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エピローグ
かくして、馬渡闘争は終結した。職場復帰は成功したが、この運動に弱点が無かったわけではない。 視力障害者の仲間たちから再三指摘されてきた馬渡さん本人と運動とのかかわりの問題がそれである。みずから復職闘争の中心に居ながら、しばしば受け身で労働組合に引きずられ、ようやくついてきたという印象がいなめない。「職場に戻る運動なんて、やるだけ無駄だ。現在の社会で実現するはずがない」「ただ視力障害センターに入って三療を習得するまで身分が守られ、生活が保障されればいい」といった言動が事あるごとに出され、時には税関当局にさえ「センターを卒業したら辞職して開業する方向で考えてみたい」と言って足もとを見すかされることもあった。一方、私たちも、ともすると馬渡さんを置き去りにし、運動だけが先行する傾向が続いた。
原因はいくつか考えられるが、後に馬渡さんが語るところによると、「当時、自分が失明したことの不安がいっぱいで、もうみんなとは全く違う世界にきてしまったという淋しさ、孤立感、絶望感なとで誰もかれも信じられない気持だった。だから組合がはたしてどこまで自分の事を考えてくれるのか疑問で、結局は、自分の道は自分で切り開かなければならないと思った」そうである。組合執行部にとっても障害者の問題を扱った事は初めてであり、「気の毒な思いをしている馬渡さんに、さらに運動の負担を負わせては悪い」という過ぎた気遣いがあり、彼にできうる活動をあまり割り振らなかった。さらには、国立東京視力障害センターが横浜税関から二時間半という遠方にあり、運動の進め方について馬渡さん共どもじっくり話し合える機会が非常に限定されたことも、これに輪をかけたといえる。
しかし、特定個人の問題を組織的に解決しようという場合、本人自身の主体性を中心にすえ、その意見と創意を常に運動に盛り込み、その人のできうる最大限の行動とともに、組織全体が行動するというのが原則である。いくら本人のためになるからといって、その主体性を無視し組織が勝手な方針をつくり行動するなら運動は必ず崩壊してしまう。 これほど極端でないにしても、馬渡闘争の中にはこうした重要な教訓も含まれているように思う。復職後、馬渡さんはとても明るくたくましくなった。昼休みには組合員の仲間と腕を組んで山下公園を散歩し、組合の集会にも出席する中で、真の連帯と仲間の友情を感じたのであろうか。現在彼は、視力障害者の若い人たちの相談相手としても人気があり、よく鍼灸の理論やらさだまさし論、はては猥談などをして皆を笑わせている。
馬渡さんの職場復帰が税関の職場内に与えた影響は、はかりしれないものがあった。それまで働いていた他の障害者の人たちが非常に明るくなったこと、胸を張って職場内を歩けるようになったことである。そしてまた、税関で働く多くの人に「いつ自分が障害者になっても、首にならず必ず職場復帰できる」という、大きな安心を与えた。 つぎに紹介するのは、神戸税関のK氏から寄せられた手紙である。「小生実は明日午後左眼の手術をするため、本日入院しベッドの上で書いているわけです。二年前に発病した緑内障がその後三回ほど発病しており、その再発防止のため、と言っても本当に防止できるか一時しのぎに過ぎぬかは、神ならぬ身、ただ最善を尽すのみです。それにしても、二年前同じこの病院に入院した時は悲槍なものでした。三男が生後四ヵ月の時でしたが、失明したらどうしようという不安を消し去る事はできませんでした。 しかし、今度の入院では違います。友人が「眼を手術すると言うのに平気で笑っている」と言いましたが、僕の心の支えには今馬渡さんが居るからです。最悪の場合でも妻子を養っていける目処がつく。これほど労働者に強い励ましがあるでしょうか・・・」
これまでの運動をふりかえってみると、税関当局は極悪非道の鬼かのごとく登場してくる。事実はその通りであるからいたしかたないが、当局側が必ずしも馬渡さん個人に対して悪意を抱いて対処してきたわけではなかったようである。奥さんが税関へ給料を受け取りに行くと、人事課長が勝之ちゃんを屋上まで連れてゆき港の船を見せてくれたり、奥さんの税関への就職(非常勤)を真剣に考えていてくれた事も事実である。ただ税関上層部の人たちにとって、全盲の視力障害者が自分たちの職場で共に働くなどという事は想像をこえた要求であったらしい。彼らの常識から得られた結論は、職場復帰などして何も出来ないつらい思いをさせるより、早いところ開業して生活を安定させた方がよいと思ったというところが真相らしい。そうした当局側の結論に加えて、弾圧と差別の的である全税関労組には何としても屈することができないという敵愾心が複雑にからみ合って、あのように醜悪な態度の数かずとなって現われたのであろう。
だが、それが当局の善意から出た発想であったとしても、障害者不在の高圧的な天下りで生み出された施策は、このように本人を苦しめる結果になることを理解すべきである。障害者のために策を為す時には、障害者と共に考え障害者と共に実行する中でだけ、真の解決が得られるということを知ってほしい。
職場復帰その後 馬渡藤雄
税関案内所
職場復帰して早や七年になる、それまでの長い苦悩とたたかいの期間に比べて、毎日職場に通勤する年月は実に早く経ってしまう感じである。当時を思い起こし、また今日までの経過をご報告して、読者の皆さんに働く障害者に対する理解を深めていただきたいと思う。一九七四(昭和四十九)年四月二十二日午前九時、仲間たちに迎えられ、やや緊張した面持ちで玄関から税関本関庁舎に入った。それまで広い二階の事務室の片隅にあった税関案内所を、私の職場復帰に伴い玄関わきに新しい部屋を設けたのである。部屋の前の廊下にはすでに輪出部管理課の管理係長と、高松税関案内所所長が待っていた。急に設営された部屋は新しい机やロッカーが入ったばかりで、なんとなく落ち着かなかった。私のために用意された肘付椅子にはまだポリフィルムがかぶっていた。挨拶を交わしたりする内に、新聞記者が取材にやってきた。
税関当局は、私に対しては意外に気をつかってくれ、直接の上司である高松所長を初め皆親切であった。聞くところによれば、当局は厚生省発行のパンフレットから「あなたの盲人へのエチケット」という項を、抜粋印刷し全ての役付職員に配付していたという。電話には盲人用ガイドを取り付け、テープレコーダーも備え、点字板や、最近では電話を点字でメモする「テレフォン点字メモセット」も購入してくれた。高松所長は関税法を初めとして関係法規や通達などを朗読し、テープに録音してくれたり、昼食時には食堂や喫茶室に同行するなど、非常に親切に接してくれた。税関の手続きは複雑で一般の人の手に負えないため、大部分は通関業者が代行している。そこで税関案内所は、一般市民からの手続に関する質問や照会に対し、電話や面談で説明する。日本人の海外進出や海外旅行が華やかな昨今、毎日色いろな質問が寄せられる。 二、三紹介すると
「台湾へ旅行して家具を購入し、船便で別送したが引き取る方法を教えてほしい」「米国へ柚子と干し柿を送りたいが」「アメリカへ二百万円の金のフルートを注文したが、輸入手続きはどのようにしたら?」「ヨットレースに参加するため、オーストラリアへ行く、手続は?」等々。中には「これから貿易をやりたいが、どうしたらよいか」というような商売の相談も持ち掛けられる。私に即答できない場合は、相手方の電話番号を録音しておいて、後で調べて返事をすることにしている。仕事の面で困ることはほとんどない。このような相談業務は視力障害者にも充分こなせる仕事である。税関案内所は市民からも好評を得て、八〇年七月からこれを格上げして「税関相談官室」とし、三名で担当することになった。
通勤について
復職に当り、最も困難な課題が通勤の問題であった。幸い当時私が住んで居た公団の公田町団地に組合員のT君、F君が居り、朝一緒に出かけ国電本郷台駅から京浜東北線に乗る。彼は途中の根岸駅で下車するが、私は桜木町駅で降りる。改札口には労働組合が当番制で決めた仲間が出迎えてくれ、そこから十五分の道のり税関まで歩くといった具合に、ガイドヘルパーのリレーによって出勤する。帰りもまた桜木町駅まで送られ本郷台駅で降り、一人で市営バスに乗って帰った。団地では時に階段を間違え他の家のブザーを押すこともあった。私はいつまでも通勤を仲間に頼るようではいけないと考え、自宅と桜木町駅間の往復は自力でやれるように努力し、その甲斐あって一ヵ月後には出来るようになった。また、昼休みには税関から桜木町駅まで歩行訓練に励んだ。
宿舎入居のたたかい
このように複雑な通勤をいつまでも続けるわけにはいかない。私は復帰が決った時からなるべく税関に近くて交通の便の良い公務員宿舎に入居したいと考え、組合の仲間たちに調査してもらったところ、横浜市内の野毛山公園の近くにある公務員宿舎、老松住宅が最もふさわしいということが判った。宿舎から徒歩七分でバス停へ、パス十二、三分で税関近くのバス停で降りる。そのうえ、行き帰りのバス停とも、二系統のパスしか通らないので乗車する時、いちいち行先を確めることも少なく楽である。私と組合は職場復帰以前から、老松任宅への入居を再三当局に要求してきた。しかし当局からはいっこうに音沙汰が無かった。四月末になってようやく当局が提示した宿舎はとんでもなく遠方でとうてい一人では通勤不可能な所か、またはバスの利用の難しい所であった。税関には県内十数ヵ所、三〇〇余戸の職員宿舎があり、しかもその時老松住宅には空室があったのである。
組合ニュースは毎号この要求を掲げたがナシのツブテであった。組合は全面的な宿舎入居闘争に入った。「団結」の腕章と「馬渡さんを老松住宅に入居させよ」と書かれたプレートを胸に付け、署名運動にもとりくんだ。六月九日の全視協第八回大会は私の宿舎入居とはり灸マッサージ師としての配転を要求する特別決議を採択した。六月十九日、総務課長補佐は、「たとえ空室があろうと馬渡さんを入れるか入れないかは税関の権限であって、他からどうこう言われる筋合いのものではない」と発言、これを聞いた組合員の怒りは爆発した。そして七月九日から五日間、組合史上初の通勤デモが決行された。早朝、通勤客がどっとあふれる桜木町駅に組合員の仲間が集まり、「税関長は馬渡さんを直ちに宿舎に入居させよ」「馬渡さんへのイヤガラセを止めよ」「税関当局は盲人イジメをやめよ」等と書かれたゼッケンを胸と背に付け、私を取り囲んでゾロゾロと税関まで歩いた。道行く人びとは何事ならんと立ち止まり、振り返ってゼッケンの文字に見入った。周りの見えない私は平気であったが、仲間たちはいささかこのサンドイッチマン行進は恥ずかしかったかもしれない。
さらに組合は七月十四日の日曜日を期し東京三鷹市にある税関長宅周囲に宣伝カーを入れ、チラシを配って訴えることを決めた。七月十二日、ここに至って遂に当局は、「馬渡さんを必ず老松住宅へ入居させるからなんとか税関長宅への宣伝は止めてくれ」と申し入れてきた。かくて、十月五日、私達一家は大勢の仲間達に手伝ってもらって、公田町団地から老松住宅へ引越した。さっそく私は中村君に介助してもらい宿舎からバス停までの歩行訓練に励んだ。わずか七、八分の距離とはいえ、坂道を何度も登り下りして二人ともへとへとになった。 また私は横浜市の市民相談室に電話し、「バス停に点字ブロックを付けていただけないか」とお願いした。一ヵ月後往復の乗車バス停に点字ブロックが敷設された。これは今でも毎日利用している。私は通勤だけでなく、はり灸の研究会や障害者の集り等に出かけるため、徐々に一人歩きの範囲を拡大し、やがて老松住宅から桜木町駅、さらに税関まで約四五分の全行程を一人で歩けるようになった。
はり灸師配転要求
私は国立視力障害センターで学んだ「はり灸」に非常な愛着を持っている。それはたんに私が将来の仕事としてだけでなく、「はり灸」の勉強をすればするほど、底の深さ広さに興味が沸ふつと湧いてくるからである。はり灸は職場の健康管理に有用なものであり、病気の予防や健康増進に役立ち、職場に頻発する腱鞘炎や腰痛等の治療にも最も有効である。私は職場復帰に際し、当局に対して「はり灸マッサージ師」としての配置を要求した。また私は組合の集会等で事あるごとにはり灸の素晴らしさを仲間たちに訴えた。しかし、極く一部の人を除いてはそれほど理解しているようには感じられなかった。もっとも昨日までの同僚が視力を失い、わずか三年の勉強で資格を取得した人間に、自分の大事な体を任せてみようという気にはならないのも当然のことであろう。私をはり灸師として税関診療室に配転させる運動は至難の技であると悟らざるを得なかった。私は組合に「診療室への配転は急がなくてもいいから」と申し出た。
障害者運動
復職した翌年から、私は神奈川視力障害者の生活と権利を守る会横浜班の班長として活動することになった。みんなの要求をまとめ横浜市や神奈川県へ陳情や請願にたびたび出かけた。横浜市への要求の中に、「市立図書館を視力障害者が利用できるように録音サービスを実施してほしい」との要求があった。これがのちに全盲の川上正信さんの就職運動に役立つのである。一年有余にわたる私たちのねばり強い陳情、交渉に市従業員労組の協力を得て点字による採用試験を実施させ、川上さんは一九七八年一月、採用決定の通知を受け取った。私たちは皆わがことのようにこれを喜び祝杯をあげた。現在川上さんは市立戸塚図書館で視力障害者サービスの仕事に意欲を燃やしている。七九年四月二十八日、馬渡復職五周年記念集会で、川上さんは「僕の就職運動では馬渡さんは終始先頭に立って活動し、市庁舎へ何回一緒に足を運んだかわかりません。よく電話がかかってきて『君がしっかりしないと周りの者は動けない』と叱られました。これは多分馬渡さん自身の体験からにじみ出て来たものではないでしょうか」と語った。
七七年五月、神奈川視力障害者の生活と権利を守る会等八団体によって「神奈川県視覚障害者の雇用を進める会」(会長・五十嵐光堆)が結成され、神奈川の視力障害者の雇用拡大の運動は大きく前進するのである。私は幹事としてこの運動に加わり、厚い壁に少しずつ穴をあげるたびに生甲斐を感じている。私たち横浜班は横浜駅のホームや階段に点字ブロックを敷設してもらうために、国鉄や私鉄に陳情し、県議会に請願書を提出し、約一年後に要求は実現した。これらの活動のため私の有給休暇はその大半を消化してしまった。もちろんその成果は私一人の力ではなく、多くの仲間たちの協力によってかち得たものである。
私の家族とマンション
私の家族は、妻敏子と長男勝之の三人である。妻は幼児からお琴を習い、結婚後間もなく免状をもらった。看板を出し、ぽつぽつ教えていたが、私が失明してから俗にいう「芸が身を助ける」で、本腰を入れることになった。全税関の仲間たちは「お琴の教室」の看板をもっと増やし、近所にチラシを配ってくれた。 以来十二年、当時のお弟子さんたちは今でも通ってきてくれる。妻は、よほどお琴が好きとみえて稽古に余念がない。生甲斐が子供だけという人が多いが、主婦が何か打ち込むものを持つことは大変良い事だと私は思っている。七九年五月、国電鶴見駅の近くに念願のマンションを購入することができた。線路の際で環境は必ずしも良いとはいえないが、私が通勤するに便利な場所というのが最大の魅力であった。妻も、私が職場復帰できたおかげだと喜んでいる。3LDKと結構広く妻の稽古場も確保でき、私も好きな音楽を楽しむステレオを置く部屋が与えられた。
失明した翌年生まれた勝之はもう十一歳、小学校六年生である。毎朝手をつないで鶴見駅から電車に乗り桜木町駅まで行って別れる。これまで学んできた本町小学校に、私の特殊事情から学区外通学を許されたのである。勝之が生まれた当時、オムツの洗濯は私の役目であった。ミルクも工夫して飲ませたが、離乳食は手に負えず近所の奥さんに頼んで食べさせてもらった覚えがある。勝之が歩き始めるようになると、安全ベルトに紐をつけて砂場に連れて行き遊ばせた。失敗も数限りなくある。妻が出張稽古で留守のとき、ミルクを飲ませようとして乳首をはずした哺乳瓶に気付かず、子供の顔から胸へぶちまけてしまったことがあった。私は育児に忙殺されて、失明したことをクヨクヨ思い悩む暇がなかったことは、今思えばかえって幸いであった。この点では子供に感謝しなければならないと思う。
差別
税関当局による全税関組合員差別は、今なお執拗に続けられており、組合員というだけで役付昇任や昇格を故意に遅らせるなどといったいやがらせが行なわれている。 私の場合も、職場復帰以来七年も経つ現在今だにヒラ職員に据え置かれている。 同期に税関に入った同僚は組合員を除いてすべて課長かそれ以上となり、私との年収は一〇〇万円以上の差ができている。 組合員でさえ同期の仲間は皆審査官(係長相当)に昇任しているにもかかわらずである。病気や失明で休んだ期間を考慮したとしても、当局は明らかに私を「障害者である」という理由で差別している。二重の差別である。
当初、私は職場復帰できただけでも恵まれたことで、その上昇任や昇格を要求するなどということは、大それた願いではないかと考えていた。他人が次つぎに昇任や昇格をし、給料もどんどん開いてゆくのを淋しく思いながら耐えていた。しかしやがて、これを是認してよいのだろうかと思うようになった。これは私ひとりが我慢すれば済むという問題ではない。これからあらたな職場に進出する障害者全員のあり方にかかわることである。私が復職した年の六月、全税関横浜支部と一〇〇余名の組合員は、組合員差別是正と約一億円の損害賠償を請求する訴訟を起こした。その裁判で、最近にいたり当局は、差別の理由を、「組合活動によるもの」とひらき直っている。ここ数年、組合は私の昇任昇格の早期実現を再三にわたって要求してくれている。しかし当局は、「障害者差別ではない。国家公務員法と人事院規則を適正に運用してきた結果である」との決り文句で逃げている。私は一人の公務員労働者として、また障害者として今後の人生を誇りあるものとして生きてゆきたいと思っている。
あとがき
一九八一年は、国連によって国際障害者年と定められ、今後十ヵ年にわたる「障害者の社会への全面参加と平等」をめざした行動実施の初年度にあたる。国連は障害者の雇用促進を最重点課題のひとつとして提起している。しかし、日本における障害者施策は、欧米に比べても極度に貧しく、雇用、生活、医療、教育、街作り、施設などそのどれをとっても満足なものはない。なかでも、職業・雇用問題がもっとも立ち遅れている。いまなお、労働者が重度の障害者となったら当然の事として解雇され、それに対する法的歯止めもほとんど無い。障害者がどんなに働きたいと願っても、官民を問わず積極的に採用する所は稀である。たまに重度障害者が雇用されると、「美談」としてマスコミを飾るほど少ないのである。人が生きるためには、なんらかの形で働かなくてはならない。その収入で衣食住をまかない家族の生活を支え文化生活を営む。また、労働は社会発展の原動力であり歯車である。社会的に疎外された障害者にとって、労働は本能に近い願いであり心の叫びである。
一九七六(昭和五十一)年六月、身体障害者雇用促進法が改正され、それまでのザル法的性格が大幅に改められた。民間企業に対しては身障者雇用が明確に義務づけられ、それに反した企業には罰則金(身障者雇用納付金)を課し、悪質な事業主は公表できると定められた。ところが、この法改正にあたって官公庁に関する部分には、全く手が付けられなかったのである。法定身障者雇用率は、職員の一・九パーセントと引き上げながら、民間企業のように「雇用」を義務とするのではなく「採用計画作成」のみが義務だとされている。当然、障害者を採用しなくともなんらの罰則がなく、制裁としての公表も免除されている。率先して障害者を採用し模範を示すべき官公庁がこれでは、民間企業において雇用が進むはずがない。一九八〇(昭和五十五)年六月の労働省統計によれば、民間事業所の身障雇用率は平均一・一三パーセントで、法定雇用率一・五パーセントにはるか及ばず、一千人以上の従業員を擁する大企業に至っては〇・九〇パーセントでしかない。
障害者の雇用は、法律だけに頼っていたのでは決して進まない。組織的な運動が不可欠である。馬渡さんの復帰以後、障害者雇用運動が各地で起こり、京都府、新潟県糸魚川市では中途失明者の復職に成功している。七七年五月には「神奈川県視覚障害者の雇用を進める会」が結成され、県や市へ視障者を毎年採用させるとともに、七九年には全国に先がけて神奈川県職員採用試験に点字で受験することを認めさせた。さらに、県が今後十年間に障害者を二百名以上採用する「障害者採用三%計画」の実施に踏み切ったことも、運動の成果である。七七年七月、全日本視力障害者協議会と日本盲人福祉研究会が共催して「視覚障害者の雇用を進める全国大会」を東京で開催し、それが後に視覚障害者雇用促進連絡会議(初代会長、本間一夫氏〔日本点字図書館館長・全盲〕。現会長、松井新二郎氏〔日本盲人職能開発センター所長・全盲〕に発展した。視障雇用連は、請願署名運動、国会陳情、労働省・厚生省・総理府などとの交渉、全国自治体アンケート、全国集会開催等々、不自由な眼をものともせず盲人の雇用を求めて精力的に活動を展開している。
そして発足以来「障害者を新たに採用するどころか、障害者の免職を認める法律を存在させていることは許せない」と、国家公務員法第七八条第二号の改正を要求し再三にわたる人事院交渉を行なってきた。その結果、法改正までには至らなかったが、七九年十二月に通達を出させることに成功した。「職務に支障をきたす障害者になったからと言って、ただちに免職すべきではなく、障害の程度に見合った適材適所への配置換え・降任その他の措置をとってもなお職務に堪えられない場合に限り免職できる」という内容で、任命権者の裁量にカセをはめたわけである。一定の前進ではあるが、不当な法律の方は依然として今も存続し、しかも通達には、復職に欠かせない訓練や研修を義務付けることが盛り込まれなかった。私は馬渡闘争の中で、労働者にとって障害者問題は決して他人事ではないと痛感した。私たちの住む日本は労働災害、交通事故、薬害、公害、難病、脳卒中などでいつ誰が障害者になるかわからない状況にある。明日はわが身かも知れないのである。
労働組合は、労働者のより働きやすい職場をつくり、より豊かな生活を保障するためにある。同時に、労働者雇用にたいする社会的責任ももっている。とするなら、現に同じ職場で働く「障害を持つ仲間」の労働条件や職場環境の改善、生活確保に取り組むことが、国際障害者年にあたってのたいせつな課題ではないかと思う。そこから障害者の雇用をめざす運動との連帯も築かれるのではないか。障害者問題を自らのものと位置づけたとき、その労働組合の障害者対策は地についたものとなると私は確信する。すでに国公労連、自治労など、いくつかの労組がそのとりくみにかかっている。
本書は、全日本視力障害者協議会の機関誌「点字民報」に連載された「馬渡闘争の記録」をまとめたものである。復職以後の経過については、元気に活躍する馬渡さん本人に書き加えてもらった。
執筆するにあたっては、神奈川視力障害者の生活と権利を守る会の市川邦也、池ヶ谷勝美、鈴木三郎ほか多くの方がたに貴重な御意見をいただいた。上梓に際して全税関労組横浜支部の高嶋昭、岩元秀雄、氷見英治、土屋光昭、辻和也、信夫鉄也の諸氏とは再三の集まりを持ち推敲を重ねた。また新日本出版社編集部の五十嵐茂氏には、数かずの適切なアドバイスをいただき、ようやく出版まで漕ぎつけることができた。発刊にあたり、この場をお借りして、前記の諸氏に厚く感謝の意を表したい。
一九八一年四月
中村紀久雄
中村紀久雄(なかむらきくお)
1940年生まれ
全税関横浜支部元執行委員 神奈川視力障害者の生活と権利を守る会執行委員 神奈川県視覚障害者の雇用を進める会事務局長 視覚障害者雇用促進連絡会議幹事 横浜税関勤務
1981年5月25日 初版
1981年7月30日 第3刷 定価540円
[終わり]