特定非営利活動法人タートル 情報誌
タートル 第21号

1998年10月9日第三種郵便物認可(毎月3回8の日発行)
2012年12月5日発行 SSKU 増刊通巻第4348号

目次

【巻頭言】

「情報誌を担当して」

理事 長岡 保(ながおか たもつ)

定年を機に、情報誌を担当させて頂いてから、約3年(本号で10号目)となりました。この間において、大きなミスをして、情報誌を再発送しなければならないと言う、大きな失敗もしました。

タートルとの出会いは、平成8年の初め頃だったと思います。某大学病院の網膜色素変性症外来の待合室で、タートルの交流会に参加してみないかと、誘いを受けて、参加させていただいたのが最初でした。当時、防衛省がある、市ヶ谷駐屯地に勤務していたので、日本盲人職能開発センターは、目と鼻の先でした。その頃は、車の免許更新も、何とかできました。大型免許でしたので、深視力(奥行き、遠近感を測る検査)も何とかクリアできる視力でした。それでも、将来に対する不安で一杯でした。

タートルに参加してびっくりしたのは、殆ど見えない人が、元気で明るいこと、そして、ほとんどの方が、仕事を継続していることでした。また、1年ほど経った頃でしょうか、情報誌や案内等の発送作業を、会長以下みんなで、仕事を終わってから集まってやっておられたのです。私は、何も知らず、感じずに、それらをただ受け取っていたのでした。本当に頭が下がりました。目と鼻の先にいた私は、その時から、3年半の単身赴任期間を除きますが、手伝わせていただきました。

私は、目の病気がわかってから、60歳まで、民間企業5年を含み、15年勤務しましたが、組織や上司、仲間に恵まれ、目の病気と仕事に関し、苦情とか文句を言われたことがありませんでした。ですが、最初に、大学病院で検査を受けて、説明されたとおり、徐々に、視野狭窄、視力低下は進行しました。間違ってくれればよいのにと、何度も祈りましたが…。

前述のように恵まれていたにもかかわらず、精神的な落ち込みはとめられませんでした。それでも、タートルの交流会や発送作業に参加し、元気をもらって、モチベーションをあげては、時間とともに元気がなくなり、また元気をもらっての繰り返しでした。

私が、定年まで勤務できたのは、職場とりわけ上司や同僚に恵まれたこと、家族の支えのほかに、タートルの存在が大きかったと思っています。自分の先を歩んでおられる視覚障害の先人・お手本がいることでした。挫けそうになったとき、「先輩の中に、最後まで全うされた方がいる。現在、我慢しながら歩み続けている方がいる」と言う情報やお話しは、「絶望」ではなく、「かすかな希望と小さな勇気」を与えてくれました。タートルの仲間の存在や情報は本当にありがたかったと感じております。自分や家族だけでは、とても、耐えられなかったと思います。

視覚障害当事者の講演、現在職場で工夫をしながら頑張っておられる方の記事、定年まで頑張られた方の体験記事等は、必ずや何人かの仲間にメッセージとなって伝わると確信しているところです。私がそうでしたから…。

とはいえ、現在、情報誌「タートル」の編集をやらせていただいて、会員の皆様に、少しでも、お役に立つ情報誌にしたいと思っているのですが、お役に立っているでしょうか?皆様のご意見やアドバイス、投稿等をお待ちいたしております。

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【7月交流会講演】

『壁に当たったとき』
〜60年を振り返って〜

東京都立葛飾盲学校 教諭・全国視覚障害教師の会 代表 理事 重田 雅俊(しげた まさとし)

今日は、60歳の誕生日です。朝に生まれたと聞いているので、すでに60年間生きたということになります。本当はこういうところで話すのは得意ではないのですが、60年間、いろいろな方にお世話になってきたので、ちょうど人生のけじめとして良いと思い引き受けました。
演題が「応変力をつける」で、いろいろな事態に対して臨機応変に対応できる力をつけるということでお願いしますと言われたのですが、私自身はそういう力があまりないのではないかと思うのです。私がテーマとして掲げた「壁に当たったとき」ということも、いわゆる皆さんが思っているような、乗り越えて来た感覚は、私にはありません。どちらかというと流されてきたという気がします。

40歳を過ぎた辺りで、視力が落ちてきました。知的障害の養護学校に勤務していたので、視力が落ちてくるといろいろと難しい問題が出てきます。まず、走って道路に飛び出してしまう子がいます。車にひかれたら大変ですから、追いかけて引き止めます。それが最初にできなくなりました。次に、屋外の指導だけでなく、屋内の指導も厳しくなってきました。保護者からの連絡帳が読めなくなりました。文字は、鉛筆字、ボールペン字、活字、サインペンの順に見えなくなりました。その次は食事です。食事も唇の下にちょっと人差し指を添えて位置を確認しながらスプーンで食べさせたりしましたが、だんだんやりづらくなっていきました。さらに、汚れが確認できなくなって、掃除やトイレの指導が難しくなりました。最後まで何とかできたのは、着替えの指導でした。「はいこれはシャツで、こちらが前」と、手で触りながら何とか指導することができました。

さて、私は網膜色素変性症という病気です。大体40歳を過ぎた辺りから60歳ぐらいの間に見えづらくなり、段々生活に支障をきたすようになります。そして次第に見えない状態へと進行していく網膜の病気です。40才を過ぎたころから視力は落ちてきましたし、視野もどんどん狭くなってきましたので不安になりました。見え方の状況としては、最初は景色が微かに白く濁りました。それが、目が疲れてくるたびに全体が白く濁ってきて、さらに進行すると、だんだん黄色っぽく濃く濁るようになってきました。次はどうなるのだろうと観察していると、暗さだけでなくまぶしさも気になりだしました。まぶしくてサングラスをかけますが、汚れがついていると思い一生懸命サングラスを拭きます。しかし汚れは取れません。まさか自分の目が悪くなっているなんて思わなかったのです。そのあとさらにどうなったかというと、天気のいい日に電車に乗りました。この電車は、全部の窓にブラインドが下がっていると思ったのです。しかし、ブラインドではないと分かると、この電車は全部曇りガラスの電車なのだと思いました。それで一緒にいた友達に聞いたら「いや外は見えているよ。いい景色だよ」と言われて「えっ」と思いました。いま考えると、まぶしい所に急に出たり、まぶしい物を急に見ると景色全体が真っ白になってしまうというホワイトアウトの症状が起きてきたのです。

それから、どうなったかというと、視野が狭くなってきたからだと思いますが、景色全体を一度に見られないのです。普通の人でも目を左右に動かしながら1つの画面を構成して、本当に見たい部分だけ見ているそうです。頭の中のコンピュータがそういうことをしているらしいのですが、それができなくなるとチカチカ状態になります。砂嵐やチカチカや、まぶしいパチパチなどがあるのですが、その泡みたいなチカチカがあちらこちらに部分的に出るようになります。それでも見ようとして、眼球が一生懸命頑張るとどうなるかというと、眼球振とうになります。目をあちらこちらに動かして、一生懸命に1つの画面をつくろうとするのです。次第にテレビも写真も相手の顔も見えづらくなってきました。目が動くようになると、夜では電柱の電球が浮輪になります。くるくると回って1個しかない電球がぐるっと浮輪のようになり、沢山の電球なら花火のようになります。さらに、視界のほころびであるチカチカがどんどん増えていって、ついには、ほとんど見えなくなってしまいました。

「困った。どうなるのだろう」と思いました。仕事を辞められれば話は簡単ですが、収入がなくなるのは本当に困るので、どこかに相談しようと思いました。障害児の学校で進路指導をやっていましたから、どこへ相談に行けばいいかよく知っています。近くだったら福祉事務所とか、障害課や福祉課などです。区や市によって、いろいろと呼び方は違うでしょう。電話をかけてみると、薦められたのが、新宿区戸山町にある東京都心身障害者福祉センターでした。都の障害者行政の中心を担う場所で、身体障害者手帳も交付する所です。そこで「もし目が悪くなって教員を続けられなくなったら、私はどうしたらいいでしょうか」と聞きました。応対してくれたベテランの女性は、とても熱心で親切な方でしたが、「非常に厳しいです」という答えでした。さらに「三療の方に行くこともできますが、それだと資格を取るのに3年から5年は無給状態が続きます」と言うので「では一般企業はだめですか。何か私にもできるような仕事は無いのですか」と言ったら、「あまり前例が無いです。厳しいです」という話でした。「特に40歳を過ぎた歳で転職できるというのはまずないです」と言われましたが「でも、そう言わずに何とかならないですか」と言ったら、2つ紹介をしてくれました。

1つは、その福祉センターでやっている月1回の講演会でした。名前は忘れてしまいましたが、その当時まだ1人目か2人目だった全盲の弁護士さんの話や、保険の会社の人から障害者でも保険に入れるかなどの話を聞きました。
もう1つ、その女性が紹介してくれたのが、この「タートルの会」でした。1995年のことです。何も分からず初めて、いま皆さんがいるこの場所に来ました。

すごいことです。東京都を統括するような公的なセンターが全く手も足も出ないのに、タートルに来たら「いろいろな前例があります」とか「私も働いています」と言う人がいるのです。当時、篠島先生や工藤先生に加え、いまここにいらっしゃる下堂薗さんや新井さんもいらっしゃって、いろいろな話を聞くことができました。「まだ重田さんは、せっぱ詰まった状態ではないので、もう少し様子を見ながら、タートルの交流会などに参加して、徐々に今の仕事ができなくなる事態に備えていってください」という話があり、とても安心しました。同じ仲間と知り合えて、1人だけではないと分かったことが、大きな転機になったと思います。そして、交流会や相談会などで、先輩の皆さんのご意見を聞いて、盲学校に転勤するしかないと私は決断しました。

そのために何をすればいいか調べてみると、点字の習得と、独力での歩行ができることが必要だと分かりました。盲学校というところは、晴眼の先生が転勤する時には無条件で転勤できます。ところが、視覚障害者が転勤するときには、点字ができることと1人で職場まで通えることが求められます。どうしてかというと、晴眼の方は点字を目で見て読めますが、視覚障害者は指で読まなくてはなりません。歩行についても安全上の問題があり、人事課の方からも1人で通えることは転勤の条件だと言われました。

そして、転勤の希望を出しました。ところが、これが狭き門なのです。盲学校は東京都に4つしかなくて、社会科は各学校で1人か2人です。この先生のだれかが転勤するか退職して空きが出ない限りだめだという話なのです。転勤希望を出して1年待ちました。まだ余裕があり、すぐにはないだろうと、高をくくっていました。

そして2年が経ち、3年が経ちました。視力は少しずつ確実に低下していきます。このままでは困ったことになるかもしれないと不安になってきました。校長は「やっぱり残念、また今回も空きがなかった。もう1年うちで頑張りなさい」というのです。もちろん頑張るしかありません。校長先生も打つ手がなくて困り、「理療科の道もあるけど行ってみないか」と薦めてくれましたが、障害者白書によると、理療科を出て開業された人の平均年収は、年間で70万円から80万円です。3年間無給で勉強して免許を取ったとしても、この額では、なかなか生活するのは厳しいです。もちろん、やり方によってはもっとたくさん稼げる人もいるでしょうが、私などは不器用なのできっとだめだろうと思いました。「校長先生、詳しく調べてみましたが、理療科で食べていくのはなかなか厳しく、私にはできません」と、はっきり返事をしました。

転勤できるかが心配になってきたので、大体何年後ぐらいに盲学校の社会科の先生の転勤や退職があるのかを調べてみたいと思い、4校の盲学校の知人や組合の人などから聞いて、ある程度状況を掴むことができました。すると何と社会科の先生を2人も新規採用していたのです。校長にだまされたと思いました。空きがないと言いながら、実は障害のない若い先生を採用していたのです。いま考えると、それは有り得ることでそれほどひどいことでもないのですが、やはりショックでした。各盲学校には沢山の視覚障害の先生がいるので、あまり視覚障害の先生が集まってしまうと、学校運営や晴眼の先生方の負担が多くなり大変だということなのです。校長は、相手の学校が拒否しているなどと、私に本当のことを言うと傷つくと思って言わなかったのだと思います。皆さんも、いろいろなところで交渉したりすることもあるかと思います。だめだった時の断る理由は、辞めさせようとして悪意で言う場合もあるでしょうが、相手を、特に障害のある人を傷つけないよう遠回しに違う理由を言うこともあります。このあたりの教訓をぜひ生かしていただき、ただ表面的にだけ物事をとらえるのではなく、その背景や状況なども考えていけるといいと思います。

その後もずっと転勤をお願いしていたのですが、なかなか無いのです。5年目、6年目、7年目となり、できる仕事はもうほとんど着替えぐらいになってしまいました。転勤できずに17年もいましたので、助けてくれる同僚も大勢いましたが、やはり申しわけなくて毎日肩身の狭い思いでやっていました。給食も用意してもらって、自分は座ってただ食べるだけです。他の先生はてんてこ舞いで子供の指導をしています。養護学校は給食の時間が1番忙しいのです。手も足も出せず身の置き場がなくて困りました。そういう状況で出勤していましたが、「もうこれは限界だ。もし来年も転勤がなければ退職だ」と覚悟しました。それで思い切ってリハビリをしようと思いました。休職だと3年間取れるのですが、3年過ぎても回復しないと、分限退職になってしまうのです。復帰も、2箇所の医療機関で回復したという診断書が取れないとできないという制限があります。一方病気休暇ですと、東京都の場合は180日までです。病気休暇を取るときの診断書も、何月何日までの療養を要するというように期限を切ったものにすると、復帰が容易にできるということでした。そこで休職ではなく、6ヶ月だけの病気休暇を取ることにしました。これも、タートルの方のいろいろなアドバイスでできたことです。

また、病気休暇には、現任校復帰の規定があり注意が必要です。病気休暇を取った人が、復職したら違う学校に異動させられていたとなると、その先生はすごく大変です。そういうことから保護するために、現任校復帰の規定があるわけです。しかし私にとっては、働くことが困難になりつつある養護学校に復帰することになってしまうので、とても都合が悪いことでした。そのため異動を申し出る直前の9月には、病気休暇を中断して出勤していなければなりませんでした。病気休暇中は、職場の人達に大変迷惑を掛けましたが、代替措置で時間講師がついたので、少し気が楽になりました。

病気休暇の前半は、東京都視覚障害者生活支援センターにリハビリ訓練に行きました。そこの当時の課長さんは全盲の方で、点字を読みながら入所についての説明をしてくれました。全盲で部下たちもいて仕事をしているので、すごいなと思いました。私は視覚障害の課長さんがいたことに安心して、そこに入ることにしました。入ってみたら、これがとても居心地がよかったのです。職場の学校では、仕事がほとんどできず、毎日申しわけない気持ちで過ごしていましたが、支援センターでは、周りの皆さんが視覚障害者なので、とても気が楽になりました。そして支援センターでは、本当に職員全員が、温かく一人ひとりの利用者を支えてくれました。利用者ともいい仲間になれて、見る見る元気が出てきました。

盲学校に転勤するためには、点字と歩行ができなければなりません。点字は毎日40ページ前後読んでいました。もちろん最初は1ページ読むのに30分近くかかっていましたが、だんだん、1ページ10分ぐらいで読めるようになり、その頃から、1日中、点字を読んでいました。点字をたくさん読むと、疲れてきて指の感覚が鈍くなります。最初はちくちくするような点字が、丸いスポンジのように感じてくるのです。夕方には背筋に寒気もしてきます。10時間近くも読むと、くたくたに疲れてしまいますが、一生懸命読みました。最終的には3分ぐらいで何とか読めるぐらいになりましたが、盲学校の生徒は、1ページをだいたい40秒から50秒で読んでしまいます。

歩行は、地図が図表的に頭の中に入るかどうかという空間認知力が重要です。子供の頃から母親が忘れた道でも自分は覚えていて案内したぐらいです。問題は、リズム感がなかったことで、左右に杖を振るのと足の歩き方がずれてきてしまいます。ベランダを行ったり来たりして練習しましたが、なかなか上手くなりません。歩行の先生に「まあ手と足とがずれても大丈夫です」と言われてほっとしました。また、街の中を歩くのは、沢山の手がかりや目印を覚えなくてはならないので、記憶するのが大変でした。

パソコン操作については、メールやWordの基本操作をスクリーンリーダーを使用して教えてもらいました。パソコンの環境設定も全部してもらい、マンツーマンでこちらのペースに合わせて教えてもらえたので、とても良かったです。

6ヶ月の日常生活訓練が終わり、次の職能訓練に進むことになりました。今度は職に就くための訓練です。こちらの日本盲人職能開発センターに来ました。当時の所長さんは、タートルの篠島先生でした。パソコンのことも、エクセルの関数やグラフまで、手取り足取り教えてもらいました。スクリーンリーダーを聞いての操作は、見て操作していた頃より遥かに楽です。

以前職場では拡大文字を使っていて、ユーザーオプションの白黒反転で特大のフォントと特大のマウスポインタを使っていました。マウスポインタも、ただ白くて大きいだけでは2なく、黒い縁取りが周りにある、中が白いポインタです。白い画面が背景になっても、黒い画面が背景になっても大丈夫なものを使いました。しかし、Word は、表のところへいくと急に変わって、1ミリぐらいの矢印が上下に行ったり、菱形のような丸印が4つ並んでみたり、画面から突然消えたりするのです。いらいらして、いつパソコンをバットで叩いて壊そうかとよく思っていました。

さて、ここに来て音声で操作することは良かったのですが、まだパソコンの性能が良くなくて、すぐに固まりました。音声はよどみなく話しているのですが、熱を持って突然フリーズし、1から全部やり直しということも結構ありました。ここでの問題は記憶力でした。毎回覚えることが多くて、なかなか覚えられないのです。そのときには全部わかるのですが、1日経つともう忘れています。それで、できるだけ復習したり、本当に使うものだけに絞って覚えました。

この日本盲人職能開発センターはすごいところでした。大学並みの講義をしようということで、大銀行の頭取や、大企業の副社長や人事課の方など、結構そうそうたる人たちが講師になり、ビジネスマナーや簿記に加え、社会状況に関する講義や英語なども習いました。パソコンの講座では、職場での文書ぐらいは書けるようになりたいと思っていました。PC検定というものがあるのですが、それを取っておくと事務職に就職しやすいということで、皆さん頑張って勉強していました。検定の3級に合格したくて勉強しているのですが、私は素早く競争でやるというのは大変苦手で、いつまでたっても受かりませんでした。周りの人が次々と受かっていき、自分だけ取り残されていきました。漸く合格したのは、2年後のことでした。

こちらの日本盲人職能開発センターも楽しかったです。何が楽しかったかというと前向きで充実した毎日だからです。利用者の仲間が一緒に新しい目標に取り組み、前向きになれました。これまではずっと下ばかりを見てきました。視力がどこまで低下するのか。視野はどこまで狭くなるのか。そして、できることもどんどん少なくなって、居場所もなくなっていきました。しかし、このセンターでは、目指す目標が示され、努力する環境や支援の体制があり、将来がある程度見通せるようになったのです。例え盲学校に転勤できずに退職したとしても、頑張って行けるような気がしてきました。それから、利用者の仲間で毎日昼食に行ったり、終了後に夕食に行ったりするのが楽しみでした。職員の先生方や偉い講師の方々も、とても身近に接してくださり、時々時間を割いて食事などにも付き合ってくれました。その中で、視覚障害者としての自然な振舞い方や、しり込みせずに積極的に人と付き合うことを、体験を通して学ぶことができました。皆さんの中にもリハビリはどうなのかと迷って躊躇している方もいると思いますが、絶対にお勧めです。元気も出るし、将来のビジョンも次第に見えてきますから、ぜひ利用されたらいいと思います。

リハビリをやっているうちに1年間が過ぎ、異動が告げられる時期になりました。やるだけやったのだから、もし駄目でも仕方がないと思っていました。ところがぎりぎりのタイミングで、葛飾盲学校に転勤できたのです。また翌年また翌年と、いつまでたったら次に行けるのだろうとやきもきした、上がらない双六のような7年間は終わりました。

転勤していざ仕事を始めようとすると、「点字も白杖歩行も大丈夫です。パソコンも一通りできます」と売り込んできたことが、少し負担になってきました。初めての校長との面談の時は、職員玄関が分からず行き過ぎてしまい、遅れて心配したぞと怒鳴られてしまいました。点字も生徒たちは読むのが速くて追いつくのがやっとです。歩行については歩行訓練を担当するつもりで訓練を受けてきましたが、見えないからできないということで声はかかりません。パソコンの指導は何かの拍子でトラブルが起きます。フリーズしてしまったり、トラブルがあると何も音声で言わないためにトラブルシューティングができる人が一緒にいないと指導にはならないのです。それではリハビリ訓練は無駄だったのかというと、それはまた別です。生徒に直接指導する機会はあまりありませんでしたが、最先端の知識がありますし、専門機関で訓練を受けてきた経験者としての強みがあります。自分のためには日常的に役立っていますし、生徒や職員にも、アドバイスする機会も増えてきました。今は、研修で、先生方や理解啓発で来校された人達に、話しをしています。

とても印象に残っている生徒がいました。痩せて小さくて、身体には麻痺があり、全盲で、言葉も片言しか話せません。いくつも障害がありましたが、とても明るい性格でした。歌が大好きで、音楽がかかると、リズムに合わせて全身を動かして楽しみます。友達にも先生にも、大好き、大好きと言って近づいていきます。人とかかわってもらうことが嬉しいのです。兄弟が多かったためか、食事も好き嫌いをせずに、一生懸命頑張って食べます。その子とかかわりのある人は、みんなその子に会うことを楽しみにしていて、毎日、笑顔や元気をもらっていました。

当時私は、まだ転勤したばかりで、障害があってもできるということを分かってもらおうと肩に力が入っていました。また、どんなに理解のある職場でも、障害がある以上、困難なことは沢山あります。役に立っていない自分を、情けなく思うこともありました。そんな時、彼の存在が、ふと意識に入りました。いくつも障害がありながら、どうしてみんなから好かれているのだろう。お世話してもらっているほうが多いのに、どうしてみんなを幸せな気持ちにできるのだろう。彼の生き方の中に、なにか教えられるものがあると思いました。大好きと相手を信頼して、期待する姿勢。積極的にコミュニケーションを楽しもうとする姿勢。自分の好きなことをのびのびと表現して、幸せな気持ちを振りまく姿勢。一生懸命生きている姿勢。そんなことが伝わってきて、私自身を振り返って大いに反省するところもあり、参考になりました。生徒から学ぶ。彼の素直さや明るさ、伸び伸びとしている様子は、大人の私には、なかなか真似できませんが、障害があってもみんなから大切に思われている彼を見習って、私も肩の力を抜いて、積極的に生きていこうと思いました。
今はもう9年目になり、かなり厚かましくなっている自分が怖いくらいですが、周りの人達も親切で、良くサポートをしてくれてありがたいと思っています。

話の最後に、私の経験から皆さんのお役に立ちそうなことを、7つほど申し上げたいと思います。最初に言えることは、まず本人のやる気がなければ駄目だということです。私の場合は、家族がいたので、やらざるを得なかったわけですが、何とかしなければという必死な気持ちがあって、色々な所に出て行きました。そこで色々な情報を知るうちに、展望も心構えも持てるようになってきたのです。
1番良くないのはプライドの高い人です。ある意味で誇りを持っておくことはとても大事だと思いますが、プライドが高くて何もしない人が1番困ります。プライドが高いということは失敗ができないということです。笑われてしまうからです。笑われてしまったらプライドが傷つきます。そうすると、何をするのも憶病になるのです。引き篭もってばかりではチャレンジドとはいえません。特に障害者が、下を向いて黙っていたら、周囲の人は気を使ってしまい、気軽に声をかけづらいのです。障害者の側から「おはようございます」とか、「教えてください」とか笑顔で言ったら、会話がしやすくなります。コミュニケーションが成立していないと、自分の居場所がなくなっていきますから、自分から積極的に人に接していかないと、やる気を見せていかないと駄目だということを、まず思いました。社会というものは、自ら助かろうとする人は助けるけれども、自分を投げてしまった人は、なかなか助けてはくれないのです。

次は、「捨てる神あれば」と言いますが「捨てる仲間あれば、拾う仲間あり」ということです。視覚障害を持って自分が1番悩んだことは何かというと、まず自分が不便になることは、ほとんど問題にはなりません。例えば、自転車に乗れなくなったとか、字が読めなくなったとか。テレビを楽しめなくなったとか、そういう不便さや可能性が減ったことについては諦めがつくし、あまり苦に感じたことはないのです。では、何を苦に感じたかというと、家族、近所の住人、職場の同僚、友達など周りの人が障害者になった自分をどう見るか、付き合いや仕事の継続など、その人たちがどういう扱いを自分にするのか、自分の子供や家族はどう見られるのか、いじめられないだろうかということなのです。要するに社会的な評価が落ちること、存在や立場が危うくなること、これが1番怖かったのです。人間は本当に社会的な動物なのですね。このことは弱視の生徒たちも同じで、皆見えているふりをします。皆さんだってそうだと思います。仲間外れになってしまう、仲間から外されてしまうことは怖いです。こんなに怖いことはないです。でも大丈夫です。捨てる仲間がいても、新しい仲間が必ずできるのです。今回も、ここに集まっている人たちを友だちにできますし、例えば、伴走マラソンの友だちもつくることができます。見えていた時の仲間とは別ですが、また気軽に構えずに付き合える仲間ができます。社会の存在から外されてしまうことは決してありません。拾う神というか拾う仲間が必ずいるので、その辺は大丈夫です。

3番目は、人間は順応性がすごく強いと思うことです。住めば都と言いますが、恐るべき順応性があるのです。障害者になったら自殺するなどと言う人がよくいますが、それは障害者になりたて頃の話です。障害を受けて何年かたつと、本当にその障害に慣れてしまうのです。もう日常茶飯事になって、不便さも忘れてしまいます。まあ探し物や確認ができなくて困ることもありますが、楽しいこともいくらでもあります。マラソンも楽しいです。体力づくりで始めてみましたが、少しずつ距離が延びて、なんとか100キロでも走れるようになりました。走っているときは辛いけど、伴奏者と障害者がペアになって全国各地を楽しく旅行することができました。障害があろうとなかろうと、やはり住めば都だと思いました。

4番目は客観的に見ることです。思い込みをせずに、よく調べたり、背景を考えてみる習慣を付けることです。相手の立場になって考えたりすることが、自分にとっても大事だと思いますし、問題解決の糸口も見えてきます。私自身、人間関係が上手くいかず、腹を立てたり、憎んだりすることもありますが、相手の人には相手の人の理由があって、必ずしも意地悪でやっているわけではないということです。そこは考えた方がいいと思います。よく観察して、分析してみてください。「敵を知り、己を知れば、百戦危うからず」です。

5番目は、何か愛情を注げるもの、情熱を注げるものをつくったらいいと思います。愛しい人でもいいし、子どもでもいいです。スポーツでも趣味でも思い出でも何でもいいです。習い事とか、ライフワークがあれば、さらにいいと思います。何か目的や生きがいがあったほうがいいと思います。

6番目はうつ病に気をつけて欲しいということです。1人で悩んでいると必ずうつ病になります。うつ病になったら視覚障害よりも対応が難しいです。周りの人もサポートをするのが難しくなります。ですから、程々のところで少し自分をかわいがり、優しくしてあげてください。健常者と張り合って一人前に仕事をしようなどと、無理をしないで、できる範囲で頑張ってください。運動やおしゃべり、外出や旅行も、リフレッシュするにはいいですね。

最後は、どこか冷めた部分を持ったほうがいいということです。大人になるということは、本能で動いている自分とそれを外から見守っている自分ができることです。自我の自立と言いますが、客観的に見ているもう一人の自分がいるということです。中学校の思春期あたりでそれができます。天使と悪魔が出て来てささやくあの状態です。もう一人の別の自分が、自分を操縦するという感覚です。それは大事なことだと思います。自分が喧嘩の当事者になって、熱くなって闘っているだけではなく、それを仲裁する自分もいて「おいおい、ちょっとやりすぎじゃないの」というようなことが感じられることが、とても有意義だと思います。悲しいことや辛いことがあるときは、つい感情に流されてしまうものですが、そんな時に客観的に考えられる、さめたもう一人の自分がいると役に立ちます。外から自分を観察して、他人事のようにその成り行きを楽しむ心境になれれば、気持ちも大分楽になると思います。

応変力と言った大企業の社長さんがいたかどうかは知りませんが、私はその都度、その都度流されてきました。その反省から考えると、有名な社長さんが言っていても、10年後にその会社があるかどうかわかりません。世の中は不確実ですから、それぐらいのことを考えた方がいいと思います。誰か偉い人が言ったから、まねをすれば自分もうまくいくなどと思わないほうがいいのです。私も、つまらないことに一喜一憂して、大波小波に浮き沈みを繰り返してきましたが、自分の足元を、日常の生活をしっかり見つめていった方がいいと思います。本当に最近は、形式とか、手続きとか、細かい事にこだわることが多いですが、もっと広い視野で、長い見通しでゆったりとやったほうがいいと思います。

たぶん医学の進歩で、網膜色素変性症の人はあと100年もしたら、この世の中に1人もいないと思います。しかし、そういう障害があって、こんな苦労をしていた人たちがいたということは、将来、困難に直面している人達からきっと評価されるのではないかと思っています。皆さんもそんなつもりでいてください。参考になったかどうかわかりませんが、私の話をこれで終わりにしたいと思います。ありがとうございました。

☆講師プロフィール☆
1952年(昭和27年)7月生。
網膜色素変性症。
中学生の時には球技が苦手で、器械体操をしていた。
高校生の時に左目を失明。大学では地理を専攻していた。細かい地図作業と航空写真の立体視ができず、進路を変更。
就職活動では教員採用試験に合格し、その後、養護学校教員として採用される。
40代で右目の視力が低下し、視野も急激に狭まる。視力がほとんどなくなる中、異動希望を出し続けた。この間、リハビリに取り組み、視覚障害者のための日常生活訓練と職能訓練を受けて転勤に備える。
8年目にようやく盲学校に転勤。全盲教員として出直し、現在9年目となる。

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【職場で頑張っています】

「がんばりすぎず! あきらめず!」

興人ホールディングス株式会社(旧興人株式会社)勤務
会員 赤堀 浩敬(あかほり ひろのり)

私は、ハウジング・化学紙・フィルム・繊維・発酵といった総合化学メーカーである興人に、18歳で入社し、東京のハウジング事業部に配属となり、7年間東京で働き、関西に戻り、現在大阪で働いています。年齢は51歳で、視覚障害2級、病名は網膜剥離と白内障です。

主な仕事内容は、戸建て住宅の計画・設計・図面チェック・見積書作成・官公庁への申請書類作成・建築現場の管理・アフターメンテナンスをしておりました。現在は、ハウジング事業を撤退している為、分譲したお客様のアフター対応、保有地の管理等をしています。

目の異変に気がついたのは、37歳ごろ、神戸の建設現場事務所で、図面を見ていたら視界に「蚊のようなもの」が見え、視点を変えても、それが動き回るように感じ、更に事務所内の白い壁や空を見てもそれがよく見えました。だが、目の疲れだと感じ、自宅近くの薬局で相談してみたところ「目の疲れ」とのことで、目のまわりを指でマッサージをしてみたらとのアドバイスを受け、目薬をもらいました。自宅で風呂に入りながら、目を手でぐりぐりとマッサージをしました。

翌朝目が覚め、まぶたを大きく開いているのですが、右目の視界の上半分以上が黒いカーテンのようなものが覆い被さっているように見えたので、近くの眼科で見てもらったところ、網膜がだいぶ剥がれているので、すぐ手術をしないと「失明するよ」と言われ、入院施設のある眼科を紹介してもらい、その日即入院し、翌日に手術をしました。病名は、網膜剥離で8割以上剥がれていたようです。

網膜剥離は、手術をすれば、完全に治ると聞いていたので、不安はなかったものの、多少視力が低下することについては仕方がないと思っていました。ですから、退院後、仕事には支障なく復帰できました。

右目の手術から3年後、今度は、左目の方がなんとなく見えづらくなってきたので、眼科に行ったところ、左目の網膜も剥がれているとのことで手術をしました。退院後、視力は低下していましたが、なんとか、書類や図面は見えていたので支障なく仕事ができました。

しかし、その後も目が悪くなるたびに数回の手術をしましたが、目は悪くならないが良くもならず、現状維持の為の手術でした。ただ、手術する度に、視力が低下していくことで、今の仕事を続けていけるのだろうか?視力が低下することを前提に、早めに転職をした方がいいのか?といったことを、毎日毎日考えながら不安な日々をおくっていました。
また、眼科の先生からのアドバイスがあり、身体障害者手帳を申請しました。ただ、手帳を取得したもののどのように活用していいものかわからずでした。

そんなころ、同僚から「日本ライトハウスに行ってみたら」とのアドバイスを受け、ライトハウスの方に日常生活のことや趣味のことを教えてもらい、仕事の事についてもいろいろと相談にのってもらいました。その方から「タートルの会」について教えてもらい、一度連絡をしてみたらと言われていました。そして、勇気を出して電話し、交流会に参加いたしました。初めて交流会に参加したときは、不安がありましたが、同じような悩みを持った方々と巡り会えることができ、元気と勇気をいただきました。そして、仕事に活用できる拡大読書器・音声ソフト等のグッズを知りました。

現在の仕事内容は、分譲住宅を購入していただいたお客様の問合せについて電話にて対応しています。元々技術畑でしたので、住宅やマンションの問合せについては、ある程度のことは、電話で内容確認ができるので、その場で対応しています。しかし、お客様の自宅に訪問しなければいけない場合や現地調査が必要な場合は、取引業者に依頼したり、上司に訪問してもらっています。また、現地で調査した写真や図面については、パソコン画面上で拡大したり、プリントして、拡大読書器で確認しています。ただ、どうしても分かりにくい時は、上司や関係先に写真の内容を聞いて理解するようにしています。

当社が保有している土地の管理については、上司や業者に現地状況写真を撮ってもらい、それを拡大読書器で確認しています。その結果、竹木等が生い茂っている状況等で整備が必要と判断した場合、業者に依頼して、見積書をだしてもらいます。その見積書の内容を拡大読書器や音声で確認し、内容について問題がなければ、業者に発注書を発行して、作業に入ってもらいます。作業を完了したら、完了写真を郵送若しくはメールで送信してもらい、完了状況を確認しています。
また、当社が保有している未確認土地については、拡大読書器で登記簿謄本・公図・権利証書等で土地に関する内容を確認しています。

現在携わっている仕事もここ数年間の業務となり、徐々に無くなります。その後、どのような仕事をしていくかわかりませんが、今のアフター業務と保有している土地の保管管理以外の仕事を見つけて、定年まで働き続けていけるようこれからもがんばりたいと思います。

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【定年まで頑張りました】

「お蔭さまで、定年を迎えました」

一般財団法人職員 会員 梅澤 正道(うめざわ まさみち)

早いもので、あれから12年。

1)医療から視覚障害リハビリテーションへ

私は、難病を患っている61歳の視覚障害者です。確実に進行する症状が、49歳の働き盛りの私を襲い、日常業務を遂行するうえでは従前の時間内での処理が困難になってきました。それはそれは大きく高い壁が目前に立ち塞がり、どのように対処したらよいのか、途方にくれていました。

そのとき、信頼する眼科医が、音声パソコンと拡大読書器を使って事務職に就いている事例の情報を提供してくださいました。まさしく、苦悩する患者の立場を考慮した適切なアドバイスであり、本当に救われた気持でいっぱいでした。

それが、中途視覚障害者の復職を考える会(以下「タートル」)と日本盲人職能開発センター(以下「センター」)です。
タートルの諸先輩方の職場での活躍ぶりを、当事者であるご本人からお話が聞け、その果実を自己ビジョンの設計に反映できました。また、仲間との交流は「たまたま眼が悪いだけであり、考える力も、能力も十分あるんだから、チャレンジすれば・・・」と奮起し、センターの専門性の高い訓練を受け、XPリーダー、JAWSを活用したワード、エクセル、パワーポイント、メール、インターネットなどのパソコン技能の習得に励みました。
日常生活に役立つ白杖を使った歩行訓練、拡大読書器の操作方法、点字の読み書きなどの訓練によって、少しずつ自信を回復していきました。
なお、訓練期間中の扱いは、基礎コースにあっては3ヶ月間の研修、応用コースにあたる事務処理科での訓練は6ヶ月間の休職発令で対応し、見守ってもらいました。

前述した日々の視覚障害リハビリテーション(以下「リハビリ」)をこなし、50歳のとき復職し従前同様に職務遂行ができるようになりました。これは、経営者、上司、同僚など仲間の理解と産業医の支援があったからこそ成しえた復職でもあるわけです。

2)前職の退職から再就職へ

復職したものの、総合職としての増大する業務量は半端ではありませんでした。とはいえ、職業人としての誇りが、健常者に負けたくないし甘えたくもないとの思いを募らせ、心身ともに限界を感じるようになりました。
「一人の人間として、自分らしく生きることを大切にしたい」との自問自答の結果、特殊法人(前職)の新組織移行に伴う解散を機に、52歳のとき、30年間勤めた前職を退職しました。

残された視機能を活かした「生活の質と人生の質」のステップアップを図るべく、約2年間でしたが、白杖を使った歩行技術に磨きをかけたり、資格試験にチャレンジし、パソコンスキルの向上を図ったり、微力ではありましたが、視覚障害者に係わる社会貢献活動などをしていました。
しかし、そんなあるとき、センターの「視覚障害・就労支援講習会(応用編)」を受講した結果、再度職業を通じ、誇りを持って自立した生活に戻りたくなりました。そこで、ハローワークが提供する「障害者雇用情報」を入手し、54歳のとき現職に就くことができました。

再就職した職場での円滑な業務の遂行ができるのは、近視眼的な労務管理ではなく、変容する見え方に合った業務になるよう、見えにくい見えない墨字文書の代読などを、気がねなく依頼できる職場介助者を配置してくれたことであり、情報弱者が抱えやすい負荷の低減に徹したことだと思います。また、システム関係者の協力のもと、エクセル VBAのプログラミング(以下「VBA」)により、迅速かつ正確なデータ反映ができたことは大きな自信になりました。

2年半前まではペン先が太い筆記具を使い、辛うじて文字処理ができましたが、それも適わなくなったことから、自己申告制度で提案していた業務の一部に移行しました。システム移行に際し、読み上げ機能がなく不便な操作パネルの複合機に対処するため、各種工夫を施してくれた強力なサポート体制と、顔を見て本人確認ができない場面でのお声かけに感謝しています。

現在の主な業務は、「人事異動通知」「本部旬報の編集」「人事管轄書類電子ファイル化」などです。自らも、センターが実施した「エクセル VBA夜間講習会」等でVBAを学び、その成果をこれら業務に反映しています。
VBAの利便性は、飛躍的な作業効率を可能にしますので、視覚障害者の職域拡大のツールになるに違いありません。
なお、稟議書などの紙文書を見るための補助具として、LED装備の携帯型拡大読書器の活用も欠かせません。

3)社会との共生

昨年の暮れ無事定年となり、引き続き再雇用していただいたので、健康に配慮し、壮健な心身をもち、職場への貢献度を更に深めたいと思っています。
「鶴は、たった数日間だけの上昇気流を捕らえ、まきあがりながら懸命に羽ばたき、九千メートルに近いヒマラヤを越える」の映像をNHK「世界の屋根」で視聴した記憶がありますが、私はリハビリで培ったパワーをもって、その壁を一歩一歩登っていきます。
タートル(パソコンに精通した仲間を含む)、センター、視覚障害者生涯学習支援センター、SPAN、東京YMCAの朗読ボランティアなどのご支援があったからこそ、今日という日があるのです。心から厚くお礼申し上げます。
また、通勤時など外出先での人々からのお声かけ、温かいお力添えは、ある意味、バリアーが氷解しつつあり、基本的人権を尊重しあえる理想的な社会に近づいているような気がいたします。いつも、感謝の気持で目頭が熱くなります。
加えて、愛する家族の協力は、社会との共生の礎になっており、潤いのある生活と穏やかな人生に繋がっていくと確信しています。今後も、皆様方のご支援、ご指導のほどよろしくお願い申し上げます。
最後に、近い将来、再生医療の恩恵に与る日がくることを信じ、より楽しい日々を過ごしたいと願っています。

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【お知らせ】

◆会員・賛助会員の募集

NPO法人タートルは、疾病またはけがなどで視覚障害者となった人が“仕事を続けて行く”ためには、どのようにしていったらいいのかを模索し、支援しあい、並びに見えなくても働けることを広く社会に知ってもらうことを目的として活動しています。
人によって“見えない状況”はいろいろですが、見えなくても普通に生活し職業的に自立したいという願いは同じです。一人で悩まずとにかく気軽にご連絡ください。一緒に考えて、着実に歩んで行ける道を模索しながら頑張りましょう。
タートルは、視覚障害者ばかりでなく、当法人の活動をご理解いただける晴眼の方の入会も心から歓迎します。

☆会員募集のページ
http://www.turtle.gr.jp/join.html

◆スタッフとしての協力者及びボランティアの募集

あなたも活動に参加しませんか。
当法人では、相談事業、交流会事業、情報提供事業(IT・情報誌)、セミナー開催事業、就労啓発事業等を行っております。このような事業の企画運営にご協力いただき、一緒に活動するスタッフとボランティアを募集しています。事務局、イベントの運営、在宅での編集作業等、いろいろあります。会員としての活動協力は勿論、会の外からボランティアとしての協力も大歓迎です。また、お知り合いの方で、協力できる方をご存知でしたら、ご紹介いただければ幸甚です。
詳細は、事務局までお問い合わせ下さい。

◆ 会費納入ならびにご寄付のお願い

日頃は法人の運営にご理解ご協力を賜り心から御礼申し上げます。
平成24年度も半ばを過ぎました。つきましては今年度会費の納入がまだお済みでない会員の方は、お手数ですが以下の振込口座に納金手続きをお願いいたします。
また、ご案内のとおり、当法人の運営は資金的に逼迫している状況です。皆様方からの温かいご寄付も歓迎いたします。併せてよろしくお願い申し上げます。

≪会費・寄付等振込先≫
ゆうちょ銀行
記号番号:00150-2-595127
加入者名:特定非営利活動法人タートル
年会費 :正会員 5,000円
     賛助会員 1口5,000円

◆ 情報誌「タートル」の購読について

情報誌「タートル」は、墨字(印刷物)・DAISY(デジタル録音図書CD)・カセットテープ・メール配信の4種類を発行しております。会員の皆様にはその中からご希望のものをお届けしています。
つきましては送料等の経費を節約するためにも、パソコンのメールアドレスをお持ちの方は、できるだけメール配信で購読していただけますよう、ご協力をお願いいたします。購読媒体の変更等につきましては、タートル事務局まで電話またはメールでご連絡ください。次号の「情報誌タートル」からお届けできるように手配させていただきます。

◆ 今後の予定

2月16日(土)
交流会 東京(日本盲人職能開発センター)を中心に各地をスカイプで中継する予定です。
情報誌第22号は、3月下旬発刊予定です。

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【編集後記】

暑く、長かった今年の夏でした。ようやく気持ちのよい、過ごしやすい秋が来たかと思ったら、あっという間にと言うか、秋風を追い越して、冬将軍が、遠慮を知らずに…。なあーんて思っているのは、わたしだけでしょうか?

オリンピックでは、38個のメダル、山中信弥氏のノーベル賞…。皆さん、どんな年でしたでしょうか?冷たい冷たい北風君ですが、すぐそこまで新しい年を引っ張って来てくれています。

会員の皆様、今年も、有難うございました。どうぞ、よいお年をお迎え下さい。

( 長 岡 保)

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