心しました。両親もそう言っておりました。私は、とりあえずいちおう復職して、生活の保障を得たうえでゆっくり開業の準備をしていったらいいと思いました。ところが、主人から電話で話を聞いて、これでは案内所も電話交換も続けてゆくのは無理だと思いました。私は、主人が生きがいのある仕事で一生、安心してやってゆけるように望みます。もしやる気のない仕事や生きがいのもてない仕事をやるなら、いずれいつかは壁にぶつかります。私は、自分自身の気持ちがどうあれ、主人の意志を大切にし、それに従ってゆくつもりでございます。
和久野宣久(全税関横浜支部・副支部長) 最初運動を始めたとき、私たちは職場復帰の回答を引き出せるという確信はほとんどなかった。一万人の署名が集まれば何とか前進はすると思ってはいたが、問題がないとは言えないがいちおう職場復帰を認めたという事は大変な成果だと思う。これは、馬渡支援会議という組織力の成果だと考えています。
大谷昌司(神視障守る会・執行委員) 今回の回答は、障害者になっても首を切られないということが得られた点で、大きな前進だと思います。しかし今、馬渡さんの言われたように、障害者が働くときにその能力が充分生かされないということになると、あとで問題が起きると思います。
高嶋昭(馬渡守る会・副会長) 労働組合としては、この回答は大きな前進であり大きな成果が得られたと考えています。これは、税関の職場のほとんどがそう評価しています。馬渡さんは、自分個人の問題という観点だけでなく、障害者運動全体にどういう意義をもたらしたのか、その点からどういう成果が認められるのかという点も言ってもらいたい。
黒岩滝市(全視協・事務局長) 今までは中途失明者は例外なくその職場を辞めさせられてきたわけですが、税関当局の回答はそれを覆し、目が見えなくても働いていくことができるとしたわけです。これは画期的な回答だと言えます。全障研でも労働権の問題が、障害者運動の最も困難なものだとされてきましたが、その点で馬渡闘争は全国から注目されています。ただ、別の面から見れば無責任な回答でもあると思います。案内所などに復職させるつもりなら、最初からそのための指導をし訓練させるべきでした。しかし、自分の要求にそぐわないかもしれないけれど、馬渡さんはこれを受けて職場復帰した方がいいと思います。入った後で配置換えの運動をやれば必ず成功すると思います。
橋本宗明(全視協会長) これは馬渡さんの気持ちにそぐわないかもしれませんが、私は、この回答を歓迎したいと思います。今までは、視力障害者って言えば「あんまさん」という代名詞に表されたように、仕事は三療以外にありませんでした。私達は、盲人だから三療が適職だとは考えていませんし、それ以外にたくさんの仕事ができる可能性がある、そういうところで働かせろと主張してきたのです。それが今回はからずも一般の事務的な仕事(税関案内所)をやれと言ってきたのですから、これは大事にする必要があると思います。これで馬渡さんが職場復帰すれば、今後官公庁の中に三療以外の職場で視力障害者が勤務するという実績ができるわけです。盲人全体の職域拡大として大きな意義が認められると思います。
鎌田克美(横浜高教組横浜盲学校分会・分会長) 税関当局がこれまで拒んできた職場復帰を、まがりなりにも認めたという点で高く評価したいと思います。私の学校に入学してくる人は、中途失明で職場を首になってきたケースが多いのです。首を切られてやむなくまた学生に戻って盲学校で勉強するわけですが、卒業してももう職場には戻れません。結局自分で三療を開業するか、病院などへ就職する以外にありません。馬渡さんはこうして労組や支援団体からバックアップされて、運動できるわけですから、ある面では恵まれた障害者といえましょう。この成果を大切にしてください。
氷見英治(馬渡守る会・副会長) 皆はこのように言っているが、馬渡さん自身からももっと率直な気持を出してください。
馬渡 今度の回答で障害者運動の橋頭堡を勝ち取ったということは評価しています。今までは失明したら即クビ切りというパターンだったものが、まがりなりにも職場復帰を認めるというのですから、これは前進でないはずはありません。でも職場復帰するのは私なんです。回答の中身を思い出すたびに腹が立ってきます。私はセンター入所生の中で一番勉強したと思っています。なぜそれほど勉強したかと言えば、これからの一生を三療の仕事で生きてゆこうと決意したからです。三療の仕事で職場復帰できなければ、あとは開業するしか道はありません。税関に職場復帰したとしても、いずれいつかは辞めて開業するのですから、開業は早い方がいいと考えています。皆さんは私に職場復帰してがんばれとおっしゃいますが、税関案内所や電話交換などやりたくないし、第一できません。何にもしないでただ座っているだけなんて耐えられません。税関に復職して働いた分だけはり灸ができなくなり、時間が無駄になります。これは私にとって人生の空白です。
大槻敏彦(全税関中央執行委員) 馬渡さんに聞きたいのですが、税関案内所などで働いたら本当に三療の腕がにぶるのかどうか、その場合、自宅や職場の昼休みなどに治療することも可能ではないか、もうひとつは、開業すると言っているけれど成功の見通しはあるのかどうか、その辺について話してください。
馬渡 治療というのは昼休みにちょこちょこやるようなものではありません。私はあんまをやるのではなく、鍼灸で人の治療をしたいと考えているのです。どのくらいの期間で開業できるのか、開業したら成功するかどうかなんて今はわかりません。開業しても生活が安定するまではかなり苦労すると思うけど、これは私だけでなく誰もが通らなくてはならない道です。成功した人は皆苦労の末成功したんです。
橋本 馬渡さんは三療でなければやる気がないとか意志が生かされないとか言いますが、今の世の中で誰もが自分の希望通りの所で働いているわけではないんですよ。私だって好きで三療をやっているのではなく、メクラにはこれしかないから、仕様がなくやっているんです。でも、三療の開業は馬渡さんの言うほど簡単ではありませんよ。馬渡さんは「はり」だけでやっていくつもりらしいけれど、「はり」だけでは生活が安定するまで七年から十年はかかると言われています。なぜそんな厳しいところに急いで飛び込もうとするのか理解に苦しみます。不満もあるかもしれないけれど、税関案内所に復帰して生活を安定させ、それから三療師としての職場への配置換えを要求していったらどうですか。
望月勝美(神視障守る会・執行委員・女性) 馬渡さんの話を聞いていると、がっかりしてしまいます。みんなが今までこんなにがんばって運動してきたのをどう思っているのですか。この回答は運動の中で得られた素晴らしい成果です。この成果を確実なものにするためにも馬渡さんは職場復帰すべきだと思います。
高嶋 馬渡さんは、自分がいいと思った仕事でなければ復職しないというけれど、これは運動をいっしょうけんめい支えてくれた人たちのことを考えないエゴだと思う。三療配置を短期決戦でたたかうということで、とりあえず職場復帰したらどうです。
大谷 馬渡さんの気持を考えれば、回答はたしかに腹立たしいものです。でも、復職したらすぐ辞めるという戦術では、結局は運動が挫折したと同じです。こういう戦術は取るべきでないと思います。
鈴木三郎(神視障守る会・執行委員) すぐ辞める事を前提にした職場復帰は良くないと思う。税関案内所などに復職したうえで、馬渡さんの気持を充分尊重しながら、三療をやらせろと運動を続けてゆく。その結果どうしてもうまくいかず、職場を辞めざるを得なくなったとしたら、これはやむをえないと思いますが。しかし、いずれにしても早い時期に決着をつけるような運動をする必要がある。
中田一夫(全税関中央執行部・書記長) 全国の身障者の希望を担ったたたかいであるわけですから、これらを考えて方向を決めてほしいと思います。戦術についてですが、職場復帰してすぐ辞めるというのでは、組合員は納得しないでしょう。しかし私は何よりも馬渡さんの生活がどうなるか一番心配です。いきなり開業しても、生活が破壊されてしまう恐れが充分あります。馬渡さんにとっては不満もあると思いますが、復職すれば皆といっしょに賃金も受け取れます。生活もいちおう安定するでしょう。 職場の仲間もみんなで馬渡さんを大切にし支えてくれるでしょう。横浜だけでなく神戸や大阪の税関の仲間も馬渡さんの話をぜひ聞きたいと言っているし、全税関全体で支えてゆけると確信しています。税関案内所などに職場復帰し、その上でたたかいを強めるならば、税関当局としては名目上は別としても、三療師としての働く場を何らかの形で保障せざるを得なくなります。今、馬渡さんの一生の問題を決めようとしているのですから、その点から大切に討議してほしいと思います。
前田 豊(脳性マヒ者) 中田さんの言った通りだと思います。ここで運動をやめてはいけない。もし馬渡さんが職場復帰してがんばっていくなら、僕たちもいつかは官庁で働くことができるようになるし、僕たちの労働権も守られるようになる。僕たち脳性マヒ(CP)の者は、どこでも働かせてくれないけれど、馬渡さんの職場復帰は僕たちに展望を与えてくれます。
馬渡 私は電話交換や案内所の仕事をやろうという意欲は持っていないのです。 しかし皆さんはとにかくがんばって職場復帰しろとおっしゃいます。どこかで妥協しなくてはならないと思います。職場復帰しますから三療配置のたたかいは短期決戦でいきたい、そう長い期間がんばりきれないと思います。私は三療の仕事ができる見通しがなければ復職できません。
鈴木 たんなる妥協で復職したのでは困る。みんながいろいろ言うから仕方なしに復職したというのでは、かえって不信感を残すことになる。
高嶋 自分と支援会議の間で妥協すると言うのはおかしい。われわれは馬渡さんの将釆と生活を考えて真剣に討議しているんだから、他人事みたいな言い方をされても困る。
黒岩−−−(涙声で)−−−馬渡さん、われわれがこれほど言ってもわからないのか。馬渡さん、仲間を信頼してほしい。われわれも組合も馬渡さんをけっして職場で遊ばせるような事はしない。 目が見えなくても、ちゃんと仕事ができるように保障させる。三療へのたたかいもやる。馬渡さんの復職は、組織を持たない全国の障害者に生きる希望を与えるものだ。馬渡さんここでかんばれっ・・・
馬渡−−−(一同沈黙する中、しばらく考えている。しばらくして静かに語り始める)−−− 私にとっては余りにも情報が不足していた。 私には税関の職場がどんなになっているのかよくつかめない。中村君から聞いても実感がよくつかめない。私は職場へ戻るのがとても不安なのです。私が失明して職場を離れた頃、税関では全税関組合員に対してさまざまないやがらせと弾圧がありました。今はかなり好転していると聞いているけれど、私が職場に入ったら何をされるかと思うと恐ろしい。私が復職してもほとんど仕事を与えてくれず、必ずいびり出し政策をやってくるように思えてなりません。今まで当局が私にやってきた辞職強要を見れば想像ができるような気がします。それに、眼をやられて職場を永い間離れてきたわけですから、改めてそういう仕事をするといっても、前の知識では役に立ちません。
三療ですべてをやっていくと考えてきたのに、今になって突然事務的な仕事をするといっても・・・(しばらく無言)・・・私は、税関に一ヵ月だけ出勤して、それから辞めようと考えてきたけれど、狭い視野の中で考えた安易な結論だった。全税関や守る会、それに支援会議に結集してくれた皆さんが、私のことをそんなに真剣に考えていてくれているとは知りませんでした。 皆さんが今度の回答は私にとって万々才ではない。職場に帰っても見殺しにはしないと言ってくれたことで、気持がわかりました。私は今まで「職場復帰はするが、いずれ近いうちに辞めるから」と、当局に回答するつもりでした。でもそれは間違っていました。私は今度当局に対して「職場には戻る、しかし三療をやらせるまでたたかう」と言います。私は税関案内所に職場復帰しようと思います。皆さん、これからもよろしくおねがいします。
それまで、馬渡さんの一言ひとことを喰い入るように見つめていた全員の表情に、ホッと安堵が流れた。しばらく誰からも声がなかった。・・・やがて、あちこちからすすり泣きが漏れ始めた。よかった! 出席者全員の五時間に及ぶ激励と誠意が、かたくなな、不安に閉ざされた馬渡さんの心を開き、職場復帰を決意させたのだ。そして珠玉の成果をものにした喜びがその涙であった。
奥さんの話
三月十五日、センターに来た影井人事課長等に対し、馬渡さんは「税関案内所に職場復帰する」と伝えた。復職の日は四月二十二日、月曜日と決まった。この日馬渡さんは三年間すごした国立東京視力障害センターから離れ、自宅へ帰ることになっていた。失われた眼に替わって、はり灸マッサージに一生を託そうと、精神力のすべてを注ぎ込んだ勉学の日々に名残はなかった。後輩は春休みで、同期の仲間は抱負を胸に故郷に旅立ち、広いセンターの中には人影がなかった。引っ越しには、守る会の岩元会長、氷見副会長、寺内幹事が手伝った。職場復帰を決意した馬渡さんは、これまでのツキが落ちたかのように明るかった。三月十七日、全税関横浜支部の支部長・麻生捷二と副支部長の和久野宣久、それに私の三人で馬渡さんのお宅を訪問した。奥さんを交え、これまでの想い出の数かずが語られ、これからの運動の方向、決意などについてなごやかに話し合われた。
奥さんにとって、馬渡さん失明後の五年余の歳月は、苦難と試練の毎日であったに違いない。「結婚して三年目に主人が失明したとき、私は一時どうしたらいいか茫然としました。でも、よく言われるような離婚なんていうことは全く考えてもみませんでした。私自身も若い頃胸を患って片肺がないんですもの、同じ障害者として支え合っていくことは当然でしょ」「主人が休職になって給料も三万円足らずしか出ないし、何とか生計を立てなくてはと琴を教えるようになったのですが、最初はお弟子さんも少なく安定しないので大変でした。貯金もみんな使い果たし、それこそ生きているだけという時もありましたが、私は余計な心配を掛けてはいけないと思って、主人にはけっしてお金のことは話しませんでした。」「昨年の暮には、人事課長さんから「開業する場所は見つかりましたか!」なんていう電話が毎日のように来て、針の山を歩くようなつらい思いをしましたけれど、中村さんや岩元さんなどに励まされて耐えてきました。でも、職場に戻ることが決まった今になって、いっしょうけんめいがんばった甲斐があったと、しみじみ感じています」。
馬渡闘争は、この心優しくも逞しい奥さんの援助がなければ、成功はおぼつかなかったであろう。明るい灯のもとで交わすなごやかな語らいに、馬渡さんの話もつきなかった。
最後のたたかい
職場復帰が決まったとしても、税関案内所の職場は決して馬渡さんの本意ではない。「馬渡さんを税関診療室のはり灸マッサージ師として配置せよ!」という運動をさらに強化することにし、全税関中央もそれをステッカーに印刷して、全国の税関に送った。横浜支部は、三月二十五日に予定していた組合員差別是正・公平人事を要求する座り込み行動に「馬渡さんの三療師配置」を重点要求として取り入れ、支援会議にも応援を求めた。その日横浜税関前には、百数十名の組合員とともに、馬渡さん、神視障守る会、ベーチェット病友の会の仲間たちが座り込んだ。神戸税関の馬渡守る会からも、はるばる加藤不二男さんが駆けつけてくれた。動員された当局側職制による中止命令と怒号、はげしい妨害の中を、われわれは馬渡さんを中心に三療復職を要求して整然と座り込みを続けた。市川邦也支援会議議長を先頭とする代表団が庁舎に入り、税関当局と交渉を行った。
「三療師を税関に置くと国民感情に反すると言っているが、それは一体どういう意味か」「関係省庁と協議したというが、税関当局はどのような意向を持ってのぞんだのか」「馬渡さんの希望がどこにあるのかこの場で言ってもらいたい」等々の追及に、当局はまともに答えられなかった。馬渡さんも発言した。「案内所に配置するという回答は、私が長続きしないということを期待して出したのではないか。私は喜んでそこに戻るわけではないが、職場復帰する以上は仕事もしっかりやりたいと思っている。研修も保障してほしい。しかし三療師に配置するまで何年でも要求していく」 当局は「十分に承っておきます」と答えたものの、三療の仕事をやらせるとは最後まで言わなかった。あとは税関案内所に入ったあと、ねばり強く運動を続けるばかりである。職場復帰の準備も着ちゃくと進められていった。四月九日全税関横浜支部は、横浜税関長に対してつぎの要求書を提出した。
馬渡さんの復職にあたっての要求書
馬渡藤雄氏は、貴殿等の尽力と税関職員、全国の身障者その他多くの人びとの支援を受けて、来たる四月二十二日より横浜税関に復帰することとなりました。全盲という大きなハンディを持って復帰するわけですから、通常の人とは異なった各種の配慮を行わなければならないことを、貴殿もよく知っていることと思います。つきましては、左記の事項について実現されることを要求いたします。
記
一、通勤に便利な老松宿舎に入居させること(注=老松宿舎は税関から徒歩二十分程の所にあって、バスの便もよい公務員住宅)
一、復職後ただちに研修を行い、職務遂行に徹することができるよう保障すること
一、勤務するに必須の条件である文書口読、その他の介助をする体制を作ること
一、執務するにあたり、通達、法律等をテープレコーダーに録音し、また、必要に応じて点字に訳して常設しておくこと
一、本関はもとより新港合同庁舎、山下埠頭出張所などについて案内を徹底し、本人が一人で自由に歩行できるよう環境認知を保障すること
一、税関職員全体に対し、盲人に対する配慮エチケット等を教育すること
一、人事院規則九ー八、第四十四条に基き、復帰後ただちに病休、休職中の期間の三分の一を、勤務したものと見なし号俸調整を行なうこと
一、入居した宿舎及び本関に最も近いバス停留所に、点字ブロックを設置し通勤を独力でできるよう保障すること
一、馬渡氏をはじめ病弱者等のために、休憩室を本関に設けること
一、税関に「はり灸あんまマッサージ指圧」の部門を設置し、職員の健康管理をはかること
一、当面、希望者に勤務時間外、休憩室において「はり灸マッサージ」等の施療ができるよう、左の設備を取り揃えておくこと
1.ベッド、シーツ、枕、毛布、タオルケット
2. カーテン、ソファー、脱衣カゴ、消毒用具
一方、運動を支援してくれた団体や個人に礼状が発送され、近い所には組合員が直接行って、遠い所には電話で御礼を述べた。四月十八日には、税関近辺の通勤者に八千枚のチラシを配って復職の報告と感謝を表明した。守る会は「理解してください。眼の不自由な人に対するエチケット」という十五項目の注意を書いたチラシを、職場の全員に配布した。
職場復帰を二日後にひかえた四月二十日、盛大な祝賀会が開催された。共に苦労を分け合った全税関労組の組合員、神視障守る会の仲間たちをはじめ、これまで数かずの支援をしてくれたたくさんの労働組合や障害者団体、政党の代表などが席に付いた。誰の顔も明るかった。高嶋昭の司会で進められた祝賀会には、冒頭、開会のあいさつに市川邦也・馬渡支援会議議長が立った。うれしさから言葉も涙にとぎれがちであった。次つぎに立って祝辞を述べる誰しもが、力強く、そしてやさしく馬渡さんを激励した。やがて、酒が入り余興も披露されるにいたって、会場は熱気と笑いにつつまれていった。馬渡さんの声も喜びと決意にあふれていた。
「皆さんこんにちわ、おかげさまで、あさってから出勤することになりました。この六年間いろいろ迷ったりあるいは悲観的になったりしたとき、多くの皆さんが支えてくださいました。この支えによって、今日まで私もどうやらがんばってこれました。こんどは職場の方へ帰れば、皆さんと常に顔を合わすことができるし、もっともっと支えられる、その点で非常に心強く思います。今までは皆さんにお世話になるばかりだったんですけれども、これからは私自身が少しは皆さんのお手伝もしたいと考えています。このように、障害者がおおやけに職場に帰れるということですけれど、こういうことは私がほとんど最初ではないかと思います。私が職場に帰って、ここにいらっしゃる皆さまはもちろん、第二組合の方がたとも職場で障害者に対する正しい認識を持っていただく、正しい理解をしていただくことが、私に課せられた使命ではないかと思っています。その事と同時に、私は三療で働きたいということを、最後まで断固要求していきますので、どうか皆さん今後ともよろしく御支援のほどお顔いいたします。今日お集まりの皆さま、ほんとうに氷い間ありがとうございました」
初出勤
税関当局は馬渡さんの復職にあたって、税関案内所をそれまでの二階の大部屋から、一階正面玄関脇に一室を独立させた。所長の高松秀夫氏が介助と業務指導にあたることになった。点字器とテープレコーダーが用意され、電話も盲人用に改装された。そして机と椅子、個人ロッカーとソファーチェアまで揃えられた。
春とはいえまだ肌寒さの残る曇り空、四月二十二日の朝である。横浜税関玄関前には 〃馬渡さん職場復帰おめでとう〃と書かれた横断幕が掲げられ、数十名の組合員と支援会議の仲間たちが集まっている。やがて、大勢が見守るうち氷見副会長に付き添われた馬渡さんが姿を現わした。ピッタリとした背広、赤いナップザックを肩に、初出勤を一歩一歩かみしめるように歩いてくる。 出迎えの間から期せずして拍手がわき起こる。わっとばかりに取りかこみ握手を求める者、肩を抱く者、激励の言葉の数かずが馬渡さんを包む。地元テレビ局のカメラがそれを追う。
初出勤歓迎集会が始まった。「馬渡さんの職場復帰は、自分のことのようにとても嬉しくてなりません。六年ぶりの出勤、本当におめでとぅ。これからもつらい事がたくさん起きるかと思いますが、その時にはいつでも言ってきてください。私たちは馬渡さんが安心して働けるよう見守ります。がんばってください」。短い言葉の中に市川支援会議議長は、万感をこめて激励した。 「本当のたたかいはこれからだと思います。私たちはどんなことがあろうと、必ず馬渡さんを守り抜きます。皆さん、これまで寄せられた数かずのご支援、大変ありがとうございました。馬渡さん、がんばって働いてください」全税関横浜支部、麻生支部長の感謝と決意のことばである。あいさつの一つひとつに顔を向け、じっと聞きいる馬渡さんの晴れやかな顔、喜びを隠しきれない組合員たちの笑顔。
失明してから五年半、職場復帰闘争を開始してから三年半。氷い月日であったが遂にわれわれは成功をおさめた。「メクラが税関で仕事をする? そんなパカな!」「目の見えない者の職場復帰闘争なんて非常識だ」「理想かもしれないが実現は不可能だ」などと言われながら始めたたたかいであった。幾多の障壁に直面しながら、一つひとつ着実に突破しここに至った。組合員の暖かいヒューマニズムとねばり強い信念、そして視力障害者を初めとする幅広い支援の輪は、不可能を可能に変えたのである。−−−
歓迎集会が終わった。玄関の重い鉄の扉は広く開かれていた。雲間から日が射し始め、人ぴとをホッと暖さが包む。やがて、馬渡さんは白杖を右手に持ち替え、またも起こる拍手の中、五年半ぶりに取り戻した職場に向かって、その第一歩をふみ出した。
[続く]
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