会報「タートル」第19号

1998年10月9日第三種郵便物認可(毎月3回8の日発行)
2000年12月3日発行SSKU増刊通巻第309号

中途視覚障害者の復職を考える会
タートル 19号

タートルの会とわたくし

タートルの会幹事 森崎正毅
 わたくしがタートルの会のことを知ったのは、幹事の工藤正一さんを通してでした。4年前、障害者職業総合センタ−に転勤になったとき、工藤さんはすでにセンタ−に勤務していました。センタ−には、全盲の指田忠司さんもいて、はじめて障害者と直接接することになりました。それまでは、車椅子の人や白杖をもった人を町でみかけることはあっても、話をしたことはほとんどありませんでした。
 工藤さんと雑談をしているうちに、手記が書かれているプリントを渡され読んでみないかと誘われました。それは、その後「中途失明−それでも朝はくる」にまとめられた手記の原稿でした。それを読んでひどく衝撃を受けたことを今あざやかに思い出します。そうこうしているうちに、タ−トルの会という視覚障害者の集まりがあるから参加しないかという誘いを受け、手記を書いた人々と会ってみたいという思いもあり参加することにしました。1996年10月ごろだったと思います。
 参加して驚いたのは、みなさんが明るく行動的であるということでした。手記に書かれているようなさまざまな経験や境遇にもかかわらず、活発に活動していることはわたくしの想像を越えていました。同時にわたくしの考えの貧しさも感じました。
 その後、何回か職場がかわり、昨年4月に、盲人職能開発センタ−と四谷駅をはさんで反対側にあるビルに勤務することになりました。歩いて15分ぐらいのところです。幹事のみなさんが、遠い職場から時間をかけて、幹事会や文書の発送のために、盲人職能開発センタ−に集まってくることを考えれば、センタ−から近いわたくしが手伝わないのは申しわけないと思い、都合のつく限り出向くことにしました。仕事で接する人とは一味ちがった分野の人々と話ができ、いっしょに2次会で飲むことも楽しみになりました。
 いろいろあるバリア−のなかで、心のバリア−をなくすことが一番難しいのではないかといわれています。一般の人にとっては、ふだん障害者と接する機会はほとんどないといってもよいのではないかと思います。現に、わたくしも障害者職業総合センターに勤務するまではまったくといってよいほどその機会がありませんでした。長年いわれてきているノーマライゼーションを実現するためには、さまざまな機会をとらえて健常者と障害者が接することが大切なように思います。それには、障害者の普通学級への通学やそれほど構えないボランティア活動、そして同じ職場でともに働くことなどが有効なように思います。
 そんなことを考えながらこれからもタートルの会とつきあっていきたいと思っています。

【連続交流会・その1 2000/9/16】
スポーツ談義に話の花を咲かせよう

新井愛一郎(司会) 千木良孝之(ゴルフ) 川添由紀(スキー) 松坂治男(スキューーバダイビング) 小川剛(マラソン)

○司会 それでは、これから4人の方にお話をしていただきます。
 それぞれスポーツを本当に楽しんでいることが解ると思います。皆さんもいろいろなスポーツを実際にやったり、観戦したり、やってみたいなと思ったりしていると思うんですね。
 今日は4人の方から体験を聞き、質問をし、自分の経験も出し、おおいに話を盛り上げていただき、交流を深めてください。それでは順に宜しくお願いします。そしてスポーツを始めるきっかけをつかんでもらえるといいなと思います。

○千木良 初めに、私とブラインドゴルフとの出会いについてお話します。今から3年ほど前になりますが、私もタートルの会にお世話になり、横浜市立盲学校に復職しました。ある方から神奈川県に「ブラインドゴルフの会」をつくりたいということで電話を受けました。私も視覚障害者にゴルフなどできないなと思っていて、実際にパターゴルフかパークゴルフみたいなゴルフではないかと思っていました。よく話を聞くと本コースに行って18ホールを回るという話で、これはおもしろそうだなと思い、ぜひ参加したいなと入会させていただいたんです。
 視覚障害者がゴルフというと、どうやってやるのかなと思われますよね。ブラインドゴルフにはボランティア、パートナーさんと呼んでいますが、パートナーさんと二人三脚、一体になって18ホールのラウンドをします。同行するパートナーさんに距離や方向を教えてもらい、アドレスが変な方向に向いていたら直してもらうとか、ボールにクラブのフェイスを当ててもらったりして、プレイしていきます。
 私も盲学校に通学していた頃、グランドソフトボール、フロアバレーボール、卓球、いろいろやりましたが、健常者の方がやっているスポーツとルールが違ったり、道具が違ったりしたんですね。ブラインドゴルフは、健常者と同じ道具を使って同じコースを回る。そこが一番魅力的でした。ルール上違うのは、バンカーといってコースの中に砂場があるんですが、健常者のゴルフだと砂場にゴルフのクラブの先をつけてはいけないんです。ブラインドゴルフは砂場の砂にフェイスをつけていいと、そこが一点だけ違うだけで、あとはパートナーさんと一緒に回るだけです。
 ブラインドゴルフの歴史と現状ですが、もともと50年ぐらい前に欧米で失明した軍人のリハビリとしてブラインドゴルフが始まったそうです。競技性の高さとか話題性からどんどん広がっていきまして、今ではアメリカ、イギリス、オーストラリア、カナダなどにもブラインドゴルフの協会があります。それぞれの国で世界大会や、競技会がいろいろ行われています。神奈川県の会員の中にも、イギリスやオーストラリアの世界大会にも何人か出場をしています。
 わが国では、「日本視覚障害ゴルファーズ協会」がありますが、1994年にその前身ができて、ブラインドゴルファーが、今、全国で130名近くいます。13都道府県にブラインドゴルフの協会があります。昔からゴルフは贅沢なスポーツという形で、金銭的にも高かったりして取り組みづらかったり、パートナーさんが同行することを許してくれなかったりするコースがあって、ブラインドゴルフを普及していくのが大変だったんです。最近、だんだん理解を示していただいて、いろんなコースで練習をすることができるようになりました。
 私が所属している神奈川県の視覚障害ゴルファーズ協会について簡単にお話しをします。
 「神奈川県視覚障害ゴルファーズ協会」は、「日本視覚障害ゴルファーズ協会」の支部として、3年前に設立しました。現在、会員が約32名、神奈川県内に在勤、在住の方がいます。年齢層は30歳ぐらいから65歳ぐらいまで、全盲、弱視さまざまです。男性・女性は2対1ぐらいです。男性のほうが多いですけれども、ゴルフを初めてやった方、また中途失明されてゴルフ経験のない方等もいます。
練習は第1、第3土曜日の午後に、横浜市の戸塚にある三洋ゴルフガーデンをお貸りして、打球練習会を行っています。そのほかにショートコースの練習会に、今年の4月から、京急観音崎ホテルのショートコースが利用できるようになりまして、定休日を利用させていただいて1日貸切りで優雅な練習を行っています。海辺に位置するため、どこのホールからも波の音と潮の香りがし、所々にヤシの木が配置されていて、まるでハワイかフェニックスかという風情です。
 あと、先月から厚木の本コースを定期的に貸してくれることになり、本コースでの練習会を月に1回程度できるようになりました。
 失敗談はいっぱい数えきれないほどあります。球をセットしていただいて三回連続の空振りで、3球3振。いつまで素振りをしているの?地面をおもいっきり掘ってクラブは、シャベルじゃないよってかんじです。いろいろあったんですけれども、私がこの3年間、ブラインドゴルフをやってきて何がよかったかというと、やはりいいショットしたときとか、いいパッティングをしたときというのはすごい印象に残っていまして、例えばティーショットで250ヤードまっすぐ飛んでいった時の手の感触とか、ロングパットが10メートル入ってコロンと遠くでカップインした音が聞こえた時等です。
 最後になりましたけども、いつも会員を募集してますのでパートナーさん含めてぜひ、ゴルフを一緒に楽しんでいただければと思います。
*問合せ先:神奈川県視覚障害ゴルファーズ協会事務局=045-621-0140

○川添 まず、スキーをするようになったきっかけですが、盲学校に通っていたときに、校内の「スキー教室」に参加したのです。スキーをするに当たって、学校の体育の時間にスキー靴の履き方や、板のつけ方などの練習をしました。初めにスキー靴の履き方を練習し、それからスキー靴を履くと、靴もすごく重いし、とても歩きにくいので、歩く練習をしました。
 最初は体育館の中で歩く練習をして、次は階段を練習しようということで、屋上まで行って戻ってきなさいと言われて、そんな歩く練習をしました。それから、板のつけ方や転び方などの練習をしました。
 実際にスキー場に行ったんですが、最初はゲレンデには連れていってもらえず、泊まっていた宿のそばにある広場のような所で、板をつけて歩き回ることや、そこに坂があって、その下のほうに、上から滑っていってみなさいと言われて滑るわけです。危なくなったら転びなさいと言われて、下まで滑り終わると、自分で坂を上っていって、また滑るということの繰り返しでした。最初にやったのが中1の時だったんですが、「ちょっとした方ですね」と言われてしまったんです(笑)。
 中学2年になってからは、ゲレンデに行けたんです。でもリフトには乗れないで、あるゲレンデの一部分だけを利用して滑る。それで滑ったら自分の足で上り、また滑るという繰り返し。最初は曲がり方もわからないし、止まれっと言われても、止まれないで、人にぶつかってしまったとかよくありました。
 だんだん慣れてきて、一応リフトに乗せてもらえたんですが、先生の数が足りないので、先生1人で生徒2人を見るという状況で滑ったので、一緒に滑っている人同士でぶつかってしまったりとか、そういうことがよくありました。
 学校を卒業してからは、神奈川県ライトセンターという所でブラインドスキーというのが行われていて、参加者を募集していることを友達が教えてくれまして、それでまたスキーができるようになりました。そこでのスキーはいくつかの班に分かれて行います。グループのリーダーとサブリーダーがいて、リーダーは、その班で滑るコースを決めたり、疲れたからそろそろ休憩しようかとか、グループ全体に気を配る。サブリーダーは、ある程度の所でここまでという範囲をリーダーが決めるので、先にその場所に行って、グループの人が近づいてきたら笛を吹いてくれて、グループの人たちが集合します。
 私たちがスキーを滑る時は「パートナー」と呼ばれている健常者が1人ついてくれて、一緒に滑ります。滑り方は、パートナーの方が1メートルぐらい後ろから「右」とか「左」とか大きな声で言ってくれて、その指示に合わせて滑ります。ゲレンデの込みぐあいにもよるんですけれども、すいているときは自由に滑っていいよって言われて、自分が好きなように滑ったりすることもあります。
 でも、やはり込んでいると、どうしても全部指示してもらわないとぶつかってしまうので、込んでいるときは指示をしてもらって滑ります。込んでいるときに滑っていて、人の間をすり抜けたりして滑ることができることもあるんです。そういうときに滑り終わったらパートナーが「今、人の間をきれいにすり抜けて行ったんだよ」と言ってくれたりするんです。そういうときは私も嬉しいし、パートナーも喜んでくれています。
 今、私は「神奈川県視覚障害者スキークラブ」に所属しているんです。最近は年1回、群馬県にある丸沼高原スキー場に行っています。私が所属しているクラブは現在、会員が130人いて、そのうちブラインドが31人、健常者が99人です。一応130人という会員数ですが、実際に活動しているのは40人ぐらいというところです。
 度胸あるのに、最後にこれを言うのは笑っちゃうんですけれども、お互いに右左を間違えてしまうことがあります。パートナーの方が間違えてしまうこともありますし、私たちも間違えてしまって人や物にぶつかってしまうということがあったりします。それから、コースアウトしてしまったことがあって、落っこちた所にちょうど変な小屋みたいなものがあって、それにぶつかってしまったことがありますそのときはほんとにもうスキーをやめようかと思ったぐらい痛かったんですけど、一緒に滑っている方とかが一生懸命励ましてくれてなんとか無事に立ち直ることができて、今に至っています。
 私がスキーで一番魅力に感じていることは、やはり風を切って滑るっていうのは、とっても楽しくて気持がいいので、それでやめられないのかなと思っています。それから、周りで見ている方に、あの人の滑りはかっこいいと思ってもらえるようなスキーヤーになれたらいいなと思っています。
*問合せ先:神奈川県視覚障害者スキークラブ(会長・初瀬川正哲=ハツセガワ マサアキ)=0465-22-7318

○松坂 それではダイビングについてお話します。ダイビングは、背中にタンクを背負って海の中に沈むだけのことですので、特に変わったことではないんです。
 ダイビングを始めたきっかけは、目が悪くなってから運動をすることが減り、ダイエットのため水泳教室に申し込んだところ、「ダイビング教室の方がよいのでは」と勧められたことからです。
 場所は、「横浜ラポール」というスポーツ施設です。プールや運動場、体育館などがあり、障害者と健常者が、ともに自由にスポーツなどを楽しめる施設です。8年ほど前から「障害者ダイビング教室」を開催し、1月から3月ぐらいまで施設を使って、初歩的な講習をします。
 肢体不自由の人に非常に人気があり、1年、2年待つ場合もあります。視覚障害でダイビングをする人間は余りいなかったようで、私はすぐに講習を受けることが出来ました。5年ほど前です。初めてレギュレータをくわえてタンクを背負って、プールの底をはいずり回りました。
 ダイビングの場合には、約12キロぐらいのタンクを背負い、自分の体重10分の1ぐらいのおもりを腰に巻きます。つまり、約20キロを身につけて潜るわけです。海の中では中性浮力をとりますが、全然自分の体重が感じられない状態、無重力状態と同じ状態になります。自分が空気を吐くと沈むし、また吸い込むと即、浮くというような状態です。
 現在は、講習会の卒業生中心に、「スキューバダイビングクラブ」という会を作っています。「プールだけでは楽しくない。海まで行こうよ」と仲間が集まりました。視覚障害は私一人ですが、ほかに知的障害、聴覚障害、肢体不自由(車いすの人)そういった仲間と、今、会員は50人います。
 それにはどうしてもボランティアが必要だと、教室の面倒を見てくれている東海大学の先生が、「障害者も海が好きならば同じ仲間として楽しい海を体験しようよ」と学生や社会人を動員してくれています。現在、障害者に対して、ボランティアも倍ぐらいはいないと潜れません。障害者が20人潜りに行くためには、ボランティアは40人ぐらい集めていただいて、学生や社会人などのダイバーと一緒に潜ります。
 ダイビングの場合には、海の中では口がきけませんので、基本的には手話を使うか、ボードに書き込みます。視覚障害者にとってハンディがあります。
 今年までの5年間、体験ダイビングは14本ぐらい潜りました。あくまでも体験ということで、インストラクターと手をつないで一緒に潜るという形です。沖縄、海外ではフィリピンのセブ島です。南の島のほうが海の中が明るく、サンゴ礁がきれいで、10メートル近くまで潜っても日の光が入っているので、サンゴ礁、白い砂、魚等がよく見えます、なるべくきれいな海に連れて行ってくださいとお願いしています。
 ダイビングの場合には、視覚障害者以外はシーカードという認定カードが取れます。アメリカのSSIと、フランスに本部があるクマスという世界的な組織があります。だんだん欲が出てきて、私も条件付でクマスのカード取得のため、6月、7月で講習受けて、一応カードをもらいました。今度は機材も全部自分でセッティングして、自分のできるところは自分でやるという形で楽しんでいます。
 海の中で方向がわからなくなったりするので、どうしたらいいか考え、盲人マラソンのように、インストラクターのタンクのところから50センチから1メートルぐらいのひもを出してもらいました。それにつかまっていけば方向もわかるし、上にあがれば上に、下に潜る場合には下に行ったな、と。今は完全に自分の体はフリー状態で海に潜っています。
 今回も先週の日曜日から、四泊五日セブ島へ行ってきました。ちょっと天気が悪かったので4本だけ潜りましたが、非常に楽しい体験をしてきました。幾つかのポイントがあり、今回は漁礁のかわりに23メートルのセスナを沈めてある所まで行って写真を撮りました。今まで体験ダイビングでは15メートルぐらいしか潜れなかったのですが、今回は23メートルぐらいまでも潜ってきました。
 タンク1本200気圧ぐらいの空気が入っていて、最初のうちは30分とか35分で大体使い切ってしまいます。ちなみに今回は、1時間以上たってもまだエアは残っている状態で、やはり呼吸法によって変わってきます。
 ダイビングの場合には基本的にバディーということで、チエックマンが必ずペアで潜る。スポーツの中では人と争うのが基本的にあるのですが、ダイビングの場合には一番弱い人に合わせるので、エア残量の一番短い人に合わせて潜行します。動きの中でもやはり一番弱い人に合わせて、みんなで協力して海を楽しむ形になっています。安心して海の体験ができます。ボランティアも障害者1人に、健常者が1人か2人がつき、安全を確認しながら潜ります。
 面白いもので、魚の中には自分のテリトリーがあって、あまり動かないものもいます。ある一定の50センチか1メートルの範囲から動かないこともあります。ポイントに潜ると、魚は近寄ってもめの前を行ったり来たり、結構楽しめるのです。海天狗というハゼかの滑稽な魚、ゴムボールのように膨れたハリセンボンを視覚障害者の特権で触ってきました。
 1つ心配なのは、時々「ここへつかまっていろよ」と岩につかまらせて、ガイドさんにおいて行かれます。本当にこれで上に上がれるのかなあって(笑い)。やはりきれいな海で、自分の前に泡がぱあっと上がっていくのを見ていたり、海から上がってくると何ともいえない気分になれる。そういうことで、旦那ばかりが金を使っていると、女房も金を使いたい、どうせ使うなら一緒に使おうということで、いしょに入ってきたんです。女房も息子もシーカードを取りました。よき協力者です。
 海の中に入るとシーンとしています。海の中で瞑想でもしてみようかという感じで、下界の音を断ち切ってちょっと考えてみるのもいいんじゃないか。世の中のいろんな雑念というのを払ってみようか。 1つの目標として、今、こんなことを思っています。
*問合せ先:横浜ラポール=045‐475‐2001

○小川 マラソンの体験ということで話をします。私は今、55歳です。マラソンは17年間やってきております。目の見える期間は12年、目の見えなくなった期間は5年になります。長年やっておりますのでマラソンが体によい、身体の一部になっているなんていうことで、汗をかく爽快感、それから命の喜びということを毎日感じております。
 30代後半になって本体性高血圧になり、医者から減塩のほかに、スポーツをするのがいいと言われました。スポーツは何をしてもだめだったんで、原点に戻り、走る以外にないなと思い、マラソンを始めたということです。40代になり「札幌走ろう会」に入り、本格的なマラソンをやるようになって、仲間ができ、体力もついたし、意欲も増してきました。そして市民マラソンである北海道マラソンに参加して、フルマラソンですが、記録も次第に向上し、3時間前半で走れるようになりました。
 その後、交通事故に遭うんですが、大きな事故というか、生きているのが不思議です。3週間ぐらい意識がない、そのような状態に入り、ようやく意識が戻って、目が見えないということが分かった時点でイの一番に考えたことは走れるだろうかという懐疑、走りたいという願望でした。そのとき思いついたのが、北海道マラソンに参加している全盲で、神奈川県出身のEさんという方です。この人は、もう何回も北海道マラソンには出ています。
 平成9年1月に入り、交通事故も2年目になり、体力も少しついてきたことから、札幌走ろう会の例会に誘われるようになりました。ここでは、会員の皆さんが快く迎えてくれ、目の見えない私のために車を出し、伴走を引き受けてくれる会員が現れてくれました。4年以上経過しているのですが、いまも毎週のように、その人の支援を得ています。私にとっては、かけがえのない人で、合掌あるのみです。
 最初は2〜3キロ走ると、あごが上がって、もう休んでるような状況でしたけれども、少しずつ走れるようになり、その年の5月、10キロの大会に参加して何とか走れるようになりました。本当に事故を克服して、走れたというのは大きな喜びでした。
 それを機会に一気に勢いを得ましてその年の10月、今度はハーフマラソンに参加して何とか1時間38分台が出まして、北海道マラソンに出る資格を得ました。1年に1回フルマラソンに出でていますので、1回だけでは心許ないことから3回ぐらい走らなければと思っているところです。
 練習方法ですが、伴走してもらって毎週20キロぐらい走ります。それから1日の日課ですが、公務員宿舎に住んでいるのですが、1階から5階まで歩き、そして階段を2段がけで15回。それを終えてから腹筋30回を3回で90回、そういうふうにやっているんです。まだ1カ月に100キロぐらいしか走っておりません。実際はフルマラソンでは300キロないしは500キロぐらい走り込むんですね。
 失敗談もいろいろあります。ローラースキーとぶつかり転んで、遮光レンズを壊したこと、屋根付のグランドで他の走者と接触してフェンスに当たり、転んで足にかすり傷を負ったことです。故障もありました。アキレス腱が痛くて、一昨年3か月も走れなかったことです。はじめての故障で、イライラしたことを思い出します。
 私は「日本盲人マラソン協会」に入ってまして、今後は、北海道だけではなく、本州の大会や海外でもホノルルやニューョークマラソンに参加したいと思っています。
 なぜマラソンをやるのか。
 目が見えなくなりましたらよくつまずくんです。今はつまずくことは少なくなりましたが、つまずいても転ばないようにだいぶ体力がついてきましたね。体力がつくと、気力も向上してきます。
 マラソンは忍耐のスポーツだとよく言われます。視覚障害者にとっては一番いいスポーツではないかと思います。なぜかと言うと、情報も少ないし、いろいろ努力をしても仕事については要するに元のようにはできない。その段階でいろいろと葛藤があるわけですね。苦しみ、悩み、怒りというのが長く続かないわけです。でも何か楽しみを持つことが必要であろうと思っています。私は月曜日から金曜日まで仕事をしていまして、土曜、日曜に走る。それがいいのではないかと思うんです。マラソンをやることによって忍耐強くなり、これが仕事に結びついて好影響を与えるのではないかと思っています。
 私は「札幌走ろう会」で17年くらい走っていますが、私の伴走者も何人かいます。でも、まだ個人レベルなんですね。視覚障害者、あるいは障害を持つ方スポーツを楽しむためには、組織化していかないとだめだと思いますね。「走ろう会」はたくさんありますから、それをネットワーク化して、目が見えなくても、障害があっても自由に走れる、いろんな大会に出られることが大切だと思っています。
 札幌に<ラング・ラルフ>というボランティア団体があります。既に10年余も活動しているのですが、当初は、視覚障害者にスキーを支援する目的で発足したそうです。その後、雪のない季節にはマラソンや登山を楽しんでいます。毎週土曜日に練習をする本格的な団体です。この会に入り、的確な練習、かつ練習量の確保や各種大会にでられるようになりました。とりわけ、視覚障害者がチームで参加する長沼駅伝大会、北海道初の視覚障害者の部を設けてくれた北広島マラソン大会が印象的です。会として伴走者を確保し、練習に大会に視覚障害者をサポートしていただくことは有り難いことです。このような会が、全国各地にできれば視覚障害者が心ゆくまでスポーツを楽しめると思うのです。
 私の交通事故は大きな事故で、鎖骨の手術を受けたり、腰骨にヒビが入ったりで、車に跳ねられたショックはかなりのものでした。このように走れるようになるとは、自分でも思ってもいませんでした。走ることは、私にとって誇りであり、喜びでもあります。これを皆さんにも広めていきたいと思っているところです。
*問合せ先:日本盲人マラソン協会(小田原市)=0465-42-2191


【連続交流会その2 2000/10/21】
インターネットを使って採用業務をこなす

講師 石山朋史氏(エー・アンド・アイ システム(株)総務部門人事採用担当)
進行 新井愛一郎(タートルの会幹事)

○新井 自己紹介をお願いします。
○石山 年齢33歳。現在全盲。晴眼者として、自動車部品メーカーに勤務。約6年前に網膜剥離になり、急に見えなくなった。そして休職し、休職期間満了とともに会社を辞めた。その1年後に現在の会社、「エー・アンド・アイ システム」という、IT関係でシステム関係の会社の人事、特に採用を担当しています。
○新井 就職活動について、失明後の職業訓練の有無。
○石山 特別な職業訓練は受けていない。日常生活訓練−点字と歩行を半年間在宅で受ける。点字の指導員や歩行訓練士にいろいろ情報をいただきながら、就職活動等を行いました。
○新井 パソコンはどこで勉強したんですか。
○石山 私自身全部独学。晴眼者のとき、会社の仕事の中でワープロと表計算だけはやった。MS-DOSでやっていたが、特にMS-DOSの細かなことは一切知らなかった。私が実際にパソコンを買ったのは目が悪くなってからで、今から3年ぐらい前に、知人から音声入力でパソコンがいろいろ操作できるという話を聞き、それがきっかけで買いました。ただ実際には使えなかった。その後、点字指導員や歩行訓練士にパソコンの情報、即ち画面読み上げソフトの存在を教わり、購入。その後は自分でインターネットや電子メール、その他いろいろ自分でやって覚えた。周囲に詳しい人がいて、講師役になってくれた。私自身マニュアルは一切読まず、パソコンに入っているテキストの文章だけを頼りに、いろいろ調べて自分で試してみた。ということなんです。
○新井 就職活動の内容については?
○石山 視覚障害に関する就職情報など一切持っていなかった。「とにかく情報を集めたらいい」と点字指導員からアドバイスを受け、いくつかの相談所に行くが「全盲で民間の就職活動は相当大変で、いろいろできたとしても、多分、ほとんど内定までは出ないですよ」と言われてしまう。
 ハローワーク飯田橋の障害者担当官に職業訓練等の種類や今後のことを聞きに行きました。そのとき職業訓練の話や鍼灸の専門学校の話もいろいろ聞く。障害者の合同説明会、まずそこでいろいろ就職活動しました。合同説明会ですから視覚障害以外にもいろいろな障害の方がいらっしゃいまして、特に視覚障害者は、大体300人ぐらいのうち10人前後という少なさでした。それで私も合同説明会で、約2時間の中で大体企業が70社ぐらいあり、とにかく履歴書を渡す。しかし、視覚障害者というと、ほとんど書類選考の段階でだめ。私もそういう状況でそのときはだめでしたが、日本盲人職能開発センターの先生が、面接の時のアドバイスとして、履歴書以外に何か自分で書類をつくって持って行くことを勧められる。内容は、視覚障害者がどのようなことができるかをアピールしたらどうですか、というものでした。今の会社には、それを提出して、受かったということです。
 履歴書だけだと、やはりインパクトもないというか、なかなかアピールはできないんですけど、例えば、どういうふうにパソコンを使えばどういうようなことができるかとか、向こうの人事の人に「視覚障害でもこういうことができます」というようなことを具体的にいろいろつくりまして、それで私は持って行きました。
 例えばパソコンでワープロができますとか、パソコンで表計算やその他インターネットもできますと。後、そういう書類以外にもカタログなども持参しまして、面接の時にそういうのを全部提出しまして、で、向こうの方にアピールしたというような感じです。特に面接の時にわかったんですが、まず自分でつくることの意味は、相手にとって、視覚障害でもこういう文章、レイアウトを入れた書類ができるということをまずアピールできまして、向こうの面接側にとりましてはほとんど視覚障害のことは何も知りませんから、特に書かれた内容についていろいろ細かく質問されてきます。私の経験上、結局、自分が書いた文章に対して質問してくるわけですから、書いた内容を具体的に説明してどんどんアピールして、視覚障害者にもこういうふうに仕事ができるというようなことをやれば、うまくいくのかなということを少し実感しました。

○新井 どんな会社なのか説明をお願いします。
○石山 銀行や金融、証券などの汎用機やシステムなどを開発。今従業員が約500名。採用が毎年大体20〜30人。私はその中で事務職として働いています。
○新井 会社は入社した当時、石山さんにどんな仕事をしてもらおうかと考えていたのか、また、実際入社当時どういう仕事をしていたのかな?
○石山 入社して最初はとりあえず会社側として具体的にどのような仕事をやらせるかは一切決めていなかったそうです。後々聞いた話なんですが、とにかく1年間はいろいろなことをやらせてみようと、視覚障害者がどういうことができるかを、とりあえずやらせてみようという方向で、会社はいろいろやらせてくれました。私は入社して最初のころは、大した仕事はしていなくて、いろいろな方から、例えば「こういう資料をつくってください」とか「こういう表をつくってください」という依頼がきます。それに対して私が、音声環境のパソコンでワープロで文章をつくったり、表計算をつくって返す仕事を大体半年ぐらいやっていました。
○新井 今の仕事がどのようにして決まったのか。例えば、石山さんがこうやってこういうふうな仕事ができるんだと提案したのか、あるいは何か上の人がいろいろ考えてくれてか。その辺、今の仕事が決まるまでの過程は?
○石山 会社がそういうふうに、どんどん試してくれているわけですから、私は試されているのに対して、正確に仕事をこなす、正確に作業をするということをやっていました。実は私の会社は、ネットワークでいろいろ会社の情報もすべて管理しているわけですが、最初は全然音声化はできていなかった。それが約半年ぐらい後に、いろいろ自分で調べて、新しい音声のソフトが出たという情報を聞いて、自分で情報を集めて自分で買って、会社のパソコンに自分でどんどん組み込んでみて、実際に音声になったわけです。要するに「こういうソフトを使うと、このようなことができるようになりました」とか「こうやってやると、こういうことができます」というふうにどんどん自分から会社にアピールしていったように私は思っています。
○新井 会社での生活ぶりは?
○石山 とにかく私がいろいろ会社の中で過ごしやすいようにするために、自分の動きやすいように、上司に提案してお願いはしていました。例えば電話のボタンや会議室の入口や自販機やエレベーターのボタンなど、いろいろな場所に点字シールをはらせてもらっています。
 最初のうちは、会社もどう対応していいかを少し悩んでいたという話は聞いたんですが、そういう問題は大体1カ月や2カ月ぐらいして、私の方が「こういうことをやるとこうなるんです」とか、「こういうふうにやるとこういうふうになりますよ」とかコミュニケーションをとって、結局今では、特に会社の皆様もすごく優しく、とにかく過ごしやすい環境にさせていただいています。

○新井 職場での人間関係は?
○石山 会社の皆さんと夜、飲みに行ったりとか連れてってもらってますので、そういう面ではすごく恵まれた環境だと思ってます。コミュニケーションに関してはすごくいい状況だと、私は思ってます。
○新井 仕事の内容ですが、新規採用の仕事の流れは?
○石山 新規採用は定期採用、4月入社を予定とする方の採用。大体、大学生や短大生がターゲットです。採用は、学生が入社する前までの会社説明会にお越しいただいて面接や筆記試験などを行って、その結果、内定を出して、翌年の春から学生の方には社会人となっていただくということ、これが新卒の採用です。
○新井 最近の就職活動の状況は?
○石山 現在の大学3年生。ですから、今ぐらいから学生がそろそろ就職活動が始まります。どのように就職活動をやっているかと言いますと、以前は基本的には大学の求人票を見たり、よくダイレクトメールなどが自分のところに突然いっぱい来たりしていると思うんですが、それ以外に就職ガイドを見てはがきで資料請求して活動したり、これが今までの流れなんです。
 最近はインターネットが各大学へも普及して、東京都ですと、もうほとんどの大学が学校でインターネットをとりあえず使える環境にあるということです。また学生個人もインターネットを持っている環境が多いですね。
 今、インターネットで就職活動をするんですが、具体的に言いますと、昔でいう「就職ガイド紙」がインターネットになったと、まず思っていただければわかりやすいかと思います。要するに、全部会社の情報があるインターネットのホームページにアクセスすると、もう端から端までいろんな会社の情報が、昔の就職ガイドと同じくらいの量を掲載していまして、学生は会社情報を見ながら会社説明会の申し込みや資料請求、その他面接など、全部インターネットでやっているというのが実態です。
 昨年、学生にアンケートしたんですが、インターネットとその他、即ち基本的に就職ガイド、はがき、どれが一番多いか、就職活動をメインでやっているのは何か、インターネットでやっているという回答が90パーセントぐらいありました。

○新井 中途採用の仕事の流れは?
○石山 先ほどは正規採用ですから、季節によって忙しかったり忙しくなかったりです。中途採用は年中募集があります。現在、ITの業界は超売り手という感じです。買い手側の会社は1人でも多くの要員を欲しい状況ですが、転職を希望している方は少ない現状です。相当要員不足に困っている状況ですね。
 基本的に私の勤める会社では、人材紹介会社がすべて仲介に入っています。人材紹介会社は今、私のところでは大体60社ぐらい使っています。その紹介会社からメールで、紹介したい人の業務経歴や履歴などの情報を私宛にもらいます。それを見て、あといろいろやるわけですが、選考して面接をやって内定までもっていくのが中途採用です。

○新井 新規採用業務の具体的なやり方は?
○石山 インターネットを使った作業ですね。先ほども言いましたとおり、新卒の採用、学生の採用については、インターネットを使っての作業をメインでやっています。インターネットをどうやってやっているか、いろいろお話できればと思います。
 まず、仕組みについて、学生は、資料請求や会社説明会の申し込みや、あとその他、面接の申し込みまで、すべてホームページから入ってくるわけです。資料請求もそうですし説明会もみんなそうなんですが、学生がどんどん申し込んできます。
 実は、私ども人事側として、インターネットでいろいろなことができる仕組みになっています。例えば、説明会を申し込んできた人のリストを、去年は1日に大体20人ぐらいの申し込みあったんですが、インターネットですから視覚障害者へも簡単に音声環境でいろいろ操作をして、表として出力したりできます。それらの表を出力するのもそうなんですが、会社説明会や資料請求を申し込みする方に対して、こちらでまた返事を出さなければいけないわけですが、送られた皆様に対して、私がつくった文書をインターネットに登録することができます。そのインターネットで登録した文書を、送ってきた相手に簡単にボタン一つで実は文書を送ることができます。ですから、そのようにして、申し込みに対しての管理については、視覚障害でも非常に簡単にできるというのが現状です。
 私の担当は、会社説明会の場所とかその企画とか、すべてやっています。インターネットを使った場合の話でいきますと、まず、資料請求で学生が申し込むと、申し込んだものに対してインターネット上に一覧が出るので、とりあえず、その資料をお送りしなければいけません。それは全部電子メールで送れる仕組みになっています。以前だと、会社案内とか大きい封筒で送るようなイメージがあると思うんですが、そういうのは全くなく、インターネット上で会社案内のファイルをそのまま添付して学生に送り返す、という作業になります。それを見て、学生がもしうちに興味を持てばいろいろ申し込みをするわけですが、そういう申し込みなども学生が全部日にちをチェックしながら申し込みできますので、私どもはもう単純に申し込んできた者に対して、それを管理して、まずとりあえず学生の方に受講表などをメールを送ったりするのもあるんです。
 会社にも情報を社内ネットワークを通して転送します。何月何日の会社への会社案内にはこのような方々が来ますということで、その方の個人情報や学校名、あとアンケートなども全部データとして入ってまして、それらをまた社内の方で関連部署の方に配ったりしてます。
 それで会社説明会の準備に入るんですが、基本的に実は去年の例で言いますと説明会をやりまして、あと筆記試験や適性検査などもやるんです。実際に私が筆記試験の答案用紙を配ったり、説明したり、監督したりしたわけです。学生の前で、さすがに白い棒を持っていきなりなので、学生の方々はちょっと驚かれるかなとか思いながら、心はちょっと気持ち的には小さくなりながらもやりました。それで適性検査、筆記試験は終わり、あと採点になるんですが、採点はさすがに私はやりません。こちらは採点、契約書関係については他の方に任せています。
 結果は出ますので、次は学生に次のステップ、私の会社では面接になります。その連絡を全部私が学生一人一人と連絡しながら日程も全部私がつくって、うちの会社の場所や面接官の設定も会社の社内ネットワークを使用しながら全部やり、あとは面接に臨んでいただくという形をとっています。
 その後にも役員面接とかあるんですが、基本的には面接のセッテイングを学生といろいろ連絡し、大体電話で応対しながらやります。応募者が大体1,000人ぐらいいるものですからなかなかの重労働で、さばくのも大変です。

○新井 仕事の中でパソコンの活用とか、便利な道具は?
○石山 電話での学生とのやりとりがあるんです。そうするとメモをとらなければいけない状況は多々あり,それが問題になってくると思います。ICレコーダーやパソコンを使ってやっています。手に握ってすっぽり入るICレコーダーです。またパソコンでは、メモのソフト、ソフト名が「紙2001」というもの、これはメモをしたものがすぐ保存できて、また呼び出すのも簡単なものです。
 また、人事、総務部門では代表電話を受ける。社員の内線電話に回さなければいけないんですが、そういう外線電話は待たすのはまずいということがありますので、早急に検索できるようなソフトを活用します。特に今紹介しているのは両方とも無料で使えるソフトですので、こういうものを使って仕事で役立たすというのは、やはり必要かなという感じがします。
 その他、音声電卓と文字センサー。文字センサーは戸締まりのさいの電気の消し忘れのセンサーにもなります。

○新井 まとめに代えて、一言どうぞ。
○石山 目が悪くなって、日常生活訓練を受けてから、すごく短い期間で就職をすることが出来ました。自分だけの努力ではないわけです。私の場合、すごい点字の指導員、歩行訓練士に出会えたことがあります。また、履歴書を書くときに、そのほかに説明資料やアピールする材料などをつくるといいよと言っていただいた、日本盲人職能開発センターの方ですね。そんな方々は他にもいろいろいますが、1つのきっかけが、すごく自分にとって変わったなと思います。たぶんその点字指導員や歩行訓練士に出会っていなかったら、私はきっと今みたいに仕事はしていないと思いますし、また日本盲人職能開発センターの方のたった一言のヒントがなければ、まだ私はもしかしたら就職もしていないと思います。やはりそういう面でも情報をいろいろ持つということが、すごく何か重要なんだなというのは感じます。
 特に私の場合は会社に入る半年前までは本当に何も情報を持っていなかった人間ですから、そういうことを考えても本当に情報のありがたさはすごく身にしみて感じたというのが感想です。


職場で頑張っています(1)
逆境に負けない強い意志で
『自分に正直であり続け、ハンディキャプの克服へ!』

浅野 真史(34歳)千葉県松戸市 在住
 物がぼんやりとしか見えないために視力の発達が止まり、眼鏡を掛けても視力の矯正がでない目を持つ者、それが弱視です。
 生後まもなく高熱を発し、それを原因とする黄斑部の発育不全による先天性の両眼球震盪症。これにより私は弱視であるものの、生き方に迷い、晴眼者と障害者社会をそれぞれ行ったり来たりと、とても複雑な経歴を持っております。16歳の時に、初めて身障手帳を取得して盲学校へ普通高校から編入し、三療の資格を取得して卒業をした。
 しかしその後、再び一般社会での生活を歩み、企業へ就職して、現在は証券会社の転勤がある本社総合職社員として、インタ―ネット取引分野で、極めて普通の晴眼者に近い状態として現役で働いております。
 今の会社には11年ほど勤めていますが、その間、バブル経済の崩壊に伴う長期の景気低迷と金融の自由化・再編がますます進む業界、激動の渦が激しく取り巻く会社で、一般晴眼社員でも爪に火を通すような思いをしながら、命懸けで長時間労働にて生き残りを掛け、仕事と戦っている厳しい環境のなかで、弱視の私が数々の肩たたき・嫌がらせ・リストラなどを乗り越え、また潜り抜け今日まで来れたことは、ひとえに幸運だったとしか言えない状態に感じています。
 また、会社における待遇などにも、障害者枠での在籍にも関わらず、特別な評価ではなく、晴眼の社員と同じ評価基準を受けています。これは今の時代に差別等もなく、とてもありがたい事なんですけど、逆に「障害リスク」と「ハンディギャップ」・「会社での将来性」と境目のないあやふやな立場の自分の「生き方」、「感覚」と「意識」等に、社内外を通し違和感を感じ、ここ数年自分に迷い、苦悩に陥っておりました。と、言うのも総合職社員なので、どんな無理な業務であっても、自分から率先して積極的にこなして行かなければいけない姿勢が必要なため、強い使命感のもとに、視力的に全く見えていないのに「これまでの経験」と「感」そして「知識」にほぼ全面的に頼り、自分なりに「見える状態」として業務などに向かってきました。
 しかし、視力を使う事務系の業務で、激しい眼精疲労と頭痛そして倦怠感など不定愁訴が慢性化していたため、身体に「ウソを突き通す」ことの限界を感じ、2年ほど前に、当時診察を受けていた大阪医科大学附属病院の主治医に思い切って相談したところ、「視力障害者としての自覚と認識不足・姿勢の改善」を指摘され、「正しく障害者としての評価が必要」との意見で、両目の視力が0.03にまで、少しずつ落ちてきていたこともあり、身障手帳五級より現状の「三級」に等級変更し、自他ともに現状を見つめ直す機会として、会社側にも意見書など提出して理解を求めてきました。
 ところが、転勤や会社の合併など様々な理由から、急激に労働環境の変化が起こり、会社側も以前に比べなかなか理解に応じる姿勢を持てない状態になって来ました。また合併により、職場の同僚にも、カルチャーや社歴の異なる社員が次から次と異動して、今は7割方を占めるようになりました。そのため、人間関係の形成に支障も出でおり、協力も得られず仕事もやりにくくなる一方ですが、その矛盾をずっと感じる自分の心を抑制しつつ、今は、改めて障害者として、社内外を通し後ろ指を指され、屈辱感に耐えながらも、8月からは自分で白杖を持ち、拡大読書器を使いながら職場へ通い続けております。
 今後も会社で強力なリストラの実施など不安は常に付きまといますが、幸いにも、事務作業視力はあまりありませんが、生活視力はまだ残っているので、残りの視力を有効に使える職務を現在は模索しながら、しぶとく頑張って行きたいと考えています。
<2000年10月30日作成>

職場で頑張っています(2)

中村 実(都立大学事務職員 40歳)
<就職から15年>
 私の職場の机の上には、中央にスクリーンリーダー(画面読み上げソフト)が入ったノートパソコン、左に拡大読書器(アラジン)、右に音声電卓が並んでいます。まさに、三種の神器です。これらのツールと格闘しながら、一般事務の仕事をしています。
 私は先天性の弱視です。東京都にも障害者枠で就職しました。就職時で0.04程度の視力でした。また、ちょうど就職したころ網膜色素変性の症状が現れ始めました。現在は、視力は半分程度に低下しましたし、視野欠損も加わって、手帳で言うと1級になってしまいました。
 この間、窓口事務、図書館システム管理、会計や庶務事務など、健常な職員とほぼ変わらぬ事務の仕事をしてきました。今は、部内230名の給与の仕事をしています。大きな不安を抱えての事務職への就職でしたが、ワープロやパソコンの普及の時期とも重なって、ここまでは、予想以上に順調にやってこれたと思っています。

<個人の努力と工夫の限界>
 しかし、仕事をしていく中で、責任や仕事が集中するようにもなってきました。昨今の経済状況を反映して職場の環境も厳しくなってきて、周囲の協力も得られにくくなってきています。それに反して、自分の眼の状況は、悪化していくばかりです。これから定年までの20年間を考えたときに、仕事をしていくためには、眼を犠牲にしなければならない、眼を酷使すれば、仕事を続けられないというジレンマを感じはじめたのです。
 そこで、自分の中でいくつかの意識転換を心がけていくことにしました。
 一つは、言うまでもなく、このタートルの会をはじめとする同じような状況でがんばっていらっしゃる方々との情報交換、連帯です。
 次に、自分の抱えている問題や不安を、悲鳴は悲鳴として、上司にも人事にもしっかりと伝えていくことです。具体的に、自分の障害の状況や仕事をしていく上での問題、要望を文章にして上司や人事担当課長との面談を行なってみました。その効果だとは言われませんでしたが、今年度は人員配置の面でも、必要なパソコン用ソフトの購入の面でも恵まれた状況になりました。

<できることに着目して>
 もう一つの意識転換は、できることに着目しようということです。障害の悪化、特に疾病や事故で急変すると、できなくなってしまうことに目を奪われがちですが、残されている能力でも、できる仕事はいっぱいあります。
 10月の交流会での石山さんのお話を聞いても思いましたが、パソコンなど必要なツールを活用し、仕事のスタイルを工夫さえすれば、ほとんどの事務の仕事を、私たち視覚障害者の職域にしていけると確信しています。できることを積極的に見つけ、継続就労で実証していきたいと決意を新たにしているところです。

職場で頑張っています(3)
職場で足を引っ張っています

広島県福山市 佐藤 行伸 福山市役所勤務
 私の場合は職場で足をひっぱっています。
 職場に私物の拡大読書器を持ち込んで使っています。黄色のサングラスをかけ、テレビ画面にはパソコン用のフィルターを付けています。光度を上げると眼がとても疲れます。なるべく眼に負担をかけないようにと、4月から、これまた私物のパソコンを持ち込み、活字を読ませています。通知文書がとても多いので、助かっています。
 網膜色素変性症のため視力は低下するばかりです。現在の視力は右が0・03 左は0・1というような状況です。以前は、まだ良く見えていたと思うのです。今ではファイルの背表紙の字がよく見えません。朝起きて、闇の世界というようなことは無いにしても確実に、しかも急速に視力が低下してきています。いつまで今の職場で勤められるかとても不安です。
 私の仕事は受付業務で、申請書の書類審査をおこなっています。私が書類審査をしている間は、お客さんはジッと待っているわけです。私はイライラしながら拡大読書器をにらむのです、審査が終わり、お客さんが帰るとホッとするのです。でも後で処理していたら不備が見つかることが、しょっちゅうあります。お客さんに書類の書き方を説明することがあります。そのときは、事前に眼が悪いということをお伝えします。
 コピーの時、コピー機の画面操作が必要なため拡大や両面コピ−ができません。場合により、遠慮なく、同僚に依頼しています。
 よその課へ調べものに行く時には、同僚に付き添ってもらい、記録してもらっています。字が見えないというのは、とても不便ですね。拡大読書器を持ち歩くわけにいきませんしね。
 拡大読書器を使用するに際しては当時の課長が大変骨をおってくれました。私は私物の持ち込み依頼をしただけで、組合や人事担当・庁舎管理担当などとの調整に走ってくれました。市費で購入の話がありましたが、急いでいたのと備品になったら困るという事情があり、お断りしました。パソコンについても同様で、おかげで4月から職場で使えるようになったわけです。その上司は異動で他の課へ変わられました。とても頼りになる方でした。それと昨年から音声電卓を使用しています。イヤホンがないため最初は恥ずかしくて使うのをためらいましたが、今では平気で使っています。自分でできないことは遠慮無く同僚にお願いしています。そして必ず、お礼を言うようにしています。
 時には、休みたいと思うことがありますが、人よりノロマな自分を思うと休んではおれません。かような私でも落ち込むことがよくあり、長期病気休暇が欲しいと思うことがあります。失敗をした時は、特にそうです。でも同僚がよくカバーしてくれます。とても感謝しています。
 仮りに、とてつもなく高い壁が目の前にたちはだかったとしましょう。ため息をつきながらも、何事にも正面からぶつかれば、自分一人では、できそうもないように思えても何とかなるものです。誰かが助けてくれます。決して、逃げないこと。自分の姿勢をキチンと示すこと。それが大事だと思います。

職場に戻る

二見徳雄(大阪・関西電力株式会社)
 和泉会長をはじめ全国のタートルの会の皆さん、長い間のご支援ありがとうございました。関西電力に職場復帰した二見です。職場は、もちろん、もとの職場である大阪北支店の野江電力所架空保線課で、架空送電線路保守の机上設計業務です。
 裁判所の最終的な決定という「調停案」に原告、被告の双方が異議を唱えず、和解が成立し、6月1日より私は毎日関西電力の社員として仕事に従事しています。
 この度の職場復帰は私の「支援する会」の方以外でも、多くの皆さんに祝っていただきました。それは今日まで会社の中にあって、応援したくてもできなかった人達から、6月1日以後、社内の電子メールで「よくやった。」とか「ご苦労さん」などの声が寄せられたことです。
 私達が応じたこの度の「和解」の内容には、明確な「解雇無効」の表現がないため、100パーセントの勝利でない、と思われている方もおられるのではないかと思います。
 しかし、大きな勝利は中途で視覚障害になったことを理由に解雇された私が「原職復帰」を裁判所の「和解調停」として勝ち取ったことにあると思います。現実に職場に行き初めて、既に半年になろうとしていますが、私の机には、視覚障害者用の補助器具である「パソコンと拡大読書器」があります。タートルの会の正式名称でもある中途視覚障害者の復職が実現したことに大きな勝利があると確信しています。
 この間のことを振り返ってみますと、関西電力と私達の和解交渉は5月15日(月)まで何回となく続きました。しかし、当事者間の和解条件の話し合いでは、解雇の有効無効と付帯する賃金その他での合意に達せず、成立しませんでした。
 そこで、裁判所は民事調停法17条に基づき、明日16日に文書で裁判所の考える調停案を示すので、双方とも受理した日から2週間以内に異議を述べることが出来ると伝えられました。
 その内容が「決定」として「主文」が示され、3年間で明らかになった事実、主文を導き出すに至った裁判所の考えが示されていました。
 私達は何名かの支援の仲間も参加した弁護団会議で、裁判所の案を受け入れると決めました。その理由としては、野江電力所で机上の設計業務という「原職復帰」が実現できること。身分については「合意退職」で6月1日付再雇用であるが、説明の中で裁判所も「解雇はなかったものと言える」と判断していること。障害者運動の面からも、復帰して仕事をすれば、大きな励ましになること。また、この調停案に我々が異議を唱え「白黒の判決」を求めれば、大阪地裁では勝利しても最高裁にいき停年まで争う確率が高い、等の理由からでした。
 しかし、2週間以内に被告、関西電力側から、異議の申し立てがあれば和解は成立しません。私は会社からの異議が出れば「判決」を求めて闘うと気持ちを固めつつ、「支援する会」では和解が成立した場合のマスコミへの「声明文」の準備も進めました。
 そして、5月30日の夕方5時になっても被告からも異議が出ず、和解が成立、職場復帰が実現しました。
 私の忙しさはそれから始まりました。夜には朝日新聞の記者が取材や写真を撮りにくる。31日には司法記者クラブでの会見が昼過ぎに入り、ライトを浴び、宮沢代表委員をはじめとする大阪視覚障害者の生活を守る会の千田さん、関電OBや全国福祉保育労組の皆さんに見守られつつ、弁護士の先生方とともに記者の質問に答えました。夕方からのテレビでは和解の報道が始まり、お祝いの電話やファックスをいただきました。そして夕方6時には関西電力の人事の副長から電話があり、明日6月1日に社員採用の辞令を交付するので出社するようにとのことでした。
 6月1日は関電OBの三木谷さん、大阪労連・大阪市地区協議会の上地さん、大阪民主新報の記者さんの拍手をいただきつつ、大阪北支店に入り辞令を受けました。その後、勤務地である野江電力所へ向かい、各課に挨拶して回りました。「私は視覚障害者で、補助器具を使えば仕事は出来るが、わからない点は教えて欲しい。」旨の話をしました。そして、4日には新潟の「県民の会」、10日にはタートルの会の総会にも出席して、支援のお礼と報告を述べさせていただきました。新潟でも東京でも職場復帰の実現を暖かい拍手で喜んでいただきました。
 復職が実現して、半年が過ぎようとしています。最初は戸惑った携帯電話や電子メールにも慣れました。
 仕事も、ロータスでの資料作りやオンラインでの業務処理も順調に進み、同僚に教えて貰うことも減りました。
 電力の規制緩和による競争に勝つためと称して、関西電力のあらゆる分野でコスト削減が強力に進められています。一部年功序列の要素もあった賃金も「成果型賃金」が来年から導入されるなど、以前にはなかったきびしさもあります。
 7月28日には、弁護士さんや和泉会長、新潟の長井会長、日本ライトハウスの面高部長など140名の参加で、盛大な祝う会もしていただきました。
 そして、「支援する会」も『関西電力、二見裁判の記録』という報告集を作り、10月27日に盲人情報文化センターで「解散総会」を開き、職場復帰運動は終わりました。
 私の今日の生活は毎日の仕事と時々の大阪視覚障害者の生活を守る会の会議や運動に参加するのみとなり、少し裁判をしていた頃を懐かしく思うこともあります。
 4年近い「一人原告」での闘いを頑張って来れたのもタートルの会や全視協(全日本視覚障害者協議会)の仲間の皆さんの熱い応援があったからと、改めて感謝申し上げます。そして、今後ともタートルの会の一会員として、お付き合い・ご指導をお願いしてお礼の言葉とさせていただきます。
(2000年11月12日)

お知らせ

1月交流会
2001年1月20日(土曜日)2時から4時半
講師:山本和典氏(東京都盲人福祉協会歩行指導員)
演題:「都盲協の中途失明者緊急生活訓練事業について」
  〜歩行訓練を中心に〜
場所:日本盲人職能開発センター

3月交流会
2001年3月17日(土) 2時から4時半
講師:内田教子氏(板橋区立障害者福祉センター)
演題:「中途視覚障害者の自立と家族の関わり」
場所:未定


編集後記

 2000年も師走に入り、20世紀最後の数日を慌しく過ごしながら、21世紀を迎えようとしています。21世紀は安心して働きつづけられる世の中になるのを期待しつつ、お互いに頑張っていきたいものです。

 「復職おめでとう」
 寺田民樹さんは11月27日に、古橋直広さんは12月1日にそれぞれ復職されました。
 また、久保賢さんは福島大学に社会人入学試験に合格され来年から仕事をしながら大学生活を始められます。
 これからが大変ですが、皆さん、それぞれ頑張ってください。会員一同、心より「おめでとう」と、拍手!拍手!
 詳細は次号に譲ります。

(篠島永一)

『タートル』 (19)2000年12月3日発行
中途視覚障害者の復職を考える会
タートルの会
会長 和泉森太
〒160-0003 東京都新宿区本塩町10-3
社会福祉法人 日本盲人職能開発センター 東京ワークショップ内
電話 03-3351-3208 ファックス 03-3351-3189
郵便振替口座:00130−7−671967
turtle.mail@anet.ne.jp (タートルの会連絡用E-mail)
URL=http://www.asahi-net.or.jp/~ae3k-tkgc/turtle/index.html

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