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職場に光をかかげて

   著者: 中村紀久雄(なかむらきくお)    1981年5月25日 初版      1981年7月30日 第3刷

職場に光をかかげて


 失明した労働者が職場に戻る日
 税関で元気に働いていた労働者が、両眼失明の障害者になった。退職攻撃、絶望と失意の中で、「障害者にも働ける職場を」のたたかいが明日への希望をよみがえらせた。

目  次

プロローグ


失明を失業にしてはいけない

分限免職とのたたかい

勝利への輪を拡げて

最後のたたかい

エピローグ

職場復帰その後  馬渡藤雄

あとがき


プロローグ


職場は税関相談官室


 リーンリーン
 「はい税関相談官室です。・・・はあ?フィリッピンへ旅行なさって籐椅子を四脚、船便で別送なさった。…・・・もう横浜港に荷物が着いておられる。はいはい。…・これを引き取る手続きですか?……ええ、できますよ。こちらへいらっしゃれば、くわしく御説明いたしますよ。横浜税関本関の場所はお判りですか?・・・・…ああ、そうですか。それではその時ですね、パスポートと別送申告書、B/L(船荷証券)またはアライバルノート(到着案内書)、それに印鑑とお金、船会社に支払うのと関税の分、それらを持参してどうぞこちらへおいでください。・・・はいお待ちしています」
 一九七四(昭和四十九)年四月二十二日、国家公務員としては初の、全盲の大蔵事務官が誕生した。現在、横浜税関総務部税関相談官室に勤務する馬渡藤雄さん(五十一歳)その人である。
 仕事は、旅行者、市民から寄せられる税関手続きなどの疑問に、電話や面接をもって答えるというものである。馬渡さんは、税関職員として働いていた昭和四十三年、病気によって両眼を失明するという不幸に見舞われた。このままでは職場を辞めざるを得なくなるのは必至であった。
これを見た職場の仲間たち、労働組合が「障害者にも働く権利がある。たとえ目が見えなくても適材適所に配置すれば働くことができる」と立ち上がった。障害者団体など全国的な幅広い支援のもとに、さまざまな困難を乗りこえ、五年半ぶりの職場復帰に成功した。これは、そのたたかいの記録である。


網膜剥離の宣告


 馬渡藤雄さんは、昭和四年十一月、鹿児島県に生まれた。父親が国鉄に勤務していた関係で、小学校、中学校時代は鹿児島県と宮崎県の間で住所を転々としている。二十五年三月、官立宮崎農林専門学校林学科を卒業、翌二十六年四月横浜税関に入る。二十一歳の時である。
税関というのは大蔵省の分局で、全国の主な空港や港にあり、仕事は「輸出」「輸入」「監視」「統計」の四つの部門に分かれている。「輸出」というのは、日本で作られた品物を外国に積み出すことで、税関では、その品物が書類と同じものかどうか、輸出禁制品が入っていないかどうかなどを検査する。「輸入」の仕事は、外国から送られてくる貨物を検査、鑑定し、税金(関税)を取ることである。品物によって税金の割合いがちがうので、鑑定するために専門的な知識が要求される。「監視」とは、税関を通さずに輸出や輸入が行なわれないよう、港の中や入口でパトロールし、監視する仕事である。「統計」は、輪出、輸入の量や金額をまとめて発表する仕事である。

 馬渡さんは、農業・林業関係の学校を出たので、輸出・輸入品の検査、鑑定を専門として仕事をするために、税関に採用されたわけである。当時は、誰でも税関に入ったら一定期間、監視の仕事をやらされた。馬渡さんも、制服制帽のりりしい姿で、港の入口に立って約一年間監視勤務をしている。
その後、輸出の為替係という所で働いているとき、肺結核になり、約二年九ヵ月休んでいる。戦後の食糧事情と職場での過労が原因であった。昭和三十一年、いよいよ輸入品の鑑定等の仕事につくことになった。この頃、彼は寮生活の味気なさを登山や旅行などで補った。趣味はこのほか、音楽鑑賞、読書があげられる。
昭和三十三年二月、高島埠頭出張所輸出鑑査課に勤務していたある日、突然左眼に異常をおぼえた。職場から寮へ帰る途中、空を見上げたら大きなクモの巣がかかっている。おやっと思って脇の方を見たら、そこにもクモの巣がある。眼鏡がよごれているのかと思って、こすってみたが同じであった。彼は小学校二年生の時、先生が書く黒板の字がよく見えないので、この頃から眼鏡をかけるようになった。強度の近視であった。税関に入った頃には、これがかなり進行し、矯正視力、左眼〇・四、右眼〇・一という状態となっていた。眼鏡もよごれているのではないとすると、クモの巣は一体何だろう。不安に思って近所の眼科医に診断してもらったが、どこにも異常はないと言われて安心した。
しかしその直後、友人と赤倉へスキーに行ったところ、白いはずの雪野原がひどく汚れて見え、その上、視野の端の方がまっ黒なのである。この異常は急速に進み、まもなく、左眼視野の三分の一が暗くなってしまった。恐ろしい予感に胸をしめっけられながら東京大学病院へ行ったところ医者から「網膜剥離で手おくれ」と言いわたされ、とたんに目の前がまっくらになりフラフラ倒れてしまった。彼は最近読んだ本の中で、恐ろしい網膜剥離のことは知っていた。 当時の医学では、回復の可能性はほとんど無く、失明まちがいなしと言われていたのである。
東京専売病院に入院し治療したが、結局だめであった。三週間入院し寮に帰ってきたが、一、二ヵ月で左眼はほとんど何も見えなくなってしまった。よりによって良い方の左眼がやられてしまったのである。残る右眼は矯正視力〇・一。ふたたび職場にもどることになったが、もう前と同じ仕事を続けることはできない。彼は苦しんだ。「いっそ職場を辞めてしまおうか・・・」心配した同僚や先輩達がいろいろ検討し、税関当局とかけ合ってくれた。その結果、眼をあまり使わなくてもやってゆける職場ということで、輸出入貨物の検査場管理室というところへの配置換えが行なわれることになった。検査場管理というのは、輸入品や輪出品を検査する場所で、運び込まれる貨物の出し入れを管理する、比較的目を使わない仕事であった。彼にとっては、あまり気の進まない仕事だったが、いたしかたなかった。


組合分裂、配転、両眼失明


 全税関労働組合は全国八税関に支部を持つ全国組織で、そのうち私たちの横浜支部は横浜市を中心に、北は宮城県から南は神奈川県までの海岸線にある支署や出張所の組合員約一、三〇〇名で組織されていた。馬渡さんほ左眼失明の以前は、労組の分会委員として、持ちまえの文才を生かして組合ニュースづくりを担当していた。しかし検査場管理室に移ってからは、医者から読書を禁止され、組合役員も続ける事ができなくなってしまった。そこで、当時労働組合が管理していた税関図書室の室長になり、職員からの希望図書の購入や民主的な管理に励む一方、数人の仲間と「労音」を税関の中に組織し、毎週一回昼休みにレコードコンサートを開催、音楽の解説を受け持ったりした。 
また組合員有志により「塔と路」という文集が連続して発行されたが、彼はその編集委員として終始活躍している。しかし、当時いっしょにやった仲間の人たちに聞いてみると、彼はかなり強情っぱりで、他の人と意見がちがったりするとすぐへソを曲げるので、つきあいにはかなり気を使ったということである。こうして左眼視力ゼロ、右眼0・一という障害にもかかわらず、検査場管理室での仕事もつつがなく処理し、私生活の面も結構充実したものであったが、一九六二、六三年を境にして、これを一変させる事態が起こった。一九六一(昭和三十六)年の春、大蔵省関税局は全税関労組神戸支部の幹部三人に対し、突然首切りを通告してきた。「十分間勤務時間にくい込む職場大会を行なった」などをその理由にしていたが、明らかに労働組合弾圧をねらったこじつけであった。
この事件を契機に、全国各税関でいっせいに労働組合分裂攻撃が開始された。彼らの手口は「全税関は共産党があやつっている。おまえも共産党員とみなすぞ」といった反共攻撃から、「全税関におればみんな必ず首を切られる」「全税関におると昇任、昇格、官舎入居、転勤などに不利になるが、それでもいいのか」などといった脅迫であった。そして事実、脱退しないものに対しては、係長等の役付きに昇任させない、ボーナスをけずる、昇給させない、特別昇給からの除外、遠隔地への配置転換、官舎へ入居させない、結婚式や葬式への参加妨害など、あらゆることに対して差別といやがらせの攻撃が加えられた。各税関当局は、まず課長クラスを組合から脱退させ、ついでその課長を使って係長を、つぎにヒラ職員をという順に、税関の機構を悪用して脱退させていった。
その結果、連日の脅迫に耐え切れず脱退するものがあいついだ。横浜税関には六四年五月に、当局肝いりの第二組合(横浜税関労働組合)が結成された。分裂前に六、六〇〇名いた全税関組合員が、最低時六九〇名にまでけずられた。横浜支部も一、三〇〇名から一九0名にまで引き落とされた。残った組合員は、歯をくいしばってがんばった。税関当局は、視力障害者である馬渡さんに対しても、二回にわたって脱退をせまったが、労働者が団結する大切さを肌身にしみて感じていた馬渡さんは、それをキッパリとことわっている。一九六八年四月、税関当局は労働組合脱退に応じない馬渡さんに対して、いやがらせ的な配転を強行してきた。それまでは、本関の検査場管理室でKさんと二人勤務であり、しかも、大きな窓のある明るい部屋であった。ところが今度彼が配置転換されたのは、横浜税関管内の中で最も大きく、最も忙しい山下埠頭出張所の検査場管理室で、しかも一人勤務である。そこは三階建の庁舎の一階にあり、三方をコンクリートの壁で囲まれ、残る一方の窓がうす暗い検査場の中に面しているという、四メートル四方程の穴蔵のような部屋であった。
馬渡さんが左眼視力ゼロ、右眼0・一という視力障害者であることを知っていながら、税関当局は配置転換を強行したのである。全税関山下分会は、蛍光灯の増設を要求したが受け入れられなかった。やむなく馬渡さんは、自宅から蛍光灯を持ち込み、文字板の大きな目覚し時計を持ってきて、それで仕事をした、夕方になると毎日頭が重く、つかれ果てていた。本人は気づかなかったが、このとき右眼に白内障を発病しそれが急速に進んでいたことが、後に判明している。山下埠頭出張所に配転されて六ヵ月過ぎた十月二十日、仕事が終わっての帰り道に駅の階段を登りながら、なにげなく上の方を見たら、まっすぐ立っているはずのビルのネオンサインがクネクネ、グルグル渦をつくってまわって見えた。恐れていた網膜剥離がついに右眼にも発病したのだ。翌日、かかりつけの眼科医へ行ったところ「白内障がひどくて眼球の奥がよく見えないが、網膜剥離にちがいない」と診断された。その日、すでに視野の三分の二が見えなくなっていた。
横浜市立大学病院に入院し手術を受けたが、悪性の剥離のため、ほとんど回復のきさしはあらわれず、半年後の六九年三月に退院した頃には、視野の下方ほんの一部を残して、ほとんど見えなくなった。七〇年三月、身体障害者第一種一級(最重度)に認定された。馬渡さんは、一九六五(昭和四十)年十月に結婚している。奥さんの敏子さんは、彼より二歳若く、芯のしっかりした物やさしい、とても美しい人である。彼女は若い頃から琴を習っていたが、結婚の翌年に教授の免許を取り、六八年春から弟子をとって「お琴の教室」を開いた。馬渡さんの失明はその直後であった。一時は暗たんとした思いにとらわれた奥さんも、彼の失明が確定した時点で気を取り直し、将来の生活設計の中に琴を役立てようと決意した。失明を知った仲間たちが、次つぎと見舞に訪れた。特に全税関横浜支部の執行委員であったT、Sなどは、わが事のように彼の将来を心配し、奥さんの琴教室の成功を援助しようと考えた。彼らは横浜支部の組合員に、看板作りと宣伝ビラの作成を呼びかけた。看板やポスターを作らせたら商売人以上といわれる組合員のKが看板作製に当たり、ビラも作られた。
看板はバス停と風呂屋に設置され、ビラは一〇名の組合員によって約三、〇〇〇枚が付近の団地や住宅に投げ込まれた。琴の方は何とか見通しがついたが、生活不安は依然として重くのしかかっていた。六九年に生まれた勝之ちゃんのヨチヨチ歩く姿だけが、最大のなぐさめであった。


失明を失業にしてはいけない


馬渡さんに会う


 馬渡さんが両眼失明によって職場を休んで以来、二年近い月日が過ぎた一九七〇年八月末、全税関労組横浜支部(以後「支部」という)執行委員会の席上、副支部長の高嶋昭から「馬渡さんは現在休職給与として八割の給料をもらっているが、今年の十月でこれが打ち切られて無給になる。法律によれば、あと二年後には首を切られてしまうことになる。 それだけでなく、このまま視力が回復しないということが税関当局に知れると、ただちに解雇されてしまうかもしれない。何とか組合で対策を考える必要があるのではないか」という提起がなされた。
国家公務員の場合、病気になると一年間は病気休暇が認められ、それでも回復しない時には休職が発令される。通常の病気の場合なら、休職は三年間まで認められることになっているが、そのうち最初の一年間だけは本給・諸手当の八割が支給される。二年目からは、給与の支給が打ち切られる。代わりに共済組合から、本給の六割だけが支給される。しかしボーナス等の諸手当が全く出ないために、収入は出勤している時の三分の一程度となってしまう。馬渡さんの場合、二ヶ月後の十月二十一日から休職二年目に入ろうとしていた。また国家公務員法第七八条には「心身の故障のため、職務の遂行に支障があり、又はこれに堪えない場合、これを免職することができる」と定められてあった。すなわち、仕事をすることが困難な障害者になったら、その人間を解雇してよいということなのである。
執行委員会は、馬渡問題対策委員会を作ることにし、執行委員であった私を、その担当者ということに決めた。突然、馬渡問題の担当に指名された私はとまどった。一体どうしたらよいのかわからない。とりあえず本人に会ってみようと思い、税関から一時間程のところにある自宅を訪ねた。六畳一間にダイニングキッチンだけという狭い公団住宅に、奥さんと勝之ちゃん(一歳)の三人が住んでいた。久しぶりに見る馬渡さんは、意外にも明るくて顔色も良く元気だった。しかし手さぐりで壁を伝わって歩く姿は痛いたしい。彼は、「もう税関にもどってみんなといっしょに働くことはできない。三療師(はり灸マッサージ師)の資格を取りたいと思い、国立東京視力障害センターへ入所を申し込んだが、多分来年の四月には入れると思う。そこで資格を取ったら、三療を開業したいと思っている」といい、つづけて、「しかし、センターを卒業するには三年かかるのだが、僕の休職はあと二年間しかない。来年四月にセンターに入ったとしたら、一年半で休職期間が終わってしまう。何とか卒業するまで、身分をつなぐことはできないだろうか」と訴えてきた。
私は「三療の資格を身につけ、それで身を立てるのは良い事だと思うが、資格を取ったらすぐ職場を辞めるというのを前提にしたのでは、組合員や職場の人達が支持してくれるだろうか。 馬渡さんが訓練を受けたあと、税関にもどって再び働きたいと要求するのなら、休職期間延長のたたかいはやりやすいがどうだろう」と答えた。しかし、馬渡さんは「職場にもどってまた働くなんて事は、誰が考えたってできるはずがない。盲人にとっては三療しか働く所はない。そういう要求をしても、資格を取ったら税関を辞めて開業する以外にない。そんな事言えば結局職場の人をだますことになる」とゆずらない。
私自身も、まさか全盲の人がいくら訓練をしたって、職場復帰して仕事がやれるようになるなんて考えていなかった。しかし、休職期間を延長させるたたかいのためにはそれ以外にないとこの時は思った。そこで「とにかく税関当局に出す要求としては、税関にもどるために訓練するのだから、その間は首を切るなということでなくては、大義名分が立たない。資格を取ったら税関を辞めるとしても、それは誰にも言わない方がいい。どうせ、あと二年で首を切られるのだから、負けて元もと、勝ったら儲けものだよ。とにかく、その方向でたたかってみよう」と説得し、了解を取った。


身体障害者雇用促進法の発見


 まもなく開かれた支部執行委員会で、私と馬渡さんの間でかわされた話が検討された。基本的には、私が馬渡さんに話した方向でよいが、たとえ名目上でも、盲人の職場復帰を要求するなどということは、組合史上全く例がなく、しかも、やり方が悪ければ、馬渡さんを首にしてしまうことになるので、慎重に行なう必要がある。ということで、(1)改めて馬渡さんと方針をにつめる (2)身障者問題、法律問題などについて調査する (3)税関当局が硬化するとよくないから、当面は秘密のうちに運動を進める、ということが決まった。
この会議のとき、一人の執行委員が「そういえば、身体障害者を雇えと決めた法律があるってことを聞いたよ。たしか『身体障害者雇用促進法とかいう名前だったと思うが・・・」と発言した。これは重大な発見だった。早速、六法全書をひっぱり出して調べた。あった! 馬渡さんのような障害者を守る法律が見つかったのだ。第一条には「この法律は、身体障害者が適当な職業に雇用されることを促進することにより、その職業の安定を図ることを目的とする」とある。第十四条には、公務員の場合の障害者雇用について「国等は・・・身体障害者である職員の数が、その身体障害者雇用率(一・七パーセント)を乗じて得た数以上となるようにするため、政令で定めるところにより、身体障害者の採用に関する計画を作成しなければならない」と定められてあった。だが、よく読んでみると「障害者を雇用しなければならない」ということはどこにも書いてなく、「雇用計画を作成しろ」ということしかない。たとえ障害者を雇わなくても、雇用計画だけ作ればよいような、きわめてザル法的な感じがする。
しかし、私たちはよろこんだ。この法律は、身障者を官庁や企業へ積極的に雇用しろという意味が定められているのであって、法律の趣旨からみれば、現に職場で働いている者が障害者になったことを理由に解雇するなどは、もってのほかという事になる。法律とは頼るものではなく、われわれが生かして使うもの。法律を生かすも殺すも、われわれのたたかいいかんにかかっている、ということを、私たちは多くのたたかいの中から学んでいた。以後四年にわたってたたかわれた馬渡闘争は、実に、この法律を最大の武器にしたのである。数日して、全税関労組中央執行部(東京)から「以前、全厚生省労組の委員長をしていた人で、現在、国立東京視力障害センターの職員である田中豊という人が、障害者問題にくわしいそうだ」という連絡がきた。早速、私は、専従中央執行委員のSとともに、視障センターを訪ねた。田中さんは、私たちの突然の訪問に気持よく応じてくれた。 私たちの訴えをじっと聞いたあと、おだやかに、つぎのようなことを話してくれた。
「障害者になると、その人が受ける苦しみは、障害を原因とした直接の苦しみだけではありません。職場を首になる。生活の保障がなくなる。さらに障害者であるということで、いわれない差別の眼が向けられるようになります。」「重い障害者になると、世間ではその人のことを無能力者扱いするが、これは間違っています。 たとえ全盲になっても、歩行その他の生活訓練と職業訓棟をしっかりと身につけるならば、一般の人が考えられないほどの能力を発揮するものです。現に、このセンターにいる入所二年の全盲の人は、九州の自宅へ一人でよく帰っています。眼が見えなくても、訓練によって手、足、耳、口などの機能をフルに使えるようになるならば、労働分野も無限に開けると思います」「ふつう、職場の仲間が失明した場合、周囲の人たちは見舞金や餞別を集めて激励します。そして本人は職場を辞めていく。それでおしまいです。これが、今までどこでも行なわれてきた例です。しかし、これでは良くありません。私は、交通事故や労働災害、公害、病気などで、いつ、誰が障害者になるかわからない現在の社会から見たとき、失明者が職場を辞めさせられるというのは、他人事ではないと思います。
馬渡さんの首切りを認めてしまうなら、別の人がつぎに障害者になったとき、その人の首切りも認めざるを得なくなるでしょう。これは組合員全員の問題でもあります。馬渡さんの職場復帰闘争を行なう必要があります」「しかし、運動を進めていく場合”他人事ではない”という考えよりも、もう一歩進んだものがあると思います。それは、どんな障害者になろうと、持てる能力を生かして働き続けることが、労働者の当然の権利である、ということを明確にすることです。しかし、これを多くの人に理解させるのは大変にむずかしい」「労働組合は、どんな理由があっても、労働者の首切りを許してはなりません。もし労働組合が、障害者になったのだから仕方かないということで、組合員の首切りを認めてしまうなら、それは、真の労働組合とは言えないと思います。働くことを奪われたら、その人は労働者ではなくなってしまうのです。ですから、労働者は、その大切な権利を、決してみずから放棄してはなりません」等々、田中さんは数かずの示唆を与えてくれた。
私は田中さんの話を聞いて、目の前がパッとひらけてきたような気持であった。この時言われた事が、馬渡闘争の進むべき方向とたたかいの意義を決定したといえる。馬渡問題対策委員会が組織された。私にとって、全盲の馬渡さんとの出会いは強いショックであった。同じ税関で働いてきた仲間が、突然の病気によって視界をうばわれ、暗やみの世界を手さぐりで歩きまわっているのである。部屋の中を壁からかべを伝わって歩きながら、必死に将来の生活設計を考えている。「もし、これが自分であったら、いったいどんな気持になるだろうか。はたして生きていくことができるだろうか」馬渡さんの家から帰ってきて、私は一晩考え込んでしまった。そして「この不幸な馬渡さんが、安心して生活できるようになるためになら、どんなことでもやってみよう。今後の自分の一生を投げ出しても、馬渡さんのためにたたかっていこう」と決意した。
私の馬渡闘争への第一歩は、こうしてふみ出されたのである。今考えると恥ずかしい限りだが、出発は、こうした同情がきっかけであった。


方針の決定−復職は権利である


 支部執行委員会では、田中豊氏の指摘にもとづいて、方針の大幅な修正が進められた。今度は本当に、馬渡さんの職場復帰を要求してたたかおうというのである。今まで、執行委員の誰ひとりとして、そんなことを真剣に考えてみた者はいなかった。当然のこととして、多くの疑問が噴き出した。「田中さんの言うことは、理屈としては解るが、眼の見えない人が一体どうやって働くのだ」「税関の中に盲人ができるような仕事があるのか」「盲人といえばあんま、はり灸と決まっている。それ以外のところで働いているなんて見たことがない。そんな例がどこにあるのだろう」「たたかうのはいいが、実現の見通しがあるのか」などといった率直な意見がぶつかり合った。
こうした中で、最も強固に障害者の労働権保障を主張したのは高嶋昭であった。彼は「心身障害者対策基本法」と「身体障害者雇用促進法」によれば、国と雇用者は障害者となった者の更生に全面的に責任をもつものであると主張し、どんな障害者であっても、訓練さえしっかり行なわれるなら、必ず働くことができると強く説いた。高嶋は、自分の考えは頑固に押し通す一徹な面と同時に、職場の仲間の困っていることには黙っていることができないヒューマニストなのである。彼は、それから四年間続いた馬渡闘争の一貫した強力な推進者であり、私を支えてくれた理論ブレーンであった。やがて、長い討論の末、職場復帰闘争の方針がまとめ上げられた。
運動を開始する前に、一応、税関当局側が馬渡さんに対してどう対処しようとしているのか、内々につかんでおいた方がよいということになり、馬渡さんの直属の上司である対馬俊郎統括審査官(課長)のところへ私が行くことになった。鎌倉の自宅を訪ねると、気持ちよく迎えてくれた。話を聞き「私も馬渡さんのことは気の毒に思い、何かしなければいけないと考えていた。しかし、訓練機関に有給で研修として派遺するというのは無理だと思うよ。ただ、馬渡さんが自分で視力障害センターに入ったというのを理由にして首を切ることはしないと思う。休職中にセンターに入って勉強するというのは表面上は税関とは関係ないのだから、黙認するんじゃないかな。私も税関の上の方へ話してみるよ」という親切な答が帰ってきた。
いよいよたたかいの開始である。まず対策委員会によって「馬渡さんの職場復帰のために」、次いで「眼は見えなくとも」、という二つのパンフレットが作成され、職場の人びとに配布された。九月二十四日、全税関横浜支部機関誌「支部ニュース」で、第一回の宣伝が行なわれた。週二回発行の支部ニュースには、翌年四月までほとんど毎号、馬渡さんに関する記事が掲載され、その中で「馬渡さんの生活実態・収入」「失明に至る経過」「全国の身障者の実態」「促進法と基本法の解説」「税関当局側との折衝内容」「訓練の必要性」「他官庁に働く障害者の例」「職場の人の声」「寄せられた手紙」等々が報道された。ニュース担当の教宣部長は、馬渡さんに関する記事なら、どのようなことでも載せてくれた。十月六日には、税関長に対しつぎのような要求書が提出された。

 山下埠頭出張所に勤務する馬渡藤雄氏は、現在、両眼失明により治療中でありますが、氏は、眼以外は心身共に健康であるので職場復帰を希望しております。それは、氏が勤続一九年で四十歳、妻と一歳の子供をかかえ、これから一家の生活を支えていかなければならないからであります。もとより、身体障害者に対しては、基本理念として、国の責任に於いて職業と生活全般にわたってこれを保障する義務を負うものであり、当税関に於いても労使共に馬渡氏の職場復帰のため、手段をつくすべき責任を有するものであります。さし当たって、当支部は馬渡氏の職場復帰に関し、次のことを要求し、貴職の善処方を切望するものであります。

一 昭和四十五年十月二十一日を期し、馬渡氏の職場復帰を認めること。
一 同時に、職業能力を身につけるため、しかるべき機関に於いて、一定期間の生活訓練と職業訓練及び研修を保障すること。以上


当局、職場復帰を拒否


 十月十二日、失明以来初めて、馬渡さんが税関を訪れた。無給休職になる二十一日以前に職場復帰(休職解除)できるよう税関当局に要請するためである。馬渡さんは、山下埠頭出張所の総務課長と、税関人事課長に会って、口頭で復職を申し入れた。人事課長は「職場復帰は、税関の仕事ができるように馬渡君の眼が回復してからでなければ認められない。訓練機関に研修扱いで入れるというのもだめである。しかし、休職期間中に、自分で勝手にそういった所に入って訓練を受けることはさしつかえない」と回答をした。われわれが要求しているのは「在職中に障害者になった場合、その人の更生については、雇用者が全面的に責任を持て」ということなのであるが、税関当局はこの促進法に定められた義務を放棄し、馬渡さんを訓練機関に派遺しないばかりか、職場復帰(休職解除)も認めようとしないのであった。
この日、全税関山下分会は昼休み職場集会を開いて、馬渡さんをむかえた。馬渡さんは「最初、私は正直なところ税関の職場に復職できるなどとは考えてもみなかったのですが、最近になって、盲人が生活してゆくことがいかに困難であるかを知り、また皆さんの励ましを受ける中で職場に復帰する決意を固め、今日職場復帰の意志を税関に伝えました」と語った。組合員の仲間たちは、ひさしぶりに見る馬渡さんの元気な姿に安心するとともに、はじめて見る全盲の仲間が、その困難にもめげず堂々とたたかいの決意を語るのを見て、深い感銘をおぼえた。十月二十一日、休職一年目をむかえ、この日職場復帰できなければ、給与の支給が打ち切られる。馬渡さんは再度税関へ出向き、正式に「職場復帰願書」を提出した。しかし山下埠頭出張所長からの回答は「眼が治らなければ職場復帰は認められない」という冷たいものであった。
全税関横浜支部は、この夜に「馬渡さん激励集会」を計画していた。ところが、この集会があることを知った税関当局は、馬渡さんを強引に官車で自宅に送り帰してしまったのである。運動が高まるのを抑え、組合員の多くと接触する事をきらった結果である。集まった百数十名の組合員は、電話で送られてきた馬渡さんの声をテープレコーダーで聞き、それぞれ今後のたたかいの決意を表明した。そして、全税関横浜支部は、運動を地域全体、さらに全国に拡げてたたかうことを決定した。
この直後の執行委員会において高嶋が「目が見えない人たちで組織された、えらく進歩的な団体があるんだ。神奈川県にもその下部組織があって、前にそこの人と話したことがあるけれど、眼が見えないことは恥ではないと堂々と話すんだよ。その組織に支援を頼んだらどうだろうか」と主張した。この一言に端を発して馬渡闘争は、全税関労組史上初めての、障害者組織との共闘という画期的なたたかいに発展してゆくことになるのである。高嶋はどうして、全視協(全日本視力障害者協議会)の存在を知ったのか、そこで何を感じたのか。


岩崎日出夫さんとの出会い−(高嶋昭の回想)


 あるひとつの出会いは、時によってその人の運命を変え、場合によっては、人間の歴史をも書き変えることさえ起きる。一九七〇(昭和四十五)年夏のことであった。私の案内で、当時神奈川視力障害者の生活と権利を守る会副会長であった岩崎日出夫さんが、馬渡宅を訪れた。この時の岩崎さんとの出会いは、馬渡さんの人生観を大きく変え、生きる勇気と確信を与えるとともに、全視協というたたかう障害者組織との接触をもたらした。それだけでなく、これがきっかけとなり障害者運動と労働組合運動が手を結んで、日本で初めてといわれる歴史的な意義を持つ馬渡闘争へと発展してゆくのであるが、この時は、あれほどの大闘争になろうとは、想像だにすることはできなかった。
その頃の馬渡さんは六九年三月に退院したあと一時は回復するかに見えた視力がふたたび悪化し、視野の大半が暗黒に閉ざされつつあった。六九年八月二十八日に、長男勝之君が生まれた。馬渡さんにとっては、生きなければならない責任感が、いっそう重くのしかかっていた。七〇年の正月は、暗い、くらい正月だった。三月には、第一種一級の重度陣害者に認定された。労働組合は、まだ馬渡さんの問題には取り組んではいなかった。こんな時に、岩崎さんとの出会いがおとずれた。その糸口となったのは、当時、全税関横浜支部の支部長をつとめていた小泉欣一が岩崎さんの近所に住んでいて、顔見知りであることから、「進歩的でファイトのある視力障害者の青年がいる」と、私に紹介したことにはじまる。私は岩崎氏に会って、「馬渡さんを元気づけてほしい」と頼み込んだ。彼は気持よく承諾し、馬渡さんの家へ行ってくれることになった。
その日は暑い日であったが、小雨がぱらついていた。入ると家の中は暗かった。岩崎さんは馬渡さんに向かって、熱っぽく説いた。「眼が見えなくなったのは、自分の責任ではありません。障害者といえども、人間として生きる権利、働く権利があるのです。われわれにこれ以上失うものは何もないではありませんか。一部の晴眼者が持っている出世欲は、われわれには全く無緑です」 彼は、視力障害者の生活と権利を守るための組織として「神視障守る会」(神奈川視力障害者の生活と権利を守る会)と「全視協」を紹介し、その加入をすすめた。「障害者であっても立派に生きていける−−−、生きていかなくてはならないのです。そのためには勇気を持って、行動を起こさなくてはいけません。とりあえず、障害者として生きるための訓練を始めなさい」
この話を、そばで聞いていた私は、思わず眼頭を熱くした。それほどに岩崎さんの訴えには、障害者としての道を説く気迫がこめられ、一人の人間を絶望から立ち上がらせようとする情熱がみなぎっていたからである。そして、その話を聞く馬渡さんにも、すべてを吸収し立ち上がろうとする気がまえがあった。二人は真剣だった。話が終わった頃、部屋は明るい雰囲気に変わっていた。外は暗くなりはじめていた。岩崎さんは「僕は暗くても普通の人以上に歩けるよ」と明るく笑いながら、暗さにたじろぐ私をうながして、バス停まで歩いた。

 岩崎さんは、その後、馬渡闘争が開始されて以来、数かずの助言をもって私たちの運動を支えてくれた。七二年には全視協の事務局次長に選ばれ、持ちまえのファイトを生かして献身的に活動を続けてきた。だが、七三年三月十六日の大雨の夜、自宅近くの工事現楊を通りかかった際、増水した下水道に足を滑らし、痛恨な死を遂げた。次期事務局長とうわさされ、これからやらなければならない多くの事を残して、しかも、まもなく生まれ出る子供をも残して・・・。せめて、馬渡さんの職場復帰の姿を見てほしかった。誰よりも、喜んでくれたにちがいない。


視力障害者運動との接触


 さて、組合は高嶋の提案にもとづいて、神視障守る会に支援を要請することになった。私は十月のある日、会長である市川邦也氏の家で開かれるという執行委員会の会議へ出かけた。しかし私には、進歩的な盲人の団体があるということが信じられなかった。私のこれまでの印象では、身体障害者の姿はどれをとってみても、皆、あまりにも卑屈で、他人を寄せつけないかたくななものを感じさせたからである。私は異境へでも乗り込むような気持で、緊張して門を入った。だが、市川氏の二階は、私が考えていたものとは大きくかけはなれ、開放的で明るい雰囲気に包まれていた。
私が着いた時には、まだ会議が始まっておらず、みんな大きな笑い声をたてて、雑談をかわしていた。遅れてきた全盲の望月勝美さんときたら、部屋に入るなり「あら、みんな早いのね」と、でかい声をはり上げ、そばに居た人をけっとばしながら席につくし、しゃべり声も、雑談の話題も、何もかも私たちと変わらないのであった。ちがうのは、眼が不自由であるということだけだった。みんな、私の支援の訴えを真剣に聞いてくれた。終わると、次つぎに質問が発せられた。「組合は、なぜ視力障害者のことを取り上げようと考えたのですか」「税関に職場復帰するというけれど、具体的にどういう仕事を考えているのですか」「馬渡さんはどう考えているのですか」「今後、運動をどのように拡げていこうとしているのですか」「私たちがどういう事をやったらよいのですか」・・・
私はおどろいてしまった。皆、運動の進め方について、きわめて適切な質問と意見を述べるのである。それは、洗練された活動家の集団であった。それだけではなく、話が通じるのである。何といったらよいか、組合の仲間同士で話しているような、ずっと前からの知り合いのような感じで、安心できるあたたかさがあった。会長としてのおちつきと抱擁力を持った市川さん、にこにことおだやかに話す村田事務局長、きたえられた活動家タイプの竜崎さん、早口で理論的に話す大谷さん、まじめそのものの飯島さん、ファイト満々の紅一点望月さん・・・。私はいっぺんで親しみをおぼえた。私はうれしくなってしまった。こんなところに、私たちの仲間がいたのである。
ただ、村田さんが「労働組合が視力障害者のことを取り上げてくれるというのは、ありがたいことです。がんばってください」と言われたのにはびっくりした。支援を訴えにきて、逆に感謝されたのである。この最初のふれあいをきっかけに神視障守る会は、以来三年半にわたる馬渡闘争の中核となって、さまざまな活動を展開し、勝利への道を切り開いてくれたのである。私はそれから一週間後に、全視協会長の黒岩滝市氏をたずねた。黒岩さんは、私の話を真剣に受け止めてくれた。そして、この馬渡闘争が障害者運動全体にとっても、重要な意味をもつものであることを語ってくれた。そして黒岩さんは、障全協(障害者の生活と権利を守る全国連絡協議会)や、全障研(全国障害者問題研究会)といった民主的、進歩的な障害者運動の組織があることも、くわしく説明してくれた。全視協としての、全面的な支援と協力も約束してくれた。
こうして、馬渡さんの職場復帰闘争は、全国の障害者運動と結びついた幅広いものに発展してゆく道がひらけていったのである。


労働省、総理府をたずねると


 支部執行委員会は、税関当局との交渉を進める一方、関係官庁との交渉を行なった。厚生省と人事院へは吉田貞夫、中村邦彦、労働省と総理府へは大槻敏彦、麻生捷二のそれぞれ執行委員がおもむいた。心身障害者対策基本法を統括する総理府では「うちではただ法律を監督するというだけで、具体的に、馬渡さんのような問題をどうするということはいえません。厚生省、労働省あたりへ行って話してください」というだけで、何の得るところもなかった。厚生省は「全盲の人が一般の官庁の中で働くなんていうのは無理ではないですか。こういう例はあまり聞いたことがありませんね」というだけだった。
公務員の人事管理を監督する人事院では「公務上の災害で失明されたのなら救う手たてはありますが、私傷病ではねえ」「身体障害者雇用促進法というのは、採用時に身体障害者であった者を対象にしているのであって、採用後に障害者になった人をこの法律で保護できるかどうか疑問です」といったきわめて無責任な回答であった。身体障害者雇用促進法の実施を直接監督する労働省職業安定局の場合、「失明した人を職場復帰させたというのはあまり例がありません。促進法には罰則もないし、労働省としても税関に監督する権限もありません。ただ私傷病であっても、長年勤務してこられた人の場合、税関として準公務災害扱いにできないことはないと思いますがね」といった程度の話だった。
結局、四つの官庁すべてを通じ、身体障害者の雇用を真剣に考えているところはどこもなく、馬渡さんのような重度障害者を救う手だては、ほとんどないということが明らかになっただけであった。あとは、運動を盛り上げる以外にはないということが結論となった。一方、税関の職場の中からは、さまざまな支援活動がわき起こった。馬渡さんの出身職場である山下分会では、発行される分会ニュースの毎号を通じて、馬渡さんの実情、お見舞訪問記、税関当局への抗議等を掲載し、当局との交渉を要求していた。千葉、川崎、鶴見、瑞穂、高島、新港、保税、本関、山下など全分会で職場集会が開かれ、支援を決議していった。新港分会では、昼休みの職場集会に、わざわざ馬渡さんを招いて話をきき、独自の支援活動を計画していた。
各分会から自発的に、お見舞いカンパが取り組まれた。組合員の中から「馬渡さんにテープの手紙を送ろう」という声が起きた。組合員はもとより、第二組合員の人も含めて「馬渡さんお元気ですか。私は〇〇ですが、おぼえていますか・・・」といった職場の声がたくさん入ったテープが、馬渡さんのもとに届けられた。目が見えなくては退屈だろうというので、小説をテープに吹き込んで送った人も何人かいた。激励のハガキも取り組まれた。当初、目が見えないのではハガキを送っても意味がないのではないかという声もあったが、そうではないことがわかった。
そのほか、馬渡さんから、「外出したい」という連絡がきた時には、組合員が次つぎに休暇を取って、手引きにつきあった。今まで盲人の手引きなどというのは、誰一人としてやったことはないのだから、ずいぶん気を使ったらしい。ある若い組合員は「おれ、こんなこと初めてだろう。一日中コチコチになって腕を組んでいたものだから、つぎの日は肩がこっちゃってまいったよ」と笑っていた。盲人といっしょに歩いたことで、恥ずかしいやら、テレくさいやらの気疲れも相当にあったと思われる。


最初の攻撃


 こうした運動の高まりを、税関当局はたまって見過ごしていたのではなかった。十月末のある日、山下埠頭出張所の総務課長が、馬渡さんの自宅を訪れた。そして「今あなたが税関を辞めると、退職金は〇〇円であり、年金は〇〇円ずつもらえるようになるが・・・」と告げ、さらにつけ加えて「税関を辞めて年金をもらった方が、こうして共済組合から手当金をもらっているより金額も高くて有利だと思う」「今辞めても、二年先に辞めても年金額はそんなに変わらないのだから」等々と、今すぐに辞職しろといわんばかりのことを言うのである。びっくりした馬渡さんが、「私はまだ眼の治療中であるし、ここで税関を辞めると、共済組合(健康保険)が切れて困りますから」と答えた。すると、数日過ぎて再度総務課長が押しかけ、「共済組合員証は、発病後五年間は職場を辞めても有効ですから大丈夫です」、「もし希望するなら、その場合、奥さんの就職の世話をしてもよいが」といい寄ってきた。
こうした事は出張所の総務課長だけの発想であろうはずがない。横浜税関当局の中枢で練られて打ち出された巧妙な首切り攻撃であった。職場復帰闘争を崩壊させるためには、本人を職場から追い払って、運動をもとから断ち切ってしまおうと考えたに相違ない。支部執行部は、ただちに税関当局に抗議を行なった。当局側は「本人が、辞職後の事で心配しているのではないかと思って、親切心からやったのだ」と、バツの悪そうな顔をして答えた。この抗議以後、しばらくは表面だった攻撃は姿を消してしまった。


ある電話交換手の抗議


 実際の職場復帰はまだ当分先のことであるとしても、適職が何も見当たらないというのでは組合員を納得させることがむずかしいし、運動に現実性も得られない。そこで執行委員会は、盲人が税関の中で働くとしたら、どのような仕事に就けるか検討を行なった。その中から、電話交換、税関診療所でのはり灸マッサージ治療、正面玄関の受付け案内などという職種が出てきた。これを早速組合ニュースに発表したところ、私は突然電話交換室に呼びつけられた。相手は永年の経験を持つベテランの女性たちである。
「中村さんあんたでしょう、こんなこと組合ニュースに書いたのは!」「はあ?  何のことですか」「馬渡さんに電話交換手をやらせたらどうかって書いてある記事よ」「ああ、あれは組合の執行委員会で話し合われたことを書いたんですが」「バカにしないでよ! 私たちがやっている仕事を、メクラにもできるなんて書いて、ひどいじゃないの。大体ね、電話交換の仕事ってあなた方が考えるほど簡単じゃないのよ。講習を受けて、ちゃんと資格も取って、その上一定の経験を積まないと一人前にやってゆけないんですからねっ」「それはですね・・・」「よく聞きなさいよ、私たちだってこの仕事に誇りを持ってやってきているのに、それをメクラの馬渡さんにやらせろなんて書かれて、黙っているわけにはいきません! すぐ組合ニュースに訂正記事を書いてちょうだい」私はその激しい見幕にびっくりしてしまった。
事前に何の相談もしないで書いたのは悪かったかもしれないが、書いた内容が間違っていたとは思われない。そこで私は、目が見えなくてもしっかり訓練を積むならば、普通の人が考えている以上の素晴らしい能力が発揮され、さまざまな分野で働けるようになるということや、私たち自身いつ障害者になるかわからないことなどを説明し、一時間近く話し合った。やがて、ようやく彼女たちの怒りが解け、運動の必要性なども理解してもらうことができた。最後に部屋を出るときには「がんばってね」と言われた。
この小さな事件は、運動に重要な教訓をもたらした。すなわち、馬渡さんの復職闘争はたんに税関当局だけを相手にした運動ではなく、多くの職場の人びとの中から「いかに障害者を理解してもらい、いかに誤解や偏見を解消してゆくか」という運動でもあったのである。もし、こうした努力を怠るならば、職場の仲間の支援を得られず、たとえ職場復帰が成功しても、馬渡さんは周囲の人びとからたちまち排除されてしまうであろう。


[続く]

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