視覚障害者の就労の現状と課題

1997年1月31日
北星学園大学 文学研究科 社会福祉専攻
 吉田 重子

第7章 今後の展望 ―解決の方策を探って―

第1節 雇用促進の新しいあり方のための総合センター

 これまで、視覚障害者の就労問題について、ライフサイクルに沿って分析してきた。その際、それぞれの時期に拠点となる盲学校・職業訓練センター、障害者雇用促進協会の諸施設、障害者を雇用する事業所、行政サイドからの支えとしての法定雇用率達成を目的とした諸制度、職場介助者、OA機器、そして、それらを監視し、具体化させる役割の雇用を進める運動団体等……。これだけの機関、制度、人材や設備などのキーワード的存在が確認された。そして、これらのキーワードは、問題点を持ちながらもそれぞれに機能していることがわかった。それでもなお、ライフサイクルの中で、大きな課題の一つとされたのが、視覚障害者が就職を実現化させた後、職務を遂行・継続し、安定させていく点にあった。
 併せて、以下のような注目すべき新聞記事がある。「タートルの会(中途視覚障害者の復職を考える会 和泉森太会長)が職場で解雇通告を受けている視覚障害者の支援活動を始めた。会社側に対して、解雇を取り消し、休職期間でのリハビリテーションを認めてほしいと訴えている。タートルの会は中途視覚障害者の職場復帰について情報提供や相談活動を続けて来た。今回コンピュータ関連会社に勤める千葉県松戸市の郡悟さん(36)から解雇の危機にあると相談があり活動を始めた。郡さんは網膜色素変性症が進行して仕事を続けるのに支障をきたすようになり会社の就業規則に則した形で12月末の解雇を口答で言い渡されている。三日には日本盲人職能開発センターにおいて、郡さんが勤める会社の人事労組の担当者タートルの会のメンバーそして郡さん本人の計11人で話し合いの場が持たれた。冒頭視覚障害者雇用支援機器のデモンストレーションを行い訓練によって復職は可能であるという会としての考え方を示した」(注1)、「タートルの会(中途視覚障害者の復職を考える会)の支援を受けて会社から受けた解雇通告の取り消しを求めていた千葉県のの郡悟さん(36弱視)が休職制度を利用してリハビリテーションを受られることになった。所属するコンピュータ会社の対応は二転三転したが郡さんは一貫して正社員の立場で休職したままリハビリテーションを受けることを希望。眼の障害をカバーできれば専門職として労務提供能力はあるという考えを示し最終的には特別休職という形で訓練を受けることが認められた。郡さんは生活訓練と情報処理機器の訓練を受ける予定」(注2)
 タートルの会によると、1996年12月だけを見ても、いわゆる大手の企業で、中途視覚障害のために、解雇通告を受けた、という相談が3件あったという。これを、「小さな数字」と見てよいだろうか。
 障害者が、職務を遂行・継続していくうちに発生する諸問題は、職務上の役割遂行の問題、そこから派生する同僚とのコミュニケーションの問題など様々である。また、前述の新聞記事のケースのように、これまで問題なく果たしてきた役割を、受傷や病気の進行によって以前同様果たせなくなって起きてくる中途失明者の、問題もある。これらの問題は、働いている障害者本人の積極性やねばり強さ、障害者を雇用している事業所の上司や同僚の理解や協力、などの個々の努力だけでは、決して解決する問題ではない。
 「障害の重度化・多様化などに対応した職業リハビリテーションのあり方に関する調査研究会最終報告概要」によれば、「職業リハビリテーションのあり方について研究会では、今後の職業リハビリテーションのあり方について以下のような提言を行いたい」として、「《就職後の職業リハビリテーションの充実》(イ)障害者を雇用している事業所では、就職後における訓練を求めていることから、就職した後、障害者本人が不適応を起こした場合や技術革新の進展などに伴う職務内容の変化に対応するため、離職する前に、必要な職業リハビリテーションを弾力的に実施できるような体制を整備する必要がある。《中途障害者に対する支援の充実》(ウ)採用後に障害者となったものが円滑に職場復帰または再就職ができるよう(精神障害者を含め)中途障害者に対する職業リハビリテーションを充実するべきである。(中略)《職業リハビリテーションの体系化》(カ)障害者に対して職業リハビリテーションを効果的に実施するためには、個々人の状況に対応した職業リハビリテーションのルートを明確にする必要がある。(以下略)」(注3)とある。これらの提言は、どのような形で具体化されればよいのだろうか。
 日本における障害者雇用促進の中で、「職業リハビリテーション」という考え方については、「職業紹介」「職業訓練」などに比べて、日の浅い分野であるなかで、1978年、埼玉県に国立職業リハビリテーションセンターが設置され、その拠点となっている。リハビリテーションとは、元々医学の分野で、障害や疾病治療の後、機能回復、社会復帰を意味する用語であり、その意味において職業訓練と深く結びつくべき用語である。従って前述の「職務遂行・継続・安定」や、「中途失明者の職場復帰」のためには欠かせない考え方である。中途失明者として職場復帰した体験を持つ工藤は、「『職業リハビリテーション休職制度』があればと願っている。労働者保護と雇用主の負担を軽減するという二つの観点から、在職中のリハビリを保証し、可能性を担保するのである」(注4)と述べている。
 「各機関の役割分担の明確化(中略)各関係機関の機能公共職業安定所 ○地域障害者職業センターが作成した職業リハビリテーション計画に基づき、個々の休職者について各関係機関間の調整を行うこと(各関係機関の共通認識を得ること)。○職業リハビリテーション計画に基づき、必要な支援を各機関に割り振ること。○職業リハビリテーション計画の実施状況について把握するこ と。(中略)障害者雇用支援センター○障害者就職希望の把握など、労働関係機関と福祉・医療・教育関係機関などとの橋渡し役になること。○障害の重度化などに対応し、通勤や職業生活に関わる支援など、市町村レベルで地域に密着した職業リハビリテーションを実施すること。(以下略)」(注5)
 この提言から明らかなことは、障害者の雇用促進のために、職業訓練を行う諸々の施設が存在し、公共職業安定所、障害者雇用支援センターは機関としての役割として、これらの施設を対象者に適切に紹介することになっている。そして、ここで問題な点は、その対象となる障害者が、「求職者」にほぼ限られているということである。結局、「雇用促進」は、職を求めるものの就職が実現した段階で、その任を終え、一人一人の職業人としての生活の保障とは連続したものになっていないということである。今後必要なことは、「雇用促進」が本節の冒頭でも示したキーワードをすべて有機的に連携させるような施設や制度を存在させることである。具体的には、一人の障害者の職業生活全体を見通し、困難な問題を受けとめ、保証するような、障害者の職業に関する総合的なセンターが、公的な機関として必要である。それは、勤続10年の障害者も、長く障害者を雇用している事業主も、相談に行くことのできるセンターの存在である。そこには、助成金など、制度的な相談から、事業所内で、より適切な職務内容を見いだすための研究に基づくアドバイスなど、様々な内容が、もりこまれる場であることが必要である。そして、このような総合的な発想に立ってこそ、研修権としての「再訓練休職」や「職業リハビリテーション休職」が、制度として、実現化できるのではないだろうか。

第2節 全面参加と平等のために

 「10月22、23の両日、札幌市内のホテルで開かれた全労働省労働組合道支部(組合員約1100人)の定期大会。ハローワークなど労働省の道内の期間に勤務する組合員約100人が参加した。
 この定期大会で組合員に配付された議案書の一つに、『公共職業安定所定員の再配置等について』への対応方針(案)がある。
 この議案書は、札幌北公共職業安定所(仮称)の新設などに伴う定員配置について労働省の提案を受け、組合側が見解を示したものだ。その中に来年度から勤務予定の全盲職員の採用についても補足的に取り上げられており、次のような記述がある。
 『障害者の雇用そのもの事態は、職業安定行政の使命からして総論としては理解できるものですが、受け入れ条件の整備という点では重大な問題意識を持たざるをえません。加えて、新たな定員再配置により対処しようとする安易な姿勢については、当局責任を放棄するものであり、容認できるものではありません』
 『障害者雇用については定員再配置とは別問題として、当局責任を厳しく追究したいと考えています』
 さらに、この議案書では『分会意見報告の概要』として次のような記述も続く。
 『我々の職場が全盲の方の制限された職業能力に対して、働きがい、生きがいを感じさせる業務を与え続けることができるのか、はなはだ疑問を感じる』
 『安定行政だから障害者を積極的に受け入れなければならないといった安易な既決ではなく、各省庁における職務分析と障害者の職業能力・職業適正を正しく分析しマッチングのために人事院のよきアドバイザーとして官公庁全体の重度障害者の雇用が促進されるようにすることが、本来安定行政の果たすべき役割ではないだろうか』
 『この文面について定期大会では特に疑問視されなかったと言うが、一部の組合関係者からは『労使関係とは別次元の問題として、労働省職員が障害に対する認識がこんなに低くてよいのか』とい言う冷やかな見方も出ている。(中略)一方、福祉ボランティアなど障害者に一定の理解を示してきた道内の関係者からは批判的な声が出ている。』
 身障者を雇用している札幌の企業経営者は『議案では全盲の人の職業能力が制限されたものとして扱っており、周囲の負担増を心配しているようだ。民間企業には『障害者を雇用するのは企業の義務だ』と迫る労働省の職員が、『自分たちの職場に障害者が来ることはためらう』というのでは、あまりに身勝手すぎる。議案の中身は彼らの本音なのでしょう。また、議案書の『障害者雇用については(中略)当局責任を厳しく追究したい』とは、障害者を受け入れたくないということなのか』と痛烈に批判する。」(注6)
 雇用促進行政を司る労働省の、しかもそこで働いている労働者の声であることを考えれば、怒りもこみ上げてくる。もちろん、この記事のみを根拠に、一方向から問題点を分析し、断定することは、若干危険を伴うことは承知しているが、それでも、いくつか指摘せざるをえない点がある。
 まず、記事中にも取り上げられた札幌の企業経営者の声をもう一度紹介すると「民間企業には『障害者を雇用するのは企業の義務だ』と迫る労働省の職員が、『自分たちの職場に障害者が来ることはためらう』というのでは、あまりに身勝手すぎる」と述べていた。これは「他者には厳しく、自分の手は汚さず」という矛盾に裏打ちされた排除の論理であり、この「排除」に対する怒りの視点が大事である。
 次に、この記事は、視覚障害者の公務員採用試験に関わる、もう一つの動きを思い出させた。1993年、一人の弱視者が国家公務員試験II種合格した。しかし、その後、近畿地区で就職しようと十箇所以上の面接を受けたがかなわず、1年間の登録期限が過ぎ、公務員としての採用資格を失ってしまった。面接に回った半数あまりの機関で「障害者のための施設設備をする費用は、国の締めつけで、出先では到底できない」というあからさまな答えが返ってきたという。この事実は、前述の記事と同じく、まさに、官公庁の内部に潜む排除の論理によるものである。さらに、共通するもう一つの大きな問題は、公務員試験としての実施主体は人事院、採用決定は各省庁にあるという縦割り・分散型行政の矛盾によるもの、邪魔なもの、費用など負担の多いものは排除する。それを正当化する根拠として、受け入れた入り口は他の機関にあって、自分たちの責任ではない、という発想を持ち出してくる。前述の記事では、この体質が組合員の中にまで浸透し、「当局を厳しく追究していく」などという表現となってしまったのではないか。しかし、1993年の弱視者の問題とはすでに事態が大きく違っている。現に、特定省庁(ここでは労働省)に内定が決まったものに対する「排除の論理」である。片手で「採用試験」と言う機会の平等と併せて「合格」「採用」という結果の平等にゴーサインを出しながら、その片手に、この記事中の議案書を掲げる矛盾は、単なる「排除の論理」だけでなく、いったん認め、実践し始めようとしている動きまで、否定してしまう、この問題は大きい。くどいようだが、点字採用試験の実施、と言う機会の平等だけでなく、合格、省庁への採用という結果の平等の実現は、やはり実質的な平等とはなりえていないことになる。
 そして、最大の問題点は、巧みな言葉による論理のすり替えである。というのは、少なくとも、私が、視覚障害者の就労について考えるとき、職業の第二の要素「自分を発揮する」さらに第三の要素「社会的使命を果たす」を念頭に置く。障害者が「成就感、達成感のある仕事をしているか」「社会的役割を果たしているか」を問い、それを原点として現状や課題を分析し、解決策を摸索してきた。その原点こそ、障害者の「全面参加と平等」の原点でもあると考えてきた。そこへ、労働省の職員が我が職場の現実的場面に視覚障害者の同僚を存在させるに当たって懸念されることとして、「働きがい」「適正」などと表現していることは、ある意味で要をえた内容であり、全く理解できないわけでもない。しかし、納得するわけにはいかない。問題は、このような、障害者にとって原点に関わるような表現を巧みに用いて、それを理由、いわば切り札として、排除の論理に利用していること(俗に言えば、「お役所的いやらしさ」)が強く感じられる所にある。
 最後に、記事にある、「視覚障害者の制限された職業能力」という表現についても、「能力」をどう捉えるかの視点を明らかにしながら、考えなければならない。
 この点に関して、米国人の全盲プログラマーが次のように語っていることは興味深い。「生産性の問題についてみると、10分間の中で晴眼者の同僚と同じだけの量の仕事を視覚障害者がこなしますか。おそらく、そうはいかないでしょう。800文字表示の点字ディスプレイがあるかどうかといった問題ではありません。視覚障害者であるということは、晴眼者であることと同じようなものというわけにはいかないのです。障害は、別のいろいろな意味で生産性に影響を与えます。視覚障害者が対等ということについて議論できるだろうとは思いません。能力について議論することはできると思いますが。一定の期間にわたって、私は、自分の水準に照らして標準的な仕事をこなしてきましたが、しかし、おそらく今後も同じような状況が続くのではないかと……私たちは、ある種のレースに参加してはいないのです。そんな風に考えることは精神的に気の滅入ることですが。(中略)私は、晴眼者のように装うプログラマーではありませんが、プログラマーです。問題なのは、当事者である視覚障害者が適切に仕事をこなし、別の意味で働くことができるだろうかということです。もし答えが『はい』だとすれば、その視覚障害者はそこに止まります。もし『いいえ』なら去ることになるはずです。鍵となるのは相違を認めて受け入れることです。」(注7)
 この定期大会議案書で使われた「制限された職業能力」といったときの能力の捉え方について、内容の前後から推測するしかないのだが、やはり晴眼者と視覚障害者を同じスタートラインに並べて同質のものとして捉えたものであろう。やはり、雇用を促進する最先端の立場にあるものとして、このような捉え方をしているということが大きな問題である。
 障害者自身、「全面参加と平等」の原点にしっかりと立ち、これまで指摘してきた問題を、決して「働くことの難しさ」の理由として転化加させることを許さず、一人一人が勝ち取った働く場での適職を、堂々と見つけ、働き続けていく方向へと向かわせなければならない。結果の平等、実質的平等の価値観に裏打ちされた、社会への「全面参加」の実現へと向かわせなければならない。

引用文献と語句説明

序章

第1章

第2章

第4章

第5章

第6章

第7章


参考文献


終わりに

 1973年の学習指導要領改訂以前、高等部に普通科の課程を有する盲学校は全国で10校に満たなかった。つまり、15歳の時からほとんどの盲学生が三療の課程に進まざるをえなかったことになる。そして、全国のすべての盲学校に高等部普通科が設置されて20年以上が経過した今日でも、視覚障害者にとっての新しい職域がそれほど広がったとはいえない状況であることは、これまで述べてきたとおりである。確かに、数々の経験の中で、三療という職業をすばらしい専門職の一つとして理解することができたが、私はこの職業選択の幅の狭い境遇にこだわり続けてきたことに変わりはない。さらに、たとえ職業選択の幅が広がってきたとしても、その内容の充実に向けてこだわりを持つようになった。そして、その一連の問題に取くむうちに、これらの問題の根は、日本の社会的文化的背景と深く結びついているものが多いこと、したがって諸外国の法制度やサービスの体系との並列的な比較ではおさまりきれないものであることを改めて認識する結果となった。この認識を今後の取りくみの新たな糸口としたい。
 職業を持つことは、重要な社会参加の方法の一つである。そのような社会参加の場が、福祉的就労の形態をも含めて、個々人の実状にあわせ、できるだけ多くの人により良い状態で保証されることを願っている。
 最後に、この研究をまとめるに当たり、指導教授である忍博次先生をはじめ、ご支援・ご協力いただいた、実に多くの方々に深く感謝の意を表したい。

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