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前田豊


 馬渡闘争の記録の中で、省くことができない人が居る。ここで少しふれてみたいと思う。 これより半年程前のことである。ある日私の妻が「口はよくきけないけれど、すごくしっかりした身体障害者の人が居るんだけど」と、近くに住む前田豊君のことを教えてくれた。 私の家から歩いて一〇分程の牛乳店に彼を訪ねたことから、つきあいが始まるのである。会ってびっくりした。顔をゆがめ、よだれを垂らし、首と上半身をくねくね動かしながら、狼の遠吠えのような「ワオー、ウオーアアー」と大声をあげるのだが、いったい何を言っているのか全く解らないのだ。顔も笑っているのか怒っているのかよくわからない。私は脳性マヒ者と会って話したのは、これが始めてだった。てっきり、前田君のことを精神異常かと思った。だが、落ちついて聞くと、どうやら言葉をしゃべっているようである。私は何度も何度もきき返し、彼も同じことを何度も話して、そしてどうやら通じるようになった。そしてまたまたおどろいた。彼の話していることは全部まともなのだ。
「中村さんよく来てくれました。中村さんが馬渡さんの職場復帰運動をやっていることはよく知っています。僕たちのような脳性マヒになった人はたくさん居ますが、みんな就職はとてもむずかしく、ほとんどの人は親に養ってもらっています。馬渡さんが職場復帰できなければ、僕たちはいつまでたっても官庁には就職できません。僕にもできることがあったら、何でもやるから言ってください」。感激の連続だった。私は大変な誤解をしていたのだ。話すうちに、彼の地についたしっかりした物の考え方に引き込まれてしまった。「誰でもが障害者に対しては誤解していますが、やがては必ずわかってくれます。けっしてあせってはいけません。障害者の解放のためには、誤解を一つひとつ取り除きながら、労働者やもっと広い人たちとの連帯とねばり強い運動が必要です。そして、運動の中ではけっして感情に走ってはいけません。こんな身体でも、自分にできるせいいっぱいのことを追求していきたい」といったことを、大変な長い時間をかけて語ってくれた。
前田豊君は、一九五二(昭和二十七)年に生まれた。一歳の頃高熱をともなう病気で脳性マヒとなり、十二歳まで一人歩きすることが全くできず、家の中を這い廻るだけが彼の世界だった。彼の障害は激しく、両手足ともほとんど力が入らず、言語障害もひどかった。家の中でじっと坐っていることも困難であった。学齢になったが、どこの小学校も入学を認めてくれなかった。以前教員をしていたお母さんは、たった一人の生徒の教師として、カリキュラムを組み、息子の教育にたずさわった。中学校も、両親が県知事に嘆願書を書いて訴えたが、すべて入学を拒否された。ようやく養護学校に入学を認められたのは十四歳の時で、学力評価の結果中学二年に編入された。この頃、両親は豊君の将来のために牛乳店を開いた。 卒業後は、障害者福祉授産施設に入り、後に自宅の店の経理を担当し手伝うことにした。自分の自由にならない手先を訓練して、ソロバンをものにした。和文タイプも何とか打てるようになった。
前田君は、馬渡闘争を自分のことのように考えてくれた。署名用紙も大量に引き受けてくれた。不自由な口で知人に電話をかけ、不自由な手で手紙を書き、不自由な脚で友人の家へ出向いて訴えてくれた。戸外を歩く時には松葉杖を使うが、手足に力が入らないので杖にすがって歩くという感じである。駅の階段では、手すりがあればそれにしがみついて一歩一歩ずり上がるようにして登り、手すりのない所では階段を這いずって登る。こうして毎日、署名用紙と訴え文を入れたナップザックを背に署名を訴え続けた。こうして集められた署名は二〇〇名分を越えた。彼の集めた署名用紙はすぐわかる。不自由な痙攣を続ける手でつかむので、くしゃくしゃのしわができているからだ。貴重な署名であった。
署名はこうした無名の人たちの手で、深く広く浸透していった。ある組合員は子供の病気治療で病院へ行ったついでに、そこの労働組合を訪ね訴えた。別の組合員は、町内会の会合の席上、特に発言を許してもらい署名協力をよびかけた。ある視力障害者の仲間は、治療院の待合室に署名用紙を置いて、患者の一人ひとりに協力をお願いしたという。高知県から送られてきた署名用紙にはつぎのような手紙がついていた。「たった一枚手に入れた署名用紙でしたが、これを複写印刷して、大学の中に訴えました」  「守る会」と「支援会議」の活躍は、運動を急速に高め拡げていった。
全国に発送された訴えの手紙は、たちまち反響をよび、各地から署名と手紙が送られてきた。七人の市長、各党から二六名の国会議員、たくさんの学者、文化人、弁護士の方々、労働組合、障害者団体、学生、ボランティア、盲学校教師、施設職員・・・それこそ北は北海道から南は沖縄まで、全国の津津浦々人びとによる署名と激励の手紙が、連日、続ぞくと送られてきた。十一月に入ってまもないある日、つぎのような手紙が届いた。「前略、御免下さい。御多忙中にも拘わらず、御手数御同情を戴き深謝致します。愚息一家、死活の問題でありますので何分宜しくお願い致します。些少ですが封入致しました。切手代の一部にでも御利用下さい。請願書は別封送付致しました。藤雄父母」 宮崎県に住む馬渡さんの年老いた両親から寄せられた万感こもる手紙であった。


脱落攻撃と動揺


 こうした運動の高まりに対して、当局側の取った態度はただひとつ、馬渡さん本人に対する集中攻撃であった。その第一回は、守る会結成から三週間を経た九月二十日である。総務部の鎮目税関考査官と他一名が視力障害センターに馬渡さんを訪ねてきて、「最近守る会を作って職場復帰を要求しているようだが、昨年の約束のことはおぼえているだろうね」と、いきなり突いてきたのである。約束というのは例の誓約書のことにちがいなかった。「ちゃんとした約束があるのだから、それを守ってもらわなくては困りますよ。まあ、当局としても、できるだけのことはするつもりではいるけれどね。勝手なことをされると、こっちも考えなくてはならないことがあるのでね」それから、やおらほこ先を変えて、「馬渡さんはどこかへ行くのですか?」と聞いてきた。(中村君が行くと言っていた関西オルグのことに相違ない。そうかそれに私も行くのかとさぐりに来たのか)−−−いや、どこにも行きませんよ−−−「君は、病気休暇ということになっているのだから、あまり変わったことをすると、国家公務員法違反ということで処分されることもあるから、気をつけてくださいよ」。
税関から遠く離れた国立東京視力障害センターの中で行なわれるこうした行為は、馬渡さんにとって、それは激しい圧力となって受け止められた。税関当局者の一言一言が、胸にひびいた。第二回は、十月二日であった。同じメンバーが来て同じようなことをくり返した。そして「おとなしくしていれば悪いようにはしない」と言った。第三回は、十月二十四日。第四回は、十一月五日、この日は、人事課長の影井、それに税関考査官の鎮目の二名、「馬渡さんが税関に復職しても、ポストがありませんよ。いったいどんな仕事で働くつもりですか」−−−私たちが要求しているでしょう。税関の診療室で職員の健康管理の仕事をしたいんです−−−
「そんなこと前例がありませんし、実現の可能性もありませんよ。それに診療室で働くとしたら、これまでの一般職(事務職)でなく医療職の俸給表に切り換えることになりますがね。そうなると新規に採用されたと同じ賃金になり、今までの半分くらいに減らされてしまいますが、それでよろしいですか。退職金も半分になってしまうし、年金も減ってしまいますよ。こういうことを承知していて要求しているのですかね。組合は、あなたをただ職場復帰させて自分の名を上げようとしているから、こういうことは言わないでしょうがね」「悪いことは言いません。職場復帰なんて考えず、開業しなさい。できるだけ援助をしますよ」
これまで、何とか耐えてきた馬渡さんであったが、この日ばかりは苦しかった。(税関の中で、賃金関係の最高の地位にある人事課長の言うことに間違いがあろうはずはない。そうか、組合は今まで何も言わなかったけれど、診療室のはり灸マッサージ師として職場復帰すれば、月給が半額に減らされるのか。退職金や年金までとは知らなかった)三療の仕事での復職以外考えられないと思っていた本人にしてみれば、これは重大な問題だった。うつむいて考え込む馬渡さんに、人事課長、考査官の二人は、カサにかかって迫った。「職場復帰なんて考えずに開業しなさい。そうすれば税関としても開業場所やいろいろな便宜も考えてもよいから。必要なら奥さんを税関の職員(臨時職員)として就職させてもよろしい」と、あの手この手で、職場復帰の断念を働きかけた。三療師としての復職に絶望した馬渡さんは、ついに「卒業したら開業の方向で考えてみたい」と答えざるを得なかった。
だが、人事課長の言ったことは、法律をこまかく調べることもできない盲目の馬渡さんに対するとんでもないウソであった。一般職(事務職)の仕事から医療職の仕事に移った場合、その適用される俸給表(給与額の表)が変わるのだが、その場合もし前より金額がさがるようなとき、どうしたらよいかということを、人事院給与局給与第二課長名による通達で、「その者の現に受ける俸給月額より低い俸給月額となる為、人事管理に著しい困難を生ずるおそれがある時は、同細則第二八条の規定により個別に事務総長の承認を受けて、異動後の俸給月額を決定するよう」としていたのである。われわれが人事院に問い合わせたところ、このようなケースで給与額が下げられることはほとんどないということもわかった。
第一、わざわざ勉強して資格を取って復職するのに、給料が半分になるというバカなことが通用するはずがなかった。しかし、情報に乏しく、組合員の仲間から遠く離れているうえ、税関の幹部から脅かされ、常識で考えたら賃金に関する法律について間違ったことなど言うはずがない人事課長の言葉は、馬渡さんにとって致命的とも言うべき働きをしたのである。われわれが、このウソを解明しても、馬渡さんはなかなか立ち直れなかった。私が視障センターに電話しても、「もう運動は終わりだよ」「僕の本当の気持は開業することなんだ」「税関に復帰したって安心して働ける見通しがない」などという頼りない返事が返ってきた。私や辻和也執行委員、大槻中央執行委員がセンターに行って、話をし、説得もした。だが動揺は激しかった。私たちは、馬渡さんに対し、職場に戻ることは自分自身の今後一生の生活を保障するだけでなく、全国の障害者に働く権利と生きがいを勝ち取る大事なたたかいであることを粘り強く訴えつづけた。そして、永い厳しい心の葛藤の末、馬渡さんはまたも立ち上がった。


立場を超えて


 労働組合というのは、労働者一人ひとりがパラバラでは解決しようもない賃金、労働条件、首切りなどの問題を、労働者自身の団結した力でもってそれに当たろうという組織のことである。ところが、税関当局の手によって作り上げられた「横浜税関労働組合」は、それとは全くおもむきを異にしていた。組合の委員長・書記長は必ず係長クラスの役付職員の中から任命され、任期を終わった委員長は間違いなく課長に抜擢された。宿直を廃止させようとか超勤手当が少なすぎるなどといった職場全体に共通する要求があっても、「所属する組合がちがう」という理由で共同闘争を拒否した。配置転換とか首切りなどの深刻な問題については、これまで取り上げたことはなかった。うっかり組合員が幹部に取り上げるよう訴えたりしたら、課長などに締め上げられた。なによりも、組合の内情は税関当局につつ抜けであった。
馬渡さんを守る会幹事会の席上、「横浜税関労組に支援を訴えよう」ということが提起された。そんな無駄なことをやっても意味がない、横労(横浜税関労組のこと)が真面目に馬渡さんのことを考えたり支援したりするはずがないじゃないかなどといった意見が出た。しかし私たちは横浜税関労組の組合員の中で、少なくない人びとが馬渡さんの将来を心配し、カンパを出し、中には奥さんの名前で近所から署名を集めている人のことも知っていた。組合幹部がいかに当局べッタリでも、組合員一人ひとりはちがう、ここに訴えるのだ。話はまとまった。支援要請書を横労に渡すと同時に、その内容を印刷して職場全体に配るのである。その結果もしも支援に立ち上がったら大成功だし、ダメでもともとである。まずみんなに訴えよう。一九七三年十一月十四日、岩元守る会会長等はつぎのような要請書を、横労の委員長に手渡した。

・・・前文略・・・来年三月のセンター卒業をひかえ、本人は「長年勤務してきた税関に三療師として復帰し、近年増加している腰痛、腱鞘炎等職員の身体障害を予防、治療する一助になりたい」と希望しております。私たちは馬渡氏の切実な願いを実現したいと税関当局に働きかけ続けておりますが、現在時点ではセンター卒業と同時に解雇される公算が強いと思われます。四十すぎての職業転換がどんなに苦難に満ちたものであるか想像を絶するものがありましょう。身体障害者になったからといって職場から追い出される事はゆるせません。私たち同じ職場に働く者として出来るだけの支援をしてゆくべきだと思います。貴労組におかれても馬渡氏の職場復帰を支持し、労働大臣あて及び横浜税関長あての署名運動に協力して戴きたくここに要請致します。  馬渡さんを守る会会長 岩元秀雄

 この申し入れに対し、横労の執行委員会の会議において「何とか支援できないか」「うちの組合としても独自に何かできるのではないか、たとえばカンパとかお子さんの育英資金の取り組みなど」の意見が出された。しかし委員長、書記長等は必死になってそれをなだめ、「馬渡さんはうちの組合員でないし、それに全税関とは絶対に共闘しない原則になっているので・・・」と押し切った。執行委員の中には割り切れない思いで帰った人が一人二人ではなかった。十一月二十四日、谷川委員長はつぎのように回答してきた。「馬渡さんの問題は、お気の毒な出来事だと思いますが、なにぶんにも政党色がきわめて強いと判断されるので、署名カンパ運動の御協力はできません。わが労組の組合員が個人として署名する人も居るでしょうが、組織としては協力できません」
 わけのわからない回答であった。「政党色が強い運動」とは何のことを言っているのかわからない。国会議員から寄せられた激励文のことを言っているのだとしたら、見当ちがいもはなはだしいことである。理由はないのである。とにかく支援はしないというだけ。横労の組合員の間から不満の声が上がった。横労の分会長会議の席上、数人の分会長が公然と批判し、馬渡さんへの支援を行なうべきだと発言した。 これはめずらしい出来事だった。これまで分会長会議において、執行部を批判するような言動はほとんどなかったのである。執行部批判はすなわち税関当局を批判すると見なされ、それがたちまち「勤務成績不良」というレッテルになって振りかかってくるのである。しかし声は止まなかった。ある青年は「馬渡さんの支援を拒否するようでは労働組合とは言えない」と組合幹部に喰いつき、方針の再検討を要望した。横労が頑にその態度を固持するのを見たとき、その青年は組合を脱退した。御用組合から脱退するということは、今後の昇進を手ぱなすことでもあった。

 横浜市視覚障害者福祉協会という団体がある。通称「横浜市盲協」といって日本盲人会連合の傘下に入っている。きくところによると、かなり保守的な考えを持っているそうである。馬渡さんを守る会では、ここにも支援を依頼することにした。十一月の末、私は会長の石井新太郎氏の家を訪ねた。治療院を経営していた。 患者の治療をしながら、黙って私の言うことを聞いてくれた。石井さんは、その日は何も支援を約束してくれなかった。あまり質問もしなかった。一週間ほどして、また訪問した。この日は、治療が終わるのを待つように言われて、私は別室でこたつに入って待っていた。しばらくして部屋に戻ってきた石井さんは、「私は、革新はきらいだ。革新は口ばかりでやることを何もしないからだ。だから私は労働組合もきらいだ。保守がいい。保守というのは金がある。言ったことはちゃんとやる」と見えない目を私に向け、しばらくしてから、「けど、あんたの組合は変わってるね。労働組合ってのは、赤旗振りまわしてストライキばかりやるもんだと思っていたけれど、盲人のことをそうやって一生けんめいやるっていうところがあるとはおどろいたよ」
「この前、あんたが帰ってから考えたんだ。それから何人かの役員にも相談した。応援させてもらおうじゃないか。ただし、誤解してもらっちゃ困るんだが、私らは労働組合を応援するんじャないんだよ、馬渡さんを応援するんだからね。署名用紙置いていきなよ」

 神戸税関に馬渡さんを守る会が結成された。十二月一日のことである。守る会会員は結成大会までに六四名が名を連ねたという。その場で、方針、会則が承認され、「馬渡さんに対する激励」と「横浜税関当局に対する要求書」の二つの決議が採択された。ここに馬渡さんへの激励文を紹介したい。

激励文
 昭和四十八年十二月一日、ここ神戸の地に四十数名の仲間が集い、馬渡さんの要求を支持、連帯する神戸「馬渡さんを守る会」結成総会を持ちました。現在、会員数は六十数名ですが総会を機にさらに増加します。総会では「会」の目的、「福祉」、「働くとは」について議論し、馬渡さんが「税関で働き仲間の健康に役立ちたい」という要求を理解することができました。高度経済成長政策のなかで日々「緩慢な殺人行為が行なわれている」といわれているなかで何時われわれ自身現在の仕事を続けていけなくなるようにされるかわかりません。現に職場には、現状の労働に堪えられない人も居ます。 身体障害者雇用促進法には、官庁における基準を示していますが、とうてい実態にあった運用がなされているとは考えられません。政府機関が率先して範をたれ、実情にあった仕事を保障すべきではないでしょぅか。総会に結集したわれわれは、
 一、馬渡さんの要求をみずからの要求として実現すること
 一、身障者問題に目をむけ学習を強めること
 一、馬渡署名を職場の中心になって進めること
 を確認しあいました。また、来春には御夫婦を神戸の地に御招きすることを確認しました。要求実現にむけ幾多の困難がありましょうが、手を取りあって前進しましょう。 昭和四十八年十二月一日 神戸「馬渡さんを守る会」結成総会代表 服部正治

 十二月十日、十一日の両日、東京で開かれた障全協全国集会には、私と市川さんの二人が壇上に立って支援を訴えた。三年前、私が訴えた時はまだ奇特な運動という見方が強かった。だが、今は、全税関労組だけでなく神視障守る会の会長とともに全国の障害者運動と結びついて訴えるに至ったのである。この三年間に、東京12チャンネルの鈴木さんの復職を成功させ、また新たに京都では、一谷先生(中途失明)の職場復帰闘争がたたかわれていた。運動は間違いなく広く、そして深く発展していた。


支援集会


 盛大な集会であった。馬渡闘争のこれまで三年間を通じて最大の人数と、最高の団体が参加した素晴らしい支援集会が開かれた。十二月十五日、横浜の県立勤労会館には、一五〇余名の人びとが集まって、「馬渡さんの職場復帰支援集会」が催されていた。第一番に壇上に立った横浜市視覚障害者福祉協会会長・石井新太郎氏(全盲)は「皆さん、本日は大変ご苦労様です。私は、こうして馬渡さんと席を共にしたことを、心から光栄に存じております。関係者の方がたが馬渡さんを支えて今日までこうしてがんばってこられたことに対し、私からも厚く御礼申し上げます。近年わが国は高度成長をなしとげ多大な進歩をものにしました。しかしながら一方で公害、交通事故などの増大に加え人間性破壊いちじるしく、社会福祉もわすれ去っているのであります。政府の責任もありましょうが、何よりも国民一人ひとりが立ち上がり、不幸な人びとのために総力をあげてたたかわなければなりません。われわれ視覚障害者の力はきわめて弱いのです。ぜひとも多くの人びとの力をお借りしたいと願っています。皆さん、馬渡さんをぜひとも、もう一度税関に戻してあげてください」と、高だかと訴えてくれた。
(ふだんの石井氏を知る人たちはこれを聞いておどろいたそうである。石井氏が労働組合などの集まりに出席したことからして前代未聞の出来事なのに、そこで、こんなにはっきりと支援運動の必要性を説くとは思わなかったという)  集会は、次々と来賓の方がたが壇上に上がって激励とあいさつが行われ、その数は、十五団体に及んだ。記念講演として、永田一視氏(障全協事務局長)に「障害者運動の発展と馬渡さんのたたかい」題する話をしていただいた。永田氏は「障害者運動の中で、この五、六年の動きはかつて見られないほど活発に進められています。そして、教育、生活、医療、町づくりなどはかなり前進しました。ところが、障害者の雇用という問題だけは、政府、大企業が絶対に譲歩しようとしません。こうした中で馬渡さんの運動は非常に重要な意義を持って来るのです」
「日本の身体障害者雇用促進法は、身障者を雇用しなくてもよいようなザル法になっていますが、資本主義国の多くでは、障害者を雇用することが罰則を伴った強制法になっています。ですからイギリスでは、盲学校を出たら、必ず企業で雇用されます。その職種も日本のようにはり灸マッサージだけというのではなく、様ざまなものがあります。障害者に対し、企業の側で適職を開発することが当然の責任になっていますが、日本では、逆に、障害者個人の責任にされ仕事がないからクビだということが当たり前になっています・・・」
永田氏はそのほか、身体障害者雇用審議会答申の分析、リハビリテーションの意義、ILO条約の中の身障者雇用の義務制等々について述べた。税関の仲間が一番関心を示したのは、駅の切符自動販売機の導入は視力障害者にとっては非常に困ることであるが、逆に聴覚障害者には歓迎されているということや、車椅子のための段差解消は視力障害者にとって歩道と車道の区別が無くなり極めて危険であるということなどの話であった。障害者運動の幅広い統一がいかに大切かということがよく理解できたという人が多かった。集会では馬渡さんが決意表明を、私がこれまでの経過の報告と今後の方針を提起し、決議文採択のあと、岩元守る会会長の閉会あいさつをもって終わった。閉会のあとも、馬渡さんに励ましの言葉をおくる人、握手を求める人、写真をとる人などひきも切らず、集会の成功を喜び、これからのたたかいへの決意に燃えた興奮は、いつまでも会場をつつんでいた。


国会での追及、当局を窮地に追いこむ


 馬渡さんの問題を国会に持ち込んで追及してもらおうという声は組合員の中からも強く、組合執行部や守る会でもそれを考えていた。しかし、いつそれをやるか、時期を待っていたのである。これより三年前、馬渡闘争が始められたばかりの頃、こんな事があった。税関当局の不当労働行為を追及してもらおうと、全税関労組の中央執行委員が共産党の小笠原貞子参議院議員を訪問した際、話がたまたま馬渡闘争にふれた。「これも国会で取り上げてもらえないだろうか」という打診に対し小笠原氏はこう言ったそうである。「国会で取り上げることは簡単なのですよ。でも全く同じ問題を二回追及することはむずかしいのです。だから最も効果的にやらなくてはなりません。国会の追及というのは強力なあなた方の運動が幅広く展開されている時だけ、大きな力を発揮するということを知っておいてください。いわば、私たち議員は槍の穂先みたいなもので、いくら鋭い刃であってもそれをしっかりと握って力強く突く人が居なければ、敵への打撃にはならないものです。議会での追及というのは、あなた方にとって運動の一部であってすべてではありません。そういう観点から私たちを大いに利用しなさい。
ほかにも馬渡さんのように苦しんでいる人はたくさん居るのでしょう。ですからこのたたかいの勝利というのは非常に大切なものを含んでいます。まだ時間があります。運動を大きく拡げてから改めて来てください。その時は私たちも喜んで国会で追及させてもらいます。その時から三年過ぎた。運動は数かずの難関を乗り越えて大きく発展した。苦しくても安易に国会には頼らなかった。みずからの力で全国に支援の輪を築いてきた。頃は良し。十一月十四日、私たちは山本政弘衆議院議員を訪ねた。山本氏は日本社会党の教宣局長という重職にあり、国会では社会労働委員を任じられておられる人である。重厚でいかにもどっしりした頼もしい感じの人だった。社会保障関係にはかなり精通されているそうで、私たちが資料を出して説明すると、的を射た質問が次ぎつぎと発せられ、たちまち理解されたようだった。そして近いうちに必ず国会で取り上げて追及することを約束してくれた。
続いて十一月二十九日、私と大槻中央執行委員は、共産党・革新共同の田中美智子代議士の所へ出かけた。田中さんは日本福祉大学の助教授だった人で社会福祉とりわけ身障者問題の大権威者である。五十歳をすぎているそうで、断髪の頭には白いものも見えるのにテキパキとした言葉と、議員会館の中をかけ足でとびまわる姿は、どう見ても三十代である。「三十分しかないから大急ぎで話してね。いっしょうけんめい聞くから」と言いながら、くわしい質問を次つぎに繰り出し、笑ったりなげいたり、たちまち一時間をオーバーしてしまった。社会党の山本氏に渡したのと同じ資料を出して説明し、国会での追及をお願いした。快く引き受けてくださり、これもまた近いうちに衆議院社会労働委員会で取り上げることを約束してくれたのである。
 それから半月たった十二月十七日の午後、田中美智子議員の秘書から電話が入り、「明日開かれる社会労働委員会の中で馬渡さんの問題を取り上げることになった。突然で申し訳ないが、すぐ国会に来てほしい。打合わせをしたい」と言ってきた。しばらくすると今度は、山本政弘代議士の秘書からも電話で同じ趣旨を伝えてきたのである。同じ日の同じ社会労働委員会の場で二つの政党から馬渡さんの問題が追及されることになったわけである。その夕方、四名で国会に出かけた。まず社会党の山本代議士の議員控室へおうかがいした。私たちが提出した資料に基づいて馬渡さんの職場復帰を要求するだけでなく、身体障害者雇用促進法に対する政府の姿勢についても追及するつもりだと聞かされた。明日の質問時間は二時間近くあるので、それを全部つかってミッチリやるということを保障してくれた。頼もしい限りであった。
終わって田中代議士の部屋へかけつけた。地元神奈川県選出の日本共産党の国会議員で同じ社会労働委員の石母田達氏もいっしょに部屋に待っていてくれ、明日は二人で、国会質問を行なってくれることになった。ところがここでハタと困った問題にぶつかってしまった。まさか共産党と社会党が同じ日に同じ委員会で同じ問題を追及することになるとは思わなかったと言うのである。明日の質問の順序は社会党の山本政弘氏が先である。私たちが渡した資料は両方とも全く同じ物であるから、それに基づいて国会で追及したら、後から質問する共産党は発言する材料が無くなってしまう。私たちにしてみれば、全く同じことでも、もう一度追及してもらいたい気持だが、権威ある国会審議の場においては、そうもいかないらしい。考えてみれば当然である。同じ質問をすれば、政府や大臣は同じ答弁を繰り返すであろうし、後から発言する議員はピエロになってしまう。
 さあ困った。「せめて間に一日なり一週間あれば、研究して重複しない質問ができるんだけどなア」と田中議員のためいき。「ここで取り下げたらつぎはいつできるかわからないからね。何とか明日やらないと・・・」と石母田議員。私たちは、自分たちの問題で国会議員がこんなに苦しむのを見て、身の置き場かない気がした。 二時間余り検討を重ねた末、明日は山本代議士の質問をよく聞いたうえ、つぎの共産党の質問までの一時間の間にそれを分析し、山本氏の不足した点さらに追及すべき点、新たな問題点を明らかにし、それを田中、石母田両議員で追及しようということに落ちついた。台本無しで舞台に登り、芝居をやるようなものである。
一九七三年十二月十八日、この日は馬渡闘争に大転換をもたらした歴史的な日だった。馬渡さんをはじめ守る会の岩元会長、高嶋副会長、神視障から村田陽太郎さんなど一〇名が期待を胸に秘め、衆議院社会労働委員会の質議を見つめていた。まず、社会党の山本政弘代議士が質問に入った。身体障害者雇用促進法に対する労働省の姿勢をただし、法の趣旨に沿うならば中途障害者の首は切れないはずだと迫った。受ける側は労働大臣長谷川峻、労働省職業安定局長遠藤政夫、それに大蔵省関税局総務課長道正信彦の各氏である。

 山本  仕事に就いている人たちが身体に障害を起こした場合、障害者の解雇制限をするというお考えはないのか。
 遠藤(職安局長)  業務外の事故による身体障害につきましても、当該事業所で配置転換なりあるいは他の機能を身につけることによって、適当な職場に配転をいたしまして、雇用を確保することは、これは当然であり望ましいことだと思います。
 長谷川(労働大臣)  できるだけ解雇されることのないように、事業主に対して行政指導の強化等によって検討していきたい。

 こうした前提を明らかにした上で、いよいよ馬渡さんの問題に入っていった。山本議員は、馬渡さんの失明に至る経過、視障センターに入る時のいきさつ、最近の税関当局によるいやがらせなどにふれた後、
 山本  来年の三月にやめなさいという話があったそうですが、ぼくは国家公務員法のこの規定(分限免職)というものが、ただ首をぶち切ればいいんだ、身体に障害があって職務に差しつかえがあるんだから首を切ればいいというものじゃないんだと思うのです。その点どうですか。
 道正(関税局総務課長)  本人の御希望は、横浜税関の診療所におきまして、三療のことで職場復帰をいたしたいということでございます。しかし八百人のために税関におきまして三療師を一人置くということは、私ども考える場合、これはけっして適当なことではなく、またそうすべきじゃないというふうに考えております。関係各省と連絡をとりつつ、現在慎重に検討を加えておるところでございます。
 山本  大蔵当局として、ちゃんと馬渡さんに対して本人の納得のいくような職場における仕事というものを、お与えになる考えはあるのかないのか、私のおうかがいしたいのはそれだけなんです。

 くりかえし同じ点を追及されたが、道正総務課長は、三療師としての職場復帰を頑固に拒否しつづけた。ついに労働大臣をして
 長谷川  だんだん馬渡さんの問題について応答を聞いておりますと、やはり一人の方が就職されてその間にこういう御病気になられ、その間ある意味では熱心な、ある意味では親切なそういう話が間々欠けている問題があったのではないかという気もするわけです。  と、大蔵省や税関当局の馬渡さんへの対応を批判するに至った。しかし、
 山本  分限免職などということをやらないということを、第一に確認してもらいたい。
 道正  どういうことはやる、どういうことはやらないということは、現段階におきまして、お約束はできないのではなかろうかというふうに考えております。

 大蔵省当局は、頑強に職場復帰を認めようとせず、首切りもやらないとは約束しなかった。たまりかねた山本議員は、大蔵省関税局長(大蔵公雄)の喚問を要求した。呼び出した関税局長が来るまでの間、大原亨代議士が関連質問に立った。そして、
 大蔵  私どもといたしましては、本人が将来生活に困らないという見通しをつけ得るような状態において、処遇を考えてまいりたい。かように考えておるわけであります。

 きわめて含みを持たせた回答ではあったが、やはり明確な復職は認めなかった。社会党の追及は二時間近く行なわれた。つぎの共産党の質問まで一時間の間があるので、対策を練らなければならない。山本代議士の落とした所、追及の足りなかった点、さらに新たにはっきりさせる点などについて、田中、石母田両議員とわれわれの間で、あわただしく分析、検討が加えられた。そして午後、
 田中  理療師の問題ですけれども、もし置いた場合は八百人が利用する。その八百人に一人がもったいないような発言だったわけですけれども、横浜税関の総務課長が、一昨年一年間に腱鞘炎が三十人出ていることを発表していらっしゃるわけです。
 道正  わがほうの税関におきまして、腱鞘炎が非常にふえておる、診断書がたくさん出ておることは事実でございます。(しかし)私ども、必ずしも鍼灸三療師が当面必要であるかどうかということは、現在、疑問に思っておる点でございます。

 税関の中に職業病が多発しており、その多くの人たちがはり治療を受けている実態があっても、なお当局は三療師としての復職を拒否した。田中議員はほこ先を変えた。
 田中  税関側が組合との交渉をなぜ拒否しているのか、こういう重大な問題というのは、組合と一緒に十分に話し合っていくのが民主主義だと思うわけですけれど。
 道正  馬渡さんの問題につきまして、心身障害者問題と考えることも十分可能でございます。横浜税関におきまして、われわれ聞いておるところによりますと、近ぢかのうちに組合との間で交渉を行うというふうに聞いております。

 税関当局がこの三年来「個人の人事問題では絶対に応じられない」と拒否しつづけてきた組合との交渉は、代議士の一喝でたちまち解決してしまった。(後でわかったことであるが、この税関長交渉の応諾は横浜税関当局にとって寝耳に水の話であったという)田中議員の追及はいよいよ佳境に入った。
 田中  昨年の十月六日に休職を解きましたね。そして病気休暇ということに切りかえて、半分の賃金をいただくということになった。その時に、本人に辞めるというふうなものに判子をつかせたということを聞いておりますけれども、事実でございましょうか。

 ハッとしたように顔を上げた道正氏は、容易に立ち上がらなかった。しばらくヒソヒソ打ち合わせたあげく
 道正  私が聞いておるところによりますと、去年、休職から病気休暇に切りかえるにあたりまして−−−この病気休暇、通常でありますと(この時「事実か事実でないかそれだけ!」と田中議員鋭くさけぶ)判子でなくて、そのようなことを書いていただいたということは、あったというふうに聞いております。
 田中  それではその文書を至急私のところに提出していただきたいと思います。
 道正  きわめて個人にかかわる問題でございまして−−−他とのいきさつ、いろいろあったと思うわけでございますけれど−−−過去にございました資料をどういうふうに考えていくか−−−私としてはどうしたらいいか−−−(何を言っているのよくわからないシドロモドロのありさまである)。
 田中  そういうことを目の悪い人にしたという事自体、日本全国の障害者が問題にしているわけです。税関の問題ではないんですね、障害者の人権問題にしているわけです。それを破棄できるなら破棄するとか、それを見せていただきたいと思います。
 道正  検討させていただきます。
 田中  いつまで検討するか、いつまで回答が出るか。
 道正  あと一週間ぐらい時間をいただければありがたいと思います。

 田中議員の追及はするどかった。当局の逃げを許さないのである。われわれにしてみれば、一年間ジッと秘めてきた「切り札」を、ここで開いて見せた甲斐があったといえる。ここで質問は、石母田議員に替わった。
 石母田  外に対して窓のひとつもない三方がコンクリートの壁で囲まれた暗いところへ、わずか残った視力の弱い片方の眼で、仕事をなさっていた馬渡さんか配転された。 これは、こうした視力障害者に対する常識的な配置転換ではない。そして半年あとに網膜剥離で入院されて、とうとう両眼とも失明された。これが法律でいう身体障害者福祉法あるいは雇用促進法あるいは対策基本法、こうしたことを模範的にやらなければならない国のやることであるかということについて、きわめて私は怒りを覚えるわけです。   
 
 ここでも道正氏はすぐ立てなかった。しばらくためらったあげく
 道正  その実際の職務の実情をちょっと私、検討させていただきまして、現在どうなっているか、そのときどうなっていたか、どういうふうな職場が望ましいのかという点につきまして、私ども検討してみたいと思うわけでございます。
 石母田  片方の目しか残っていない方をこういう職場に入れて、そのあと全眼失明になったという点について、税関当局あるいは監督官庁の人事院にきわめて重大な責任がある。
 道正  検討いたしましてお答えしたい・・・・・・。

 長いながい国会追及であった。社共合わせて実に三時間に及ぶ国会審議がたった馬渡さん一人の問題についやされたのである。それから一週間した十二月二十五日、田中議員のところへ道正総務課長が訪れて、こう言ったそうである。「先に田中先生より提出を要求された、昨年十月六日付の馬渡さん等の印鑑の押してある文書については、半年前に、破り棄ててしまったので、もうありません。内容については、よくわかりません」そこで田中議員が「それでは、そこに書いてあったことはもう馬渡さんにとって何の関係もないのですね」とたずねると「左様でございます。この文書に書いてあった内容で、本人に対して問題にする気はありません」と答えたという。


総務部長登場


 国会追及は、三月首切りの手を封じてしまった。当局は今後いかなることがあろうと、公然と免職することができなくなってしまったのである。明けて一月十日、支援会議はこれまで寄せられた署名八、四〇九名分をつきつけ、税関当局に職場復帰を認めるようつめよった。だが当局は、全員のするどい追及にもかかわらず、言を左右にして職場復帰は認めようとしなかった。翌日、この模様がはじめて新聞に取り上げられた。 読売新聞、神奈川新聞、東京タイムスが掲載したのである。今まで、いくら新聞社に資料を送っても見向きもされなかったものが、全国から八千名の署名が集まるに至ってようやく社会問題としてマスコミから注目され出したのであった。
この頃、税関当局は奇妙な動きをしていた。三学期の始まった東京視力障害センターをひんぱんに訪れているのである。しかも馬渡さんには全く会おうともせず帰って行くのである。やがてその理由が知れた。「これまでセンターを卒業した者はどういう所へ就職したか」「産業マッサージとは何か」「センターの教官はどのような仕事をしているのか」とか「開業するにはどの程度の資金が必要か」などを、ことこまかく聞き、しかも最後には必ず「このことは馬渡さんには内密に」と念を押してゆくのであったという。当局は職場復帰に替る何か別の手段を検討しているようであった。一月十八日、馬渡さんのところへ横浜税関の小田総務部長と影井人事課長が訪れた。総務部長は税関長に次ぐ地位の人であり、これが馬渡さんに会って話そうというのであるから、相当重要な任務を帯びて来たにちがいない。
 総務部長は「馬渡さんが税関に戻りたい気持ちはよくわかるが、実現はきわめてむずかしい。診療室にはり灸マッサージ師として配置することは、税関長の権限ではできない」「しかし、この問題は近々、少なくとも二月上旬までには結論を出さなくてはならないと思っている。これまでも税関当局として相当数の人が動いて、馬渡さんのためにやってきたが、この熱意は買ってもらいたい」「視力障害センターの教官になる気はないか。もしその気があるなら努力してみてもよい」「開業するのが一番よいのではないか。開業すると言うのなら、場所をさがすとかいろいろ援助してあげる」「病気休暇が三月で切れるが、延長してもよい。その間に開業の準備をしたらいい。ただし、半年も一年も延長するわけにはいかない」等々、さまざまに言葉をかえて言い寄ったが、要は職場復帰を認めないということであった。
それに対し馬渡さんははっきり言った。「私は、税関に戻って三療をやってゆく以外の事は考えていません。私は視障センターの教官になろうとも思いません。開業すると言っても、退職金だけではとうていまかなえないほどの金がかかるし、あなたが思うほど簡単にできるものではありません。税関に職場復帰させてください。お願いします」 総務部長らはさらに「税関に戻りたいと言っても、あなたに見合う仕事なんて何もないのですよ。たとえ何か仕事に復職しても永くは続かないだろう。三ヵ月か六ヵ月で辞めるのではないか」とたたみかけてきた。馬渡さんは、「私は腰かけのつもりでこんなことを要求しているのではありません。 三療師として職場復帰できるなら、少なくとも五年や十年は居るつもりです」とはっきり言い切った。
続いて一月二十日、当局は全税関横浜支部の麻生支部長と守る会の岩元会長に、総務部長が会見に応ずる旨連絡してきた。この場では、かなり激しいやり取りが交された。
 当局(総務部長)  復職するといっても、大船の自宅から一時間もかかるのでは、通勤できないだろう。
 組合(支部長・会長)  税関に近い公務員宿舎に入居させれば、そんなこと簡単に解決がつくはずだ。一番近い宿舎は税関から歩いて十五分のところにあるではないか。
 当局  奥さんが琴をやっているが、家に居ない時は子供の養育をどうするつもりか。
 組合  広い部屋の公務員宿舎が与えられるなら、奥さんの両親がいっしょに住んで世話をしてもよいと言っている。
 当局  復帰してもし三療をやったとしても、はり灸マッサージをやる患者は居ない。患者が来なかったら馬渡さんもやる気をなくすのではないかと思うが。
 組合  それは税関当局が職員の健康管理に対し、どのように三療を役立てようとするのかにかかっている。
 当局  勤務時間内にアンマをやるなどということは国民感情が許さない。アンマは医療ではない。
 組合  三療は立派な医療である。税関職員の職業病や高血圧などを治療できる。また、マッサージについては、欧米では産業マッサージとして職場の中でやられている。
 当局  日本では産業マッサージは失敗したと聞いている。はり灸は医者の指示に従ってやることになるが、そういう指示をする医師はあまり居ないと思う。それに、三療師を置くことは、国の機関(官庁)に新しい制度を導入することであるから、税関だけで判断できる問題ではない。
 組合  当局が馬渡さんの職場復帰を認め、彼に一番適した仕事を保障しようとしているのかどうか、はっきりしてもらいたい。
 当局  この問題は、身障者の職域拡大か、それとも生活保障の問題か、そのどちらを重視するかが大事だ。当局としては馬渡さんの生活が保障されればよいと思っている。
 組合  本人の生活を保障するためにこそ職場復帰が一番良いのではないか。
 当局  いずれ将釆は開業するというのであったら、仕事もない税関でぬるま湯につかったようなことをしてゆくより、今から開業していった方がよいのではないか。いろいろ困難なことにぶつかるだろうし、税関で働いても長続きしないのではないか。
 組合  開業しても、すぐ生活が成り立ってゆくという見通しはない。目が見えなくても税関で働いてゆくことは可能だ。当局は職場復帰を認めることが先決だ。

 こうして、総務部長は手をかえ品をかえ職場復帰を拒否しようとしたが、われわれが当局をますます追いつめてきたことが明白となった。


税関長交渉


 続いて一月二十五日には、復職闘争を開始してから三年かかって実現した税関長交渉が行なわれた。内容的には、先日の総務部長との話し合いと大差ないものであったが、公式の税関長発言として見たとき、いくつかの重要な成果が認められた。 組合側からは私も含めて執行委員十名が出席し、対する当局側は税関長以下、中枢幹部が顔を揃えた。税関長はまず「馬渡さんの問題については、私が本省(大蔵省)に居た時からよく承知している。本人が三療師として復職したいという強い希望をもっていることも承知している。しかし、三療師としての復帰については非現業官庁としては初めてのことで、横浜税関限りでは判断しかねている」と切り出した。
 税関長  今度の場合の様に中途失明したケースには、身障者雇用促進法と身障者雇用審議会の答申をもとに考えなくてはいけないと思うが、できるだけその人の技能、力量を生かして何が出来るのかを考えることが、その線に沿ったものと思う。しかし税関の職務は限られており(三療師配置が)制度的にダメなら他の役所で考えられないかなど検討している。ただし、目が見えなくなったから「切り捨て御免」というような、血も涙もないような事はしない。
 組合  馬渡さんを復帰させるために、新たな職種をつくって、そこに配置するという考えはないのか。
 税関長  そのことは客観的に考える必要がある。われわれは血税によっていることから制度的制約が大きい。行政官庁としては、納税者の注目関心をふまえて考える必要がある。
 組合  復帰させれば国民の非難を受けるということか。
 税関長  本件のみでなく、客観的に見ればということだ。
 組合  復職させることは、税関の名声を高めこそすれ非難は受けないと思うが。
 税関長  再三言うように、非現業では初めてのケースなので・・・。
 組合  当局は、開業をあっせんしたり、国立視力障害センターへの出向をすすめたり、馬渡さんが税関に戻ることを否定し追い出すような動きをしているようだが。
 税関長  それは誤解である。責任ある税関長として、あらゆる場合を想定して行なっているだけである。職員は私の分身であるし、そのためにこそやってきたのだ。 本人の幸福になるようなことを考えておくことは必要なことであり、結論が出てからアタフタするのでは困る。追い出そうとしているためと誤解されるのは情けない。


[続く]

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