中途視覚障害者の復職を考える会
タートル 27 号
昨年は、「障害者の新しい基本計画」の策定や「びわこミレニアム・フレームワーク」の採択など、国内外の大きな会議やイベントもあった。日弁連の「障害者差別禁止法」の動きも活発であった。タートルの会の誕生の頃を思い出すと、時の流れを感ずる。
さて、役員が持ち回りで書いてきた巻頭言であるが、会報『タートル』の第3号(1996)、第23号(2002)以来、又私のところに巡ってきた。
第3号では、今から6年半以上も前のことであるが、当時の相談の体験から、中途視覚障害者が安心して働き続けるためにも、社会全体の「待つ心」に託して、以下のように書いている。
実際、中途視覚障害で働き続けることを考えた場合、本人も職場の関係者も、どうしていいか分からないというのが実情である。(中略)やってみなければ分からないし、事は進まない。この“未知なる可能性”への挑戦の成功のためには、社会全体の“待つ心”が必要不可欠である。私は、その“待つ心”として『職業リハビリテ−ション休職制度』があればと願っている。
第23号では、視覚障害を理由に不当解雇された窪田さんについて、「このような学園側の態度が容認されるならば、働くすべての視覚障害者にとって不幸なことであり、社会の流れにも逆行することになります。(中略)二度とこのような不幸な事件が繰り返されないためにも、何らかの具体的な実効性のある施策が強く望まれるところです。」と書いた。窪田さんは今年1月勝利和解により復職を果たしている。
余談であるが、今、無視できない動きがある。それは、一言で言えば、労基法に「解雇原則自由」が書き込まれようとしていることである。問題の本質は、解雇をめぐる紛争はこれまで判例によって確立した原則(解雇権濫用法理)で判断されてきたが、それを例外にし、解雇を原則自由と打ち出した点にある。
ところで、最初の巻頭言から約1年後、手記集『中途失明〜それでも朝はくる〜』が発行された。この本は、5000人近い人々の手元に届けられ、それなりに大きな役目を果たし終えて、今は第2バージョンの製作に取りかかっている。
この間にも、実に多くの相談を受け、できる限りの支援をしてきたが、当事者にとってはどれだけ満足のいくものであったか、甚だ心許ない。そういう中で、今も相変わらず切実な相談は続いている。
やはり「見えなくなって仕事はできるのか」という社会の壁は厚く、一挙に突き崩すことはできない。もっともっと社会の理解を進めることが必要である。一人ひとりの思いや願いをかけがえのない権利として大切にしながら、当事者の立場で広い視野に立って、真面目に、地道に実践と提案を続けることである。
そのためにも、新しいバージョンの本がどんなものになるかが問われてくる。そして、今再び私の願いである「待つ心」を呼び戻してみたい。
医師二年目の頃のことです。眼科医としての研修を積む中で、「現在の医療では、何ができて、何ができないのか」、ぼんやりと分かるようになってきました。そして、治療に難渋し、どう考えても改善する見込みのない重症な患者さんに接しながら、「この人って、どうなっちゃうのだろう?」と思うことがありました。当時の私は、思いつくのは、「盲学校」くらいで、「ならば大人はどうなるのだろう・・・」。答えはどこにもなく、この疑問は、私の心の中のブラックホールとして残りました。
医師七年目の夏、Tくんという患者さんに出会いました。公認会計士を目指す大学4年生の彼は、アトピー性皮膚炎に合併した緑内障により片眼はすでに失明、もう片眼も失明に近い状態にありました。幸い手術は成功し、眼圧は下降しましたが、失われた視力、視野は戻りません。「この人って、どうなっちゃうのだろう?」と、また思いました。答えが見つからないまま、インターネットを検索していたところ、「タートルの会」という中途失明者の復職を考える団体があることを知りました。すがる思いでメールをだしたところ、会員の方から「それなら、一度見学に来ませんか」というお返事をいただきました。そして、ある夏の暑い日、入院中のTくんと一緒に、四谷にある日本盲人職能開発センターを訪れたのです。センターでは、指導員の方が、音声のでるコンピューターやテープおこしの様子を見せて下さいました。 その後、ロビーには、Tくんを励まそうと集まって下さった視覚障害者の方々が集まって下さり、「公認会計士の試験は、視覚障害者でも取得できるのでは」「夢はあきらめないで」「私が見えなくなった時に考えたことは・・・」と、ある人は励まし、またある人は助言をしてくれるのです。私の心の中に長いことあったブラックホールに、一筋の光がさしこみました。
私は、ようやく、自分の中の、「この人って、どうなっちゃうのだろう?」に対する答えをみつけました。「ロービジョンケア」です。「ロービジョンケア」とは、「残存視機能をいかに生かすか」を目的とします。つまり、視力低下や視野狭窄により、日常生活に何らかの不自由が生じている場合に、ルーペ・単眼鏡・拡大読書器などの補装具を用いて残存視機能を最大限に利用し、視力が落ちる前の生活に限りなく近い状態になるためのケアを行うのです。ちょっと見えづらい方から、光覚弁(明るい・暗いしかわからない人)の方までが対象となります。このころから、私は、ロービジョン外来を作りたい、とひそかに思うようになりました。
そして、医師十年目の春、加藤講師の御尽力により、東大病院にロービジョン外来がオープンしました。月に3コマ、(火水午後)一回平均3名の予約をとり、一人平均1時間半の時間をかけ、拡大読書器などの補装具の紹介、視覚障害者むけコンピューターソフトのデモ、福祉施設の相談や情報提供を行っています。外来メンバーは、医師5名、ORT1名、OMA2名ですが、このほかに、ロービジョンに興味のある医師、ORT、看護師さんを対象とした勉強会を開いています。
さて、11月某土曜日の夜、消燈前の病棟で仕事をしていたところ、二年目研修医のSくんが、大きなかばんをもって、うろちょろしていました。「どうしたの?」と聞くと、彼ははにかみながら、「入院中のAさんのお部屋でバイオリンの弾き語りをしていました」と答えました。Aさんは、私の受け持ちの患者さんで、重症の増殖性糖尿病網膜症のため、ほとんど見えません。一年目の時に、私のもとで研修をしていたSくんは、Aさんとは顔なじみでした。現在は、受け持ちではありませんが、Aさんが再手術のために入院したと聞き、病室を訪ねてくれたのです。そして、目の見えないAさんを、少しでも慰めるため、一番目立たない土曜日の消燈前の時間を選び、彼の特技であるバイオリンを披露し、とても喜んでもらえたそうです。私は、Sくんの優しさに感動するとともに、あることに気づきました。
それは、「この人って、どうなっちゃうのだろう?」の答えは「ロービジョンケア」ではなく、「この人に、何をしてあげられるのだろう?」と考えることではないかと。一見当たり前のことのように見えることではありますが、治療もしつくし、打つ手もなく、改善の見込みもない患者さんを前にして、「やるべきことはやったので仕方ない」と思うことはあっても、「この人に、何をしてあげられるのだろう?」とは考えにくいものです。そして、「この人に、何をしてあげられるのだろう?」と考えることは、ロービジョンケアの原点でもあるのではないかと思うのです。
Tくんは、現在、名古屋の会社で、システムエンジニアとして働いています。 詳しいことはわかりませんが、試験会場に拡大読書器を持ち込み、「システムアドミニストレーター」という難しい試験にも合格しました。これは、彼の努力によるもので、素晴らしいことだと思います。
私は、いずれ第2、第3のTくんが、東大病院のロービジョン外来から生まれてほしい、と願っています。そのためにも、「この人に、何がしてあげられるのだろう?」、という気持ちを大切にしたいと思っています。
私が参加している福祉レクリエーション団体で、昨年の11月に「言葉」をテーマにした文化活動ワークショップが開催されました。
私も今回この文化活動に初参加したのですが、
「こうばこの会」のビューティームーンの皆さんが講師として、トークパフォーマンスという言葉の表現と、絵本をみんなで役割分担して一つの話を演じてみる朗読劇というものをやりました。
「こうばこの会」は、健常者と視覚障害者がともにつくる朗読劇団です。
今回参加した中には、視覚障害の私のほかにも、車椅子の方、健常者の方など様々な方が参加していました。
午前中は、発声練習から始まり、言葉の単語が、気持ちによってどういうような雰囲気や、気持ちを表現しているのかを体験しました。
「つくえ 」という単語一つでも、母親が子供に散らかっている机をみて言う時の「つくえ」と、その子供が言われた時に返答する「つくえ」では、全く言葉の伝わる意味が違ってきます。
つまり、伝えたい気持ちは、言葉に宿るという感じかもしれません。
ほかにも、「雪」、「茶碗」など色々な設定で、どのような表現になるかをみんなで楽しく実演しました。
この言葉遊びは、相手に伝えたい気持ちや、思いが言葉に込められているという事を再確認させられました。普段何気ない言葉が、伝え方によって、これだけ違うのかと驚かされました。
午後は、「嵐の夜に」という絵本を4つのグループで分け、ナレーション、山羊、狼の3役に分かれて練習をしました。
練習後は全体で 発表です。私もAグループでナレーションの担当となりました。勿論指導してくださるのは視覚障害を持たれた方や晴眼者ですが、私のAグループは中途で視覚障害を持たれた方が指導してくださいました。絵本と言っても、それを感情を込めた声を出したり、緊迫する状況をナレーションがみんなに緊迫しているという気持ちになるような話し方をしなければいけません。山羊、狼役の方もそれぞれの役になりきってみんな楽しく練習しました。
発表では、みんなが真剣に発表したので、とても素晴らしいものが出来上がりました。中でも、Aグループで「狼」役の滝さんは女性でしたが、迫力があり、Dグループで「狼」役をしていた佐藤喜也さんは、「いやらしい狼」がとてもよく表現されていました。
山羊役を演じていた皆さんは、とてもかわいらしいヤギを演じていましたし、ナレーションも情景描写がわかるようなナレーションでした。
みんなこのような演劇は初挑戦でしたが、とても楽しそうに演じていました。
夕食後、「こうばこの会」の皆さんによりますミニ公演会が開催されました。「ナナンちゃんのお店」、「マーシャと熊」など計3本の朗読劇を披露していただきました。
特に「こうばこの会」の皆さんは、1人で何役も演じておられて、これが本当のプロだと思いました。日中で自分たちも体験した朗読劇ですが、プロのすごさを体感できました。
「ナナンちゃんのお店」では、美月めぐみさんが1人でナナンちゃん、主人公、主人公の父、主人公の母、蛙、ナレーションなどを演じられ、笑いと驚きで一杯でした。
最後にはみんなで「大きな古時計」を合唱して楽しいひとときが過ぎました。
「こうばこの会」の皆さんには、トークパフォーマンスという世界で、視覚に障害があっても、晴眼者と共に楽しめる事ができるという事を教えていただきました。
これから機会があれば、是非「こうばこの会」の公演を見に行きたいと思います。
●盲学校に入るまで
「こんにちは。お待ちしておりました。どうぞこちらへ」。個室に案内して、部屋の中央にあるベッドを指さして、「どうぞ、こちらに横になってください」。それから、さすり、押し、もんで、つねって、たたいて、あげくの末に鍼を打って、低周波というんですが、電気を流します。ビリビリっと。「感じましたか、しびれましたか」、「はい」、「じゃあ、これで終わりです」。これが今現在やっております、私の仕事でございます。
この仕事に入る前、そうですね、35年くらい前からの話になりますが、私は広島で生まれて、美術系の大学を出ました。専攻は、視覚伝達、要するに目が勝負の世界でございます。そこで勉強をして、そのまま大学に残り、教員生活を始めました。大学だけでは食っていけないので、大学が休みをくれて、週に1回は専門学校とか、高校の美術専門のコースで講師をして稼いでいました。そんな時代が10年ちょっと続きましたでしょうか。
専攻が広告、宣伝ということで、片方ではいろんな雑誌ですとか、カタログだ何だかんだ、そういった物のデザインをしておりました。それから幾つかのプロダクションのディレクターをやっていたんですが、縁がありまして和食の外食チェーンの企業体に入り、宣伝・企画・広報の総括責任者をさせていただきました。約20年間勤めました。最初のころは学校にも週に1回教えに行ってたんですが、本業の仕事の方がおもしろくなって、それに埋没しておりました。
39歳のときです。何かちょっと変だなというのが気がつきまして、大学病院で調べていただいたら、両眼の視野が下半分なくなっていた。本人、気がつかないんですね。上半分が見えるので、視点を変えれば物は見えている。視力は、当時1.2だか、1.5と0.7、全然問題がない。ただ、目が悪いのではなくて、要は目から後ろの神経、神経萎縮、そういう病気で、当時処置のしようはない。薬もなければ手術をしても無理である、と。「うまくいけば、現状どまりだが、恐らく進行するであろう、気をつけてください」で終わりました。以来、仕事はずっと続けておりました。ただ、途中でちょっとこれおかしいなと思い始めて辞表を出したんですが、受け取ってもらえなくてそのまま最後までこの会社につき合えということで、
51歳の年、平成9年までその会社に勤めておりました。
51歳で辞めまして、さあ、何をしようかと。私は見てのとおり至って能天気でありまして、まあ何とかなるさという感じで1年間は、ぼうっと動いておりました。元気はあるんですが、現金がだんだんなくなってまいりまして、こりゃいかんな、と。何かしなくちゃといろいろ考えて、1つは飲食関係の仕事で店舗の改廃やメニューの設定等をやっておりましたので、自分で飲食店をつくろう、と。ただ私1人ではどうにもならないので、女房に「つき合えや」ということで、いろいろ物件とかを探しておったんです。けれども、やっていくうちにだんだんと目が悪くなったら、自分がどこまでその職にかかわる実質的な仕事ができるのかと考えたら、これはやめようということになりました。次にふらふらしていたんですが、まだ当時は少しは見えたんです。友人で、写真のギャラリーをやっている男がおりまして、それがやめるというのでその後がまに、このギャラリーを継いでくれないかと言われて、ああ、それもいいなと考えていたんですが、さあ手付けを打とうと思った前日、どう考えても採算が合いそうもないので、これもやめました。
●タートルとの出会いそして盲学校へ
そんなことでふらふらしている頃、タートルの会と出会いました。ちょうど出版物の最終の編集装丁のころだったと思います。その頃からおつき合いを始めて、皆さんと親しくさせていただいて、いろいろな情報をいただき、初めて拡大読書器があるだとか、音声のパソコンがあるだとか、そういったことがわかって、ああ、こんなものがあったんだったら、もっと仕事を続けてもよかったのかなと思ったんですが、後の祭りでございます。
会社をやめた以上、戻る気はありません。いろいろ考えておりましたら、盲学校は金はかからないって言うんです。寮に入ったら飯も食わせてくれる、教科書もあげるよって言われたので、こりゃいいなと思って、盲学校に行こうと決めました。たしか、11月ころでしたでしょうか、願書を出しに、最初は国立身体障害者リハビリテーションセンターに行こうと思って、国リハに連絡を入れたら、きのう締め切りました、これからでは間に合わない、ということで埼玉の県立盲学校に決めました。
願書を送ってもらったら、高校程度の国語、理科、社会、英語、それに数学の試験がある。こりゃ大変だということで、もう35年くらい前ですから、現役の高校生を頼みまして週に1回から2回の頻度で、微分積分、なんじゃいそれはっていうことで、家庭教師をしてもらいました。なお願書を見ますと、「肢能検査」と書いてあったので、私は体力検査と間違えまして、近くのジムへ登録して、毎日泳いだり、筋トレの機械をガッチャンガッチャンやって体力づくりです。
試験日が来まして、試験会場へ行きました。筆記はどうにもならなかったんですが、とりあえずは書いて、面接は2つあったんですが、これは得意なもんで、向こうがもうやめろと言うまでしゃべっていました。最後は肢能検査。何かと思ったら、モールス信号を打つようなカチャカチャという、それを出されて、「はい、これを1分間たたいてください」、と。それからもう1つ、棒が幾つか立っていて、それを1分間に右手と左手で幾つひっくり返せるか、と。もうがっかりしたやらびっくりしたやら。2週間後に発表という。受験生というのはつらいもんですね。もう、2週間が食事ものどを通らなくて、一生懸命ビールを飲んでいました。2週間がたちまして、やっと入学を許可されました。
●盲学校での生活
学校は2クラスありまして、1つは私が行きました理療科というんでしょうか、鍼師と灸師とあんま師(あんま・マッサージ・指圧)、それらの3つの試験を受けられる資格を有するコースと、それからもう1つが、保健理療科と呼んでいますが、あんま・マッサージだけのコースと2コースがあります。私は欲張ってたので、3つの方で、6人同級生がおりました。隣のあんま科は10人です。
30数年ぶりに学生に戻りました。最初に会ったときに、皆さん、一言ずつ自己紹介をと言われたので、私は言ったことを覚えております。「何はともあれ、このクラスだけは仲よくしよう」とお願いしました。なぜかというと、鍼の授業があるんです。この鍼の授業というのは、自分で自分を打つんじゃなくて、相手が自分を打ってくれる。いや、相手に打たれる。こういうとこで仲たがいがあると、ちょっといろいろ問題があるんで、「いろいろ行き違いはあるけれども、お互いにお互いを認め合って、3年間過ごそうじゃないか」と。みんな「そうだ、そうだ」と言うんで、何とか3年間無事、時間を過ごすことができました。
なお、私、住まいが草加でして、学校は川越からずっと奥に入ったところです。川越の駅からバスで40分くらいでしょうか。家から行きますと片道2時間半から3時間かかるのです。当初、一家の主人ですから、家から通って、家に帰って好き勝手飲んで食って寝て、それで少し勉強すりゃいいやと思ってたんですが、3時間片道というのはこりゃつらいっていうことで、入寮することにしました。寮は学校の敷地内の教室校舎の向かいで、直線距離で50メートルの所にあります。盲学校ですから、小・中・高校から専攻科まであります。ですから寮にも、まだ6・7歳の子どもから60歳に近いような人までいます。それぞれの学校の生徒を年齢別のグループに分け、二つの寮のフロアーごとに寄宿させていたような次第でした。
学校はつらかったです。寮もつらかったです。なぜつらかったかと言うと、お酒を飲めません、子供たちがいるということで。今まで365日、お酒をやめることができなかった私は、つらかったです。お酒を飲まなくてつらかったっていうのは、実は痔になりました。なぜかと言うと、毎日3リットルくらいのビールを飲んでおりまして、非常に便が楽に出ていたのが、ビールが飲めないのでえらい目に遭ったということが始まりです。
夕飯は5時半、これは早いですね。今まで昼のご飯をそのころに食べたことはあるんですが・・・。やはり夜食が必要になってきて、3年間毎晩インスタントラーメンを食べていたという次第です。ただとてもよかったのは給食です。非常に粗食でございますが、毎日3食ちょうだいしました。体のためには大変良い。酒類は禁止ですので、だんだんと体調もよくなりました。かつ、入浴の時間は決まっておりますし、毎日自分で洗濯をする、洗濯したものは取り込むということで、何となく、人間こうやらなくちゃいけないんだということを、幾つか学んだような次第でございます。
学校の授業は、これはつらかったです。聞いたことも見たこともなかったような文字と言葉、辞書を引いても出てこないんですね、字が。拡大鏡で拡大しても、だれが見ても、この文字書けないよというのがたくさんあります。中でも意地悪な教員がいて、ケイケツとかケイラクとかいうんですが、人間のつぼ、351穴か何かあるんです。それを3分間で全部言え、と。それが進級試験だと言われて、冗談だと思っていたら本当に1年後にやらされました。死ぬ思いで覚えましたけどね。
先ほど申し上げましたように、鍼の授業は、これはおもしろくもあり、驚異でもありました。痛い時に打たれるのは気持ちがいいですよね。痛くないのに打たれるこの気持ちというのは、たまりませんよ。でも、いつかは人に打つ。人に打ったときに、気持ちよさもさることながら、どういう痛み、刺激があるのかを知るべしということで、足の爪の先、指の爪の先から頭のてっぺん、顔面にまで全部打ちました。あごの蝶番にまで、ブッスリ鍼を入れたという次第でございます。
そんなことを経まして何とか3年間、楽しいこともありました。いろんな治療室の研修ですとか、大学病院で解剖を見せていただくとか、病院に入りまして1カ月くらい臨床実習をさせていただいたり。教員とみんなで並んで行きますと、15〜16回あったと思うんですが、「先生、どうぞこちらへ」というのは私になんですよね。何か一番生意気そうに見えたんですね。年をとっているもんですから。
そんなことがありまして、我々は6人全員無事卒業できまして、国家試験を受けました。6人受けて、全員一応あんまの試験は受かったんですけど、残念ながら1人だけはりときゅうを落として、恐らく今もまた学校に通っていると思います。
隣のクラス、10人いました。8人挫折しました。2人だけが残りました。これはやはりいろんなことがありまして、学校がおもしろくなくなったり、中には努力しないから、やはり単位が取れなくてということとか、酒におぼれるのもいれば、何かにおぼれた人もいるんですが、そんな感じで2人残りまして試験を受けた結果、1人は合格、1人は残念ながらもう1年ということで、今また勉強しているといったところです。試験は、難しいのか易しいのか。今、盲学校で国家試験を受かる方と、晴眼者でお金を払って資格をとる方と、やはり3年間勉強しないと国家試験を受けられないんですが、国家試験を受けて合格される方、大体9対1ぐらいの割合でしょうか。晴眼の専門学校から入られる方が現在9割、全国の盲学校から出ていく方が1割、どうもこれが現実のようです。
●治療院を開業
さて、これからがこういう仕事ということでそろそろ仕事の方の話をしてまいりたいと思います。3月の終わりだったでしょうか合格という連絡をもらって、私は自分の年齢などを考えまして、外に勤めるつもりはさらさらない。それまで自分勝手にやってたので、このまま勝手放題にやっていきたい、勝手放題にやるためには自分で治療院をつくればいいんだ。どこかでつくるっていうことはやはりリスクがかかります。自宅に部屋の余裕がありましたので、そこを治療院にしよう、と。たまたま玄関を入ってすぐの部屋がなぜかミニキッチンのついた部屋になっていて、換気扇までついている。これはいいと、何の改装もせず、空部屋になっていたので、そこにベッドを入れて幾つかの最低必要限度の消毒器とか道具類を入れたということです。
なお、私は草加の家に越してきたのが6年前で、もう子育てが終わっていたので、近所とのおつき合いというのがあまりないんです。どなたかわからない。お互いにわからないような中で生活しておったということもあって、少し名を売らないといけないなと思ったわけです。近くに女房の兄夫婦が住んでいて、私より少し長く住んでいたので、その方にお願いして、「実は鍼灸の免許を取ったので治療院を始めたい。ついてはどなたか知合いを紹介してください、今なら無償でマッサージ、鍼、灸の治療をしてさしあげます。」という話をしたら、その方が自分の通っている、近くのコミュニティーセンターの料理教室の先生に声をかけてくれたのです。このコミュニティーセンターは、この地域のいろんな人が集まる場所なんです。
料理教室の先生は少し膝の関節に、OAというんですが変形が出ていて、本当にこういう治療が有効であるということで、何度も通ってくださいました。かつその方は駅のそばにティップネスと呼んでいる運動クラブがありまして、そのクラブに行っている人たちにも声をかけてくれました。大体運動クラブに行ってらっしゃる方というのは若い方もそうなんですけれども、ある程度のお年を召され、ある程度自由もきく、これから先できるだけボケないようにするのがよろしかろうということで、一生懸命に健康の管理面には気を使われる方が多いようでございます。どんどんどんどんそういったところから、どんどんでもないんですが、何人か来てくださいました。
無償で4月、5月と丸2カ月治療をしておりました。皆さん「いつ始められるんですか」と聞かれるんですけれども、「まだ看板が出来ていないんで、それができたら始めますよ」なんて言いながら、片方では友人に頼みましてロゴマークをデザインして、それから電飾看板の用意をしました。そして、電飾看板がついたので、その日をもって有償にさせていただきますということでお願いしました。2カ月間の無償のキャンペーンが効いたんでしょうか、人間というか日本人は義理堅うございまして、やはり受けたものは返さないといけないという精神をお持ちで、私、非常にありがたいというか、実にいいことだと思うんですが、来てくださるようになりました。それ以外の宣伝、チラシ等は一切しておりません。
そうした人達が口コミで紹介してくれて広がった。フリーで来られたのは、たまたま私が看板をかけた日に、前の日に何かギックリ腰になられて、家の前を通って勤務先に行かれる。帰りにどこか行かなくてはと思ったら電気がついていたということで、来られました。これが嬉しいことに、本当に私も不思議だなあと思うんですが、3回で完治したんです。私はビックリしましたよ。治るのかなと思っていたのに、治ってしまったんです。そうしたら、それ以来、大先生だと思ったんではないんですか、向こうは。全身調整に参りますと言うんで、毎週1回来てくださるようになりました。
●仕事への意気込み
患者さんは私にとってお客様であって、お客様は「神様だ」なんて言いますが、本当に私は患者さんはお客様、お客様だと思ったら神様でして、今やっていることは人に対する「癒し」という作業なんです。やってみて感ずるんです。人を癒すということなんですが自分が癒される。やっていてよかったなあと思うんです。もっともっとこれは勉強しないといけない。このまま終わってはいけないと思って、今、暇な時間は一生懸命また実質的な勉強を、なれない手つきでいろんなその方面の雑誌を購入して読んでおりますし、わからなくなれば学校の教員を呼び出す、もしくは私が行って、そこで指導を受けている。できるだけ私の患者さんにはいい治療をしてさしあげたい。やれば戻ってくる。
今、現在、私、6月からで7、8、9、10ですか、5カ月弱でお客様が今50人内外ついてくださった。目標は100人と思っているんですけれども、1年以内には何かその辺に近づきたいなと思っています。
遊ぶのが大好きなので遊ぶためには原資がないといけない。原資のためだけではないんですけれども、喜びと原資のために非常に楽しんでおります。なお、最近いろいろと覚えたんですが、先ほど申し上げましたように非常に飲むのが好きで、飲まなきゃその日が終わらない。でも朝9時半から始めるんです。予約はもう9時半にどんどんどんどん入れちゃうんです、毎日のをずうっと。そうすると9時半には仕事を開始しないといけないから、やはり相手は神様ですから、その神様にはちゃんと神様に時間を合わせるようにということで、夜の時間もきちんと決めて、それなりに決められるようになるんです。そんな昨今でございます。
私の直接の専門は家庭内暴力で、虐待とか、特に暴力を振るっている人たち、加害者とか虐待者の研究です。
この会にかかわるテーマ研究をしているわけではないのですが、最近NPOとかNGOとかいう民間の非営利活動が注目を集め、特に関西では阪神淡路大震災以降、いろんな形でボランティア団体が活発になってきております。非営利活動促進法という法律の制定にずっとかかわりをもっていたものですから、京都NPOセンターができた時に常務理事に就任を依頼され、それ以降5年ぐらい京都の中で、ボランティア団体とか、非営利活動それから皆さんの会のようなセルフヘルプグループといいましょうか自助グループといいましょうか、当事者活動などにも随分京都でかかわっています。
今日の話の主な中味は京都NPOセンターのいろんな活動から垣間見えてくることを中心に話をさせてもらい、「みんな一緒に働こうや」というテーマにつなぐことを心がけ、本日の交流会の中でいろんなアイディアを豊かに考えられればと、問題提起的な話をさせてもらいます。
●はじめに
私がいろんな障害の問題に出会ったのは94年から95年にかけて、アメリカのサンフランシスコの東の隣にあるバークレーという町に、留学して研究をする機会があったことにあります。
バークレーは、障害者の自立生活運動の拠点になったということでとても大事な町です。
アメリカ障害者差別禁止法という法律がちょうどできた直後でした。この法律は福祉的な援助も含んでいますが、もう少し強く、特に雇用の面、町づくりの面で、障害者を差別してはいけないという禁止条項が含まれています。
例えば、基本は環境が問題であるとして、いろんな形での障害があっても、普通に町の中で暮らしていけるように、環境を整えるべきであるとして、公共交通機関であるとか公共建物であるとか、それから雇用の面では、障害だけを理由に排除したり、障害だけを理由にアクセスできないということがあるとすると、それはその環境に障害があるととらえ、その環境の中の障害を除去していく責務を社会に課しているわけです。
そんな法律ができる前から、バークレーという町は障害者が普通にアパートや家の中で市民として暮らしていけるような自立生活運動の拠点でした。
アメリカの中では、アジア人を差別する町も結構ありますが、バークレーはそんなこともなく、障害があろうとなかろうと、1つの大きな町のスケールを感じさせる文化の多様性を大事にする寛容の町です。
●障害者との出会い
直接、障害のことに出会ったのは、私の勤務していた大学の中でした。大学にもいろんな障害を持った学生たちが随分増えてきましたが、その中に4年生になった全盲の男子学生がいて、その彼は一番前の席でパソコンに、授業の中味をひたすら入力しながら一生懸命聞いてくれているんです。
パソコンに入力されたものは、無論彼のノートです。打ち込まれたものが正しく入力されているかどうかを彼は、右耳で読み上げるパソコンの音を聞き、左耳では授業を聞きながらひたすら指でパソコンに打ち込むという、とても大事なコミュニケーションをしているのですが、ただ難点は、一番前でそれをやっているものですから、カチャカチャいう音と、パソコンの読み上げ機械音でやかましいのですが、とてもたくさん学ばさせてもらいました。
そして、聞こえないという障害を持った学生たちには話の中身をプロジェクターで大きく写しながら、ゆっくりしゃべるという援助が必要になります。
視覚に障害のある学生と、聞こえない学生が一緒に授業に合流してきたとき、どのようにしてコミュニケーションをとるかというのが、課題です。聞こえない学生たちは当然いろんな通訳が必要になるので、手話通訳を配置できれば一番いいのですが、すべての授業に対応できるほど、まだ大学はバリアフリーになっていないため、そこでやむを得ず、隣の学生たちにボランティアで筆記を手伝ってもらうとか、パソコンが普及しているので、PC通訳という方式とか、いろいろ試したりしてみたのですが、通訳者に対する一定のトレーニングの必要性、通訳者の疲労、複数人の配置、訳文がだんだん解らなくなことなどのむずかしい問題点もあることがわかりました。
このようなことをやっていくことで、障害を持った諸君たちとの直接の出会いによってある程度共通的にこんな援助が必要なんじゃないかなと、見えてくるものがあり、いろんなコミュニケーション状況を改善していきました。出会わなければなかなかわからないことで、たくさん学習させてもらっているわけです。
●ファシリテイテッド・コミュニケーション
実は、大学の中でいろんな障害を持った学生たちとコミュニケーションをしていく中で、バークレーで聞いた言葉にファシリテイテッド・コミュニケーション(facilitated communication =FC)、「援助つきコミュニケーション」というのがありました。
援助のついたコミュニケーションというのは、パソコンであったり、あるいは人の手であったり、何らかの形で援助がつくというものですが、これは、先ほど申したアメリカ障害者差別禁止法の1つの考え方で、環境を変えなければならないということからコミュニケーションの援助を多面的にくっつけていくということが、このFCという言葉と、その目の前にいる大学生たちとの出会いの中から障害を持った学生にいろんなことがもっとできそうだということが分ると同時に、外に出て来ていろいろ出会えば出会うほど、コミュニケーション状況が改善されていくわけです。
そういう学生たちとコミュニケーションしていると、事前に私はその日に何を話をするかという中身を送っておきます。普通の学生はそのテキストを読むことができるので予習なんかできますが、彼は読めないので、次週の講義内容について、できれば1週間前に、レジュメなり、概要を送るんです。
普通の大学教員は、1週間前に講義の内容を考えるなんてことはしません。大体ぶっつけ本番に講義をするのですが、彼がいたおかげで、1週間前に考えて行くと、準備がゆっくりできるし、それからその日の話し方が、やはり体系化できるという効果がありました。事前にその講義の内容を圧縮して彼に電子メールで送るという作業は、なかなか教員からすると努力のいることですが、これは結局みんなにとって利益があったのではないかと思っています。
たまたま一人の全盲の学生のためにやったことが、実は200人なら200人のクラス、あるいは20人ぐらいのゼミの集団全体のために、とても大事な作業だったと思うわけです。 私はこれを「木を見て森を見る」と言っています。
ですから、結局環境がよくなっていく場面では、小さな体験ですが、そんなことの積み重ねが日常いっぱいあれば、もうちょっとよくなっていくのかなと思うわけです。
そして聞こえない学生のために、プロジェクターで流すという作業も同じように電子データでコミュニケーション状況が蓄積されていくわけなので、これも大事な木を見て森を見るということかなと思っています。だから1人1人のケース、あるいは状況に合わせて、その環境が全体的によくなっていくためには、その木を大きくしなければなりません。つまり、1人1人の人生を支援しなければならないと思うのです。
●情報バリアフリー化
そして、今度は、大学で一生懸命に勉強していた学生たちの力を発揮させるための働く場所が、やはり必要です。そこで、京都NPOセンターという非営利法人で活動しながら、ヒューマンサービスとか対人援助とか、セルフヘルプグループにかかわって分かったことですが、まだ行政サービスも、ボランティアもうまくセットされていないすき間を埋めて、京都の長岡京というところで点訳活動をしている「オフィスリエゾン」というNPOグループがあります。NPO法人法がまだなかったときから活動し始め、ボランティア団体から有限会社になり、いろんなニーズに、いろんなことをやりたいと輪を拡げて、活動しているグループです。
ここでは、パソコンが普及してきた今日、1冊の本を出版すると、必ずテキストファイルベースでデジタルデータ化できることに注目し、それをできればCD―ROMに落とし込み、簡便な媒体様式で人に伝えることができるようにしておけば、音声で立ち上げて読むことができるし、また点訳もするなど、いろんなマルチメディア出版というのを考え、1冊の本をつくったら、必ずマルチメディア化というのを義務づけ、特に障害者用に義務づけたらどうかというようなことを提案しています。
これも1つの権利擁護活動としておもしろいなと思っております。なるべくローコストでいろんな出版物にいろんな障害を持った人がアクセスできるよう提案活動をしており、幾つかの出版社と契約を結び、マルチメディア化を支援しています。1つの出版社だけではやりにくいので、そこには補助金を出していくという仕組みです。
今は基本的に活字でしか伝わっていないところをもうちょっとマルチメディア化することによって、出版物に対するアクセシビリティが高まるのではないかということをもともとボランティア団体からNPO的な活動をしているグループが、提案し始めています。こういう人たちから学んだ言葉が情報バリアフリーということでした。結局は情報バリアフリーということを大学の方からも考えなければならないということなんです。
ところが、1つの大学だけでは、どうしてもコストがかかるので、大学を連携して、PC通訳の研修をしたうえで派遣するような仕組みがつくれないかということで、京都の45の大学でつくる大学の連合体、単位の互換制度とかいろんなことをやっていた組織母体が、「大学コンソシアム京都」という連合組織をつくったので、この組織をもとに、派遣事業をしたいなと、今思っています。
これはPC通訳の派遣をするもので、情報バリアフリー化を目的とする組織体ですが、プロに仕上がったPC通訳集団による仕事をできたら起こしたいなと思っています。
字幕の翻訳で、例えば戸田奈津子さんというプロがいらっしゃいますけども、とても情緒的な情感豊かな映画の物語を日本語に落とし込んでいます。あのようなプロのPC通訳専門家集団を正規につくりたいと思っているんです。
それには大学の先生にも、もうちょっとゆっくりしゃべってほしいとか、体系立ててしゃべってほしいとか、余り学術用語を使うなとか、当事者の意見が反映されれば、もっと授業もわかりやすくなるのではないかと思っています。
それに最近学生が大学の門の近くに繁盛しているいわゆる「ノート屋」にばかり頼りきっているので、ノート屋に代わりPC通訳集団のニーズがあるのではないかと思っているわけです。
できればこれが、公の援助を得ながら公的な仕組みの中に入り込んでいきしかも、民間の中で自発的にやりたい人がやれるような仕組みを循環させられないかと思っているわけです。
こういうファシリテイテッド・コミュニケーションはどうやって大学の授業をよくしていくかという場面とか、職場、高校などいろんな場面で展開していくべきだと思っているんです。
●移動弱者へのサービス
さらに、この情報バリアフリーに加えてもう1つ大事なのは、高齢者、身体の障害のある人にとっての移動(モビリティ)に関するバリアです。
やはり移動に関して自由がないと、私たちの社会が持ってる権利を享受できないことがたくさん出てきます。
もともとは身体に障害のある人を対象に始まったのですが、運転ボランティアとか称して、移動サービスをしているグループがあります。
例えば移動に困難を感じる。ある高齢で糖尿病の患者さんは、移動が困難なのに家族も忙しくて病院まで送り迎え出来ないとか、それから人工透析の患者さんとか、定期的に行かなければならないところがたくさんあるが、しかしながら家族も忙しくて送迎ができないとかいう、いわゆる移動弱者というのが結構いらっしゃる。
この移動弱者に対して、公は例えばタクシーチケットの割引券を発行するとかはするが、それ以上のことはできていなくて、自力でそこに行くということを原則にしているんです。
そこで運転ボランティアの人たちが、その移動を支えて活躍しています。
しかし、京都市の区外に病院があったり、高齢者のデイケアの施設があったりすると、やはり遠いので、その地元だけでは運転ボランティアしきれないため、京都市内レベルで、タクシーの無線配車の仕組みを参考に共同運行を京都市内の5つだったか、6つだったか同じような活動をしているグループが集まり「京都移動サービス事業体」というのをつくって車の協同運行とかを始めて、もう3年ぐらいになります。
ボランティアとは言え、ガソリン代をもらっていますので、これは有償による人の移動の契約になり、道路運送法違反に当たり、要するに白タク営業だということで、違法な活動なんですが、摘発するなら摘発してみろと言っているわけです。
なぜかと言うと、摘発したら公がそれを肩代わりせざるを得ないし、公が肩代わりするということは大きなコストがかかるから、当局も見て見ぬ振りをしているということなんです。このことは市民活動の強みだと思っています。必要があってやっていることを違法だといって摘発するんだったら、その法律が悪いんだ、だったら新しい法律をつくってほしいと、いうふうになるわけです。
●「必要的移動」と「文化的移動」
移動サービスということを通じ、人の移動には、「必要的移動」と「文化的移動」の2種類があることが分かりました。
1つ目の必要的移動は、どうしてもそこに行かないと自分の命が危ないとか、それがないとやっていけないという移動です。これには、病院に行くとか、何かのリハビリを受ける移動とか、あるいは福祉のサービスを受ける移動等々です。これがないとやっていけないというもので、どうしても人は無理してでも、ボランティアに頼ってでも、あるいは何らかの形で移動します。
次に文化的移動は、例えば映画を見に行く、博物館に行く、旅行に行くということ等です。この移動は、文化的欲求としてものすごく大事だと思います。こういう集会に来るのも文化的移動だと思うのですが、障害者の団体が「はな博」に行った事例を紹介します。
10人ぐらいの車いすの集団が、公共交通手段を使って移動するのも1つの移動の仕方ですが、やはりいろいろコストがかかったり不便なことがあったりするので、滋賀県の団体がこの大阪の移動サービス事業体の車を使い、高速道路を使って大阪のある特定のエリアまで行き、そこで今度は、大阪の活動グループが淡路島までリレーをして運び、今度は淡路島で、兵庫県で活動しているグループが1泊2日のボランティアで「はな博」のお世話をしたという事例です。帰りは逆のコースをたどったわけです。
公の制度がないところで、非営利活動としてサービス事業をしている人たちが広域に連携できたという1つの文化的移動の例だと思っています。
このように外に出れば出るほど人のつながりが大きくなってきます。
そして今度は、別に集団旅行だけを補助しなくてもいいのではないか、パーソナルに映画に行きたい、博物館に行きたいということで、ガイドヘルプみたいなニーズが出てきます。ガイドヘルプの活動も本当はもう少しパーソナルアシスタンスという言葉を使い、個人の自己実現的な文化的欲求を実現するというパーソナルアシスタンスサービスがもっと潤沢になれば恐らく障害の種別を超えていろんな人に利用可能となりよくなるわけですが、パーソナルアシスタンスやガイドヘルパーも公が行うと、残念ながら行政の管轄の壁がじゃまして、たとえば、「大阪に映画を見に行きたい」と言っても、京都市で雇ったガイドヘルパーは京都市の長岡京までは行けるが、その先は行けませんという変な話になってしまいます。
このように行政には縦割りの壁があるから民間非営利活動に任せてほしいということになり、全国どこへでも行きましょう、場合によっては世界に行きましょうという活動をしているグループが結構あります。
必要的な移動については何らかの公の仕組みが必要でしょうし、文化的移動についても憲法第25条に健康で文化的な最低限度の生活をするっていうことに対する1つの具体的なモデルと言ってよく、これら京都のNPOベースのボランタリーベースの活動から、随分いろんなことが分かってくるわけです。
●パソコン講習会
それから、去年やってなかなかおもしろかったのは、パソコン講習会です。国が音頭をとり、障害者向けだけでなくいろんな市民向けに町のパソコン屋も含めていろんな講習をやりました。
しかし、パソコン講習はその会場に出て来るということが前提になっていたのですが、そこまで来れない在宅で重度の動けない人とか、中途で障害を持った人たちがいたわけです。
本当はそういう出て来れない人たちこそパソコンを使い世界につながるっていうことが大事なんですが、これが放置されていたということがわかったので、私たちが京都府に提案し、ピザ屋の宅配に学び、電話線さえあればできることだということでデリバリーサービスを始めました。
そのサービスのやり方は、パソコンとモデムなど機材一式を持ち、2人1組で、NPOセンターから2日間派遣をするような仕組みです。京都府内全域の在宅の、特に中途の障害者で、脳梗塞とか、気持ち的にもなかなか出にくいっていう人たちを対象に100軒近く回りました。
インターネットにつなげられたということが世界につながった、あるいは社会から孤立していないということのとても大事な1歩だったという感想をもらしてくれましたし、行く先々で本当に「よう来てくれた」と,涙、涙の喜ばれ方でしたので、デリバリーサービスは役立ったんだなと思っています。
このことは、本来パソコンを通じていろんな世界につながることができる人たちが実は放置されているということに気づいたこと、そして、運よく自治体も取り上げてくれました。これは京都だからできたことで、もっとほかには放置されている状況が多いかもしれません。
このような体験から、情報バリアフリーも移動と結びつかないと、この情報バリアフリーと移動バリアフリーというのはとても大きな2つの両輪であるように感じています。
これは今紹介した話だけではなく、もっといろいろ応用可能な場面が多いのではないでしょうか。移動と情報に視点を定めてバリアフリーをするということで、アメリカ障害者差別禁止法がねらっていた環境を変えるということだと思います。
●働き方を多様にしていく
そこで、もう1つ雇用が発生するといいなと思っております。専門的な集団が障害のある人に、差別を乗り越えるためのサービスをするというだけではなくて、障害を持った人がなるべくならサービスをできる方の雇用の場になっていくといいなと思っているわけです。
この会は職場復帰とか現職維持とかそういうテーマで活動されているようなので、NPOなんかをつくるという、まあ一種の起業です。
アントレプレナーですが、起業しながらしかし営利を目的というだけでなく、非営利の分野でも活動の場がありますし、非営利だからといってただというのではないのです。事務局で働いている人は賃金がもらえる水準の人ですので、この非営利ベースでアントレプレナー(起業する)は、私は社会起業家と呼んでいるんです。
社会的な課題に向かってNPOという1つの法律の枠組みを使いながら、公の補助金を得て、さらにフィランソロピー、企業の社会貢献が得やすいので補助金も結構あります。こんな仕組みを通じながら社会的な課題に向かって起業するということで、社会起業家と呼んでおります。
だから、目の前にいる学生たちに、障害を持った学生たちの1つの生きる方策として、彼のあるいは彼女の障害を生かすということです。全盲だからあるいは聞こえないから得ている世界があるわけなので、これをやはり生かして社会に返していくと環境とのコンフリクトが起きるので、そこでうまく改善されていくような仕組みができないかなと思っています。
ここで社会起業家的なあり方も選択肢として置いておくことは、大事な側面なのかなと思うのです。
ですから、働き方はいろいろあると思うので、そういう働き方を多様にしていくっていうことも、今後大事なのかなと思っているわけです。
●おわりに
この対人援助やヒューマンサービスにかかわり、あるいはファシリテイテッドコミュニケーションにかかわって、貴重な話がたくさんあります。その中に当事者集団がかかわっていくことは、とても大事なことだと思っています。側面的に見ているとこういうニーズが随分広がっているなと思うわけです。
この社会起業家的な活動の仕方は1人ではなかなか難しいので、NPOなどの枠組みを使いますと随分広がります。ぜひ考えていきたいなと思っており、こんな活動をしながら、自分のやっていることが賃金になっていくという形でNPO活動をし、ひいては雇用の場にしていくことをねらっています。
このことを考えているのは、若者たちのことがあるからです。若者たちも同じように、今、職業の選択に困難を感じています。それはフリーターが多いとか新卒無業と言われているぐらい、大学を出ても仕事がなかったりとか、おやじのようには働きたくないという思いがあるんです。これも一面ぜいたくな言い方ですが、家族を省みずにがむしゃらに働くような働き方は嫌だという、今の言葉で言うとスローライフとかスローフードになるんです。だから生活とのバランスと言いましょうか、これがとても大事なんです。
ここでようやく私の専門になるわけです。このところで家庭内暴力が起こりやすくなるのですが、これはさておき、仕事と生活(ワークアンドライフ)のアンバランスがやはりあるんです。
こんなふうに見ていきますと、がむしゃらに働き続けるような選択だけで仕事ということを考えますと、やはり若者たちは今これに嫌悪感を持っています。それがフリーター志向につながるのですが、これもやむを得ないところもあります。働き方を、1日4時間だけ働くとか、あとの4時間はボランティアをするとか、それを女性と分かち合うとか、世代ごとに分かち合うライフというようにワークシェアリングの視点で多様性を出した方がいいかなと思うわけです。
障害者の雇用のこととか、身体の障害のことについて、社会全体でいろんな変化が起こっているときなので、皆さんがこんな形でいろんな自助グループや当事者グループをつくり、社会に訴えるということも大事だと思っています。こんなことを思いながら、なるべく働き続けられる社会がいいわけですので、その働き方についても問題提起をしながら京都で活動しています。
そこで、全盲だとか聞こえないとかということで名乗り出てくれた学生はそこに存在するだけで価値があるのですが、言えない障害っていうのもあるんです。その言えない障害をもつ学生たちが随分アクティブに活動していることに誘発され、「実は私は、いろいろな障害を持ってます」と言って名乗り出てくれる人が多くなってきました。
この前相談に来てくれた子は、性的自我・同一障害(=トランスセクシャル)という、いわゆる体の性と心の性が合わない人たちです。これについても最近マスメディアでいろんなことが取り上げられ、社会的には認知されてきたのですが、この君っていうかこの彼女っていうか、なかなか難しいのですが、この人たちの悩みは、「大学でやっている健康診断を受けたくない」ということです。つまり「体の性に合わせて健康診断を受けなければならないのは嫌だ」というわけです。
これも、言ってもらって、ようやくなるほどなってわかるわけで、もし黙って健康診断を受けないとその子は健康診断不診断者ということで変なラベリングをされてしまうので、言ってくれたことで、個別に応対できる健康診断の仕組みができてくるわけです。
このようにいろんな障害を持った人たちが共存できるバリアフリー社会ができればいいなあと思います。
当面、京都における情報と移動に関する活動に焦点を定めて言えば、いろいろと具体的に活動しているので、全国的に交流ができるようになればいいなと思っています。
●どういうふうに情報を得たか
今回のテーマでもあります、「見えにくくなってきたんだけどな」ということに関して、そのときどういうふうに情報を得たらいいんだろうということで言いますと、最初に電話でいろいろ情報を得たというのもありますが、JRPSの広島支部に相談したときに、一緒にタートルの会も紹介していただき、連絡を取りました。
ライトハウスでパソコンの訓練を受けているうちに、インターネットができるようになりました。それは電子メールでの送受信とか、ホームページの閲覧で、それができるということを知ったときに、タートルの会のホームページで会報を聞きました。
あとは電子メールができるようになってから、タートルの会のメーリングリストというのに入りました。ライトハウスで訓練を受けるわけなんですけれど、大体は基礎的なことしか教えていただけない、そこからどうしたらいいかなということで、自分の必要な情報をインターネットでホームページを検索して得るということもしています。
あと、ライトハウスにいるときに、いろいろな人の紹介で個人的にお会いしてお話ししたこともありました。
今では日々のニュースや、流通業、パソコンに関する情報などは、インターネットを通じて数多く入手できるようになりました。
●訓練で学んだ事
次に、実際にライトハウスでどんなことを学んだかというのを簡単に説明しますと、まず最初は白杖を使っての歩行訓練、これは結構時間をかけてやりました。あとは、1人で身の回りのことができるようにする日常生活訓練。ここで料理とか、アイロンがけとか、ミシンがけ、いろいろやらせていただきました。あと視覚以外の感覚を養う感覚訓練、点字の簡単な読み書きができるようにする点字の訓練、拡大読書器とか、ルーペとかを使ってのロービジョンの訓練、最後に大切なのがパソコンを使っての情報処理の訓練です。
パソコンを使っての情報処理の訓練では、ワードの基礎はOA講習で習ってましたから、ワードでの表の作成をつけ足して、エクセルを大体中級程度まで学びました。また、アクセスとパワーポイントというソフト、それをJAWSというスクリーンリーダーで読ませて学びました。もちろんインターネットとか、ホームページ閲覧、電子メール、これも教えていただきました。
そこで大切だと思ったのは、自分がやりたいこと、困っていることを、とにかく計画をたてて、集中的にやるということですかね。そこで習った基本的なことを、自分の地元に帰って生活する中でとか、自分の●会社に戻って会社の中で仕事をする上で、どんなふうに役立てていくかというのは、結局、最終的には自分でそこからどんどん膨らませていかないと、実際には役に立たない、本当に自分の身にはつかないと思いました。
●会社との交渉
続いて、職場復帰までの会社との交渉について簡単にお話ししますと、先ほどの会報とか、『中途失明〜それでも朝はくる〜』とかいう復職事例ですね、とにかくライトハウスに行ったという目的が、私が職場復帰したときに、どのような部署でどんなことができるのかということでした。これは僕もわからなかったし、実際会社の方も全然わからなかったですね。それをまず探しましょうということで、そこで得た情報の中の復職事例なんかを、1カ月に1回ぐらいのペースでレポートにまとめて、自分で実際に打ったワードの文章で会社に提出していました。
あと何回か復職交渉に、本社の方に行ったんですけれども、そのときには、実際会社でパソコンにどんなソフトを入れて皆さん仕事をしていらっしゃるのかなと思いましてね。私の場合弱視なのですから、会社で使用されているソフトを、どのようにしたら音で確認しながら仕事することができるかっていうことを確かめたかったんですね。そこで、実際にライトハウスからデモンストレーション用のスクリーンリーダーを持って行って、事前に会社の承諾を得て、一時的にパソコンにインストールしてどんなソフトがしゃべるんだろうということを、いろいろ試させていただきました。
あとは、仕事の事だけでなく通勤などを含めた歩行などについて、実際にどんなことができるかということとか、先ほどの助成金なんかの関連のお話を最後に担当の方と話して、現在の復職までこぎつけました。
●どんな仕事をしているか
私の会社は狭い敷地に建っていまして、4階建てなんです。つまり、フロアーの移動をするにも必ず階段を使わなければならない。私は中心部の視野が極端に狭い弱視でして、通勤はもちろん会社の中でも白杖を使用して歩いています。私の部署のある3階のフロアーの入ってすぐ左側のところに、約机2台分ぐらいのスペースがありまして、まず机に座ったところにパソコンがあります。富士通のデスクトップ型パソコン。ディスプレイ画面が19インチです。その左側に拡大読書器。その左側にOCRソフトを使うためのスキャナーがあります。
パソコンの中にどういうソフトが入っているかというと、まずスクリーンリーダーとしてはシステムソリューション栃木の2000リーダーですね。それと、IBMのJAWS=ジョーズというスクリーンリーダー。あと、スキャナーで呼び込んだ画像をテキストデータに落として読んだり保存したりできる「読みとも」というOCRソフト。それに、ホームページを閲覧するためのホームページリーダー。会社独自のものになると、具体的に名前は言えないんですけども、人事データの検索システムというんですか、そういうのも入れていただいてます。あと、勤怠管理に関するシステム、これも入ってます。これはもう全く会社独自なものなので、通常の2000リーダーでは、しゃべってくれないんです。 先ほど、スクリーンリーダーでJAWS=ジョーズと2000リーダーという2つ挙げましたけれども、通常のエクセルとかワードの処理をするときは2000リーダーを使って、あと2000リーダーでは読まないところ、そういう勤怠とか人事に関するシステムを動かすときはJAWSを活用しています。
店長さんが店でする面接の仕方のマニュアルなどをスキャナーで読み込んだテキストデータを編集してワード形式のマニュアルを作成するような仕事などもやります。
その他の仕事なんですけれど、私は弱視なので、所属している人事部人事企画課で、普通のパートさんがやっているような給与などの墨字のデータを見ながらパソコンに打ち込むような仕事はできないんです。そういう定型的な仕事、決まった仕事じゃなく、その都度いろんな部署から人事に関する電子データを使ってこういう資料を作成してくださいという要望が不定期に発生してくるんです。
例えを挙げますと、クリスマスケーキの社内での販売をすることが決まった時、各店とか、本社のスタッフの中での各所属で、どれぐらいの目標を立てていいのかわからないという時に、今現在の一番直近の人事データの中から、その所属別、店別に社員、パートさんやアルバイト別に、ちょっとした関数を使ったり、オートフィルタなどを使って計算して所属別に従業員数の一覧を作るんです。そういうデータを活用した仕事が入ってきます。
最近やった仕事としては、今年の10月ぐらいから、イオングループですので、ジャスコでもつけている名札があります。左側に顔写真が貼ってある。それぞれの人の名字だけ右上の方にラベルシールで貼ってある。これを我が社でもつけなければいけなくなったんです。従業員1万人以上ラベルをつくらなければならない。1つ1つ自分で1人で考えながらつくりました。
もともとの漢字データはあるのですが、その名字と名前の漢字データの中から名字だけをまず取り出して、それをラベルシールをつくるために、4列18行のエクセルのシートに名字だけ貼り付けてやってそれを印刷して、そのデータ自体は各所属別にそれぞれにファイルで分けて、それを電子メールで各部署に送信する。ここまでやらなければいけないことで、さすがに僕もこれ1つ1つ手で、キーボードで入力していたら間に合わんというか、手が疲れるというか、しまいには間違いも出てくるだろうなと思いまして、エクセルのマクロ機能を活用しました。
先に述べたような一連の作業をパソコンに覚えさせておいて、それがいろんな従業員の数とか、所属名とか、所属の地区名とか当然全部変わってくるんで、それもその所属名、地区名、所属の人数ごとに、同じ処理をするように中のプログラムをエクセルのVBAというプログラム言語を使って編集し直していって、ぽんとスイッチ入れたら、自動的に処理をしてくれるように作業の自動化をしたんですね。それをやると、大体2〜3時間かかるような、手で入力するような作業が、約20分ぐらいで正確にできる。
このようなことは他の従業員には知られてないからできなかったということで、これもライトハウスで教えていただいたことを発展させて仕事に役立てる。このように視覚障害者でも違った視点からの突っ込みで、他の人にあまり知られていない事もできるし、正確に短時間で仕事をこなす事ができるんです。つまり、視覚障害ということを抜きにして、「このような仕事は彼に任せよう。」という仕事を1つ1つ会社の中で実践して、それを見てもらって今後の仕事に結びつけていけばいいかなと思います。
●最後に一言
最後にまとめなんですけども、おととし会社の方から考えた方がいいよと言われるまで、店では苦労しながらでも働いて、できる限りの範囲で一生懸命やればいいんだと自分では思っていたんですね。だから病気が進行して視力がどんどん弱くなっていく、視野もどんどん狭くなっていく、できることはどんどん少なくなってくる、もう後退する一方だったんです。
けれども、去年の大坂のライトハウスと広島の職業訓練センターでの訓練を受けて、いろんなことを教えていただいて、もちろん生活訓練も白杖を使った歩行で、通勤も安全にできるし、ちょっとした身の回りのことも、そういう日常生活訓練でできる。そういうことをできることが1つ1つふえていく。
今までになかった、過去よりもいろいろ勉強すればもっと身につくんじゃないか、ということがどんどん増えていくのが楽しい。そうやって仕事をさせていただけることについて感謝している。そんな気持ちでやっています。
あと、最終的な人事部長の面談のときに「障害者は見えないということで職場の中で働くときにプレッシャーを感じているでしょう?」と言われたんです。最終的な面談のときには、自分の障害は自分の心の中で受け止めていたし、訓練のおかげでいろいろな事ができるようになっていたし、結構自信というか、「その辺のプレッシャーはあまり感じていません。そのような次元はもう卒業しました。今では、頭の一つ上から物事を考える事ができるようになりました。」と言ったんです。
これは視覚障害を受け止めた上での振り切りですね。そうしないと前へ進む事はできないというところもあるんですね。ただ、健常者も視覚障害者と働くときには、私たちもプレッシャーを感じているんですよと言われたんです。そう考えると、晴眼者は障害者の気持ちがわかりません。この人はどんなふうに見えているのか、どんなことで困っているのか。
けれど障害者というか中途障害に限られるかもしれませんけれども、普通の見えてたころの感覚というか考え方が、結構残っていますね。そのときの障害者に対する思いというか考えも、結構わかりますね。障害者当人ですから、障害者自身の気持ちも当然わかるわけです。
ということは、待っているよりもこちらからどんどん働きかけるとか、こうしたらできます、こういうことができます、ちょっとこういうことを手助けしていただければできますよということをこちらからどんどん言っていって、職場での中の人間関係というかコミュニケーションを取りながら、障害者と健常者ということをあまり考えなくでも仕事ができるように、障害者からの働きかけが必要だと思いました。
最後に、、会社に戻ると皆さん言われるんですね。「近江君、大変じゃのう。頑張ってくれよ。頑張りんさいよ。頑張ってね」。結構頑張ってねが多いですよね。私も、去年ライトハウスに入った当初は、ほんまにがむしゃらに頑張ってました。見えない目で見よう見ようとして、もう血走った目でやっていましたけども、あるとき、あんまり頑張っても結局長持ちせんのじゃないかなと気づいたんですね。何かこう途中でぷっつん切れちゃいそうな気がして。
それから、1日1日1つずつできることをふやしていくというか、いろんなことを経験して、少しずつでもいいから前に進んでいけばいいんじゃないかなと思ったんです。タートルの会ですからタートル(亀)のごとく、少しずつでも前に進んでいって、最終的に自分の目標とするところに行き着くことができればいいんじゃないかなということを最後の言葉として、今回の私の話を終わらせていただきます。
◆ 私たちを取り巻く情勢
今、視覚障害者だけではなく、一般の人も含めて私たちの雇用状況は非常に厳しい状況です。平成13年度だけでも、4017人の障害者が解雇されておりますが、その裏にはもっとたくさんの人がいると思います。
そういう厳しい状況の中にあって、タートルの会はできれば今の仕事を続けていけるようにということを目指して活動している団体ですが、あはき(あん摩・はり・きゅう)にどうしても進まざるを得ないという現実もあります。あはきへの道を選択し、それを極めることも素晴らしいことです。
あはきは先輩たちによって守られてきた、かけがえのない適職だと思います。ところが、そのあはきにおいても、今日、晴眼者の進出、無免許問題などで大変厳しい状況があり、あはき法19条改正など、改善を求めて運動が行われております。
一方、私たちにとっては、障害ゆえに退職や解雇に追い込まれるという深刻な問題があります。これに関して、日弁連の委員会の中で障害者差別禁止法の検討がされていることはご承知のことと思います。タートルの会としても2度ほど意見交換の場を持つことができましたが、一日も早くそういう法律ができて、私たちの働く権利が守られるようになって欲しいと思います。
また、先頃発表された厚生労働省の身体障害者(児)実態調査によれば、障害者の数全体は30数万増えているんですが、視覚障害については若干ですが減っています。減っている中で、特に高齢化が他の障害よりも進んでいて、盲学校の児童・生徒数も年々減っています。障害の重度化ということでは、1・2級の障害を合わせると、ほかの障害が45%なのに、視覚障害の場合は60%です。視覚障害者については、少子高齢化と重度化が他の障害に比べて著しいという特徴があります。
このような状況を考えると、これからの視覚障害者の雇用問題は、中途視覚障害者を抜きには考えられないと思います。
◆ 固有名詞を冠した先輩たちの運動の紹介
さて、あはき以の視覚障害者の職業で、サラリーマンというか、そういう形での雇用の問題というのは最近のことではないかと思います。日本ライトハウスで電話交換手の訓練が始まったのが1969年からです。それからプログラマーなどと続くわけですが、何れにしても、大体、この30年の間の歴史ではないかと思います。ただ、盲大学生については、戦後、1949年に大学の門戸開放があり、その後次第に点字で大学受験ができるようになっていきました。ただ、卒業後の就職問題ということになると、今も氷河期そのものです。
以上のことは、雇用連(全国視覚障害者雇用促進連絡会)の『ここまで来た視覚障害者の雇用・就労』(20周年記念誌、1999年)に書かれています。この中には、今から30年前の1970年代には、私たちの先輩たちが非常に頑張った時代があります。横浜税関の馬渡闘争に代表されるような職場復帰闘争があり、東の馬渡藤雄さん、西は京都の一谷孝先生と、合い言葉のように言われていたようです。その他に、東京12チャンネル・鈴木英世さんの職場復帰、藤野高明さんの教員採用の闘いがありました。藤野さんという方は、小学生の時、不発弾で両眼と両手を失った方ですが、本格的に勉強する時期が遅れたということもあって、一生懸命努力されて、大阪の教員採用試験にも受かりました。しかし、障害ゆえに採用されず、翌年また合格し、支援者とともに大きな運動をしてようやく採用を勝ち取ったという方です。
その他にも、全国視覚障害教師の会の初代代表をされていた三宅勝先生の職場復帰もありました。この方は『音が見えた』という本を書かれていますが、私もそれを読んで随分感動し、励まされました。さらに、本日も関わっていただいていますが、京都には「いちりんの会」というのがあります。この会を立ち上げられた永井昌彦先生を始め、多くの方が、あはきでないところでの一般就労を目指して頑張ってこられました。また、いまお話ししたような先輩たちを支援し続けてこられたお一人として、きょうここに参加していらっしゃる加藤俊和先生がおられます。先生は、学生時代に視覚障害者と出会って、ボランティアをしながら支援活動に関わって、いつしかそれを本業としてずっとこの道で働いてこられた方です。
いろいろ固有名詞を挙げましたが、そういう固有名詞の付いた先人たちの不屈な闘いと努力、そして、それを支えた仲間たちの頑張り、それらのレールの上に、私たちの今があると思うんです。
ところで、実際、視覚障害者がどんな仕事に就いているかということについては、『日本の視覚障害者』(社会福祉法人日本盲人福祉委員会、1997年)という小冊子があります。確かにそれを見ると、教員だとか大学の先生とかマスコミの記者とか、議員さんだとか弁護士さんだとか、お坊さんだとかシスターだとか、一見いろんな仕事が挙がっています。その限りでは、視覚障害者だからこういう仕事ということではないんだなと、ふと思います。しかし、数からいくと非常に少ない。
ということは、やはり、あはきで生計を維持している人がほとんどであって、それと、一方では、いわゆる中途視覚障害者の多くが、失明しないまでも、不安を抱きながら会社で頑張っているとか、その他多くは自営業とか、そういう形で働いているというのが実態ではないかと思います。
◆ 参考資料の紹介
ここで、参考になる資料を紹介しておきたいと思います。
雇用連の『ここまで来た視覚障害者の雇用・就労』と日本盲人福祉委員会の『日本の視覚障害者』についてはいま紹介しましたが、その他に、会報『タートル』と『中途失明〜それでも朝はくる〜』、また『点字毎日』などがあります。 タートルの会報はホームページでも検索できますし、そこには多くの就労事例や復職・再就職の事例が載っています。特に、第25、21号、18号は総会報告として、相談事例を通しての問題点や課題、提言というような形でまとめられています。
『点字毎日』ですが、ちょうど今、創刊80周年記念特集を連載しており、その最新号(10月30日、テキストデータ版)には、「新職種開拓、読者と歩んだ激動の時代」というのがあり、養豚・養鶏、ピアノ調律等々、これまでいろいろと取り組まれてきたことが書かれています。
あと、タートルの会には教師をされている方の相談も多いのですが、そういう方には、『見えなくても教師はできる』(全国視覚障害教師の会)があります。
また、日本障害者雇用促進協会で製作した『視覚障害者の職場定着推進マニュアル』(平成11年3月)と『コミック版障害者雇用マニュアル、視覚障害者と働く』(平成8年3月)という冊子があります。この職場定着推進マニュアルには、日本ライトハウスの三宅先生も関わっておられ、職場復帰などの資料として、私も随分活用させていただきました。
◆ 相談事例、復職・就労事例の紹介
ここからが本題になるのかも知れませんが、視覚障害者の実際の就労事例ということでは、本日、東京の方から20人くらいの方がそれぞれ御自分の体験を持たれて参加されています。そういう方に、本当はじっくり話していただいた方が、いい話がたくさん聴けるのではないかと思います。私から特定の人に絞った話は難しい面もありますので、最近の会報に報告されている中から少し紹介します。
先ず、在宅勤務による復職です。大手銀行に勤められており、脳腫瘍で完全に失明された方です。訓練施設で生活訓練を受けていたのですが、いざとなると、なかなか職場の人事の方が抵抗するものです。その人の場合には総合職から嘱託ということに変えて、健康上の理由もあって在宅勤務という形で職場復帰をしました。在宅勤務の場合には、雇用保険の適用というところでなかなか厳しい条件がありまして、その辺をクリアするために、日本障害者雇用促進協会の雇用アドバイザーの方にも協力してもらったというケースです。
次は、お医者さんで、6年ぶりに医療福祉関係の専門学校の講師として再就職を果たされた方です。スポーツによる脳挫傷で失明され、休職期間が満了して退職後、私たちと繋がりました。パソコンの操作について、タートルのメンバーが訪問指導を行いました。その後、交流会で歩行訓練の話を聴いて、歩行訓練の訪問指導を受けました。専門学校の講師という仕事も、初めは頼まれてボランティアで引き受けたのが好評で、ぜひ引き続きということになったということなんです。
その他、子育てもそろそろ手が離れたところで、改めて歩行を中心とした生活訓練を受け、地域の職業センターでパソコン操作の訓練を受け、ハローワークの紹介で10数年ぶりに再就職されたというケースもあります。さらに、進行性の網膜疾患の大学院生で、私たちと交流する中で、将来的なことも考えながら、本来の専門から外れて、システムエンジニアとして就職したというケースもあります。それから、もちろん、あはきの道に進んだという方も、中にはおります。
実際、復職や再就職までには、福祉施設職員はもちろん、眼科医、企業内の保健師、労働組合、弁護士など、いろんな人との関わりがあります。
1つは東京大学病院での例なんですが、眼科のお医者さんが、患者さんである大学生について、どうすれば復学して、卒業後就職できるのか、そんな思いでインターネットを通じて私たちに繋がりました。結果的には、見事就職も果たし、いろんな資格にもチャレンジしながら元気で働いています。このお医者さんとの関係では、その大学生のケースも含めて、3つの就職、復職の事例があります。その2つ目は、糖尿病性網膜症の人でしたが、手帳には該当しないが、あと半年で休職期間も満了し、退職になるという時でした。この場合、さっそく地域障害者職業センターから障害者職業総合センターへ繋がることができ、パソコンスキルを身につけられ、無事に復職もできて、今も元気に働いています。
同じような形で、3つ目として、視神経萎縮の方の紹介がありました。この場合は、ほぼ全盲でしたので、施設に入所して生活訓練を受けて復職となりました。しかし、会社の組織が大きく、交渉窓口を探し当てるまでにいろいろ人脈を辿ってコンタクトをとったりと、なかなか簡単にはいきませんでした。生活訓練を終える頃には休職期間も満了となってしまうということもあり、何とか繋ぎとめるために、ハローワークにも相談しながら施設職員と一緒に交渉し、結局、再雇用を条件に一度退職することになりました。その後、職業訓練を受けて、改めて再雇用となりました。パソコンを活用して、お客様からのクレーム処理をするという仕事をしています。
次に、労働組合が関わった事例ですが、公務員の場合が意外と多いのに気づきました。
その1つに、福島県のある町役場の若い職員の例があります。網膜剥離から全盲になり、どうしていいか分からないでいた時、発刊されたばかりの『中途失明』の新聞記事を見て、家族から相談がありました。当局からは、辞めたらどうかとか、何度も退職を勧奨されていました。自宅に上司の方が来たり、助役さんが来たりとかで、いろいろ圧力があって、どうしていいか分からず、結局辞めるしかないのかなという状態でした。
私たちにつながってからは、労働組合の代表が東京に出て来られたり、こちらからも、和泉初代会長と松坂副会長が彼らの支援集会に参加したり、音声パソコンのデモンストレーションを披露したりと、視覚障害者が働くということを多くの組合員に理解してもらいました。職場復帰まで時間がかかりましたが、労働組合が粘り強く当局に働きかけをしてくれました。
このケースは、生活訓練は塩原視力障害センター、職業訓練は障害者職業総合センターということでしたが、両者の連携がシステムとして確立されていないため、不安を抱きながら入所待ちをしなければなりませんでした。しかし、ご本人は若くて何事にも意欲的で、今、大学の方に社会人入学も果たし、いろいろな方面で頑張っておられます。
次に、東京のある区役所職員の例です。ここでは、保健師さんと労働組合に支援してもらいました。当時の仕事は、図面のようなものをみたり、帳簿付けだとか、どうしても目を使う仕事だったのですが、見えないということを職場の中になかなか打ち明けられないまま頑張っていました。よくあるケースです。でも、やっぱりあるとき限界に達して、保健師さんに相談しました。保健師さんも、最初のうちはいろいろ動いてくれましたが、訓練のことだとか、配置転換の問題だとか、具体的な人事面の話になると、どうしても力が及びません。そこで、改めて、労働組合に協力してもらい、具体的な職業訓練の目途もつき、復職へと繋がったケースです。なかなか思い通りにいかないこともありましたが、結果的に、在宅訪問による歩行訓練と障害者職業総合センターでの訓練を受けて、福祉関係の部署に職場復帰をしております。
次に、日本ライトハウスで訓練を受け、大阪にある税務署に職場復帰をされたケースです。この人の場合は、そこの労働組合(全国税)から連絡を受けた時、同じ大蔵省関係ということで、横浜税関の馬渡さんの職場復帰の記録、『職場に光をかかげて』(中村紀久雄,新日本出版社,1981年)という本を紹介したのが決定的でした。実は、その本はそこの労働組合の本棚にもあったのです。その本を改めて紐といて、あっ、これだったらいけるっていう確信を持てたということでした。
それから、郵便局での職場復帰の例ですが、どうしても現業部門というのは厳しいわけです。先ほども、何人かとお会いしていましたが、どうしても配達だとかは目を使います。それが、車の運転が難しくなって、あなたは仕事できないんだから、これからどうしますかと言われるわけです。本人としては、やっぱり辞めないといけないのかなと思うわけです。これまでの複数の復職のケースでは、何れも内務作業という形で職場復帰を果たしています。
こういう相談は、網膜色素変性症の患者会とか、労働組合とか、いろんなところからあるわけですが、何れにしても、私たちと繋がったということで、困難を抱えながらも、現業部門で働き続けている事例もあるということです。
また、最近では、弁護士さんとの連携というか、協力をしてもらったという経験も生まれています。公務員の看護師さんの例ですが、やっぱり弁護士さんに相談してみるものだなと実感したケースです。最初、福岡県の柳川リハビリテーション病院の眼科部長さんから連絡があったんです。3年間の休職期限がもう切れてしまうという時でした。手帳には該当しない方でしたが、このままいくと分限解雇になると告げられたんだそうです。それまで職場の方は、好意的というか、大変でしょうから休んでいいですよということで、休職しました。医療ミスをしたらどうしようという不安とかもあって、復職を言い出せないままズルズル3年間来てしまった。そして、あなたにとっては分限解雇よりは自発的に辞めるのがいいと、依願退職の辞表を出しなさいということになったんです。
最初はそれしかないかなと思っていたそうです。改めて将来的なことなどいろいろ考えていて、働き続けたいと思うわけです。でも、もう日にちもありません。相談を受けて、今さら分限解雇ということもない、今となっては、「働く障害者の弁護団」しかないだろうと、そちらの清水建夫弁護士に繋いだわけです。
弁護士というと、ともするとすぐ裁判を想像してしまうのですが、そうではないということをご本人に理解してもらってから、ご本人から直接清水先生の方に電話で相談をしてもらいました。そして、ご本人の辞めたくないという意思表示を当局に先ずしてもらう。それと、決して、裁判を考えているわけではないけれども、自分の代理人としてこういう弁護士さんに相談にのってもらうことになったことを一言付け加えます。その後、弁護士さんが電話とファックスを入れたわけですね。たったそれだけのことで、急転直下、もう1回相談し直しましょうということになり、結果的には、仕事が本当に無理なのかどうか、復職審査会を開いて、復職が認められたものです。今でも多少、目の出血があったり、不安もあると思いますが、一度そこまで追い詰められていますので、本人から辞めたいということはありません。多分そのまま頑張っていってくれていると思っています。
私たちには、使える社会資源は何でも使おうという考えがあります。時にはマスコミを使うこともあります。職場復帰をしたという事実を書いていただいたり、訓練をしている風景を取材してもらったり、少しでもそのことがプラスになるんであれば、マスコミなども活用します。タートルの会の結成のきっかけになった厚生省職員のケースもまさにそうでした。12月9日の障害者の日に合わせて、復職を目指して訓練に励んでいる姿を載せていただいたんです。
実際、そういうふうに様々な経過を辿りながら職場復帰をしていっているということです。 ここで、現実の当事者の実情はどんな状況なのかということになりますと、比較的順調かなという例も少なからずありますが、多くは、困難と常に直面しながらとか、困難にもめげずにとか、困難が伴っているというのがほとんどではないかと思います。中には、困難と闘ってというか、そういう対決姿勢にある状況の場合もあります。また、新たな未来に向かって新たな出発を目指すという場合もあります。
◆ 終わりに代えて
終わるに当たって、私が言いたいことは、辞めないということなんです。今、首がつながっているんであれば、絶対辞めないで欲しいということを、あえて強調したいのです。しかし、現実には、何が何でも踏みとどまることがいいのかどうかは何ともいえません。仮に辞めたとしても、再就職の可能性はあるんだということ、これまでの経験や知識は無駄にはならないということ、自分の出番はあるんだということに希望を持って頑張るということです。
働き続ける上で大事なのは、ネットワークと、その連携ということだと思います。当事者との間では、交流ということになっていくと思います。交流し、情報交換をすることが一番大事なことではないかと思います。
とにかく辞めないということです。向こうは仮に首を切りたい、辞めさせようということを望んでくるとすれば、こちらも辞めないと頑張る、そういうことがあってもいいと思います。
お互いに変わるという姿勢も大事です。自分の希望を通そうと思えば、相手だって視覚障害者が職場に戻っていくなんてことは、それはとんでもないということにもなる。非常に不安感や負担感を抱くということは当然のことです。こちらもそれを察して、自分も変わっていくという姿勢も大事だと思うんです。
でも、ある対決状態になった時には、辞めないということです。それを貫くと、相手も、辞めないんだったら、何かやらせないといけないかなと変わっていく場合もあると思うんです。もちろんその長い間に、自分も力をつけていって、会社に貢献できるように変わっていくという姿勢を示すことが大事です。そのうち、社会情勢も変わっていくとか、そういうこともあると思うんです。
最後に、社会資源を活用するというところで、何もリハビリテーションが制度として充実していなくても、今ある制度を最大限活用してみるということも大事なことです。障害の程度や状況にもよりますが、必ずしも休職を取らずに、自分で情報を集めて、それを自分で実践されて職場復帰をされた方も参加者の中におられます。私は、現行制度の不備な中でも、あらゆる活用できるものは活用する、そういう前向きな姿勢が職場復帰を可能にするということを最後に紹介して、この話を終わりにしたいと思います。
中途視覚障害者の復職を考える会【タートルの会】会報
『タートル27』
2003年(平成15年)3月18日 編集
■編集 中途視覚障害者の復職を考える会 会長・下堂薗保
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社会福祉法人 日本盲人職能開発センター 東京ワークショップ内
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