会報「タートル」23号(2002.3.5)

1998年10月9日第三種郵便物認可(毎月3回8の日発行)
2002年3月5日発行

中途視覚障害者の復職を考える会
タートル 23号


窪田さんの一日も早い
職場復帰を願って

タートルの会:副会長 工藤正一

 視覚障害を理由とした不当解雇事件がまた発生しました。解雇されたのは宮崎県延岡市の私立聖心ウルスラ学園高等学校の窪田巧さん(51)です。
 私たちは昨年(2001)12月10日、窪田さんと清水建夫弁護士(働く障害者の弁護団代表)から窪田さんに対する支援の要請を受けました。とても他人事とは思えず、皆様にも支援への協力をお願いいたしました。わずか2カ月半の2月末までに、署名数約3,000筆、カンパ約18万円が寄せられました。この場をお借りし、皆様のご支援に心から感謝申し上げるとともに、経過と現状を報告し、引き続きご支援をお願いする次第です。
 窪田さんは人望も厚く、教職歴26年の実力を備えた数学教師です。眼の病気で視力が低下してからも、拡大読書器等を活用して低下した視力をカバーし、一人ひとりの生徒にそった授業を行っていました。
 ところが、昨年7月26日、視覚障害を理由に一方的に学園から解雇されました。そのため、同年9月、宮崎地裁に地位保全と未払い賃金の支払いを求める仮処分を申し立てていました(解雇撤回により2月1日取り下げ)。学園側は視力低下を解雇の唯一の根拠としていました。つまり、医学的な面での「視力回復不能」にのみ着目し、事業主としてなすべき働く環境や条件を改善する考えなどは全くありません。
 裁判が進み、支援の輪が広がるなかで、学園側の不当性が明らかになっていきました。本年1月21日の第2回目の裁判所での話し合いを前に学園側から和解案が出され、1月28日、解雇は撤回されました。
 しかし、その真意は裁判所の決定(判決に相当)を避けるところにあり、学園側は態度を改めたわけではありません。このことは、解雇撤回と同時に就業規則にも反する休職命令、能力の検証という難題を新たに課していることからも明らかです。閉鎖された状況でビデオ撮影などをしながら、解雇に追い込もうとする陰湿な意図さえうかがえます。
 窪田さんは、自分の努力で既にリハビリテーションを終えており、学園側に障害者雇用促進法等に基づく配慮があれば、今からでもすぐに働けます。「休職命令を撤回せよ」という窪田さん側の要求には、学園側は無視を決め込み、今も復職を拒否し続けています。
 以上のようなことから、窪田さんとしては、休職命令撤回を求めて再度裁判を起こさざるを得ないというのが現状です。このような学園側の態度が容認されるならば、働くすべての視覚障害者にとって不幸なことであり、社会の流れにも逆行することになります。窪田さんが教壇に立つまでには多くの困難と紆余曲折が予想されますが、一日も早く職場復帰を果たされ、多くの人たちを励まして欲しいものです。私たちも支援の輪をさらに広げていきたいと思います。二度とこのような不幸な事件が繰り返されないためにも、何らかの具体的な実効性のある施策が強く望まれるところです。


地方交流会「2001 in 新潟」記録 2001/11/17
ライブ in Niigata リポート

島垣謹哉(新潟市在住)

 2001年11月17日(土)、どんよりした雨模様の中、“ライブ”はそんな天候も打ち消すかのごとく、開演したのでした。会場は新潟市の新都心万代シティに程近い新潟市総合福祉会館のホール。会場を埋め尽くした参加者は約130名近くに達したとか。某国営放送のテレビカメラも入るなど、開演前から熱気でムンムン。
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 午前中は松坂副会長の司会進行で、開演に先立って、下堂薗会長からのタートルの会の名称の由来を交えたご挨拶でスタートし、最初に登場したのは、今やJポップの聖地と化した函館から遠路遥々参加の“タートル産みの親”こと和泉森太氏。独特のR&B調の渋い喉で「障害年金について」を熱唱!聴衆は“タートルワールド”にどんどん入り込んで、頷く者、積極的に質問をコールする者と、ボルテージはノリノリの雰囲気に包まれてきたのでした。
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 午後の司会は、タートルの“タッキー”(往年か??)こと、滝口幹事。海外帰りとの地元障害者職業センターの主任カウンセラーからのPR、今回のトリを務めた大脇殿(東京)、井上殿(新潟)、治田殿(新潟)による、自らの創意と工夫、たゆまぬ努力をバックボーンとした「視覚障害者の就労」についてのパネルディスカッション形式での、滝口幹事を交えたバトルでクライマックスへ。最後の参加者全員による交流会では、全国各地、地元参加者とも一体となった盛り上がりで“タートル ライブ in Niigata”は無事終了したのでした!!
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 このライブの余韻は、ライブ前の新潟の“何か”をたくさん変えてくれたような気がしています。たとえ“目が不自由になったとしても”、積極的に、ひたむきに、自らの固定観念を変えて、ゆっくりでも歩き始めれば、多くの可能性が開けるかもしれない、という息吹とパワーを与えてくれたのではないかと確信しています。この“ライブ”の熱気は年が明けて2002年となってもゆるぎなく満ち溢れている気がしています。参加者各々の“シャウト”は、少なからず、新潟の地で中途視覚障害者のみならず、視覚障害者全てにおける、「就労」という「業」に対する“熱いメッセージ”として、永遠に語り継がれるのではないかと思わせるような“大きな贈り物”だったんだなあと、私自身もその熱気とパワーを、今呼び起こしながら自らの明日に向かって励んでいる毎日です。
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 最後に、この“ライブ”にご尽力なさった会の皆さん、地元スタッフ、ボランティア、参加者に「Thank you ! See you again!!」と記してライブリポートを終わります。


地方交流会「2001 in 新潟」記録

障害年金請求上のポイント
和泉森太
タートルの会幹事
国立函館視力障害センター・ケースワーカー

 平成12年4月から函館に勤務している和泉と申します。
 年金制度は社会保障制度の一環として位置付けられるもので、健康保険制度や労働保険(労災・雇用保険)制度など大別したもののうちの一つです。
 その中で、やはり経済的基盤という意味では年金の額が問題です。
 ヨーロッパあたりでは、リタイア(退職)後は年金で生活していけるということですが、日本では小遣い銭稼ぎをしなければ生活できないのが現実です。
 障害年金は1級が老齢年金を貰ったと仮定して、その1.25倍になり、2級の場合はその同額となります。また、公租公課が課せられませんから、所得税や住民税を引かれない分、お得ということになります。
 厚生年金保険制度は戦時下の戦費調達を目的として成立しています。
 昭和34年国民年金保険法が成立し、36年から施行されてちょうど40年が経過しました。20歳から60歳までを加入期間とする制度がやっと完成したと言えるわけです。
 昭和61年から国民年金を基礎とする制度が改められ、厚生年金や共済組合からも国民年金部分が設けられて拠出するようになりました。
 建前では、20歳以上60歳未満の全ての市民(国民ではない)が国民年金に加入していることになったのです。
 年金受給に関することですが、一番多いのが受給年齢が到達したという事故(保険事故)にあります。
 私保険(生命・損害保険)も同じ整理をしていて、給付条件に適合する事故(それが死亡・疾病・怪我等の事故)には給付しましょうというものです。
 同様に公的に運営されている年金保険でも「保険事故」という観点から捉えられているということです。
 障害年金の保険事故の要件は、一般には障害を自覚(発病)して医師に診療を受ける(初診)ところから始まります。
 そして、初診日から1年半後の時点を「障害認定日」と呼び、この時点で障害年金に該当するかどうか「国民年金保険法施行令(国年令と呼びます)・別表の1級・2級」について確認することになります。
 加入期間については昭和61年以前は厚生年金が6ヶ月以上、国民年金が1年以上を経過しなければ権利発生が無かったものが、全て現在は国民年金に統一され、1年以上経過していなければ権利は無いことになっています。
 加入期間で注意しなければならないのが、発病から初診の状況で、少なくとも二つの要件を満たしておかなければなりません。

1、(a)初診日に加入していること (b)初診日の属する月を含めて20歳以降の加入期間のうち3分の1以上保険料が未納でないこと。
2、(a)初診日に加入していること (b)初診日の属する月を含めて過去14ヶ月に未納期間が無いこと。
 1.と2.のいずれかを満たせば請求権があります。
 年金に該当する障害の程度については国年令別表1において、1級に関しては「両眼の視力の和が0.04以下のもの」、2級が「両眼の視力の和が0.05以上0.08以下のもの」となっています。
 3級は国民年金にはありませんから厚生年金保険のほうになりますが、「両眼の視力が0.1以下になったもの」(それぞれが0.1で和ではない)となっています。(最低保障額は60万円/年額)
 以上は視力に関することですが、これだけでは視野に障害のある方達は救済されないことになってしまいます。
 その点では救済条項があります。
 1級では、国年令別表の9号「前各号に掲げるもののほか、身体の機能の障害または長期にわたる安静を必要とする病状が、前各号と同程度以上と認められる状態であって、日常生活の用を便ずることを不能ならしめる程度のもの」となっていますので、「寝たきり」状態が表現されたり、「どうにも動けない、誰かの介助が無ければ生活できない」と医師が判断されれば1級という判定につながると考えられるわけです。
 視覚障害用の年金診断書には11番目に「予後」、12番目に「備考」欄が設定されています。
 医家向けのマニュアルには「不良」と記載されているため、そのまま「不良」と書かれる医師が多いのですが、様々な視点から、一人で日常生活をやれない、常に介助されなければ何もできないという状態をしっかり医師に表現してもらうことで年金にもつながってくることになります。
 2級では、国年令別表の15号「前各号に掲げるもののほか、身体の機能の障害または長期にわたる安静を必要とする病状が、前各号と同程度以上と認められる状態であって、日常生活が著しい制限を受けるか、または日常生活に著しい制限を加えることを必要とする程度のもの」となっています。
 高度な制限としての1級に対し、著しい制限の2級では、ガイドヘルパーさんの介助があれば何処へでも行けるが、一人では出掛けられなかったり、必要の都度お手伝いしてもらえると生活が何とかなるという状況を2級と考えて良いと思います。
 3級に関しては「前各号に掲げるもののほか、身体の機能に労働が著しい制限を受けるか、または労働に著しい制限を加えることを必要とする程度の障害を残すもの」となっています。
 年金各法がそれぞれ分立していたのと異なり、基礎を国民年金保険にしたための弊害が労働能力の扱いです。
 現状での理解は、労働能力が減退し働けないと判断されれば、最低3級年金は貰えると考えることができます。(予後の欄に記載されることが多い)
 労働制限には可能な限り触れないで、視力・視野等を勘案して、日常生活に非常に困難をきたしていることを訴え、医師にそのことを表現してもらうことを勧めたいのです。
 ほとんどの場合は、労働能力云々では済まず、生活レベルでも能力障害に陥っていると考えられるからです。(生活がかかっていますからね)

◇社会的治癒
 医学的治癒は、症状もしくは病態そのものが消失したことを意味しますが、社会的治癒は、再発するかも知れないが、一時的に(一定期間)社会適応できることから、そう呼ばれています。
 精神疾患のある方で、入院中は年金支給を受けられるが、退院して就労すると支給停止になる、この状態を「社会的治癒」としてきた経緯があります。
 つまり、再入院なら支給が再開されることになります。
 彼らは適応が困難を極めることが多いので、支給停止で経済的な根拠が希薄となるため定着への障害が大きいのです。不合理な考え方です。

 網膜色素変性症等の医学的な意味での先天的疾患については、その発病日や初診の取り扱いが触れられています。

【発病日】
 一般的に傷病の発病時期は自覚的他覚的に症状が認められたときとするのが原則であるが、ただし先天性の傷病にあっては潜在的な発病が認められたとしても、通常に勤務していた場合は症状が自覚された時、あるいは検査で異常が発見されたときをもって発病とされる。
 平成7年版障害給付Q&A(社会保険庁年金指導課・社会保険業務センターが監修、当時の定価4千円)の98ページに「先天性心疾患、網膜色素変性症等については、通常に勤務し、厚生年金保険の被保険者期間中に具体的な症状が出現した場合はその日が発病日となります」と書かれています。(翌年以降のテキストには記載が削除されています)

【初診日】
 初診日とは障害の原因となった傷病について、初めて医師、または歯科医師の診療を受けた日を言う、として、具体的には次の場合を初診日とします。

1.初めて診療を受けた日、診療行為または療養に関する指示があった日
2.同一傷病で転医があった場合は、一番初めに医師等の診療を受けた日
3.同一傷病で再発している場合は、再発し医師等の診療を受けた日
4.健康診断により異常が発見され、療養に関する指示を受けた場合は、その健康診断日
5.誤診の場合であっても、正確な傷病名が確定した日ではなく、誤診をした医師等の診療を受けた日
6.障害の原因となった傷病の前に、相当因果関係があると認められる傷病があるときは、最初の傷病の初診日

◇再発の初診日
 「社会的治癒」 を援用して、概ね5年くらい間隔が開くのが妥当であると考えられています。(これは社会保険庁の指導によるものと考えています)
 仮に3年くらいでも「再発の初診」で請求してみようとお考えになるのであれば、最終的に訴訟で決着をつける気持ちでやるべきだと思っています。
 「年金を支給しない」(不支給決定)と回答された場合は、都道府県・社会保険審査官に「審査請求」を行います。
 却下されれば、厚生労働省の社会保険審査会に対し、「再審査請求」を行います。
 それでも却下されれば、厚生労働大臣を相手に訴訟をおこすことになります。


地方交流会「2001 in 新潟」記録
見えなくても働けます
働いています!
〜私の工夫、私のチャレンジ〜

【パネリスト】
 井上博徳 氏(全盲)
  三菱マテリアル株式会社 新潟製作所 勤務
 大脇俊隆 氏(全盲)
  小泉産業株式会社 東京支社 勤務
 治田聡史 氏(弱視)
  ダイア建設株式会社 新潟支店 勤務
【司会】滝口賢一(弱視)
  ライオン株式会社、タートルの会幹事

●はじめにパネリスト自己紹介

司会 これから体験発表をまじえてのパネルディスカッションのコーナーとさせていただきます。私はこの場を進行させていただく滝口と申します。私自身も視覚障害ですので、いたらない点もあると思いますが、よろしくお願いします。それでは早速、今日のパネリスト3名の方から自己紹介をお願いします。

大脇 皆さん、こんにちは。私はベーチェット病で現在47歳です。東京の秋葉原にある「小泉産業株式会社」に勤務しています。この会社はライティング、照明器具のメーカーです。それと家具、なかでも学習机をメインに扱っています。
 現在、視力ゼロです。明るさについて質問されたりしますが、たとえば、自宅で「電気消しておいて」と言われて消すとき、プルスイッチをかちゃかちゃ何回も引っ張ってしまうとついているのか消えたのかわからなくなり、電球を手でさわるんです。当然熱い、もう1回引っ張ってもまだ熱いんです。だから最後には消えたかどうかわからなくて、口金を緩めてようやく完全に消えたのがわかる、という状態です。
 発病は30歳のとき、当時はよくわからず単なる眼底出血でした。それまではすごく元気で、健康が取り柄だけの人間という感じ。会社の車を使っての営業をやっていましたが、免許の切り替えがきかなくなり、受注の仕事へ。なんとか病院に通いながらもやってきました。最後は現在のショールームという部署に落ち着いたんです。
 ショールーム勤務の平成4年頃、ベーチェット病の発作がだんだんひどくなり、視力がゼロになりました。「何とかしなくちゃ」という気持ちはあるものの、いかんせん、歩けない、動けない、情報は入ってこない、新聞は読めないで、1年間いろいろ悩み悶々とした生活を送りました。2年目にやっと、東京都の生活支援センターで1年間の生活訓練を受けました。歩行訓練や点字、パソコンでの文字入力も少し習いました。3年目は本格的に、四ツ谷にある日本盲人職能開発センターで1年間パソコンの訓練を受け、平成7年の6月に復職しました。
 復職した平成7年は1995年、Windows95が出た頃です。私はMS-DOSを訓練してましたので、Windowsの方は独学みたいな形です。復職当初はデータ入力の仕事をしました。ショールームにみえるプロのお客様の名刺を入力する。これはボランティアさんにお願いして、テープに名刺の中身を読んでもらい、それを入力するというもの。その他、テープ起こし等もしました。今はネットワークとか共有フォルダが使えるようになり、そこに自分で作った資料を放り込んでおくといった仕事をしています。

井上 今、28歳です。新潟市のここの近くで生れました。目の方は先天性の白内障で、ほぼ生まれつき視力はゼロ。明るさ等も全くわからない正真正銘のゼロです。趣味は結構多くて、旅行とか魚釣りなど。あとは趣味と実益を兼ねて、パチンコもいそしんでいて、かなり遊びの方は充実しております。
 高校まで盲学校に行っており、高校を終わって進路をどうするかという話になりました。実際は筑波の技術短期大学で情報処理の専門教育を受けることになるのですが、なぜそこに行くことになったかというと、鍼灸の関係に進む人が多い中、どうも私、鍼を刺されるのがこわかったんです。何か他にはないのかなといろいろ話を聞くうち、音声を使ってコンピューターについて勉強ができるということで、当時はあまり深く考えずに、「「それ、よさそうかな」と進路を決めました。
 現在は「三菱マテリアル」という会社に勤めています。本社は東京ですが、私がいるのは新潟製作所というところで、社員は新潟だけだと今は750人ぐらい、主に自動車部品の製造などを行なっています。私の業務内容は、業種的にはシステムエンジニア。コンピューターネットワークの設計やソフトウエアの開発などをしています。今日はせっかくの機会ですので、堅苦しい話よりは実生活で本当に私の感じているところを中心にお話していけたらと思っております。

治田 私の都合で、途中で退席させていただきますが、よろしくお願いします。年齢は30歳になりました。視力は、左は明るさだけ。残っている右目は、網膜色素変性症という中途失明の代表的な病気で、だんだん視野が狭くなり、と同時に視力も落ちてきています。
 発病はよくわからないのですが、小学校高学年あたりから、野球をやっていたときにフライを見失ったり、何かにつまずくことがあったり、夜も物が見えないときがありました。そのときは別にそんな大したことじゃないと自分では思ってたんですが、高校のときにたまたま検査でひっかかり、家族が医学書か何か探して、こういう病気があるとわかり医者に行ったら、そのとおりだったんです。
 当時は「目が見えなくても東大に上がれる人もいるから頑張りなさい」などと言われましたが、まだわりとよく見えていたので、そんなに危機感はなかったです。が、やはり20歳を過ぎた頃から、だんだん見えなくなってきて左目が知らないうちに字が見えなくなっていた。両目で見てるから、まさか左の方がもうだめになってるとは気づかなかったんですね。
 今は、マンション販売の「ダイア建設」という会社の新潟支店で勤務させてもらっています。

●こんな仕事を、こんな補助機器で

 【現在の業務内容】

司会 井上さんと治田さんは働き始めて数年。大脇さんはもう長く働いておられ、しばらくリハビリ期間も過ごされているという方。この3名のお話を聞きながら、「見えなくても働いています」をテーマに進めていきたいと思います。では、井上さんと治田さんに、もう少しお 仕事の内容を詳しく。

井上 業務内容は、業種としてはシステムエンジニアで、コンピューターネットワークの設計とかソフトウエアの設計開発などを行なっているわけですが、いわゆるコンピューターの専門の会社ではなく、一般の企業ですので、開発なら開発、テストならテストだけをやっていればいいというものではありません。工程全体をやる必要があり業務内容は幅広いです。
 入社して8年目。入社後に作ったシステムの一例としては、社員の勤務管理をするためのシステムがあります。これは、出退勤時に通すタイムカードにある個人の勤務データをパソコンに集約、そこで必要な情報に加工して、給与処理をするホストコンピューターの方に移すというシステム。あとは、工場の中で使っている品質管理システムなどがあります。
 実際の仕事をしている中では、視覚障害補助機器としてはパソコンを音声化するためのソフトを使用しております。他にはあまり使わなくても仕事はできるような状態です。アシスタントもつけてないです。いわゆる音声化ソフトというものが何種類か出てますが、それぞれに長所短所があるので、用途によって使い分けています。それプラスそこで足りないところは、自分で作ったものも混ぜて使っています。

治田 私は総務部の中のローン課というところで、物件自体の代金とは別にかかってくる諸費用を計算して、お客さんが契約する際の書類を作成しています。それから、営業が交渉したり現金を回収したりで発生する諸経費の概算書や請求書、それに伴う支払いなどを主にやっています。あと総務部ですので、雑用と電話応対ですね。
 今使っているソフトはExcelくらい。あとは、顧客管理をする会社のシステム。まだ今もいくらか見えますが、入社当時はよく見えてた方で、コントラストをよくして、文字を少し大きくすれば何とか大丈夫だったんです。網膜色素変性症という病気はゆっくり進行していく病気なので、今までやっていたことがだんだん不可能になっていくんです。近い将来、音声環境を整えないといけなくなると思います。会社の方といろいろと話し合いをして、何が必要なのかどこまでだったらできるのかなど、これから相談していくところです。

司会 治田さん、今は補助機器的なソフ トは特にお使いでないんですか?

治田 入社当時はパソコンの画面をハイコントラストにすると、何とかなるという状態でした。ルーペは、視野がかなり狭いもので、拡大すると逆に見づらいという難点があるんです。弱視といえば一般的には文字をでかくすれば読めるだろうと思われ、最初の頃、営業からの書類も文字がでっかく書いてあったり。けど、私にとっては視野が狭いので読むのが大変なんです。なかなか理解されにくいです。
 私は、埼玉の所沢にある国立職業リハビリテーションセンターを出ていますが、そこで定規を真っ黒に塗りつぶした手づくりの補装具を自分で作ったりしました。今のところ、それらを使っているくらいで、あとは補装具は使っていません。コピーをするときに濃くしたり、少し大きくしたりする程度。が、だんだん視力が落ちてきて、疲れてると白くボーっとしか見えない状態になりますので、これから電卓も音声電卓にしたり、Excelなら「2000Reader」を入れたり、いろいろ使ってやっていこうかなと思っているところです。

司会 治田さんは時間の都合で、ここまでとなります。今おっしゃってたように、まだ拡大ソフトや音声化ソフトはさほど使っておられず、これから努力していくということのようですね。治田さんは、つい最近もアビリンピック(全国身体障害者技能競技大会)で銅メダルを取られたと聞きました。実際に努力を重ねられている方なんだと思います。
 では、治田さん、最後に、職場での様子や困ってること、これはよかったなど何でもかまいません、お願いします。

治田 職場は、44〜45名います。私が入ってからかなり人が変わっているんですね。実を言うと、それがちょっとネックになっていて。入社するときに理解してもらってた上司や助けてもらっていた上司が辞めてしまったり、本社等に転勤になったりして、どこまで私のことを理解してもらってるのか不安なんです。見えてるから、仕事やってるから、このままでいいんだろうと思われてるのでは、と。私もちょくちょく話はしていますが、会社も今は競争が激しい社会になってきましたし、この不況で、なかなかそこまで時間がないというのも事実です。人手がだんだん少なくなっているので、そこも苦しいところかなとも思います。今は、別にもう嫌だっていうところまで仲が悪いこともなく、助け合ってやっていますので大丈夫なんですけど。
 あとはリストラされないように粘ってやれればと思います。私もだんだん視力が落ちてきて、これから一番大変な時期かと自分でも思っています。なんとかかじりついて、今の仕事を続けられるようにやっていきたいです。
 ありがとうございました。
  (治田さん、退席)

●職場の中での工夫と知恵

司会 治田さん、ありがとうございました。これからあとはお2人のパネリストとやっていきます。
 では大脇さん、現在の業務内容についてお話ししていただけますか。

大脇 まず、私ももう今年47歳。ある程度会社のことを熟知していること、同僚には課長なり部長なりの人がいることから、治田さん、井上さんとはポジション的に違うのかなと思います。
 今の仕事はショールームですから、一般の住宅を購入されたお客様に対応する照明アドバイザーの女性社員がいます。現在20名ほど、新入社員からベテランまでいます。その中で私は、3年目ぐらいまでの女性スタッフに対して、照明に関する資料や、エンドユーザーをショールームに招いての勉強会のための資料を配布してあげたり、時には一般のお客様をまじえての勉強会を録音させていただいて、それをテープ起こしして話し方や内容についてアドバイスしたり、今まで会社でやってきた中での知恵、お客様に対してのとらえ方をメールで知らせたりしています。あるいは、先ほどお話したネットワークの共有フォルダの中に、ハウスメーカーの資料、ホームページ関連資料などを入れておいたりします。
 でも、その仕事というよりも問題はそこに至るまでのこと。平成7年復職当初、目の見えない人が会社に復職してミーハー的なところ、みんなが同情してくれたことが実際あったんです。「大脇さん、どうしたんですか」と周りが集中して心配してくれている。それで、つい自分もそれに乗ってしまってたというのが最初の1年ぐらいでした。
 そういった経験を踏まえて、自分のことを周りの人たちに理解してもらうにあたって、まず毎日会っている周囲の人たちのことを自分がどれだけ知っているのかと、ふと気づいたんです。「同僚の誕生日知っているのか」「知らない」、「上司は何が好きだった?」「聞いたような?…」。
 自分の視力とか見えないことをいくら主張しても、自分自身が周りの人たちのことをよくわかっていないのに、なぜ相手が自分をわかってくれるんだ。わかったことは、まず自分の周りの人たちのことを十分に理解すること。極端に言ったら「おべっか」。そういうことを細かくやっていくと、やりやすくなっていくんです、社内で。

司会 なるほど。続いて仕事の中での補助具関係のお話を。テープ起こしもやっておられるようですし、どんなものを使っておられますか。

大脇 基本的にはやはりパソコンは当然必要。それを音声化するための「2000Reader」を使っています。ペーパー類を読むのはOCRの「Eタイピスト」。テープレコーダーも必要、足元にフットスイッチ付きのものです。それからプリンター。今、私、机2台分の結構いいスペースもらっていますが、それらを机に、高くしないで平たく平たく置いています。それだけのものを置かないとできないんですよと、周りの人たちに理解してもらっているつもりなんです。

司会 井上さんの場合、音声化ソフトは使っているものの、さほど補助機器は使っていないとのこと。実際に仕事をされる中では、どんな点に困っておられるか。あるいはまた、どんな点を工夫されているか、そのあたりの職場の様子をお聞かせいただけますか。

井上 まず日常生活では、通勤も乗り継ぎありのバスを利用していますし、普段の歩行とかも全く不自由はないですね。
 仕事の中のことでは、技術書というのが不可欠で、普通は本屋に行けばすぐ買って必要な情報を探して見るという簡単な作業ですが、この作業がなかなか難しい。コンピューター業界は、日進月歩なんてもんじゃないくらい進歩が早過ぎて、新しい技術をいかに効率よく自分の中に吸収するか、時間との闘いになってきます。簡単にすぐに情報を探せるというわけにいかないから、どうしても情報量が足りなくなってくる。技術はあるのに、その情報がないから仕事のスピードが落ちたりすることが非常に多いんです。
 そういったところをフォローするために活躍するのがインターネットで、私の中ではインターネットはもうライフラインの1つですね。電気・水道と同じぐらい大事。たとえば、出張に行くときでも、宿の予約や電車の切符手配もインターネットを使って、人の手を借りることなく、できます。ただインターネットというのは使い方によっては非常に効果的ですが、膨大な情報があるだけに、その情報の中から必要な情報を選別して、自分の中でどうやって生かしたらいいのかを考える力は必要だと思います。
 それから就職関係の話。当時から余り景気はよくなかったから、就職活動そのものはかなり早くから始めていたんですが、まだまだ「目が悪いのにパソコンなんて使えるの?」というのが世の中一般の考え方。これは、知らないから悪いということではなく、単純にそういう人たちに触れる機会がなかったから、本当に知らなかっただけのことなのですが。
 数十社回りましたが、そこにノートパソコンと音声システムなど全部持っていき、無駄だと知りつつ、一社一社、デモンストレーションをやりました。ほとんど毎日、宣教師のように…。でも、これやっていると、わかってくれる人はわかってくれる。「一生懸命説明しているのに、なんで、わかってくれない」などと人事担当者との面白いエピソードもあったり。最終的に何社か内定はとれた中で、実家から通えてよさそうかなと、三菱マテリアルに入ることにしました。
 うちの会社自体、視覚障害者を受け入れるのは初めてだったので、いわゆる視覚障害者とのつき合い方のビデオとかで研究したらしいです。入社して最初、会社の人たちが視覚障害者のことを知らない、何ができて何ができないのかわからないということは、私にとってはもう最大のチャンスでした。だって、自分がやったらやっただけ認めてもらえそうじゃないですか。そのかわり、いつも思っているのは仕事ができないことを障害のせいには絶対にしないということ。おかげで、最初のうちはいろいろやって、実績も上がったので認められることは認められたんですが、最初にこのぐらいはできるんだなと逆に思われてしまったことで、今は非常に負担が多くて、この先が大変だなと思っているところです。
 自分が仕事をしていく中で大事だと思っていることは、「自分が一人でできること」と、「ある手助けをもらえば、ここからここまでは一人でできますよ」、それと「これは一人ではできないんだから手伝ってほしい」、この辺の線引きをきっちりやること。そして、それを周りの人にしっかりと伝えることが大事だと思います。あとは、大脇さんも触れておられた、やはり人間対人間ですから、人間のネットワークが非常に重要だと思います。インターネットと併せて、人間と情報のネットワークというのは非常に大切だと思っております。

司会 たしかに、ゼロからの積み上げというのはプラスがふえるばかりですからね。100%に近づくにつれ、苦労する部分も増えてくる。これからが大切ですね。
 それから、インターネットでの情報ですが、技術書の情報となると、すべてをインターネットからというと難しいかと思います。だから、その辺が結構ネックになるかなと思います。
 あと、インターネットはシステムエンジニアの仕事の中でも利用されているわけですか。情報をとるということ以外ではどうでしょう?

井上 インターネットを活用したシステムを作ったりしています。たとえば、インターネットを通じて遠隔地のシステムと情報のやり取りをしたりということがありますし、そういう中でも使っています。

●おわりに < 大切に思うこと>

司会 最後にお2人から、もうひとことず つ…

大脇 今、リストラで本当に大変な時期。私の会社でも、また来期は新しい人事制度です。最近、人事部長から話が出るキーワードに「エンプロイアビリティ」というのがある。たとえば大脇商店といった「個の力」がどれだけ評価されるか、そういうことが追求されるようになってきていると思います。
 私は私で、自分のやれる範囲の中でやっていますが、ショールームの女性アドバイザーたちがほしい情報を知り、また、趣味や最近の生活の好みなどもよく知らないと、ただ仕事の話だけでは、なかなか情報をくれるわけはありません。なるべく互換性がとれるように、最新のものにはちゃんと注意しているつもりです。
 それと、やはり自分のことを理解してもらおうと思ったら、まず自分の職場の周りの人たちとどれだけコミュニケーションがとれてるかが大事なのではと思っています。

井上 いよいよ最後になりました。普段、仕事をしている中で私が特に意識していることをお話しします。
 まず、学校とか職業訓練校というところと、仕事をするところの違い。学校などは教育を受ける我々がお金を払って技術や知識を教えてもらうところ。それに対して会社は、そこで得た技術を我々が会社に売るものです。その対価としてお金をもらうんだ、という意識をしっかり持って仕事をすることが大事だと思います。と同時に、たとえば、人間が2人いるとします。同じ顔形、同じ知識、同じ性格、違うところは目が悪いか悪くないかの差だけ。会社はどっちをとりたいでしょう。普通に考えたら、目の見える方をとりますよね。そういう中で、目が見えなくてもほしいと思うような人間的な魅力、あるいは確実な技術や知識、これが不可欠だと思うんです。これは本当に大事だと思うんですよ。普通に考えたら目の悪い人って採りたくないでしょう。
 同業者というのもたくさんいます。情報処理関連にしても鍼灸師関連にしたって、それら同業者の中で勝ち抜いていかなきゃ、この不景気な世の中仕事なんてないんですね。だから私も毎日仕事していて、いつも危機感をもってやってます、今ある知識だけじゃだめだと。より深く、より新しいものもしっかり取り入れていく必要があると思います。
 仕事場においては、先ほども申し上げた、自分のできることとできないことの線引きをしっかりすることは大事だと思います。それから人間と情報のネットワークを上手に活用しましょう。パソコンというのは、使い方によっては非常に大きなツールとなり得ます。興味を持っている人たちは多いと思いますので、どんどんパソコンに触れてみる機会を作っていただきたいということ。以上のようなところがポイントになってくると思います。
 私の場合は、先天性なので微妙に状況は違うかもしれないですが、本当は別に苦労してないんです。そんな不自由に思うこともないし。だから、ここでお話しさせていただいたのも、たまたま三菱マテリアルというところで働いているシステムエンジニアの一人が目が悪かった…ということ。ただそれだけのことなんです。

司会 井上さん、うまくまとめてくださいました。やはり、どんな仕事であろうと毎日努力していかなきゃならないんだなというのは痛感させられるところです。それは人間として当たり前のことなのかもしれません。ありがとうございました。
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1月交流会記録 2002/01/19
神奈川県における歩行訓練等について

末田靖則氏(七沢ライトホーム:歩行訓練士)

 私は七沢ライトホームで約20数年勤めています。主に訓練を担当しています。訓練は歩行訓練、感覚訓練、そしてコミュニケーション訓練、これらの3つの訓練を担当しています。
 今日は、七沢ライトホームだけではなく「神奈川県における歩行訓練等について」ということで、話したいと思います。
 今日の内容は、最初に神奈川県で歩行訓練などを受けられるところ、実施している機関について説明します。その次に私が勤めています七沢ライトホームでの訓練の内容。次に神奈川の特色といいますか、視覚障害に関係する施設・機関・団体等が視覚障害者の生活技術に関する研究協議会をつくっています。このことについてお話しします。最後に、これも2年ほど前につくりました眼科医療関係、それから私どもの関係しております福祉、また視覚障害関係では盲学校が主になると思いますが教育関係、この3つの分野の連携をしようということで、ロービジョンネットワークというのをつくりました。その内容を説明したいと思います。

1 歩行訓練を実施している施設

 最初に入所型の七沢ライトホームがあります。次に横浜市にある神奈川県ライトセンターです。ここで歩行訓練を受けることができます。ここの場合には神奈川県の事業なので、身体障害者手帳がいりません。福祉事務所を通さなくてもいいという意味です。ここでの訓練の方法は、通所と訪問の訓練を受けることができます。現状は歩行訓練士が2人おりますが、いろんな業務をやっているのと、訓練の希望者が多いことから、かなり待機が多い状態です。基本的には神奈川県内どこでも対象エリアになっていますが、横浜市と川崎市には訓練提供施設があるので、その他のところを中心にやっているということです。
 次に横浜市総合リハビリテーションセンターです。これは身体障害者福祉法の法内施設で、更生施設と言われるものです。ここでの形態は入所と通所の形でやっています。ここの場合には、身体障害者手帳が必要で福祉事務所に申し込む形です。
 4つ目に横浜市が市の独自事業として、横浜訓盲院の中に生活訓練センターというのを設けています。ここでも訓練が受けられます。これは通所と訪問です。主に訪問が多いと思います。
 神奈川県には横浜市と、もう1つ川崎市という政令指定都市があります。川崎市の独自事業として川崎市盲人図書館視覚障害訓練担当があります。ここでの形態は通所と訪問です。対象エリアは川崎市内です。川崎市の独自事業ですので、ここでも手帳はいりません。申し込んで面接をして相談を受けて、訓練がスタートするという形になります。
 6カ所目、これは藤沢市というところにある施設です。光友会という社会福祉法人がありますが、ここは様々な施設を運営しています。この法人をつくられた方は視覚障害者で有名な五十嵐さんという方です。この方が視覚障害をお持ちということもありまして、非常に視覚障害関係の事業に対しては幅広く展開している所です。施設の名前は藤沢障害者生活支援センターといいます。形態は通所と訪問の形になっています。訓練士が1人でやっています。実は昨年、厚生省の時につくった事業で、各自治体で身体障害者への生活訓練等事業というのがありますが、それを利用して藤沢市と隣の茅ヶ崎市、寒川町の3つが対象エリアになってやっている事業です。
 これら6つが神奈川県で歩行訓練を実施している施設ということになります。

2 七沢ライトホームでの訓練

 七沢ライトホームは視覚障害者更生施設ですが、この形態は、入所と通所です。入所定員が20名、通所が現在は4名、4月から1名ふえて5名になります。個別に合わせて訓練期間を設定しています。早い方では6カ月程、長い方だと2年ぐらいに及びます。ここには歩行訓練の担当が、私も含めて5名です。
 日本の歩行訓練というのは、今から30年程前にアメリカから Orientation and Mobility という考え方を取り入れました。Orientationというのは訳しますと、定位といいます。これは自分がどこにいるのか、どこを向いているのかという、位置を定める、定位です。この定位が非常に重要だという考え方です。Mobilityというのは移動です。移動しながら常に定位をしていくという考え方です。ですから視覚障害を持った場合に残った視覚または他の感覚で定位をしなくちゃいけないということです。聴覚とか白杖からの情報とか足からの情報とか、いろいろなものを利用しながら自分のいる場所、向いている方向を確認して移動します。言葉でいうと簡単ですが、皆さんも実感されているからよく御存じと思いますけども、他の感覚を使うことは非常に難しいですね。これは人間の頭の中が他の感覚をうまく処理する構造になっていないからです。そのために訓練の進め方というのは簡単なこと、静かなところ、それから安心できるところ、路面の変化が非常に少ないところから始めます。少しずつ経験していってだんだん複雑に、長い距離、それから不安なところ、例えば交通量の多いところ、ホームの上とかです。そういうふうに訓練を展開していくという方法です。
 歩行訓練というのは、視覚障害の生活訓練の中で1つ非常に違うところがあります。それは不安感が非常に高いということです。歩く時は非常に恐い。それ故にマンツーマンの指導ということでやっています。非常に不安感が高くて個人差があります。でも歩行訓練というのは視覚障害者リハビリテーション訓練の中では一番効果があります。ライトホームでは個人差もありますが、概ね週に3回か4回ぐらいのペースで、約1年かけて訓練を提供しています。
 通所の場合も期間というのは決められておりません。入所と同じで、おおむね1年の場合が多いです。通所して来るからどうして歩行訓練を受けるのだろうというふうに不思議に思われますが、通所をして来る人達は、ガイドヘルパーを利用したり、ボランティアを利用したり、家族の方と来られたり、単独で歩いて来られる方もいらっしゃいます。
 通所の場合はロービジョンの方、視覚が利用できる方が多くいます。ただ、全盲の方もいないわけではありません。最近では盲導犬を使っている方が通所で、歩行訓練を受けたケースもあります。まさにオリエンテーションの訓練です。移動は盲導犬に任せます。オリエンテーションをして、盲導犬に指示をするわけです。入所と通所の2つの形態でやっているというのが七沢ライトホームの特色です。

3 神奈川県視覚障害者生活技術研究協議会

 神奈川では6カ所でいろんな形で展開をしています。例えば、訪問を専門にする機関の場合は、時間も回数も限られるわけです。もっとたくさんいろんなところを経験して訓練を受けたいという場合に、ライトホームを担当者が知らないと紹介できないわけです。そのために相互に情報を交換して、互いの施設を理解し、よりよい視覚障害者への支援をするために、神奈川県視覚障害者生活技術研究協議会というのをつくっています。生技研というふうに呼んでいます。これは1980年にできました。もうかれこれ22年目になるわけです。これが私どものリハビリテーション施設だけでなくて、盲学校、点字図書館それから病院も加わっています。それから授産施設、障害者団体も参加しています。どういう活動をしているかといいますと、歩行訓練に関係することでは、現在は情報交換とか交流ですが、以前には色々なことを研究しました。
 1つは、音声地図を作る上で、どういうふうなところにポイントを絞った方がいいのか、どういうふうな流れでつくった方がいいのかを検討し、音声地図を作るに当たってのマニュアルを作りました。それからもう1つはロービジョンの関係で、表示について調査研究をしました。駅の表示を中心にどのような状況になっていて、どのような改善点があるのか、調査研究をしました。実際には、私鉄・JR横浜駅の表示を全部チェックしました。事前に各駅へ調査依頼文書を出して行ったわけです。駅サイドは視覚障害者が使う視点での表示というのは当然持っていないわけです。だから、そういう視点も必要だということをまず伝えたということで成果がありました。駅の表示の現状は見えにくいものが多いということが分かりました。

4 神奈川ロービジョンネットワーク

 現在、視覚障害者への支援は医療・福祉・教育・職業などの分野で行われています。盲学校なら盲学校で教育、それから職業教育も当然やっていますが、福祉施設の中ではリハビリテーション訓練をやっているわけです。現状は横の連携は少なく、医療になるともっと少ない状況です。
 例えば、視覚障害が発生すると、最初に行くところはほとんどが開業医です。そこから大きな病院(大学病院など)へ紹介されるというケースが多いわけです。そして、そこで最終的に障害を告知されるというような形になります。そこの段階で福祉の状況、福祉がどのように支援をしているのか、教育ではどういう支援をしているのか、職業ではどういうふうな支援をしているのか、眼科医がもしわかっていれば、その時に適切なアドバイスができるはずです。そして眼科医の説明だけでは分からない部分もあります。訓練関係だと施設を紹介する。教育だと盲学校などを紹介することが必要です。お互いに連携をする。これが神奈川ロービジョンネットワークの設立の趣旨です。
 次に構成団体は、まず医療関係ですが、神奈川県眼科医会と連携をとりました。そうすることにより、県内の開業医の隅々まで情報が伝わりました。大学病院では横浜市立大学病院、それから聖マリアンナ医科大学病院、北里大学病院、東海大学病院です。
 それから教育関係では、たまたま国立の国立特殊教育総合研究所が県内の久里浜というところにあります。あと盲学校が3つあります。
 活動の内容ですが、ネットワーク、情報交換ですのでホームページを作りました。それから研修会を年に2回行っています。これは主に医療関係者の方に、視覚障害者の福祉と教育を知ってもらうことを中心に企画しています。まず医療関係の方が最初に視覚障害者に接するので、情報提供をたくさんしていこうということです。具体的に言いますと、ロービジョンの疑似体験を通して、白杖歩行、CCTVの操作などいろんなことを体験します。それから視覚障害教育関係の講演会を開いたりしています。
 今後、神奈川ロービジョンネットワークは、もっと幅を広げなくてはいけないと思っています。タートルの会など職業関係の組織とのネットワークが必要です。
 以上で、神奈川県の歩行訓練の現状と各施設機関の連携の状況、様々な分野とのネットワークについて説明しました。

出版ニュース

 タートルの仲間の和田光司さんが本を出版した。タイトルは「どこ行くんや?」、副題は「見えても読めへん、読めても見えへん」である。二百数十頁の力作である。
 その前半は、彼にまだ視力があったころのバイクでの旅の話である。私(新井)は若いときからバイクでの旅にあこがれていた。寝袋と洗面道具と、いくばくかのお金を持って・・・。もちろん先天的な弱視である私には到底かなうことのできない夢であった。そんな思いで、和田さんの本を読み進んだ。
 和田さんの文章は、彼が旅の中で感じた土地ごとの空や風や、たくさんの素敵な人々との出会いを、私に追体験させてくれた。33歳の誕生日に視力低下のため免許の更新ができなくなったことは、これだけバイクでの旅を重ねてきた彼にとってはつらい現実であっただろう。しかし、彼は違う形で次の「旅」を始め、新しい「旅」を続ける。
 通りすがりで終わるはずの永尾君との関わりは、視力の低下とともに素敵な付き合いになってくる。ヒ素ミルク中毒で「見えても読めへん」永尾君と、「読めても見えへん」和田さんとの食堂でのメニュー選びは、弱視である私にとっても身につまされて笑えない現実である。
 また、復職の際に挨拶に行ったときの手土産のお菓子が、いつになってもそのまま職場の棚の上におかれている場面は、彼の継続雇用の厳しさを物語るものではあるが、お母さんや、友人との関わりのなんともいえない暖かさは、ほっとさせてくれるものがある。こういった人との関わりの素敵さこそ、新しい旅へのテーマなのかもしれない。
新井愛一郎

元気の出た一日
「粋な計らい」1週間前の卒業式

窪田巧(延岡市)

こんにちは。宮崎の窪田です。
 皆さんにはいつもお気遣い戴き厚くお礼申し上げます。
 昨夜、1本の電話があって、焼酎2本とツケアゲ(さつま揚げ)を左手に右手に白杖を携え、黒地に水玉模様のネクタイを締めて道場の玄関に立ちました。
 昨夜の電話とは、「甲斐くんの卒業式を行いたいので来てくれないか」という長田佐久眞七段からの要請でした。
 平成12年度つまり平成12年4月から平成13年3月までを指しますが、この期間私は居合道部生徒5名 (全員女子) を対象に土曜日に指導しておりました。私は昨年4月からは職員室とトイレにしか行けない、いわば軟禁状態におかれていましたので、居合道の指導も閉ざされていました。その中の2年生の一人が続けたいと申し出がありましたので、市内の剣道連盟居合道長田七段に事情を話して今後の指導を依頼致しました。
 その総決算として、甲斐くんの演武を見届けるのが、本日の目的だったのです。チャイムを鳴らすと長田七段と甲斐くんが出迎えてくれました。道場には甲斐くんを指導してくださった6人の指導者全員が待機していました。挨拶代わりにチャンポン丼1杯を談笑しながら流し込んだのち、演武が始まりました。
 幸いにして彼女は白袴でしたから、動きを何とか捕らえることができます。粛々と演武は流れて行きます、嬉しかったのは、「抜きつけ」「切り下ろし」の空をきる刀の音が鋭く聞こえてきたことです。1年前より格段に上達していました。
 その旨を述べると「窪田さんに頼まれたんで、皆必死だったよ。責任があったしな、下手なことはできんし。しかし、甲斐くんが日曜日にやりたいと言えば日曜日にやったし、夜やりたいと言えば夜皆集まって指導したよ。素直な性格だったから上達が早かったなあ。その甲斐あって県大会一般部門で3位入賞したよ」
 ウルスラは今週22日が卒業式です。卒業後は福祉関係の専門学校に進むことになっています。それに彼女は寮生ですので卒業式当日は退寮の規則とかで、道場の先生方の粋な計らいによって1週間前の卒業式となった次第です。最後に演武してくださった高段の先生方の抜く刀の音は、私の体がウズウズしてくるような雰囲気にしてくれました。落ち着いたら、また私も挑戦いたします。元気が出てきたようです。
 実は甲斐くんの演武の前に「これからは、これにしてください…」と彼女から手渡された包みがありました。包みから引き出された青地の水玉模様のネクタイは、これまでの黒字の水玉模様のネクタイと入れ(締め)替わり、私は改まった面持ちで、制定居合10本から古流「大森流」までを見守っております。
 ツケアゲを肴にしての焼酎は、先生方が全員車ということで飲み損なってしまいました。
まあ いいや!
帰宅して家内と二人してビールで乾杯!
元気の出た一日でありました。

2002年2月17日

ブラインド・クッキング スクール

和田光司

 目が見えなくても、見えにくくても腹は減る! 亭主はパチンコ、女房はカラオケ、子供達はどこへ行ったヤら…。おまけに外は雨。さて、どうする?
 もと料理人の筆者が伝授する、転ばぬ先の白杖ならぬ、餓死する前の簡単お料理講座をひとつ…。

 冷蔵庫を開けたら卵がひとつ、冷凍庫を開けたら冷凍ピラフ(炒飯)が一袋…。
しめしめ、これだけあれば飢え死にはしないだろうなぁ!

レンジでできるオムライス
【1】用意する材料
 ◎卵1個
 ◎冷凍ピラフか冷凍炒飯適量

【2】用意する道具
 ◎レンジに入れるお皿1枚
  (なるべく大きめで底の平たい物)
 ◎ラップ

【3】作り始める前にすること
 ◎まず、お皿の内側にラップをぴったりと敷く。
 ◎卵を割って湯飲みなどに入れてかき混ぜる(卵白と卵黄をよく混ぜる)。
 ◎冷凍ピラフ(炒飯)を自然解凍、または流水解凍しておく(食べる分だけ適量)。

【4】さぁ、作りましょう
(a) 解凍済みのピラフ(炒飯)をラップで包み、レンジでチン。そのまま食べられる程度にチンする。
 ラグビーボールを平たくしたような形でチンすると、中まできちんと加熱されますからベスト&ベター。
(b) ラップを敷いたお皿の底に卵を流し込み、レンジに入れて約1分ほどチン!して取り出すと、あ〜ら不思議!薄焼き卵ができています。少しばかり半熟の方がベスト。
(c) その薄焼き卵の真ん中あたりへラップから取り出したピラフ(炒飯)を入れ、薄焼き卵で重ね巻きをする。
 薄く焼かれた卵からピラフ(炒飯)がはみ出さないようにし、お好みの形にする。やはりラグビーボール型がベスト&ベター。 半月型でもいいですよ。
(d) 巻き終わったらそれを再びレンジに入れて5〜10秒ほどチンする。
 その際には薄焼き卵のラップははがしてもかまいません。
(e) 薄焼き卵を作ったお皿でそのまま食べれば 簡単&便利です。

 ちなみに我が家のレンジは「解凍&加熱」モードしかないので加熱温度は不明です。チンする時間を気にしながらお試しくださいませ。
 一度のお試しでできればあなたも早速「ブラインドクッキングスクール」の優等生です。


【2002年度年間日程】

2002年 6月 1日(土) 第7回定期総会
       9月21日(土) 交流会
     10月19日(土) 交流会
     11月9〜10日または16〜17日(土〜日)
              地域交流会
     12月 7日(土) 忘年・講演会
2003年 1月18日(土) 交流会
      3月15日(土) 交流会
   *定例幹事会は原則偶数月の第3金曜日
   *相談会は必要に応じて随時開催


【編集後記】

 窪田巧さんに対する支援の輪は大きな広がりを見せ、会員はもとより、リハビリ施設、友好団体、医療関係者、某新聞社の記者仲間、インターネットから個人や労働組合など多くの方々から署名が寄せられました。ありがとうございました。署名は2月末をもって締め切りましたが、今後は裁判所に対して適正な判断を要望する声を結集していくことが大事だろうと考えます。皆様のご支援を引き続きお願いいたします。
 当会報は第三種郵便物の認可を受けています。これは障害者団体定期刊行物協会(障定協)の加盟団体としてのことです。障定協ニュース第5号に「第三種郵便物制度の存亡」について記事がありました。これは、総務省・郵政事業庁が、この割引制度を郵政公社の発足する2003年春に原則廃止する方針で、郵政法改正案を国会に提出するという内容なのです。会としても、深刻に受け止め、推移を見守るだけでなく、制度存続のために、声を大きく上げていく必要があります。
(事務局長・篠島永一)

中途視覚障害者の復職を考える会【タートルの会】会報
『タートル23』
2002年(平成14年)3月5日 編集
■編集 中途視覚障害者の復職を考える会 会長・下堂薗保
■事務局 〒160-0003 東京都新宿区本塩町10-3
     社会福祉法人 日本盲人職能開発センター 東京ワークショップ内
     電話 03-3351-3208 ファックス 03-3351-3189
     郵便振替口座:00130−7−671967
■turtle.mail@anet.ne.jp (タートルの会連絡用E-mail)
■URL=http://www.turtle.gr.jp/


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