会報「タートル」24号(2002.5.14)

1998年10月9日第三種郵便物認可(毎月3回8の日発行)
2002年5月14日発行 SSKU 増刊 通巻第774号

中途視覚障害者の復職を考える会
タートル 24号


【目次】

巻頭言
広げよう「選択の自由」
タートルの会幹事 北村 まゆみ

 私は、5歳の時に発症したI型糖尿病の合併症により、10年前に視覚に障碍を受けました。現在も、障碍を受ける以前と何等変わることなく、むしろ、年を重ねる程に、尚一層自分自身の健康維持、体調管理に努めていきたいと考える今日この頃です。
 障碍を持ちながら、この健康管理をひとりでどこまで継続的に実現できるかは、その個人のBESTな方法を具体的に考え、生み出し、選択し、実践していくかにかかっていると思います。
 どんな人でも、生きていく中で、目の前に大きく立ち塞がる壁を感じる時、「どうしたら?」と考えます。その時、その壁を乗り越える選択肢は、たくさんあっていい、たくさんあるほうが、その壁もた易く乗り越えられ、その後、その人らしく自然な流れで生きていかれるのではないかと考えます。
 生活の中で、家庭、職場、学校、地域社会等、様々な場面でこの「選択の自由」が真の意味で広く求められるのではないかと思います。
 私は管理栄養士として医療機関で勤務していた時期もありましたが、現在は単身生活中の学生です。その生活の中で、

等がある事を実感しています。
 しかし、どのような場面においても「・・・実践困難なこと」これを、あきらめることなく追求し続けることが今後、社会の中で私達が求める「生き易い生活」を獲得する上で重要なキーポイントになるのではと実感します。
 私は最近、自身の「こころ」と「からだ」の健康増進を目的として、様々な面で安全で継続性の高い運動療法のあり方について試行錯誤を続けています。
 現在のところ、夕食後、夜間のウォーキングを実践していますが、この運動実施には社会制度の一つとして存在する「ガイドヘルパー派遣事業」による支援をうけています。これにより安心して夜間ウォーキングの継続が可能なのです。
 しかし、この「ガイドヘルパー派遣事業」等の利用は、市の合併に伴う厳しい現実によって、利用者・ヘルパー共に、厳しい状況を突きつけられています。
 そのために、新たに「ウォーキングボランティア求む」等の広告をして支援者を募り、5月初旬より、試験的に数人のボランティアと共に動き出そうとしている段階です。但し、これが軌道に乗るまでにはかなり時間を要しますし、「確実」という観点からは、様子を観ている状態です。
 このように、生活においても、就労においても、障碍を持つ者が、生活し、働き続けるためには「確実」に支援の得られるサポートシステムが必要であると思います。
 また、併せて、特に中途障碍での就労の定着という観点から、スキルアップのための資格試験、入学試験等の受験方法に対する広い「選択の自由」についても、もっと門戸を広げて欲しいと切に願います。


走る喜びと感動を分かち合う
藤田芳雄(53歳・長岡市議会議員)

 私は若い頃、医師に将来の失明を告知され、絶望の淵に立たされたこともありました。次第に視力の低下が進むなかで、悩みながらも、それまで勤めていたNTTを退職し、鍼灸の道に進む決意をしました。
 文字通りの四十の手習い。寝静まった真冬の夜更け、冷え込む部屋で一人、硬くなった指先で点字をまさぐりながらの医学の勉強でした。眠い目をこすりながら「自分に負けてなるものか」と歯を食いしばって読み続けました。その目からいつしか一筋、熱いものが流れ落ちたことを今でも覚えています。
 そんな時にマラソンと出会ったのです。そこには、無言で私の背中を押してくれた妻と、励まし続けてくれた大勢の仲間達の声援がありました。
 もう二度と走ることはできない、走れないと感じていたマラソンを、一本の短いロープが再び私を降り注ぐ太陽の下へ連れ出してくれたのです。見えない私と伴走者の間をつないでくれる信頼の絆としての短いロープが。
 見えている時には気がつかなかった程の、流れる汗とともに大地を蹴り、風を切って走る充実感と爽快感を、私は再び取り戻すことができたのです。
 マラソンが私に生きる勇気と自信を与えてくれました。
 そして今、7年前に新潟県内に住む視覚に障害を持った走る仲間と「B・フリー」というランナーズクラブを作り、楽しみながら、励ましながら、今も走り続けています。
 走る喜びと感動が、私に大きな勇気と、かけがえのない仲間を与えてくれたことに感謝しつつ、私も市会議員として、マラソンを通じ、議会活動を通じて、一人でも多くの皆さんが社会参加をして、さまざまなことに挑戦する勇気を持ってくれるように応援していこうと思っています。
 私は1992年にホノルルで初めてのフルマラソンを走って以来、マラソンの最中は、苦しさで、もう二度と走るまいと思うことが何度もありました、しかし、なぜか毎年のようにフルマラソンに挑戦しています。
 今年も気がついてみたら、4月に行われた「長野オリンピック記念・長野マラソン」に申し込みをしていました。参加者は5300人で、全てフルマラソンです。私の記録は最高で4時間24分です。今回は何とか4時間半くらいでフィニッシュできたらと思いつつ、5回目のフルマラソンをスタートしました。しかし、スタート直後の世界最長と言われる約5Hの下り坂で調子良く飛ばしすぎて、前半では自己記録の更新かと思うほどのスピードでしたが、後半ではメロメロになり、そのダメージが後半にひびき、記録は4時間33分13秒、順位は一般男子の部で2331位でした。32H過ぎからは足が言うことを聞かず、全く動かなくなりました。無念にも初めて何回か歩いてしまいました。
 それでもフィニッシュの感動は素晴らしく、伴走のWさんと肩を抱き合い、喜びを共にしました。観客は18万人。完走は4230人で完走率は83%でした。
 今度のフルマラソンは、私にこれまでとまた違った感動を与えてくれました。それは、以前から伴走してくれていた人の突然の出場断念によって、一時は諦めかけた出場だったのです。それが幸いにも、いろんな形で応援してくれた人たちや新たな伴走者との出会いが、素晴らしい思い出を与えてくれました。それは人生の縮図を見るようでした。
 あんなに苦労したマラソンなのに、今はもう来年の長野マラソン参加に夢を馳せています。たくさんの応援本当にありがとうございました。


[職場で頑張っています]
石田奈央子

 私は神奈川県内のスーパーで電話交換と店内放送の仕事をしています。男女雇用機会均等法が施行され、「保育士」や「ナースマン」などという言葉が一人歩きをし始めたとはいっても、やはりこの職業に携わることが出来るのはほとんどが女性だけのようです。またダイヤルインの普及や、折からの不況の影響で実際に働くことの出来る場所も減ってきているのも事実ですが、それでも、視覚障害の女性にとっては、電話交換というのはまだまだ多くのチャンスを秘めた貴重な職域のように思います。だから、何かの縁でこの仕事に携わることが出来ていることをいつもそっと感謝しながら仕事をしています。
 さて、私がこの仕事に就いてから間もなく丸3年が経とうとしています。日々変化していく売り場やセール内容などの資料や情報を集めたり、お客様からの多方面に渡るお問い合わせに困ったりと、その日常業務は毎日ドキドキ、ハラハラの連続です。出来ないことが多い分、せめて出来ることは何でもして小さな貢献が出来ればと張り切ってはみたものの、それで疲れてしまうことも度々あります。
 そんなとき、ある売り場のマネージャーさんが言ってくれました。「お前、そんなに気を遣ってくれなくてもいいよ」と。障害をもっている私達にとっては、仕事の場面に留まらずありとあらゆる日常生活の中で、一生懸命になって頑張って無理をしてみても自分の力ではどうすることも出来ないことが、残念ながらまだまだ沢山存在しています。そして、ともすれば私達はその場にうずくまってしまいそうになったりもします。そんなとき、たった一人でもいいから私達が頑張っているのをちゃんと分かってくれている人がいることを知るとき、それは顔を上げて次のステップに歩き出す大きなパワーになります。彼のこのたった一言は、私にとって「本当の気持ちは必ず伝わる」と強く確信させてくれるものでした。
 そんなドキドキ、ハラハラの日常業務の中で、お昼の休憩は毎日の大きな楽しみの一つです。社員食堂のメニューは3種類で毎日内容が変わります。食堂のおじさんやおばさんがメニューをとても丁寧に説明してくれ、お皿の中のイメージを自分なりに膨らませながら、おいしく昼食をいただきます(たまにおいしくない日もあります)。それから、食後は社食の入り口に並んでいる自販機へと急ぎます。街中によくある、二桁の番号を入力して希望の飲み物を買うタイプのものです。タートルの会員の皆様の中には世の中からお酒がなくなったらもう生きていけないという方も沢山いらっしゃるのではないかと推察しますが(笑)、何を隠そう私は世の中から牛乳がなくなってはたった1日も生きてはいけないほどの牛乳愛好家です。そこで、先日食堂のおばさんから自販機のダイヤルの使い方を教えていただいたのを機に、たった一人で「社内牛乳愛好会」を結成し、毎日日額70円の会費を払ってブリックパックを1つもらいます。こんなささやかな一時ですが、毎日とても幸せな時間です。
 仕事をしていれば毎日次から次へと本当にいろいろなことがありますが、今年は私にとっては「聖域なき構造改革」の年。この不況の世の中にあって、働くことが出来るということに日々きちんと感謝をしながら、視覚障害という重たいブラインドを両手でそっと押し上げて、いろいろな仕事や趣味、そして、今までには想像もつかないような考え方を持つということにもチャレンジしてみようと思っています。まずは社内での更なるコミュニケーションを図って、「愛好会」の会員を増やすことから始めてみることにしたいと思います。


職場復帰に際して思うこと
近江辰夫
兵庫県在住・40歳
視覚障害2級(網膜疾患)
大手スーパー勤務

 「ほんじゃー、行ってくるけんね。この1年間いろいろ迷惑をかけたけど、今日からはまた一生懸命働くけんね。」
 今年の4月8日の朝、約1年ぶりに復職を果たして、初出勤する日の家族の皆にかけた言葉です。
 会社までの約15分間、白杖をスリスリしながら、昨年の3月末から、会社を休んで、「広島障害者職業センター」や大阪の「日本ライトハウス」で、歩行訓練、日常生活訓練、点字の読み書きの訓練、パソコンを使った情報処理の訓練を受けたこと、そして、訓練中に家族を含め、タートルの会や他の多くの方に励ましや貴重な情報を頂いて、ここまでこれたことが、グルグルと頭の中を駆け巡り、私一人のことでなく、肩の上には家族や多くの方の思いが乗っかっている様な気持ちで一杯でした。
 会社に出社してまず驚いたのは、「中途障害者作業施設設置等助成金」で揃えていただいた、パソコン、拡大読書器、スキャナなどが人事部がある部屋の入り口の一番近い場所に机2台分で、ドーンと設置されていたことです。
 もちろん、本社に勤務されている社員は全員が自分専用のパソコンを持ってはいるのですが、19インチのディスプレイがデーンと横並びに並んでいる状況は、いかんせん目立っています。
 「はたして、この人は会社でこのおおぎょうなマシンで何をするんかいの〜。」と、チラチラと興味ありげに見ながら、私の座っている後ろを通り過ぎるのが、周辺部の視野が多少残っている私には見えてしまうのです。
 その日の朝礼で紹介された時、私は、自分の現在の見え方と、今までの会社を休んでライトハウスで訓練を受けたことなど、また、40歳にして本社スタッフとして勤務する上で、新入社員に戻ったつもりで、毎日一つ一つ仕事を覚えていきたいということを話しました。
 そして、視覚障害者である私が勤務する上で、会社内でも白杖を使って移動すること、通路ですれ違う時や部屋に入る時などは「こんにちは」などと声かけをして、返事をしてもらうことで、どの辺に人がいるのか、その人が誰なのかを知ることができるんだということも話しました。
 出社してみてうれしかったことは、職場復帰する前に私が人事部長にお渡ししておいた「盲人との接し方」のマニュアルを同じ人事部内の社員へ配布されており、視覚障害者の私へのアドバイスや移動の時などの接し方がスムーズだったことです。
 白杖を使うとはいえ、会社内の移動に不慣れな私に「次は階段がありますよ」とか「そこを右に曲がると食堂ですよ」と親切に誘導してくださり、コピー機のボタンがどこにあるかを教えてくださる時も私の手で触らせて頂いて確認をするなど、非常にわかり易いアシストをしてくださいます。
 もう一つは、今の会社はグループ内の2つの子会社が合併してできたのですが、私が籍を置いていた会社の元上司が、朝礼の後や食堂などで、かわるがわる「近江君、どうかいの〜。」と声をかけてくださることです。
 その中でも内臓の機能障害がある元商品部長が「近江君、戻れてよかったの〜。同じ障害者同士、がんばろうの〜。」と、両手を握って応援してくださったことです。
 また、他の人々も休憩時間などでは、「私の親戚にも、障害を持った人がいるんですよ。」と、話し掛けてくださり、視覚障害である私が会社で働いていることにより、障害というものをより身近に感じて頂いているようです。
 仕事の内容は、人事部の人事企画課で、社員、フレックス社員、アルバイトを含む全従業員の人事データのメンテや、各部署からの要望によって、会社内のデータを加工して要望にそった資料を作成することになりそうです。
 企画課ということなので、定型処理業務ではなく、1ヶ月をスパンとした非定型的業務が主になりそうです。これは、ライトハウスでの訓練期間中に、復職後の職務を想定して考え実行していた訓練内容が役に立つことになりそうで、一安心しています。
 しばらくは、同じ人事企画課の人にマンツーマンで仕事の流れを教えていただき、各ステップごとに課題をもらって、チェックしてもらいながら経験を積むことになりそうです。
 職場復帰する上での緊張感よりも、こうしてまた会社で働ける喜びと、新しいことを教えていただく事へのありがたさと、自分で工夫をして仕事をする楽しさの方が大きく、やりがいのある仕事を与えてもらえそうで、感謝、感謝の毎日を過ごしています。
 ここで思い出されるのは、前人事部長が、昨年の復職を前にしての面談の時に言われていたことです。
 「近江君、障害者は会社の中で働くのに、プレッシャーを感じるだろうが、その周りにいる人たちも、それ以上のプレッシャーを感じているんだよ。」と言う言葉です。
 これから、この会社で働く上で大事なのは、障害者も健常者もお互いプレッシャーを感じずに、仕事の上での信頼関係がうまれ、スムーズに毎日が過ごせるような人間関係を作っていくことだと思います。
 最後に、私が訓練を受けていたライトハウスの職員でもある、職業訓練部の指導員よりの、視覚障害者が復職をして働く上での助言を次に記して、復職ができたことの報告を終わりたいと思います。


3月交流会記録 2002/3/16
知恵と工夫で 教壇にチャレンジ

【パネリスト】
吉原 学 (横浜市立城郷中学校)
窪田 巧 (聖心ウルスラ学園高等学校)
久保田千秋 (國學院大学附属栃木高等学校)
生井良一 (嘉悦大学)

【司会 & パネリスト】
山口 通 (都立工芸高等学校)

 きょうは司会とパネリストをさせていただきます都立工芸高校の山口です。どうぞよろしくお願いいたします。
 「知恵と工夫で教壇にチャレンジ」というテーマをいただき、我々5人に声をかけていただきました。きょうは中学校、高校、大学のベテランの皆さんに、縦横に、授業あるいはその他授業準備、そういったことでリハビリのことも含めてお話をいただきたいと思います。

● パネリスト自己紹介

【吉原】 皆さん、こんにちは。横浜市立城郷中学校教員の吉原といいます。年齢は42才。家族は妻1人と小学校5年生の息子と小学校2年生の娘です。 昨年から盲導犬「フェンネル」(雌、ブラック、もうすぐ4才)が加わり、ますます賑やかになりました。
 疾病は、13年ほど前に緑内障と診断され、その後どんどんと視野が欠け、視力が落ちてきました。両眼合わせて10数回手術をしたのですが進行をくい止めることはできず、6年前に医師の勧めにより角膜移植手術を受けたのですが、思わぬ副作用が出て、このときに失明が確定的になりました。4年前に障害者手帳の1級を取得しています。
 仕事の方は、大学卒後10年間ぐらいは体育の教師として、グラウンドとか体育館を飛び回っていましたが、緑内障と診断されてからは特殊学級、知的障害者の方の教育にも携わるようになりました。持っている免許は、中学校と高校の保健体育だけです。
 昨年5月の中旬にようやく復職を果たし、現在研修の身というあいまいな立場にあります。この1年間、いろいろなことをアピールする一方、毎日がテストされているような日々を送ってきました。この段階に至っても、まだ4月からのことは何も決まっていません。私の場合、全く誠意のない校長と私の以前のことを知らない職場に復職したので、周囲の理解を得るのがなかなか難しかったという状況があります。10年間勤めた前任校であれば、もう少しどうにかなったのかなあとも思ったりするのですが、視覚障害があっても、規定どおり転勤させられました。今回、復職や研修について、教育委員会といろいろ交渉をしてきましたが、「前例がない」の繰り返しばかりでした。
 リハビリは、2年前に神奈川の「七沢ライトホーム」で1年間家族と離れて、点字、パソコン、白杖歩行、その他生活訓練を受けたあと、盲導犬センターで1カ月間、訓練を受けて盲導犬をいただきました。

【窪田】 皆さん、はじめまして。宮崎から参りました、窪田です。このたびは交流会にお招きいただきまして、家内ともども、皆さん方にお礼申し上げます。本当にありがとうございます。私、声がつまり気味ですが、ちょっと間が抜けてまして、ずっこけたところがありますのでよろしくお願いします。このところは日々、朝明けますと4畳半の部屋にこもり、まずメールを読みせっせと返事を書き、お茶を飲み、お昼ご飯を食べ、昼寝してというような生活パターンなもので、おかげさまで太ってしまいズボンが入らなくなっていますので、今日は精神的なプレッシャーもですがベルトのプレッシャーにも悩んでおります。

【久保田】 國學院大学付属栃木高等学校に勤務している久保田です。私は他の先生方よりもまだ病気が進んでいないのですが、今後の自分の将来に渡る問題として考えていきたいと思い、参加しました。今日、少子化により非常に子供の数が減っていますので、私立高校という立場ですと厳しいものがあります。実は3月に、800人ほど3年生が卒業したわけですが、来年の1年生が約600人弱で、毎年、100人以上減です。このような職場の中で自分の仕事を守っていくには、かなり厳しい立場にあるのではないかと考え、私も本当に今後の問題として、いろんなことを勉強し決意を固めていきたいと、考えています。

【生井】 私は、嘉悦大学で教鞭をとっています。東大和市から参りました。私も盲導犬「ベッキー」を持っております。彼と一緒になってもうそろそろ10年になります。ベッキーのお蔭で足に羽が生えた感じで行動範囲も広いし相棒がいてくれるみたいで、学校生活も学生との間も、なめらかに進んでいるのではないかと思ってます。
 私は、大学院修士のとき、ベーチェット病に突然かかり、1年弱で失明しました。その後眼球も摘出したので、完全な全盲です。復学、進学という過程において、大学の当時の先生方に、「ここまでやってくれるのか」というほど、先生方のすばらしさを見せていただいたので、今私もかくありたいということです。
 そして復学してから知り合ったボランティアさんが、自分の寝る時間も削ってまでいろいろ支援してくださるのをみて、私は大変勇気づけられ、進学し、博士論文も何とかできました。就職のときも同様、いろいろサポートしてくださり、嘉悦大学(当時嘉悦女子短期大学)の嘉悦康人学長(現理事長)に受け入れていただきました。もう10何年になりますが、現在も多くのボランティアの方にお世話になっており、大変感謝しております。

【山口】 私は、今、52歳で都立高校、2校目です。1校目は立川高校の定時制と全日制両方の授業を持たせていただき、そこに12年。今の都立工芸高校は水道橋にありますが、14年目に入ります。普通科の人間は異動があるのですが、私の場合はなぜか異動がなく、残留しなさいということらしいです。ほかのデザイン科など5科の専門の先生も、ほとんど異動がありません。
 目の方は視野が3〜5度、両方とも視野が極端に狭い状況で、視力は手動弁です。それで最近とみに思うことは、半年間泊まり込みで受けた生活訓練などリハビリにおいて、毎日先生方のいろいろなアドバイスやマンツーマンの指導によって、自分が変わっていくのが非常によくわかったことです。先生方の「もし、あなた方がリハビリを受けて、事故や、あるいは亡くなったりすると、私たちは最も悲しいんだ」との言葉を今でも思い出しています。
 訓練では、階段の昇り降りやホームでのこと、パソコン、点字、黒板に普通の文字を書くこと、視力・視野がなくてもやれる手書きなど、いろいろ指導してもらいました。10年たってもリハビリのことが頭に残っていて、先生方の背後霊があるような感じがしています。

● 授業の準備以外のこと

【生井】 授業以外では、ゼミ、合宿、文化祭があり、個人的には盲導犬や障害者に関する講演などがあります。
 私は環境問題を講義しているので、その関係で「水」とか「ごみ」問題などをゼミで取り上げ、学生たちと川の水質測定のため、ある年は多摩川源流から東京湾の河口までと、ずっと調べたこともあります。生ゴミのリサイクルについては、学生たちと学生食堂の食べ残しをもらってきてやったりしています。合宿ですと、泊まり込みで出かけるわけですが、私の盲導犬はなぜか先頭を行きたがり、いつも学生たちが後からついてくるという感じで、それはすごく学生たちとの楽しい時間でもあり、ゼミの楽しい時間でもあります。
 文化祭もいろんな共同作業をするので、お互いに学ぶことがあるのではないかということで、私は毎年必ず参加しています。そうすると思わぬ学生が思わぬ力を発揮したり、これはと思っていた学生が意外とそうでもなかったりと、いろいろあります。
 個人的には、私がたまたま盲導犬を持っていることから、小学校の先生がぜひうちの学校で見せてくれないかということになり、盲導犬のことや障害者のことなどについて話をしました。それが口コミであちこちに話が伝わり、中学校、高校、大学、さらに居住地域などで講演活動を年に10回ぐらいやっています。とにかく机の上だけの勉強でなくて実際にやるというのが私の方針です。いろんな所へ出かけて行くようにもしています。

【久保田】 今年で学校に25年勤めることになります。21年目の平成7年の時に糖尿病性の黄斑症という診断を受けて、レーザーとかいろいろ治療したのですが、そのとき病気をこじらせたのか増殖性網膜症と判断され、その後出血等があり、学校を1年半休職しました。その間に手術を2回受け、現在の視力は、右が文字をコピーで122%ぐらいに拡大して読める程度で、左目は復職して1年後にまた出血し、現在文字が見えない状態です。疾病はどこまで進行するのかわからないのでとても不安ですが、できる限り自分の意思を通したいということがあります。
 仕事は、大学の付属ということで、かなり卒業生の先輩や後輩が多いので、割とそういう人たちに支えられながらやっているのが現状です。やはり、いろんな形で人の力を借りなければならないので学校全体を自分の味方になってもらうというとおかしいですけれども、抵抗のない形でそれぞれ礼をつくし、教職員、事務職員、管理の掃除の方とかすべてにわたって何か自分とよい関係をつくりあげ、皆さんの力をいろんな形で借りながらやらせてもらっている状況です。私は、1年半休んだ間、特に訓練を受けることなしに復職してしまったので、これから先のことについて、ちょっと考えなければならない課題があります。
 情報収集については耳からの読書が多いわけですが、偶然、中学校時代からの親友が日本点字図書館のテープ貸し出し係におり、その人が親切にいろんな情報を回してくれるので、なるべく目を疲れさせない形で生活しているというのが現在の状況です。

【窪田】 私の場合は、授業の準備というよりは、復職に向けての準備ということですが、3つのテーマプラス1つのアルファを設定しています。アルファとは、まあ何とかなるだろうという意味です。
 1つ目は、教科書をいかにして読めるようにするかです。私は、耳が遠いもので、テープに吹き込んでもこの2と5の聞き分けができなかったのですが、生井先生のボランティアの協力を得て、まだ100%ではありませんが、授業に対する準備は1つのきっかけができ、とんとん拍子に進んでいます。
 2つ目は、数学に対応する音声ソフトが見つからないことですが、 ところが、リハビリを徹底してやるという福岡県柳川市民病院の高橋先生という医師が、数学のソフトの使い方とか、パワーポイントというものの使い方とかを徹底して特訓するから出てこいと言うことで、入院することになり、ちょっと完璧とまではいいませんが実は足がかりが見つかりつつあります。
 3つ目は、歩行ですが、宮崎の方からきていただき歩行訓練を受けました。その歩行訓練士に宮崎市内にある障害者職業センターというところを紹介していただいたので、宮崎まで1人で3週間通い、そこでパソコンのエクセルを習い画面が見えなくてもキーボードでばっちりやれるということを教わりました。
 講習修了直後、ここにいらっしゃる広瀬先生が「Excelやりませんか」というタイトルのメーリングリストで、タイミングよくメールを流していたので、習ったことと照らし合わせながら、大変身につく勉強をさせてもらいました。
 最後のテーマは授業の中で何か使えるものはないかということで、筑波大学付属盲学校を訪ねたのですが、マグネットを使う助言をうけたことも、復職に向けて足がかりが見つかったと思っていますし、さらに、こういった活動を通していろんなネットワークの方々とつながりができたことなどをうれしく思っています。
 それから現在に至るまでのことですが、実は「全国視覚障害教師の会」から始まり、三宅先生からいろいろ指導を受けながら、東京の方の会員である山口先生の紹介で、共同通信の滝上記者のネットワークから地元の新聞社にずっと広がり、地元の新聞社が精力的に応援してくださいました。同じルートで弁護士の清水先生とのネットワークにつながり、神様が現れたような感じでした。経済的なこと、心理的なことなどから、裁判はやりたくないとの思いもありましたが、清水先生は「いや、そんなことは心配するな」ということで、早速訪ねてくださいました。「タートルの会」ともつながりができ、ここにお招きいただき、非常にうれしく思っております。

【吉原】  私は、年度当初の4月始業式からの復職をずっと希望し続け、それに間に合わせるようにすべてのリハビリの訓練を行ってきましたが、横浜市教育委員会は、説明もないまま休職を命ずるという辞令をいきなり出したので、私はもちろん強く説明を求め、再度交渉の場を設けるように申し入れをしたら、1カ月もたたないうちに委員会は態度を急変させ、復職を認めたわけです。
 復職に関してマスコミ向けには、リハビリ勤務であるとして、通勤や学校になれるために約3カ月間、半日間の勤務をするようにと命ぜられました。そのような状況の中で、私は、全校生徒に集会で話をしたり、生徒の福祉委員会とかいう組織の協力をしたり、2学期からの環境、保健の授業を予測して、教科書資料をパソコンで取り込み、自分なりに学習プリントを作成するなど準備をしていました。
 7月に委員会との交渉があり、そこで2学期からは地域の目もあるから学校では何もしなくてもいいから、通常の勤務に早く近づけてくれないかと言われたので、私は9月1日から早速フルタイムの勤務に入りました。そして、体力面でのアピールと、自分のストレス発散も兼ねて昼休みにランニングをはじめたのですが、これによって、同僚は体力面と気力面では問題がないようだと理解してくれ、生徒も「吉原先生、頑張って」と、たくさんの子供が声を掛けてくれました。
 9月に入るころには、障害者理解についてとか、盲導犬についてなど、横浜市内の小学校や中学校から講演依頼があったので、私は喜んで引き受け、準備をしていたところ、校長から、委員会からの指示として時期尚早である、講演活動等は一切断るようにとストップがかかりました。それでも近隣の小学校からは、先生が学校を出られないなら、こちらから伺いますと、代表の生徒を連れて、インタビューという形で話を聞くようなことや、19名の生徒を連れてきて、1時間あまりも話を聞いていったような小学校もありました。
 私は学校外の講演会とか研修会をピックアップし、思いきって校長に申し出、出張し、その結果を逐一管理職にも報告していたら、11月の半ばに自分の学校の先生相手に、障害者理解、障害者の思い、障害者を取り巻く環境についての話を40分ほどする機会を得、その後、1年生の7クラスで道徳の授業を2年生6クラスで、3学期に入って、3年生7クラスでそれぞれ道徳の授業をし、PTAの方からも、吉原先生を囲む会ということで1時間ほど講演しました。
 授業や講演については、自分なりに思い描いたように展開できたし、手ごたえも感じていたのですが、2月の教育委員会との話し合いの場で、体験学習等をするのは一切認めない、教員である限り自分の学校で本分を尽くすべきである、さらに環境や保健の授業を試させないうちに他教科の免許はどうか、外部での研修訓練ならいくらでも協力するなどと言い、私が希望していた生徒へ対しての教育相談活動、カウンセリングに関しては、委員会は何も触れなかったので、私は委員会に対して、来年度も研修という立場でしょうかと質問したら、歯切れの悪い言い方で、一応研修でなく正規の教員ですと答えがあり、ただほかの先生と同じようなことを要求するわけではないので、細かいことについては校長と話をしてくださいということでした。
 職場環境視察は、誠意も何ら感じられるものでなくほんの1分で終わるもので来年度から正規教員ですといいながら、人的な補助とか環境整備はまるでやるつもりはなく、このままほうっておけば、いずれあきらめて自主退職するだろうぐらいに委員会は思っているようにしか、私には思えないものだったし、横浜の公立小・中学校では、私のような障害者は教育現場で働いた前例が全くないそうで、委員会自体も、そういった教育現場で障害者が働く前例をつくりたくないのかなと、私は思ってしまうわけです。
 ちょっとうがった見方かもしれませんが、大した仕事もしないで給料をもらえているんだから、ありがたく思えと言いたげな感じの横浜の教育委員会です。それが一方では、表看板に国際理解教育、障害者理解教育を推進していますなどと言っている。こうした矛盾を感じるのです。
 私は結局いろんな経緯があって、現在、教育現場以外への配置転換を申し出ているところです。小学生、中学生らのピュアな心で受けとめて、従来の障害者に対する固定観念を打破してもらいたい。そのために、専門の教員として授業をやることも大切とは思いますが、私はこういう立場にいますから、たとえ教員の仕事を失ったとしても、広く浅くでもいいから多くの小学生、中学生に啓発運動をしていきたいと思っているのです。

【山口】 私は、授業以外ではまず生徒指導部という部を担当しています。私の学校は美術系の学校ですが、昔は男子が多かったのに今は女子が8割以上に及んでいます。生徒指導部では、例えば交通安全指導とかあるいは薬物の問題とかについて、年間で幾つかの行事を行っているのですが、今年度は、実際に薬物の経験者の方々で励まし合って生活している会の女性一人とその会とコンタクトがあるドクターの二人との交流を実施し、生徒の前で話をしてもらって、その後質疑応答を実施しました。
 クラブ活動は、演劇部とバレー部をやっていますが、バレー部の方は、女子バレーと男子バレー両方で、引率してゆき、試合も全部コートの中に入ります。試合のときは監督のサインが必要なので、ほかの学校の監督とか生徒にサインをする場所を教えてもらいながらやっています。

● 授業に関して

【吉原】 研修という身ですので授業実践は道徳の授業を20時間やったに過ぎないので、私なりに気をつけていたこと、心がけていたことなどについてお話ししたいと思います。中学校1〜2年生に対しては、障害者理解というテーマで体験談を中心に話をしました。30分ぐらい話をしたところで教卓の周りに生徒を集めて、白杖をさわらせたり点字をさわらせたり、そのほか視覚障害者の使っている補助器具などを実際にさわらせたりしながら説明を加えました。音声時計や、音声パソコンなんかも、デモンストレーションをしながら紹介したりもしました。
 子供の方もやはり座って話を聞いてるだけでなくて、そういう動きがあった方が、何かインパクトが強かったように思います。
 授業の準備とか片づけについては、生徒に大いに協力してもらいました。例えば「だれか誘導にチャレンジしないか」とか、「ボランティアの一歩だよ、先生の手助けをしてくれないか」という感じで明るく呼びかけると、思ったよりも多くの生徒が申し出てくれて、手伝いをしてくれました。
 3年生に対しては「障害者理解と盲導犬」というテーマで50分話し続けました。ちょうど卒業前の特別時間割の中での時間設定だったので「きょうは、みんなを社会人扱いして話すから、ちょっと大学の講義みたいになってしまうけど、頑張って聞いてくれよ」と言うと、最後までよく聞いてくれました。
 休み時間にはフェンネルにさわったり、おやつをあげたり、命令をしてみたいという者には命令をさせて、なかなか盲導犬と触れ合う機会のない生徒たちに、スキンシップタイムというのをつくったりして、好評でした。
 授業全般に関しては、できるだけ明るく大きな声で話すように心がけたわけです。中学生というのは、どちらかというと、障害を持っている人は、暗くもの静かというイメージを持っているようです。私が「皆さん、こんにちは」と言ったら、「うぉー」と、目が見えなくても、あんな大きい声を出せるとか。私が学校に行ったとき、「先生、見えないで学校へ来て何するの」と。「邪魔になるだけ、けがしちゃうよ。帰んなよ」とか。盲導犬連れて歩いていると、「すごい、そんなスピードで歩けんの」とか。ランニング姿を見たら、「すげえな、おれたち部活やってるけど、あんなに走れねえよ」とか。そんな感じで「すごいね、これもできるんだ。これも、これも、これも。障害を持っていても、ほかの人もこんなことできるの」と聞いてきたりするので、「いや、訓練を積んでリハビリやって、やりたいという気持があれば、できる人はたくさんいるんだよ」と言ったら、「そうか、そうなのかよ」と、4月当初ひどいことを言っていた子供たちがどんどん助けてやるから「学校の中では、心配すんな。おれたちがいるから」などと変わっていましたね。
 職員は逆ですね。5月に復職したときは「あ、何でも困ったことがあったら言ってください。コピーとかすぐやりますから、本当に困ったことは何でも言ってください。お手伝いしますよ」と言ってくれたんですが、生徒指導で忙しくなったり、テスト前で忙しくなると、「すいません。ちょっとこれコピー」、「ああ、今でないといけないの」という感じになるわけです。だんだん慣れてくれば慣れてくるほど「ああ、こうやって仕事をしないでも、この人はおれたちと同じ給料をもらってんだよな」というニュアンスが伝わってくるわけです。生徒たちと大人の感覚の違いは、この1年間で痛感しました。
 保健と環境の授業は、残念ながら実施できなかったんですが、20問ぐらいのマル・バツ形式の自作の問題をつくり、それを生徒にやらせ、解答を加えたり補足説明をする形で授業を展開し、その辺でちょっと「ファイナルアンサー、オーケー」なんて言ってやると、乗ってくる子供もいるので、やり方によっては単独で全盲に近い目でも授業ができるのではないかとの思いがあって、ぜひ試してみたかったのですが、かないませんでした。
 環境とか保健の授業に関して一般常識を高めるのは、中学生にはほかの教科以上に今や必要ではないかと思って、来年度から総合学習が本格的に実施されるから「あ、これはチャンス」、ここに何とか組み入れてもらえないかと期待し、働きかけをしていたのですが、学校現場というのはなかなか保守的な面があり、新しいことを提案してもリスクを心配して、すったもんだ議論をしたあげく、従来通りとなると安心して、しゃんしゃんという感じのことが、少なくとも私のいる学校現場では多いように思います。従来通りで安心してしまうような先生方に限って「おい、おまえら、失敗を恐れずに何でも挑戦するんだ」と叫ぶのですが、生徒たちはいろんな姿を見ているので、伝わるわけないんですよね。しらっとしています。

【山口】 窪田巧さんは先ほど授業の課題を話していただいたので、今度はおまかせします。

【窪田】 前々からの私の授業のスタイルをご紹介します。私は雰囲気づくりのめ、まず、「今何歳か」などとたわいない年齢を聞き、だんだん乗ってきたところで、しょっぱなに10分の15と2分の3を書き並べ、「これ同じ数ですか」と質問します。ほとんどの生徒が同じ数だと答えます。そこで、それぞれは1.5という答えになるが、実は別のはかりでみて同じだからイコールになるのであって、そのものは同じではないことを説明し、こういった考え方はほかの教科でも共通することであって、数学を勉強することで、ほかの教科に結びつくことを学べることを話します。
 そして「5分の0は幾らですかね」と聞き、目を向けると、ほとんど視線が下に落ちるのですね。大抵後からゼロと言います。「うん、うん、ゼロね」と。それならひっくり返して「0分の5は幾ら」と言うと、やはり「0」と言うんですね。「うーん、そんなら0分の0は幾らになるか」と言ったら、やはり「0」と言うんです。ずうっとこれを聞いていきまして、成り立ちを聞いていきましたら、そしたら「0分の0は0」と言ってましたけれども「いや、これルート5でもいいんだよ」と。「0分の0は3分の2でもいいんだよ。でも3分の2というふうに断定したら間違いだからね」と。そんな話をしてくると、生徒はもう騒然としてくるんですね。
 種明かしをして基礎計算を一通り終わってから授業へ入っていくのですが、この段階で必ず一言念を押すんです。「ほかのクラスの生徒には絶対教えたらいかんぞ」と。隣のクラスにも言うんですね、同じことを(笑)。 だけど中には試す子がおりまして、妹とか弟に試す子がいるみたいです。私は一応基礎的なことをやり、練習問題をやらせて、なれてきたころにチャイムが鳴るので、そこで自宅学習用に宿題を出します。
 そういった形で教科書で授業はせず、いわゆる教科書を宅習ノートという形でとらえて26年間やってきました。しかし、このままの授業では、受験志望で必要な子には困りますので、その子たちに対しては、受験対策として、朝と昼休みと放課後、あと土曜、日曜も徹底してやってきました。
 私は、目が悪くなりましてもほとんど黒板を利用するやり方でした。質問があったとき、生徒に問題を黒板に書かせるとほかの子も見ているので共通の質問になることを活用して、ノート指導はしていなかったのですが、 ただ、これから復職したときにもとどおり黒板が見えているのかなあという不安があります。
 そこで、解雇される1年前、パソコン指導も例題もやらなければとの思いで教科書の例題を暗記して、授業に挑んだわけですが、これが「けしからん」と学校側の準備書面の中にも書いてありました。目が悪くなったらスタイルを変えなければいけない、ということを悶々と考えていますので、先生方の話を参考に活かしていきたいと思っております。

【久保田】 私立の学校が生き延びていくためには、2つしか方法がありません。大学入試でどのぐらいのところへどのぐらいのものを出せるかということと、スポーツで名をはせるかということです。
 私は、現代文をやっているのですが、やっぱり教科書だけを扱っていたのでは絶対入試には勝てないわけです。教科書というのは非常に定着したテキストが教科書になるわけで、大体1868年から1980年代までぐらいのものが教科書に出るのですが、入試で実際取り扱われる文章というのは逆に1980年代から2002年まで、きのうまでというような文章が出るのです。それを生徒の前で展開していかなければならないので、そこのところはいろんなものを使わなければなりません。私は同僚と協力してチームティーチングって形でいろんな教材を選択し、拡大コピーしたものを読み解説していくということをやっています。
 ただ、自分が読むよりも生徒に読ませた方が読めない字とか言葉がわかっていないなとか意味がわかっていないだろうとか、いろいろ問題点がわかるものですから、まず、しっかり読ませるということと、授業を始める1年の初めに、「必ず私が言ったことはノートに取るように」と口述したものを筆記させ、漢字も自分たちで考え、どういうことを言っているのかを書かせる訓練をさせるという方式をとっています。テスト問題は、やはり同僚とチームでつくりますので、その文章の中でどこからどういうふうな問題をつくったらいいかを指示し、スキャナーで取り込んだものを問題文にしたりします。
 採点は、家内が中学校の国語の教員だったので、2人で相談しながら、「これでいいのか」とか、「この答えでもいいんじゃないか」などと、家内の力を借りて、集計等もやっております。
 今、大学がレジャーランド化、リハビリセンター化しているという話を聞きますが、高校はそれよりももっと物すごい状態でして、50人の人間を教室という枠があって、授業時間というのがある中で1時間じっとさせてこちらの話を聞かせるということは、非常に大変なことなんじゃないかと思います。例えば、50人、つじ説法で1時間引き寄せておくとしたら、相当おもしろいことを言わなればならないのではないかと思うので、なるべく琴線に触れていく言葉というか、それを常に語れるように自分も勉強していきたいと思っていると同時に、国語の場合は言葉を媒介にしたものですので、かなり視力にかかわりなくいろんな形で生徒から引き出すことができるかなというように考えております。

 (拍手)

【生井】 私の担当する授業では、都市環境、地球環境などを扱っています。
 初めて授業に出たときは、人数が少なくて、静かで割合うまくいったのですが、次の年、人数がちょっとふえまして、そうしたら、おしゃべりがすごくて、だれも私の話を聞いていないという状況になりました。正直言って、ただ僕は口をぱくぱくやっているだけなので、これは教師失格ではないかというふうに思い込み、かなり悩んだ末、少しでも話を聞いてもらえるように何とかしなきゃということで、私は理科系出身で、学生たちは文科系だから、理科的な用語はできるだけかみ砕くという作業をしっかりやり、大事なことをきちんと平易な言葉でどう伝えるかということに気配りしました。
 それと、90分授業はやはり長いので、半ばで5分間の休みを入れることにして、その間は幾らおしゃべりをしてもいいが、ほかの時間はしゃべらないということにし、クイズをやったり、盲導犬の話をしたり、トピックスをやったりという形で、めり張りをできるだけつけることにしました。
 そういう中で、ビデオなんかも使えるようになってきたので、話だけではどうもいま一つぴんとこない、たとえば今地球の環境がどうなっているかという場面を実際画像で見せるようになって、効果は高いのですがこちらが用意するのが結構大きな仕事になりました。
 私は毎時間話した内容をフォローする意味で、ここぞというところだけを編集したビデオを5分か10分必ず流すようにしています。
 そのために「あっ、これ関係ありそう」というニュースあるいは特集番組などは全部自分で録画しています。録画した1時間の特集番組の中から5分間の場面を切り出す編集作業は、ナレーションだけを頼りにして行いますので、エンディングの音楽はもういいだろうと思いカットすると、学生たちが「あーあー」と言うため息によって、映像もエンディングの音楽と共にカットしている失敗を知らされるわけですが、私にとってビデオは、そういう意味ではかなり助けになっています。
 それから、授業の準備ですけれども、環境問題は、環境ホルモンが出てきたり、遺伝子組みかえ食品が出てきたり、狂牛病が出てきたり、地球温暖化があったり、もう年々新しい展開があるわけで、何年か前の話をしていても仕方がありませんので、できるだけ新しいほやほやのネタを仕入れてやっていくつもりでやっています。
 仕入れ方法は、都立図書館、公立図書館の対面朗読サービスを利用して、朝から夕方まで読んでいただくわけですが、 そのときは調べたい関連する本を10冊か20冊出してもらい目次をだあっと読んでもらって、その中で関係ありそうというのだけをピックアップして拾い読みしてもらいます。
 それらの本の検索は、インターネットで蔵書検索したり、図書館の司書が用意してくれたり、僕の関心を知っている人が「本屋さんに行ったら、こういう本を見つけたよ」というので、本を持ってきてくれたり、「こういう新聞記事があったよ」と持ってきてくださったりということで、結構新しいニュースも確保できてるかなと思います。
 それで、「ぜひ、全部初めからしまいまで読みたいな」と、いう本は、私の個人的なボランティアの方に家で読んでいただきテープを送ってもらっております。
 実は、3月の初めに新しい科目を担当するようにということになりまして、そのために、図書館の司書さんに探してもらった本や、自分で探したものを、目次、あるいは関係があるところだけを本当に読み飛ばしって感じで、2週間ほどで、何十冊って朗読してもらいました。
 本当に、ボランティアの方にはどれだけお礼申し上げていいか、そういう方々がいなかったら私は仕事をやってこれなかったというのが本心です。それとそういうボランティアとうまくリンクしてやっております。
 授業では、汚い字ですが自分で板書します。前は見出しを書き、しゃべり、内容もまとめて全部黒板に書くということをやっていたのですが、結局、汚い字を学生たちが写しとるのも大変なので、最近はどういうテーマでやるかをバーンと書き、あとはいくつかの小見出しにわけて進めて行く形で、小見出しを書く程度です。まとめについては、手で書くと頭に入ってゆく利点もあるので口述筆記してもらっています。中にはプリントを配ってくれという学生もいるのですが、私は環境問題をやっている先生である以上、どうしても必要なものは配るが、プリントを配ると紙ごみがふえるだけなので、やたらには配りませんということを強調していますが、ま、実は、僕にとって都合がいいからなんですけれども、、、。
 僕は目が見えない。それで教壇に立っているわけだから君たちはいろいろ不満も、言いたいこともあるだろうし、また、関心のあるテーマなどなんでも書いてくれということで、年に何回か匿名のアンケートをとります。
 そうすると、黒板に消し残りが結構あって、その上に書いて見にくいので、言ってくれればいつでも私たちが消しますとか、 テーマについては、全く予定していなかった遺伝子組みかえ食品とか、狂牛病とかを書いてあることもあります。このようなときは、あわてて猛勉強するわけですが、狂牛病では「私の家は肉屋です、あの授業を受けてすごくよかった」と、レポートがきて感謝されることもあります。
 このように、私は、学生たちとアンケートとか、メールでやりとりをしながら授業を進めております。
 目が見えないと学生の雰囲気が分からないかというとそうでもなく、話を熱心に聞いてくれているとか、しらけているなとかいう雰囲気は結構わかるものです。しらけてるなと思ったときはこっちもやる気がなくなっちゃってどうしようという感じで、ま、けじめがつくところまでいかないと格好がつかないよなあと思いつつやるのですが、今もって、うまくいったなというときと、きょうは失敗したなというのが相変わらず連続しておりまして、そういう意味ではいつまでたっても新人教師と同じつもりで教室に臨んでいます。
 今の学生たちは、人間関係が下手でつい閉じこもっているのが目立つのですが、特に女子学生は2〜3人のグループをつくり、そのグループの中だけでやってほかのグループとは交流しないというまずい感じになっちゃうので、何とか壊したいのですが、下手に壊すと余計変なふうになっちゃいますので、そこら辺が何とかできないかなと思っているところです。
 私のところは学生も職員も図書館の人も、こちらでお願いすれば積極的に何でも協力してくださいますので、そういう意味では本当に恵まれていると思います。

【山口】 私は現代社会で、専門の倫理では哲学入門を、政治経済的なものでは憲法学とか政治経済的なものを受け持っています。哲学の入門に関して、本質的な自然とか人間とはというところが欠落しているのではないか、特に中学高校時代の幼い時に持った本質的な疑問をそのまま置き去りにして大人になっている場合が多いのではないかと思っています。
 哲学入門というのは、環境問題と当然連動してくるし、自然とつながる人間などみんな万物一体というものだと思います。
 ルーツを探ったりもしますが、日本人のルーツとか、アジア人のルーツはどこかというふうにいくと、ホモサピエンスにたどりつくわけですが、そのホモサピエンスの前にはモンゴロイドがあるわけで、縄文も弥生もアイヌもエスキモーもネイティブインディアンも、あるいはハワイの人々も、アジア人もモンゴロイドですので、非常に広い地域に生きているわけです。
 そうすると、どうして宗教が違うのか、宗教紛争が起きるのか、なぜ仲が悪いのかとか、なぜ宗教が生まれたのかとか等々の疑問が高校生に出てきます。
 それから、本当の自分とつくられた自分というのは、大体どれぐらいの割合なのかという、そういうのをやるのですが、そうすると、私がそれを質問した瞬間に生徒の方が、「先生は?」と逆に質問されてしまうという面白い展開もあります。人間の特徴と本質とか、自然と人間の関係とか、意識とは何かということなど基本的なことをやっておくと、すべての問題に全体像が見えてくるようになり宇宙と自然と人間、人間社会の歴史が連動しているというものがつかめてきて、自然の問題あるいは環境の問題にたいして、心も体もそっちに向くようになるものと思っています。
 黒板の使い方では、一度書いた同じところにまた重ね書きしちゃって、「そこ、重なってます」と生徒から注意されて失敗を知るわけです。ただ、今の黒板は上下にハンドル操作で簡単にピッピッピッピッと移動できるようになっており、ハンドルがちょうど黒板の真ん中にあるので、それを手でさわりながら、右半分左半分を使い分け、片っぽの方を上の方から大体10文字ぐらいから8文字ぐらい書き、そして長く書く時でも8文字から10文字でずらし、またその下に書き、さらにその下に書くというように、右と左で使い分けています。
 私は、図書館のボランティアの方あるいは地域のボランティアの方に、授業開始朝1時間前、学校に来ていただきお世話になっています。特に図書館には、自宅のすぐそばにある図書館をはじめ都立図書館などにお願いして、月に大体8冊ぐらいは読んでもらっています。
 教師としては刺激がなくなるとやはり失格かなといつも考え授業のマンネリ化防止のため図書館やボランティアの方々の援助のほか、二つの哲学の学会や、京都の方の研究会に入り、学会の新しい情報とかつながりを模索しながらアンテナを高くしてやっています。

(拍手)


窪田裁判の現状
(文責 工藤正一)

 昨年(2001年)7月26日、宮崎県延岡市の私立ウルスラ学園の数学教諭をしておられた窪田巧さんが視覚障害を理由に解雇されたことは、皆さんもご存知のとおりです。次第に不当性が明らかになる中で、今年1月28日、学校側は解雇を撤回しました。しかし、それと同時に、休職を命じてきました。これを受けて1月30日、窪田さんは裁判を取り下げるとともに、文書で早期復職を求めていました。
 しかし、学校側は復職を認めようとはしないため、窪田さんは、3月22日、宮崎地裁に対して、「休職命令の無効」と「給与の全額支払」などを求めて、新たな裁判を起こしました。
 5月13日に開かれた第1回の裁判は、学校側が欠席のまま行われました。
 次回裁判は6月10日(月)午前10時に開かれます。その時には、厳しい対立の場面が展開されると思われます。次回は、多くの方の傍聴で、窪田さんを励ましたいものです。
 以下、第1回の裁判を終えて、窪田さんからあるメーリングリストにレポートされたものです。ご本人及び同メーリングリスト管理者の了解の下に掲載します。

====
 MLのみなさん。こんばんは。宮崎の窪田です。日頃からご支援を賜り厚くお礼申し上げます。
 さて、本日宮崎地裁で第1回裁判がありました。テレビのドラマで演じられる法廷のセットそのままの部屋でありました。
 原告席にはマイクが目前にあり、2メートル先には証言席、正面(私からは左前方)には壇上に3名の裁判官がいて、書記官らしき方もおられました。右側には傍聴席です。
 大半は弁護士さんに説明して戴きました。私も発言する機会を得ましたが、流石に声が上擦りました。今回は学校側の欠席の中で行なわれましたが、記者会見では、三宅先生、広瀬先生の説明で、報道関係者に多くを訴えることができました。感謝申し上げます。
 このあと、労働局に出向いて(手続は他日)「労働基準法違反事実に関する申告書」を申し立ててきました。これは刑事的指導をしてほしいとの申告を意味しているようです?。これはかなりのダメージを与えるものと思います。
 内容は「倒産していないのに給与を20%しか支払っていない、悪質である」の申告です。
 昼食をとって、午後「仮処分申請」の説明のために別の裁判官と面談いたしました。専門的なことはわかりませんが、3つのことを行なったことになります。 以上
====

(追記)
 三宅先生、広瀬先生とあるのは、「全国視覚障害教師の会」の先生です。同会では、裁判の度、傍聴をされています。窪田裁判に関する資料は同会のホームページに掲載されています。
 タートルの会では、昨年12月、窪田さん支援の署名とカンパを呼びかけました。全国から、署名5,000筆、カンパ21万円という、たくさんの温かいご協力をいただきました。この場をお借りしてお礼を申し上げます。引き続くご支援をお願いします。


ブラインド・クッキング スクール
和田光司

日本茶・コーヒー・はたまた お酒のお相手に
『残り物野菜のクレープ風餃子』

 キャベツ、白菜、玉葱、ピーマン、人参、その他あれこれ残り物の野菜で簡単に作れるクレープ風餃子、もしくは餃子風お焼きを作ってみませんか?

【1】用意する道具
 まな板、包丁、さえ箸、フライ返し、ボー  ルかどんぶり、フライパン。

【2】材料
 残り物野菜、餃子の皮(ワンタンの皮で も可)、挽肉(無くても可)、サラダ油、そ の他お好みの調味料。

【3】さぁ、作りましょう。

  1. 残り物野菜を細かく刻み、それに挽 肉やお好みに合わせて生姜、にんにくなどで下味を付けて合わせる。
    ≪まな板の上で包丁を使って合わせても良いですが、まな板から飛び散ったりするのでボールかどんぶりの中でかき混ぜた方が良いでしょう≫
  2. 丸い形の餃子の皮の真ん中あたりにその材料を適量だけ乗せる。
    ≪なるべく平らに乗せて、皮の周囲は均等にあけておき、そのあいているところにほんの少しの水気をつける≫
  3. その上にもう一枚の餃子の皮を乗せ、皮の周囲を合わせて貼り付ける。
  4. 皮を合わせたら、乾いたまな板の上などで軽く手の平で中身の材料を均等な厚さにする。
  5. 熱したフライパンにサラダ油を入れ、フライパンの中に均等に油が回るようにする。
    ≪この際、さえ箸などの先にペーパータオルを挟み、そのペーパータオルで油を均等に馴染ませると良い。ティッシュだと破れた際に気が付かない可能性有り!≫
  6. フライパンに油が馴染んだら、その中に先ほどの餃子を入れる。
    ≪フライパンの大きさと餃子の皮の大きさを事前に把握しておくとまごつかない≫
  7. 手際よくフライ返しで餃子の表と裏を返しながら焼き具合を確かめる。
    ≪これが案外と慣れないと大騒ぎ!慣れたら簡単!≫
  8. 餃子の皮がそれなりに焼けてくれば中身の材料も火が通っています。
    ≪心配な方は材料を焼く前にレンジで軽く加熱しておけば大丈夫!≫

 フンワリがお好みの方にはクレープ風に、パリパリがお好みの方にはお焼き風に出来上がりますよ。
 あとはお好みの調味料で、ケチャップ味、カレー味、醤油味、ソース味、マスタード味など、それぞれで楽しめます。

 作り置きも可能です。焼く前でしたら冷蔵庫で数日はタッパなどで密封すれば保存ができます。そのさい保存中に水分が生じますので、重ねる時は間にラップを敷くと皮がひっつかずに済みます。


復職・再就職などで12人が新たな出発

 タートルの会の第7回定期総会を前にして、この1年を振り返ると、12人の人がタートルの会との関わりの中で復職や再就職を果たしています。メーリングリストなども参考にして、特徴的な事例をいくつか紹介します。

○在宅勤務で復職のHさん
 Hさんは大手銀行で総合職として働いていましたが、脳腫瘍の術後の後遺症で失明しました。闘病生活の後、生活訓練と職業訓練を受けました。当初、会社側は復職には消極的でしたが、訓練施設のケースワーカーの働きかけで、会社の考えを変えさせることができました。最終的には、体調に配慮し、嘱託による在宅勤務(定年までは雇用継続)という方向を自ら選択しました。在宅勤務の条件をクリアーするために、日本障害者雇用促進協会の雇用アドバイザーと職業安定所に相談しながら進めました。

○医療福祉専門学校の教壇に立つSさん
 脳外科医だったSさんは、スポーツによる脳外傷で視覚失認と記憶障害がありましたが、それを克服し、医療専門学校の講師として6年ぶりに教壇に立つことができました。Sさんは、退職後にタートルの会と出会ったのですが、会員有志のパソコン指導でパソコンスキルも上達し、メーリングリストにも参加し、積極的に投稿するようになりました。また、歩行訓練を受けて、交流会にも単独で参加できるようになりました。一方ではまた、音楽の方面での趣味を生かしたボランティア活動などでも活躍しています。そういう中で、ボランティアとして引き受けた特別講義がきっかけで、非常勤講師への道が開かれました。教材作りや講義の準備にもいろいろ工夫しているようです。前向きな努力と真面目な人柄が実を結びました。

○「分限解雇」に負けなかったNさん
 公立病院看護士のNさんは、病気により視力障害(障害等級には該当せず)となり、3年余にわたり休職を余儀なくされていました。休職期限が切れる直前、当局から「このままいくと分限解雇となるが、自分から依願退職をしたらどうか。」と言われ、困ってしまいました。以前から相談していた眼科医から改めてタートルの会に相談するよう勧められ、重い気持ちで相談をしてきました。切迫した事態を切り抜けるには、弁護士に協力してもらうしかないと判断し、「働き続けたい」という気持ちを確認しました。当局に対して、本人と弁護士双方からそのことを伝えました。その結果、事態が大きく変化し、復職審査会という難関もクリアーし、無事に復職を果たすことができました。
 以上の他にも、そろそろ子育てが終了したところで、生活訓練と職業センターでの訓練を受けたことがきっかけで15年ぶりに再就職のYさん、方向転換をし、システムエンジニアとして就職した大学院新卒のAさんや、あん摩マッサージ指圧、はり、きゅう師の国家資格を取得し、この4月から新たな仕事に就かれたMさん(自営開業)やOさん(再就職)などもおられます。また、職場の理解が不十分な中で復職し、理解を得るためにも「先ずはやってみるしかない」という気持ちで頑張っている人達もおられます。何れにしても、新たな出発をされた皆さん、お互いに励まし合いながら頑張っていきましょう。

(文責 工藤正一)


【お知らせ】

第7回定期総会

 開催日/平成14年6月1日(土)
 場所/港区立勤労福祉会館
     東京都港区芝 5-18-2 tel. 03-3455-6381

 総会/10:30〜12:00
 記念講演/13:00〜14:30
      「ちょボラでいいですか!?」
      講師・滝上広水氏(共同通信社記者)
 交流会/15:00〜16:30
 懇親会/17:00〜19:00(会費3500円)


【編集後記】
 私たちの会報『タートル』も1995年12月の創刊以来、24号を数えました。 記事の執筆から印刷・発送まで、すべてタートルの会員が手分けして行っています。
 さて、 本年度も定期総会の季節を迎えました。 現在、幹事会では総会準備の真っ最中です。多くの皆様の参加を得て、有意義で、実り多い総会にしたいと思います。
 今年度の総会記念講演会のタイトルは 『ちょボラでいいですか!?〜タートルの皆さんと出会って〜』です。 公共広告機構のCMでお馴染みの「ちょボラ」、「ちょっとしたボランティア」について、 記者として豊富な経験をお持ちの共同通信社の滝上広水氏をお招きしてお話を伺います。 誰でも、どこでも、気負わずに、ちょっとしたことを、 ちょいと手助けすることによって、 ちゃんとした共生の社会はつくられるのではないかと考える滝上氏は、 今の社会に忘れられている何かについて、 皆さんと活発なフリートークを望んでいらっしゃいます。 皆様の積極的な参加をお待ちしています。

トップページ