会報「タートル」第17号

2000. 5.15 発行  
中途視覚障害者の復職を考える会  
(タートルの会)  


【巻頭言】
私の 昨日・今日・明日…!
中身のない話―――

(タートルの会・幹事) 持田健史  
埼玉県立盲学校高等部専攻科/理療科2年  

●戌が歩いて亀と出会う
 小生 昔から<文字と文章は書くのが苦手、頭と絵なら‘まあ〜・かける’>。  そういう訳で、若い頃から視覚美術を志し‘好きこそ物の始めなり、文句は言わねど愚痴は言う’の教えを守り、美術教師とデザイナー生活約10年。その後、和食主体の外食チェーンに転職して販促・企画部門一筋で20年。通算30年は視覚伝達に係わっての生業人生、言う事無しで順風満帆と思いきや、そこはどっこい問屋の棚はなかなかおりぬの喩えがあった。40代後半で視覚異常を自覚する。視覚を資格と自覚して退職したのは三年前。
 食い・寝る事が大好きで、小原庄助気分の三年寝太郎を決め込むつもりがそうとは成らず、甘く無いのは世の常ならん。
 ようやく歩き出した戌年生まれ、戌も歩けば白杖にあたる。そんな塩梅で相談に訪れたのがタートルの会。「丁度今夜、幹事会があるので皆さんに会うも良かろう」と、篠島先生に乗せられたのが運のつき。折から「中途失明」出版作業の大づめで、メンバー全員の真摯な活動ぶり、そのあまりにも強力な磁力に思わず知らず引き込まれ、その場からのお手伝い、気が付いた時にはメンバー入り、そんな事と相成り候。会で得られる勇気と元気。それが転じてヤル気となった。

●ヒイ・フウ・ミイで決まった仕事
 現職復帰が復職の基本なれど、既に勤めを退いた場合の再就職についても様々な応援・支援を頂ける‘タートルの会’って本当にいいですね。何をするにも好きな事・好きになれる事しかしない自分自身の性格。それを活かした仕事はないかと指折り数えて「ヒイ・フウ・ミイ」ひらめいたのが三療の仕事。昔からの肩凝り人間、按摩・鍼・灸は大好きだった。細かな事は横に置き、これだと決めたら後は前向き。取り寄せたるは盲学校の入学案内、入学試験は高校レベルの教科5科目と肢能検査。それからは、肢能検査を技能体力検査と勘違いしてのジム通い。苦手の教科にホトホト困り、お願いしたのが友人(タートルメンバー)のご子息。現役高校生を家庭教師に、始めた特訓2か月あまり、お陰をいただき昨春よりの学生生活。ウィークデイは寮生活、50半ばの新入学生。  西洋医学に東洋医学、憶える事には時間がかかる、忘れる事には時はいらない。軽い気分でケセラセラ、結果が出るまであと2年、ゆっくりやればなんとかなろう。

●最後はお定まりの蛇足文
 久しぶりでの学生生活、それにつけても盲学校というのはなんて視覚障害者の多い所であろうか、世の中全て視覚障害者ばかりな気にもなる。さて、そこで気にかかる事が一つある。
 縁あっての学友諸兄、その多くが中途視覚障害者、その障害が原因で職を辞した人の多い事。当人のヤル気とその職場環境との調整次第でその業務継続が可能と思える気がした次第である。障害イコール現職放棄とならぬ、しなくてすむ時が来るまで、タートルの会の活動、社会に広く普及される事を願ってやまない・昨日・今日・明日…。


【職場で頑張っています】

「目の異常?!」から、休職せずに今…

(タートルの会・幹事) 山本 浩  
和歌山県在住:下津町教育委員会勤務  

 私が<目の異常>を感じ始めたのは、平成6年の予算編成時期だった。
 翌年4月、人事異動により7年ほど勤務して慣れたA職場から、B職場に異動することになった。その頃から<目の異常>を益々強く感じるようになってきました。見え方は、左目で文字を見ようとすると中心部分が翳んで見える状態でした。元々、夜盲と視野狭窄を伴う網膜色素変性症である事は解っていました。学生のころ通っていた県立医大附属病院の眼科医からは「網膜色素沈着症」と告知されていましたが、20代後半に2度も人身事故を起こしたので、眼科医に告知された病名が気がかりになり、医学書で調べたところ見当たりません。その医学書によると、私の症状は「網膜色素変性症」が最も適切な眼病名であり、そして「いずれは失明する」ことも知りました。複雑な心境になりましたが、この時はまだ裸眼で十分仕事は出来ました。
 平成7年の人事異動により職場環境が変った頃から、働きつづけることに不安を感じて、町の眼科医に相談を持ちかけることもしました。「今から職場内で、出来る仕事を探したら」などとアドバイスを受けた時には、ショックを隠せず、悶々とする毎日が続きました。
 B職場は、事務量こそ少ないが地権者との契約業務が主で、取扱う金額が多額で緊張の毎日でしたが、周りの人やコンビを組んだ相棒に恵まれて、1年間は無事に終えることが出来ました。しかし、相棒と課長が人事異動により、代わることになったので課長同士の引継ぎの際、私の目の状態を申し送ってほしい旨を告げました。新課長は私のことを気遣ってくれて、希望する部署はないか等と聞いてくれましたが、この職場の中で目を使わない業務などあるはずがないことは誰しも解ることなので、希望部署を言うことはわがままだと感じて、結局希望を申し出ることは出来ませんでした。
 新しく私とコンビを組むことになった相棒は20歳で、技術系の学校を出たばかりの新人でした。彼は教える事柄の全てにおいて飲み込みが早く、私が意図する全てのことを良く理解してくれます。私が困難とする細かい仕事もこなしてくれ、サポートしてくれました。
 しかし、このころから私は、間違いを引き起こしたり、周りの人に迷惑をかけることも少なくありませんでした。
 平成9年7月、人事異動により前のA職場に戻ることになりました。
 慣れているとはいえ、文書量の多い職場に戻ったのです。このころの私は既に、ルーペなしでは文字を書くことも、読むことも出来ないくらいの症状になっていました。自分自身、どう考えても仕事の継続は困難かと思いました。
 同年8月、網膜色素変性症の権威である千葉大学附属病院の安達先生の下を訪れ、この眼病が治らぬものかと懇願したものでした。答えは「難病だから治りません。千葉県条例では特定疾患に該当し、身体障害者手帳の交付を受けられます」「中心部の翳みは黄斑変性症で、原因は網膜色素変性症によるものか、脳の異変によるものかは、判りません。たとえ原因が判明しても治すことは出来ません」と言われました。
 治すことが出来ないことと、身体障害者手帳の交付対象に当たる状態であることを知り、これを受容して他の道を考えるべきだと思いました。

 同年9月、教育相談を受けるために盲学校へ出向きました。
 その際、教育相談を受けたS先生が私と同じ眼病で、この人なら気持ちを開いて相談できる人だと思いました。そして、来年は盲学校に入学しようかと考えたものの、今までの経験と知識は生かせないものかとの気持ちを心の片隅に残しながら、休職のための相談を組合執行部に持ちかけました。
 同年10月半ばに盲学校のS先生から電話があり「東京・四ツ谷の日本盲人職能開発センターで、「中途視覚障害者の復職を考える会」が、視覚に障害を持つ公務員や会社員の人たちで、月に1回交流会を開催しているので、一度参考のために行ってみたらどうですか?」と勧めてくれました。溺れる者は藁をもつかむの想いで、早速同センターに連絡して相談を持ち掛けました。話を聞いて、何か参考になることがあるのでは、とかすかな希望をもち上京することを決めました。
 上京して、和泉会長や篠島次長にお会いして私の現状を聞いていただきました。同センターの山口さんにも、弱視でも音声や、文字の拡大と画面のコントラスト調整などで、パソコンを自分に最も使いやすい環境に整えて、文章を書いたり読んだりする拡大読書器を使えば十分仕事が出来ることを教わりました。“これで辞めなくてすむ”と確信しました。
 そして、帰ってから組合執行部と上司にパソコンと拡大読書器を使えば、仕事を続けられることを話しました。 しかし、思わぬ方向転換に難色を示され、上司からは「失明した時のことを考えたらどうか?」などと言われました。

 現在は、同センターで教えていただいた機器環境に近い状況で休職もせず、今の職場で継続して仕事をしています。  また、休みに時間があれば、全国を東奔西走して、視覚障害者の理解と啓蒙のために頑張っています。


【職場で頑張っています】

職場復帰への道

田中 秀樹  
鹿児島市在住:鹿児島中央郵便局勤務  

 今年、長男が高校に入学しました。その姿を見て、晴れがましくも思い、頼もしくも見えます。自分で選んだ学校で、ベストを尽くして頑張ってほしいと思います。
 職場復帰して2年近く経過します。ここに至るまでは苦難の道程でした。

 「○○さん、郵便ですよ。」
と声を掛けナながら、郵便を配ることを天職と思っていた私が、目の病で休職に追い込まれるとは、当時は思いもしませんでした。
 私は、昭和48年に大阪の岸和田郵便局に採用され、よき仲間に恵まれ5年後、現在の鹿児島中央郵便局に転勤し、自分なりにベストを尽くし、過去に何度か表彰を受けたこともあります。
 しかし、天が与えた試練とは思いたくはありませんが、40歳を過ぎた頃から、右目の異常を感じ始めました。当時は、精力的に働き、人生の中でも最高潮の時期で、目のことに関しては、一時的な体の疲れと思っていました。
 そして、雨の降る日に、交通事故を起こし、病院で目の診断を受けた結果、「脈絡膜萎縮症」と告げられました。医者からは、「現状維持が精一杯で、現代の医学では治せない」と、無残な言葉でした。この時点で、職場復帰の道は不可能となりましたが、職場を辞めることは考えず、どうすれば職場復帰が可能となるかを、いろいろな人に相談しました。
 その結果、休職期間を利用して、鍼灸師の資格を取得し、職場復帰の材料とすることを勧められ、鹿児島盲学校への入学を決意したわけです。仕事でこの学校に来ることはあっても、まさか自分が入学するとは、当時は夢にも思いませんでした。
 在学中も、絶えず職場の組合と連絡をとり、本気で動いてくれるように頼み、復帰への意欲を示しました。
 そして、2年生の秋に、組合の幹部が学校を訪れ、鍼灸師の資格を取得することにより逓信病院で物理療法士として復帰できると確約してくれたのです。その場に立ち会った校長や各先生方もたいへん喜んでくれ、「今の田中さんの成績なら、まず間違いなく大丈夫」と言ってはくれましたが、1回の受験のチャンスを絶対に物にしなければ復帰できないというプレッシャーは大変なものでした。そのために夜遅くまで勉強し、また少し目を悪くした感がありましたが、幸いに合格し資格を取得しました。
 平成10年4月のはじめ、郵便局の総務課を訪ね、「この資格で復職したい」と伝え、また確約した組合の幹部にも連絡を取り、「早急に復職の道を見つけてください」とお願いしました。そして、盲学校在学中に知った「タートルの会」とも連絡を取りながら、その支援も受けました。
 その結果、その年の6月に組合の幹部の人から連絡があり、「田中さんの希望する病院への復帰を目指し、全国の逓信病院を調査した結果、どこにも欠員がなく、希望の職種での復帰は無理との結論です。しかし、元の職種での復帰は可能です」と伝えられました。

 そして職場の上司・仲間・友人に支えられて2年近くになります。
 現在の仕事は郵便の仕分け、道順組立て、事故郵便物の処理、上司と一緒に営業活動をする、そして郵便物の集荷などに追われている毎日です。そのため小さな文字を長時間見ていることが多く、最近、また目の調子が悪くなっているように自分では感じています。このままの状態では満足に仕事ができなくなるのではないかと思い、自分の資格を生かし、職員や郵便局を訪れるお客さんに対して、心身のケアを目的とするヘルスキーパーの場を作ってほしいと、過去、何回となく訴えていますが、なかなか前進しません。これからも、根気強く頑張っていきたいと思っています。
 これまで私を支えてきてくれた人たちに伝えたい。
 「ありがとう。21世紀に向けて、何らかの障害を持った人たちが、安心して働ける社会をつくってほしい」と。


【交流会記録(2000/1/22)】

職業継続と歩行

講師:石川充英氏  
東京都視覚障害者生活支援センター  

●はじめに
 私ども、東京都視覚障害者生活支援センター(以下、センター)は昭和58年の国際障害者年を契機に開設された施設です。センターでは点字の読み書きや音声ワープロなどのコミュニケーション訓練、白杖を使っての歩行訓練、日常生活訓練などの生活訓練を行っています。私は主に歩行訓練を担当していて、10年ほどになります。
 寮に泊まってトレーニングを受ける方が30名、通い(以下、通所)が10名、合計40名定員の施設です。対象は東京都に住む視覚障害の手帳を持つ方になります。しかし、近県で視覚障害のリハビリテーション施設のない所もあるので、一定の人数を受け入れています。現在39名の方がセンターでトレーニングを受けていますが、その中には静岡、新潟、千葉の方もおります。

●センター卒業後の復職・就職状況
 開設時から昨年末までに約430名の卒業生を送り出しました。
復職した方が14名、就職した方が23名です。
 復職についてみると、センター卒業後、すぐに復職した方が10名、日本盲人職能開発センターや国立職業リハビリテーションセンターに進学して、その後復職した方が5名でした。また、勤務を継続しながらトレーニングを受けた方が2名いました。
 就職については、センター卒業後、すぐに就職をした方が23名いました。就職した人はセンターに入所する前からマッサージなどの免許を取得していた人が治療院や病院などに就職したもので13名、軽作業に就職した人が7名、その他が3名です。この軽作業に関しては、いわゆるバブルの時代に就職を決めた方々で、現在も同じような視力の方が同じような職種に就けるだろうと、私どももハローワークに足を運ぶのですが、今のこの厳しいご時世ではなかなか就職には至りません。
 復職した14名と勤務を継続しながらトレーニングを受けた2名、合計16名についてみると、眼疾患は網膜色素変性症が6名、その他の疾患が10名になります。視力でみると、視力0から指数弁までが11名、視力0.01以上が5名でした。仕事内容は、音声ワープロを活用した仕事に就いている方が13名、三療関係が3名、その他が2名でした。
 どのような身分でトレーニングを受けにきているかというと、休職が8名、研修が3名、勤務を継続しながらが2名、その他が3名でした。この3名は自営や、病気休暇です。
 センターでのトレーニング期間は1年以内です。しかし実際には、最短で4カ月、最長で19カ月、16名の平均をとると、9.7カ月でした。

●復職した方の歩行訓練
 今日は、復職するに当たってどのような歩行訓練を行ってきたかということを、視力が手動弁の網膜色素変性症の方を例に取ってお話をさせていただきたいと思います。この方は、センター卒業後、すぐに復職しています。実施した項目としては、1)会社までの通勤経路、2)会社建物内の移動、3)誘導法、および会社の方々に視覚障害者を理解してもらうことでした。

1)会社までの通勤経路
 復職にあたって会社側から最も強く話をされたのが、会社まで安全に通勤してきてほしいということでありました。この中には朝のラッシュ時間帯は大丈夫だろうかというような心配の声もあり、その時間帯でも安全に通勤してもらえるようにトレーニングを行ってほしいという要望もありました。
 私どもはこの要望に沿ってトレーニングの計画をたてました。この方はセンターに入所する直前まで、白杖を使いながら一人で通勤を行っていました。しかし、使い方は自己流で、かなり危険な目にも遭ったということでした。そこで、いわゆる白杖の基本的な使い方、肩幅に振ってくださいなどから始めまして、誘導ブロックの利用の仕方、道路横断の手続き、バス乗降、電車乗降といったことをセンターの周辺を利用してトレーニングを行いました。さらに、自宅周辺のトレーニングも併せて行いました。その後、自宅とセンターの往復が一人で可能になった時点で、通所していただきました。これは、ご本人の希望もあったのですが、こちらとしては、会社への通勤の前段階と考え、本人に自信をつけてもらうことと、会社側へ安全性をアピールするための1つの段階と位置づけました。これは研修や休職という、ある一定のトレーニングの期間が確保されているからできたことと考えています。
 通所が順調に行われると、音声ワープロや点字の習得の状況、その他のトレーニングの進み具合などをみながら、会社側と復職の時期の調整を始めました。このときにセンターまで通所していることを会社側の方にお話ししたところ、安心をしたという表情をされました。この時点で、復職の時期は何月頃を目途にというような提示がされますので、それに間に合うように通勤経路のトレーニングに移ったわけであります。
 最初、人の少ない時間帯に基礎的な通勤経路の移動のトレーニングを行いました。この基礎的な移動ができなければ、より条件の厳しい朝のラッシュ時間帯は移動ができないと考えたからです。基礎的な通勤経路の移動が確立された段階で、朝のラッシュ時間帯のトレーニングを行いました。日中と違い、朝のラッシュ時間帯は人の多さや流れ、朝独特の整列場所など、日中では分からないこともありますので、実際のラッシュ時間帯でのトレーニングも行いました。
 朝のラッシュ時間帯でトレーニングを行い、移動の安全性を確認することは、会社側への大きなアピールにもなります。このように朝のラッシュ時間帯での通勤経路の移動の安全が確認されると、再び会社側と話し合いを持ちました。この話し合いでは、視覚障害者の歩き方及び本人の歩行行動について会社側の方に説明をいたしました。つまり、<1>境界線、壁や誘導ブロックなどに沿って歩くことを基本としていること、<2>駅のホームの移動は最低限にしていること、<3>電車乗降時の手続きなどについて、過去の論文などを示しながら、説明しました。 この段階になると、会社側の関心事は、朝のラッシュ時間帯の移動の安全性というよりも、会社建物内の移動に移っていきました。

2)会社建物内の移動
 会社側からは、最低限移動が可能になってほしいという場所が何カ所か提示されました。これらの場所について会社側は、同僚や上司などに声をかけてくれれば一緒に移動しますという言葉も言ってくださいました。しかし、長い会社生活を考えますと、やはりご自分で移動できるほうがいいと考えたこと、またご本人からも希望もありましたので、会社側から提示された場所と、ご本人が希望する場所についてトレーニングも行いました。
 主な移動先としては会社の入り口からオフィスの席まで、それから例えば会議室とか人事部の部屋、食堂などを行いました。ここで問題となったのが社員食堂でした。社員食堂では、様々なメニューから選ぶこと、カフェテリア方式で選ぶこと、空いている席を見つけることがどうしても困難になります。これらのことは、本人がトレーニングを積んでも、努力をしても、なかなか解決が難しいところであります。したがって、本人が食堂を利用するのか、お弁当を持ってくるのかといったことを踏まえながら、会社側とお話をして、同僚や上司などの協力を得られるように便宜を図りました。

3) 誘導法、および会社の方々に視覚障害  者を理解してもらうこと
 建物内の移動が確立された段階で、会社側と話し合いを持ちました。このときには関係各所から数人の人に集まってもらい、視覚障害者の誘導方法、および会社建物内を移動するときに気をつけていただきたいことのお話をいたしました。
 その内容は、<1>全盲の方の場合ですと壁に沿って歩くということ、<2>障害物があって初めてその障害物が分かるというような歩き方をしていること、<3>障害物によっては分からないこともあるので、足元などのゴミ箱は壁際に置かないようにしてほしいこと、<4>戸びらを半開きにしないこと、<5>引き出しなどを出しっぱなしにしないこと、<6>通勤途上で声をかけてもかまわないことなど、協力を求めました。
 この中で、トレーニングをしたのだからすべて1人で歩かないと歩行能力が落ちてしまうのではないかとの質問を受けました。これに対しては、そのようなことはないと答えた上で、声をかけたら誘導で行くのか、お先にと言って行くのかのどちらかにしてほしいことを話しました。視覚障害者にとって、つかず離れず歩いていくことは難しいので、そういったことはやめてほしいと重ねてお願いしました。
 こういった経過をたどり、この方は復職しました。センター卒業後に復職した方の何名かは、今思えば入所直前はかなり危ない思いをして通勤していたかと思うと話していました。通勤のみならず、歩行は絶えず危険をはらんだ状況でありますので、少しでも早い時期に安全に歩けるような、トレーニングを受けていただければと思います。

●センターにおける歩行訓練
 1997年から現在まで、センターに125名が入所されました。この125名の眼疾患は、糖尿病性網膜症が33名、網膜色素変性症が25名、緑内障が7名、その他の疾患が60名でした。視力を指数弁以下と0.01以上の2つのグループに分けると、指数弁以下のグループが59名、0.01以上のグループが66名でした。0.01以上のグループには、入所前は白杖を使用しないで一人歩きをしていた人が18名、白杖を使って一人歩きをしていた人が20名、一人歩きをしていなかった人が28名でした。
 白杖を使って一人歩きをしていた20名の全員が歩行訓練を希望しました。また、一人歩きをしていなかった28名の全員が歩行訓練を希望し、そのすべての人が自宅周辺の一人歩きはもとより、その多くは公共交通機関を利用しての一人歩きまで可能になりました。この結果から、歩行訓練を受けていただきますと、生活範囲、行動範囲が広がるということが言えるのではないかと思います。
 さらに、今までは白杖を持っていなかったのだけれども、センター入所を機会に杖の使い方を習って、その後使用するようになった方もいました。トレーニングを希望した動機を聞いてみると、<1>夜歩きにくくなるために、杖を使えるようになりたい、<2>視野が狭いために周りの方に注意を促すために持ちたい、<3>進行性眼疾患のため、将来の視力低下に備えて今のうちに杖を使えるようになりたい、ということでした。 
 反対に卒業後も杖を使っていないという方が11名いたのですが、この方々は、<1>現状の視力で杖を使わなくても安全に移動できる、<2>進行性眼疾患ではないことが、杖を使わない理由として考えられます。いずれにしても歩行訓練を受けていただくと、ある一定以上の成果は出るのではないかと思います。

●白杖を持つ時期
 私たちが歩く上で、事故というのが一番危険な状況と思います。97年の4月から99年の3月まで点字毎日に目次に出ていた視覚障害の方の交通事故は1件で、死亡事故に繋がっていました。しかし、大きな事故にならずにすんだ、はっとしたことなどは多いと考えられます。
 安全に歩く上で、白杖の携帯は大きな意味を持つといえます。センターでは多くの方が白杖を持って行動されています。白杖を携帯していない方は、このような環境の中に入ることによって、考え方も変わってくると思います。生活訓練を含め、職場の中で困難なことが出てきたときに、歩行や点字、ワープロなど、技術修得のために私どものセンターを利用していただければ、新たな展開も開けるのではないかなと思います。先ほどの自己紹介の中で何人かの方がまだご自宅にいるとかいうようなお話もされていたかと思います。そういった方には是非生活訓練を受けていただき、新たな1歩を踏み出していただければと思います。また、今職場で働いている方は、ぎりぎりのところまで頑張る前に、センターのトレーニング内容が必要であれば、研修や休職という形を取っていただいて、トレーニングを受けに来ていただければと思います。
 訓練をさせていただいている立場からお話をさせていただきました。今日お話した内容が、少しでも皆さんの歩行の安全に繋がれば幸いです。ご静聴どうもありがとうございました。


【交流会記録(2000/3/18)】

障害者雇用の経験と実態
〜採用と就業状況を把握して〜

講師:大本正樹氏  
イト−ヨ−カ堂鶴ヶ峰店  

●はじめに
 1月まで私は人権啓発室におりました。この部署では、差別問題、同和問題を基軸に、障害者の雇用、定着、それから、バリアフリー、ユニバーサルデザイン、セクハラ等、人権全般にわたる仕事をしていました。

●会社の概要
 イトーヨーカ堂という会社ですが、概要をお話させていただきます。 創業は大正8年になります。 千住でスタートして、戸板2枚といいますから、畳2枚分くらいのところから始まったようです。 店鋪数は先日兵庫県の広畑に新規オープンして180店舗になりました。 売り上げは約1兆5,000億円です。グループ企業としてセブンイレブン、デニーズ等を含めて、関連会社15社があります。

●推進のきっかけ
 「ノーマライゼーションの推進」に入る前に、当初の私どもの障害者雇用はどうだったかを申し上げます。9年前の1991年には、障害者の雇用は0.64%という状況で、人数にしても100名ちょっとしかいませんでした。そういう点で、ハンデを持つ人たちの雇用については無関心な会社であったと思います。
 社員の福利厚生などは、それなりに取り組んできましたが、実際にハンデを持つ人たちの雇用になると、関心がなかったのです。取り組むきっかけは労働省から非常に雇用率が低いという指摘をいただいたことにあります。取り組むならイトーヨーカ堂だけではなくて、グループ全体で取り組んでいきましょうということから、「ノーマライゼーション推進プロジェクト」を91年11月に、当時の人事担当の副社長をリーダーとして発足させました。そこからが事実的なスタートになります。
 今年で9年ですが、発足6年目にプロジェクトから一応の成果を見たということで、通常の日常業務として推進していくということから人権啓発室が担当することになったのです。9年を過ぎていろいろと振り返ってみますと、雇用状況は雇用者数480名、580カウント、雇用率1.88%と数値上では達成していますが、まだまだ取り組みそのものは不十分ですし、問題も非常に多いです。特に職域の拡大がまだまだです。たとえば視覚障害者の雇用数は24名ですから全体雇用数で比べると非常に少ないです。

●ノーマライゼーションの推進
 「ノーマライゼーションの推進プロジェクト」ということで、当初にどういうことを会社として考えたかと申しますと、ノーマライゼーションを企業として取り組んでいくのは社会的責務だろうと。それと、小売業ですので地域に大変お世話になっております。地域のお客様も来られます。そういう意味で、地域社会との関わりの中で総合的に推進していこうということ、この2つを基本的な理念として掲げたわけです。

●基本的理念の周知
 それでは、基本的理念を掲げてから、社員にどうやって教育をしていけばいいのか。1つは雇用して一緒に社員として仕事をしていく上での留意点・接し方、と、もう1つはお客さまとして来店された時の対応・応対の仕方の2つの視点からの教育が企業の特性として必要だったわけです。その2つの視点からどう具体的に推進していくかについて、3つの基本的姿勢を掲げたわけです。

●謙虚な姿勢
 その1つが、人は皆、何らかのハンデを持つという謙虚な姿勢。ハンデのない人はいないということです。私も職務が変わりますと、その職務はわからないわけですから、そこでは一時的にハンデになるわけです。又、昨年、中国に出店をいたしました。会社から何人か社員が行っていますが、中国語が全く通じないわけです。聴覚障害の方とお話をするときの手話と同じ感覚です。手話ができる人を介しながら話をするのと同様に、中国語のできる方を介しながら、中国の方と話をします。ですから、そのときは一時的に言語障害になるということです。
 従って状況なり環境なりが変わっていけば、皆ハンデがあるのだということをわからせる、又、そういう謙虚な姿勢が必要で、社員はそれを持ってくださいというのが1つめの考え方、姿勢でした。

●ハードとハート
 2つ目が、ハードとハートということで、この組み合わせが大切なんです。確かにバリアフリーとか、ユニバーサルデザインとか、そういう言葉が出てきていますが、ハードの部分はお金をかければバリアもそれなりにフリーにしていけるでしょう。しかし限界があります。ハードを補うのはハートなのです。ですから、ハートの部分がすごく大事なんだということを教育・啓蒙してきました。
 例えば、お客様が来られるときに、一声声をかけるかかけないか。目の不自由な方が来られた、あるいは車椅子の方が来られた、そのときにどういう形で声をかけていったらいいのか。どういうことに配慮をしながら声をかけていったらいいのか。どうやってお買い物の手伝いをしたらいいのかということを教育しながら、心のバリアをとりのぞき、ハートの部分が最後は決め手なんだということを教育・啓蒙してきたのです。

●相手の目の高さに立つ
 3つ目は‘相手の立場、相手の目の高さに立つということが大事なんですよ’ということを教育してきました。ただ、押しつけにならないということも大事なのです。これが押しつけになったら、逆に差別になるということもあるんだと、併せて教えていきました。

●買い物しやすい店づくり
 いままで申し上げた理念・姿勢から、それをどう具体的に推進していくかということから、その推進項目を3つ掲げたわけです。1つは障害を持つ人やお年寄りが買い物をしやすい店づくりをしていきましょうということで、いわゆるバリアフリーの店舗づくりです。
 ハートビル法という法律をご存じだと思いますが、その法律に則った店舗づくりをしてきました。例えば、車椅子のお客様が利用しやすいトイレ、いわゆる多目的トイレや、入口に点字による点字案内板をつくったり、というようなことをいろいろと進めてきました。

●働きやすい職場づくり
 2つ目は、障害を持つ人が働きやすい職場づくりをしていきましょうということです。実際にハンデを持つ方が仲間として一緒に仕事をするということはどういうことなのか。それで、障害部位ごとに接し方の基本を、また、特性についての知識の習得のための教育等を実施し、受け入れ側の整備の実施をしてまいりました。どう接していくか、どう人間関係をつくりあげていくかが非常に大切と考えています。

●地域社会への参加
 3つ目は支援し合う地域社会への参加です。これは会社としてのボランティア活動だと申し上げたらよろしいかと思います。これは例えば、シドニーのパラリンピックで競技種目として採用されたシッティングバレーというのがあるんですが、座ってバレーをやるわけです。私どもはバレーボール部がありますから、技術的にはバレーボール部の監督がいろいろと絡んで、技術的な指導をしたりということを4年前からやってまいりました。
 あとは、ハンデを持つ方がつくった品物を売る場所、ふれあい福祉ショップ「テルベ」という売場を10店舗で展開しています。これは全て無償で提供しています。以上が「ノーマライゼーションの推進」3つの分野で実施してきたものです。

●社員への教育
 会社としてノーマライゼーションの理念をどう社員に理解させていくかがこのプロジェクトの成功のカギをにぎっていました。当然パンフレット等はつくりました。また手話の教育も業務の1つとして推進してまいりました。いま初級の手話のできる者が1,000人を超えました。初級ですから、手話で会話をするのは難しいですが、最低限の意思の疎通はできます。例えば、「いらっしゃいませ」から始まり、「私の名前は何です」とか、「どういうことをお手伝いいたしましょうか」など、基本的なところを週1回15回の教育をして、手話を通してノーマライゼーションの理解をはかってまいりました。何とかこの10年で浸透してきたのかなと感じています。

●雇用の状況
 それでは、いまハンデを持つ方々が、どのくらい仕事をしているかを、雇用の視点からお話を進めさせていただきます。現在、ハンデを持つ方々の雇用者数は概算で580カウントになります。雇用率で1.88です。人数で捉えますと、470から480名となります。
 どういうハンデを持つ方がいるのかと申しますと、知的障害が129名、下肢障害が112名、上下肢が74名、上肢障害が61名、聴覚障害が48名、いわゆる内部障害が58名、体幹機能障害が57名、視覚障害が24名という状況です。それ以外の方もいますが、いま数字で申し上げました通り、視覚障害者が一番少ないですが、この中で全盲の方が5名います。

●職場の状況
 職場別に捉えると、どういう所にいるのかですが、まず商品管理といいまして、商品が入って来たり出ていったりする所に75名。知的障害者、聴覚障害者の方々が主に担当しています。それからコンピュータ関係で、ここに65名。車椅子の方、肢体不自由の方が中心に仕事をされています。電話交換を担当している方が41名おります。これは全盲の方、車椅子の方などが主に仕事をしております。
 いま申し上げた部署に配属されている方々は売場に出ていないのです。では売場ではということになりますと、精肉を担当している者が24名。それから総菜関係が20名。日用品、生活雑貨で18名。肌着が17名。こういうところを中心に配属されております。

●印象についての先入観
 ここまでくるにはいろいろなことがありました。当初の私どもの考え方ですと、ハンデを持つ社員が、店舗の中で仕事をするというのはお客様にとって印象が悪いのではないか。クレームをいただくのではないかという考え方をしておりました。仕事も十分にできないのではないかとも考えておりました。小売で一番大事な仕事である商品を注文する発注という業務があるのですが、できないだろうと、そういう考え方をしておりました。

●ある投書から180度転換
 ところが、これは私どもの大きな間違いでした。1991年の時点で雇用率は0.64%でした。そして雇用率が1.6%を超えたのがスタートしてから6年目、7年目で1.8%を超えましたが、約3倍近くに増えたのですが、これだけ短期間に雇用が拡大したのは一つのキッカケがありました。
 これは横浜のある店舗で、脳性麻痺の方が、青果を担当していました。担当はしていましたが売場に出すのは問題だろうと、作業場でキャベツを切ったり、トマトを袋に入れたり、そういう後ろの作業を中心にやってもらっていました。ところが、本人はそれだけでは面白くないわけです。やはり自分で売場に立ってみたい。商品の発注をしてみたい。他の社員と同じようにやりたいということをその店の店長に強く要望したのです。店長としては悩み、迷ったのですが、ダメもと、小言をいただくかもしれないけれども、やらせてみよう、と決断したのです。ジャガイモ、ニンジン、玉ネギなどの土物と、キャベツやレタスなどの葉物を担当してもらったのです。実際に売場もつくり、商品の補充もし、商品の発注もやりと、皆と全く同じ仕事をさせていったわけです。
 それを始めて、あるとき新聞に投書が載り、「あるスーパーでハンデを持っている人がこういう形で仕事をしている、たいへん素晴らしいことだ、そういうスーパーは応援をしていきたい」という投書があったのです。その投書を見たラジオ局が、今度はインタビューに来たわけです。買い物に来ているお客様にいろいろと聞いていったわけです。聞けば、当然「それは駄目だ」とは言わないでしょうし、「とてもいいことですね」と、一様にそういうお答えをしていただいたわけです。

●配属する職場の開発
 私どもが、その投書を読んで思ったのは、我々の考え方は全く間違っていた、遅れていた。お客様のほうが数段先に進んでいたということで、非常に考えを改めさせられたわけです。それ以降、いままでは配属が商品管理、電話交換、事務、そして売場の中でも後ろの作業場を中心にやってもらっていたのですが、その考え方を改めたわけです。どんどん売場で仕事をしてもらうようになっていったのです。。接客は駄目だろうという考え方も違っていましたので、その辺も変えました。それで一挙に雇用の拡大は進んでいったのです。

●求人募集の方法
 このように雇用が拡大していったのは、1つは会社の考え方を、手話やパンフレットを通して社員に徹底させていったことと、脳性麻痺の人の事例から会社の考え方と発想が変わったこと。そしてもう1つは募集のやり方を変えたことです。これは、募集をしてもなかなか応募がないのです。そこでハローワークに相談に行きましたら、「一般の人と一緒にやっているから集まらないんですよ」と言われ、「障害者の求人をします」という募集広告を出しましたところ非常に応募が増えました。こんなところから雇用が急速に拡大されたのです。

●面接での確認のポイント
 新しく採用の場合は、当り前ですが面接を実施します。障害者がが応募してきた場合には、こういったところを中心に確認してください、質問してくださいということを、店鋪の採用担当者に教育してきました。
 たとえば視覚障害者の場合には、どういう教育をしているかというと、これはポイントだけですが、視覚障害者といっても全盲の方、弱視の方、視野狭窄の方等、障害の程度、内容は様々で、又、事故や病気による中途障害のほうが、先天性よりも多いこと。まずその認識をしてくださいというような内容です。
 又、面接の場合の確認項目は全部で5項目にわたって確認するよう教育してきました。
 1つは障害の程度の確認です。弱視であってもいろいろですし、視野の狭窄の方でもいろいろあるでしょうし、そういう部分も含めて障害の程度の確認をしてください。これは履歴書とか、障害者手帳から確認をしてください。
 2番目は、障害の程度を確認した後で、視力がどの辺にあるのか、いわゆる視力の程度の確認です。全盲の方の場合には点字ができるのかできないのか、そういうところの確認をしてください。
 3番目は、視野の範囲についても確認をしてください。
 4番目は仕事をするにあたって、補助器具の使用の有無の確認をしてください。使用すれば文字の読み書きが可能なのか、その辺のことの確認をしてください。
 5番目が通勤の仕方で、利用する交通機関、それと、単独歩行が可能なのかどうか、通勤も含め、店内の移動、その辺のことの確認もしてください。
 確認の仕方のポイントだけ今申し上げましたが、採用決定の場合には、障害の程度であるとか症状に応じで、配属場所を決定してください。配属を迷う場合には、人権啓発室で相談に乗りますという形で教育をしてまいりました。

●視覚障害者の雇用状況
 実際に視覚障害者の雇用はどうなっているのかといいますと、先ほど申しましたように雇用数は24名であります。この24名はどういう職種にいるかといいますと、食品担当が6名、電話交換が5名、電話交換の場合はほとんどが全盲で、あとは弱視で0.01、0.02の方です。商品管理の担当が4名。衣料のほうに3名、住居関連の担当が3名、そのほかに店づけとして3名、合計24名の方が仕事をしております。

●職域拡大の課題
 視覚障害者の職域拡大はまだまだだです。人数で捉えても24名ですから、非常に少ないです、業種の特性からいって、視力が少しでもあれば、いろいろな部署に配属が可能なのですが、全盲の方は今電話交換のみで、それも女性だけです。この辺が、私ども小売としての今後の課題と思います。そんな中で、ひとつ取り組もうかと思っていましたのがPOSです。いろいろな機器が出てきています。摸索を始めていたところでもあります。部署が変わり引き継いでまいりましたが、全盲の方の職域拡大の研究が今後の大きな課題としてあるのかなと思っております。
 以上でお話をしめさせていただきます。少しでもお役に立てればと思い、お話をさせていただきました、ありがとうございました。


【スポーツでも頑張っています】

霞ヶ浦マラソンを走って

高木 一幸  
中野区在住:富士銀行勤務  

 4月16日、前日の雨が大会のスタートに合わせてピタリとやんだ。スタートの号砲は午前10時。気温は、放送案内で10.1度だったような…
 大会参加者は約1万2千人。ドーン!と鳴ってからスタートラインにたどり着くまでに約3分弱。いつもながらおそるべき人の波。しばらく早歩きのダンゴ状態が続く。
 今回、国内で初めてフルマラソンに挑戦。ニューヨークでマラソンの魅力にとりつかれ、また、完走できたものの途中痙攣をおこし、走って完走の難しさもお土産として持ち帰った。そして、国内で力をつけて、またチャレンジしたいとの思いで臨んだ今大会。
 自分自身、1カ月前からカゼや関節の痛みなどで練習不足、ほとんど走っていない状態。フルの恐さを知っているだけに緊張と不安が交錯している。
 10キロ近くまで沿道の声援は途絶えず、大会運営の大きさと、大会関係者とボランティアの人々の結束力に感赦!この大会は、世界盲人マラソン大会も兼ねていて、最寄りの土浦駅から会場まで介助ボランティアが待機している。申し込み時に伴走者が見つからない人の場合は大会側で斡旋してくれる組織力。
 しばし走って、確か10キロ過ぎたところ、後方から「こんにちはー、がんばってー」と聞きなれない女性の声。伴走者が「浅井 エリコさんです」。まさかこんなところで会えるとは…カメラ持ってなくって残念。彼女も視覚障害者の伴走をしているようで、自分たちよりハイペースで駆け抜けていった。
 20キロを過ぎるころになると、市街地から田舎風景に様変わり、菜の花が咲き乱れ、桃の花もピンクに色付いているようだ。ウグイスも応援しているかのようにダイナミックに鳴いている。  このあたりからかなりペースが落ちてきた。フルはごまかしが効かない。給水所があるごとに水をゴクゴク飲みほす。長旅のため腹も減ってきて、オフィシャルのエイドステーションや私設エイドでオムスビやバナナ、自分で用意したお饅頭などをほおばり、その場をなんとかしのぐ。考えてみると、昼の御飯を食べずに走っていることになるのだから。
 ハーフを過ぎると、いよいよ湖畔沿いをひたすら走ることに。さあ、ここからが本当の意味でのフルマラソン。25キロあたりから足の筋肉が固くなってきた。歩幅もかなり狭くなり、まさに自分との戦いだ。そして、30キロ手前でとうとう歩いた。それでも「足は止めないように」と伴走者からのアドバイス。1度休むと2度と走れなくなってしまうくらい筋肉が固まってしまうのだ。しばらくしてまたゆっくりと走り出す。まさに足が棒のようだとはこのことだ。35キロまでは走り歩き走法?でなんとかつなぐことに。この間、同じ視覚障害者の方と何人かすれ違う。一般ランナーもかなり疲れているらしく、歩いている人も多くなってきた。
 36キロあたりで疲れがピークに達し、ゆっくり走ることもできず、しばし歩くことに。気合いは十分あるんだけれど、とにかく足が動かない。歩くのもままならない。ちょっとよろめくと倒れてしまうくらい疲労している。立ち止まって屈伸しようとしたら膝が曲がらないほど。
 「このまま歩いたら、制限時間ギリギリで間に合うかどうか?」と伴走者。周囲の人たちも再度走り始めた。時計とにらめっこの様子。残り約5キロ。ここまで頑張って来たのに、制限時間を1秒でもオーバーしてしまったらすべてが夢のごとしである。みんな必死だ。
 あと3キロのところで「もう少しがんばってみます」と再度走ってみようとチャレンジする。最初はゆっくりとこわごわと走っていたが、なんだか不思議と体が動く。「よしっ走れる!」元来の体育系の血が騒ぐ。次々と抜き去っていき、ついに抜きつ抜かれつをしていた視覚障害者の背中が見えた。いっきに捕らえ、一声掛け前に出た。
 「競技場が見えてきた」と伴走者。アナウンスしている音も耳に伝わってきた。あと1キロ弱。とにかく体が動く。あれだけ途中苦しんだのに。
 さあ、陸上競技場のゲートをくぐった。制限時間も後わずかということで、人もまばらのようで声援の華やかさはない。しかし、とにかくここまできた。

 5・4・3・2・1・・ゴール〜!!
結果は、やったあー! 手元の時計で5時間46分ちょっと。ギリギリで制限時間の6時間に間に合ったあ〜! 伴走者とガッチリ握手を交わし感無量だ。地ベタに倒れ込みたいところだが、2度と起き上がれないような気がしてなんとか立ったままの姿勢でいた。大会本部まで行き、完走賞をもらった。
 そうなのだ。この紙がどうしても欲しかったんだ。
 なぜそんな思いまでして走るのか、見えないのに走るのか、自問自答する。その答えは数限りない。ただ、言えることは、今までの過去が原動力となっていることは確かだ。
 見えなくなってもうだめだと…それでも少しずつ前向きに生きてきて、体も自分で驚くほどに元気になってきた。走るスピードが遅くとも、一歩一歩ゴールに確実に近づいていくマラソンは、自分の性格にもマッチしているのかも知れない。ストレス発散と健康維持のために始めたマラソンの練習。人より体調の波があるだけに、思うようなトレーニングができず、やはり不向きかと思ったことも。それでも、続けさせたのはやはり単細胞の性格に尽きるのだろうか。


【短信】
◆復職おめでとう!

【弘 伸子さん】 2年ほど前に緑内障のため視覚障害者(2級)となられた東京都港区役所の弘さんは、この度約半年間休職し、障害者職業総合センターでの職業講習(約3カ月)を受け、平成12年3月中に原職復帰を果たし、4月1日付けをもって港区障害保健福祉センター「ヒューマンプラザ」勤務となりました。これまでの経験を生かされ、今後の御活躍に期待したいと思います。なお、歩行訓練については、東京都盲人福祉協会の訪問による訓練を受けました。

◇   ◇   ◇
【大本 仁さん】 尾道郵便局の大本さんは、視覚障害のため外勤業務が困難となり、病気休暇を取りながら今後のために情報収集に努めていました。タートルの会を始め、いちりんの会や全視協広島大会などの交流会に参加して復職への決意を固め、地元の仲間の支援で出来るようになったパソコン通信を通じて復職への決意と支援を訴えました。労働組合や視覚障害者などの支援を受け、5月8日、約11カ月ぷりに内勤の仕事で復職されました。
(文・工藤正一)  


◆おめでとう! 20周年

 タートルの会が事務局を置かせていただいている、社会福祉法人日本盲人職能開発センター・東京ワークショップが創立20周年を迎えられ、さる4月27日に「グランドヒル市ヶ谷」で記念式典と祝賀会を挙行されました。
 午前中の式典には‘髭の殿下’として親しまれている三笠宮殿下のご臨席があり、厚生省や労働省から大臣のメッセージが代読されるなど、盲界の著名人や関係者などが数百名出席された盛大なものでした。式典の最後には三笠宮殿下の心あたたまるご講演もいただきました。午後の祝賀会も含めて、晴れやかでにぎにぎしいものでした。
 タートルの会からは、和泉会長の代理として副会長の下堂薗が出席しました。

(文・下堂薗 保)  


◆MLにもこんな話題が…

「立川マラソン、お疲れさま!」
 前項で紹介の高木さんの‘霞ヶ関マラソン’の他にも、最近では会員のスポーツでの活躍が当会メーリングリストに送信されてきます。
 3月19日に東京・立川の昭和記念公園で行われた「第11回視覚障害者健康マラソン東京大会」でも、当会会員の見事な活躍がありました。 遠く北海道・札幌から、前日のタートルの交流会に参加され(2次会ではさすがにお酒を自粛?!)、翌日の大会に臨まれた小川剛さんです。20キロの部で1時間38分15秒の素晴らしい記録で完走されました。
 さらに10キロの部には、なんと1位入賞に真田和俊さんのお名前が! 
日頃の積み重ねが心地よい汗と成果に繋がったみなさん、おめでとうございました。
 ※なお、この大会は東京視覚障害者ランニングクラブの主催でした。
  参考/大会記録URL: http://village.infoweb.ne.jp/~suzukik/tokyo/2000/index.htm

(文・滝口 賢一)  


赴任して1箇月――――
会長・和泉 森太  

 函館へ赴任して約一ヵ月が過ぎようとしています。
 単身赴任の生活も至って快適なものです。月曜日から金曜日までは、昼食と夕食をセンターで給食してもらい、調理の必要がありません。朝食は米飯で、味噌汁と簡単なおかずを用意し、海苔と納豆があって、それで済ましています。まだ、荷物は総てを開けていませんが、おいおい整理しようと考えています。
 一人の生活が、実際に自立をすることにつながればと思い付いたことではあります。どこまで出来るのか、始まったばかりですから、どこかで破綻が来るのかも?安直な性格なので、このままずるずると過ごしていけるのかも知れません。
 転勤して最初の土曜日に、全視協(全日本視覚障害者協議会)函館の代表の方が自宅へ参りました。これから月に1回程度の勉強会をすることになりそうです。
 毎朝4時か5時の起床ですが、まだ本調子ではありません。6時前後に朝食を取り8時過ぎに自宅を出ます。8時20分頃には机に座っています。
 5月の第2週からは6人の対象者を相手に生活訓練が始まります。点字指導やスポーツ(レクレーション)指導などを行いますが、対象者が少々かわいそう? しばらく離れていた現場に出て、少し戸惑いがあります。やる以上は徹底的にやる以外に手はありませんが、一緒に小船に乗るようなものでしょう。船頭が小生なのか、対象者のほうなのかは別として乗り出すほかにないのです。
 健康管理に注意を払いつつやっていきたいと思っています。
 幹事の皆さんに相談会のほか幹事会についてもご迷惑をお掛けしますが宜しくお願いします。
 せいぜい函館での生活を楽しみたいと考えています。
 以上、赴任して1箇月のご挨拶。


【お知らせ】
メーリングリストに関する変更について

 タートルの会ではインターネットのメールを通して情報交換するためメーリングリスト(ML)を設けています。今年2月までは「朝日ネット」のサービスを利用してMLを開設していましたが、3月1日より「さくらインターネット」のサービスを利用する形に変更しました。
 新たに参加してみようと思われる方は、下記のホームページにアクセスして参加手続きを取ることができます。 → http://sl.sakura.ne.jp/member.html
 メーリングリスト名は、turtleの6文字になります。
 あるいは、メールの送信によって参加手続きを取ることもできます。次のような要領でメールを送ります。
 Majordomo@sl.sakura.ne.jp を宛先にして、新規メールを作成します。メールの題名は何でもかまいません。そして、本文の1行目にsubscribe turtle 、 2行目にendと書きます。
 手続きの仕方がよく分からないなど何か問い合せのある場合は、下記のML管理者 までメールをお送り下さい。
 owner-turtle@sl.sakura.ne.jp
 「さくらインターネット」のML開設サービスでは、管理者を一人だけでなく複数置けるようになっています。現在、3名がタートルMLの管理作業に当たっています。そのため問い合せへの対応やトラブル処理が以前より迅速になったのではないかと思います。
 また、MLに流れた過去のメッセージをホームページ上で閲覧できるようにもなりました。ホームページ上で閲覧する場合は、パスワードの入力が必要になります。パスワードは、MLのメンバーになると連絡がいきます。
 メールアドレスをお持ちの方で、まだタートルMLに参加されていない方は、是非ご参加ください。あるいは、これからメール交換を始めたいと考えてらっしゃる方も、何を手がかりにしたらいいのか分からないというようなことがありましたら、事務局や幹事等を通してご相談ください。いろいろな情報交換をやっていきましょう。

(幹事・吉泉豊春)  



◇ お知らせ ◇
第5回定期総会
○日時:2000年6月10日(土)
○会場:東京都福祉機器総合センター 多目的ホール
     飯田橋セントラルプラザ(JR飯田橋)15階
○内容:総会  /10:30〜
    記念講演/13:00〜
          「21世紀の障害者の雇用・就業問題」
          講師:工藤 正 氏
             障害者職業総合センター
             雇用開発研究部主任研究員
    交流会 /14:15〜
    懇親会 /17:30〜  神楽坂『鮒忠』


◇ 会合日誌 ◇



◇ 編集後記 ◇

 本号から会報編集のDTP(Desk Top Publishing)はデザイナーの吉永幹事にお願いし、印刷は株式会社大活字に依頼することにしました。
 この会社は社名の「大活字」が示すように、弱視者のために大きな文字の本を出版することを目的に創設されたのです。自身が弱視者であった創業者は、志半ばにして、交通事故で亡くなられてしまい、その遺志を息子の現社長が継いだのであります。
 『見えない・見えにくい人の便利グッズカタログ』(弱視者問題研究会・編)が昨夏に出版され、高齢者にも大変評判が良いそうです。
 問合せは下記事務局へ、電話かファックスで。

(篠島永一)  


『タートル』(第17号)2000年5月15日発行
中途視覚障害者の復職を考える会
タートルの会
会 長   和 泉 森 太
〒160-0003 東京都新宿区本塩町10-3
社会福祉法人 日本盲人職能開発センター 東京ワークショップ内
電話 03-3351-3208 ファックス 03-3351-3189
郵便振替口座:00130−7−671967
タートルの会連絡用 E-mail:turtle.mail@anet.ne.jp
URL:http://www.asahi-net.or.jp/~ae3k-tkgc/turtle/index.html

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