視覚障害者の就労の現状と課題
1997年1月31日
北星学園大学 文学研究科 社会福祉専攻
吉田 重子
第5章 事例からの問題提起
次に、視覚障害者の就労の現状をより具体的に深めるために、いくつかの事例を通して、その問題点を明らかにしてみようと思う。
各事例では、主として、(1)採用に至る経過(2)仕事の内容と職場環境(3)職業人としての現在の心境、を中心とした。調査は、対面、あるいは、電話による面接を中心とし、さらに、中には、対象者の体験手記等も参考にして分析を行った。その際、事例を選択する視点として、大きくは、(1)勤続年数がそれほど長くなく、今後の抱負に重点を置いたもの、(2)勤続年数10年を越え、これまでの体験をベースとしながら、今後働くことを継続していく上での課題や抱負を中心としたもの、という点から考え、それぞれの語りの中から、問題点や生きる姿勢を示すようなキーワードを抽出し、各事例の冒頭にあげてみた。
また、退職、転職した事例も取り上げることにより、問題を深めようと考えた。
事例1 「正規の職員になって、思いっきり働きたい」
- プロフィール
- 東京都内区立の図書館職員、Aさん。現在26歳の全盲の女性。筑波大学付属盲学校高等部普通科を経て、大学を卒業と同時に、1993年4月に現在の職場に採用。
- 採用に至る経過
- 大学の卒業を間近に控えた頃、この図書館の光文庫(点字文庫)で非常勤を募集しているという情報が入り、受験。「『非常勤』というところに少し引っかかったのですが、就職先が決まらず困っていたところだったので、とりあえず受けてみることにしました」Aさんは、大学時代に図書館司書の資格も取っていた。
- 仕事の内容、職場の環境
- Aさんの職場は、いわゆる公共図書館に併設されている点字図書館で、この部門での職員は、正職員4名、嘱託3名、非常勤1名の計8名。Aさんの仕事の内容は、中途視覚障害者への点字指導、対面朗読の調整、電話の受け付け、ボランティアの相談に応じること、であった。「一生懸命働けば、実績が認められて常勤になれるかもしれない」と考えていたが、1年目はほとんど仕事がなく、「周りの人たちがとても忙しそうにしているのに、私だけがたいしたことをしているわけではなく、とても居づらい感じがしました。こんな状態だったので、仕事における自分の必要性をあまり感じられず、常勤になりたいという気持ちもわきませんでした。しかし、このように感じてしまうことが情けなかったので、当時はここまで自分の気持ちをさらけ出すことはできませんでした。」ところが、1年目の終わり頃から、点字の受講希望者が何人か現れ、点字の校正に関わるようになり、ボランティア養成のための点訳・朗読講習会にも出席し、発言するなど、仕事の範囲が広がってきた。
- 現在の心境、そして今後
- 「やりたいことがたくさんあり、それらにほとんど関われない現状に不満を感じています。例えば、点訳・朗読のボランティア養成の規格段階から『責任をもって関わることです』図書館業務のもっとも中心的な貸し出しやレファレンスもぜひやってみたいと思います。この仕事には、周りの人たちの協力が必要ですが、かなり忙しい業務なので、それにかかっている人たちの気持ちにゆとりがなく、今は、私が入る隙などないといった状況なのです。それに非常勤なのだし、決められた勤務日数(月16日)では、仕事の領域を広げてもやっていける自信はありません。働き始めた頃、仕事を見つけられなかったのが信じられないほど、今やりたいことが浮かんできます。そして、常勤になりたいという気持ちも強くなってきました。」(注1)
1989年、この図書館に、「視覚障害職員を」という請願が区議会で採択され翌1990年12月、非常勤の点字指導員として視覚障害者1名が採用されたが、自己都合により退職。続くAさんの採用後も東京都視力障害者協議会の協力により「常勤職員の採用を」の請願が出されている。1995年6月、「特別I類事務」の採用試験に関して点字受験が認められ、Aさんはこれに挑戦中だが、一般試験なので競争率も高く、かなりの難関だという。「障害者特別枠での試験をしてもらいたいと願っている」とのことである。
<考察>
職域拡大の革新的な運動団体の協力に支えられながら、本人自身も、職業に対する姿勢が前向きで、とてもしっかりとしたケースである。そこには、公共図書館といういわゆる一般の職場であると同時に、「点字」とか「ボランティア養成」など、本人の体験に基づく能力を発揮できる分野であるということも大きな要素であろう。
事例2 「将来への不安はあるけれど」
- プロフィール
- 金融関係の会社で電話交換手として働くBさん。もともと視力は弱かったが地元の高校・短大を卒業する頃から、視力はさらに低下し、視覚障害者のための生活訓練・職業訓練を経て就職。現在は明かりくらいしかわからない、という、31歳の女性。
- 障害受容の経過
- この事例の場合、自分を視覚障害者として認め、受け入れていく経過も追っておく必要がある。
短大卒業後、いくつかアルバイトをしたが、視力が低下し続けられなかった。迷いとあせりの中、視力障害者センターなど訪れたが、民間のリハビリ施設との出会いによって、ふんぎりがついた、という。「学生時代の友達は、皆就職してそれぞれの道を行っていて、私だけが取り残された感じがしました。早く仕事をしたいと思いました」この施設の紹介で、大阪にある日本ライトハウスに入所し、2年間で生活訓練と電話交換手の職業訓練を受けた。「この間に、視覚障害者としてのことをいろいろ学び、経験しました」職業安定所を通しての求職活動でえた職場は、大手の百貨店だった。「商品に関する問い合わせや、苦情など、幅広く資料を見なければ対処できない仕事が多くてしんどかった」半年の試用期間の後、雇用者側と話し合って退職。
- 採用に至る経過
- 現在の職場は、訓練を受けていたライトハウスからの紹介である。その経緯は、ライトハウスの同窓生が別な地方の支店で、この企業に採用されたことがきっかけとなり、Bさんも地元で採用される運びとなった。この事業所では、何人かの障害者を雇用しているが、視覚障害者ではBさんが初めてのケース。
- 仕事の内容と職場環境
- 現在の職場に就職して4年になるが、雇用形態は嘱託職員で1年ごとの更新である。この会社では、他の交換手も、パート社員である。4名の交換手の交代制で、やく200本の電話を扱う。仕事上の不便さ、特に困ったことはなく、これまでに培ってきた社会性で人間関係もスムーズにいっているようだ。以前の職場とは違って、それぞれ担当者も決まっているので、問い合わせなどのトラブルに苦しむことはない。伝えなければならないメモ程度のものは、これまでの勘で、手書きで対応できる。できるだけ、他の人の負担にならないようにしている。
- 現在の心境、そして今後
- 「電話交換手という仕事、特に、金融業では、この分野は、だんだんなくなっていく方向にあります。これから先のことはとても不安ですが、今は、特にこれといって考えていません。他の視覚障害者の方の生活のこともあまりよく知らないですしね」
<考察>
電話交換手は、視覚障害者にとっての適職の一つとして、職業訓練の場を与えられているが、新しい機器やシステムの導入、より広い情報へのアクセスと対応が要求される中で、その一つの職種としての存続が危ぶまれている。さらに、最初の職場の退職に関して「もっと能力のある方なら、見えなくてもできたのかもしれませんが」と謙虚につぶやいていたが、電話交換業務の中でも、特にサービス業関係では、不特定多数の顧客の不特定な問い合わせに対して、迅速な対応が求められる難しさ、という点もおさえておく必要がある。また、嘱託社員という不安定な身分についても、後に指摘する雇用形態・身分の問題を典型的なケースといえる。
事例3 「自分なりの専門性を生かせる分野に向かうことが必要」
- プロフィール
- 労働省職員のCさん38歳男性。
12歳で完全に失明。地元の盲学校から筑波大学付属盲学校高等部、大学の教養学部を卒業後、1982年、埼玉県所沢市の国立職業リハビリテーションセンターでコンピュータプログラミングおよびワープロの訓練を受講。翌1983年4月、労働省入省。
- 採用に至る経過
- 1982年、労働省で視覚障害者を採用する意向があり、その頃、職業リハビリテーションセンターに在籍していたCさんが、その候補対象となり、採用が決定した。当時、国家公務員試験の点字受験は認められておらず、特別選考認容という形での採用であった。
- 仕事の内容と職場環境
- Cさんは労働省入省後、配属先を2度異動している。はじめの配属先は、障害者雇用対策室、5年半で、海外労働情報室。そして再び、1995年8月より障害者雇用対策室に配属となり、現在に至っている。
障害者雇用対策室での主な仕事は、各種研究会の運営や関係資料づくり、障害者雇用審議会の資料作成、ILO条約をめぐる検討会への参加、視覚障害者向け広報マニュアルの作成、このほか、講演や原稿の依頼など、事業主に向けて、視覚障害者への理解を啓発する仕事にも携わった。
海外労働情報室では、上司が選んだ英文の翻訳、要約が業務の大半だったという。
いずれの仕事にも、パソコンや音声で読み上げる英文読書装置などの機器が駆使された。これらは、職場で用意されたものだけでなく、オフィスのスペースや予算の関係から、私費で購入したものなど、工夫が重ねられた。
- 現在の心境、そして今後
- 「同じ部署の在籍年数が長くなっても身分・実力双方の面でなかなか向上できないという不安とあせりがあります。やはり最大の課題は、今後、どのように職歴を重ねるかということになります。すでに就職して12年近くが経過し、『なによりまず与えられた仕事をこなすことが先決』というだけの年齢層ではなくなりつつあります。(中略)また、年齢が高くなるにつれて今の状態のままでいることも難しくなっていくだろうと思います。他の部署に人事異動した場合でも基本的な事情は同じだと思います。また、作業環境の面で介助者の配置がないこと、必要な機器類を十分にそろえてもらえないことも課題としてあげられます。人事異動の希望とともにこうした要望についても文書で提出すると同時に口頭で伝えるなどしていますが、なかなか実現しません。
さらに、視覚障害というハンディキャップは、現実問題として業務をこなす上で不利をまねきます。高度に能率を要求されたり即座に対応しなければならない場面ではどうしても晴眼者と全く同じというわけにはいきません。現在の多くの職場では、『まず仕事があって、異動してきた人はその仕事にあわせてそれをこなす』というルールが前提になっていると思います。(中略) 昇進の問題についても、健常者に用意された一般のルートに乗り切ることは、年齢が高くなればなるほど難しくなると思います。この問題は、なんといっても大きな不安材料ですし、また、私だけでなく多くの障害者が感じていることではないでしょうか。(中略)自分なりの専門性を生かせる分野に向かう必要があるだろうと考えています」(注2)
少し長くなったが、切実な心境と重要な指摘を含んでいるので引用した。これは、Cさんの体験手記に書かれているものであり、面接の中で「その手記は、私のもっとも正直な思いをまとめたものですとのことである。
<考察>
障害者雇用対策室への二度目の配属は、先に紹介した引用文を書いた直後のことのようである。将来への不安を持ちつつも、「障害者雇用」という分野で「自分なりの専門性」をさらに生かしたい、とCさんはこの面接でも語ってくれた。特に日本の雇用の仕組みの中で、「働き続けること」の難しさを感じさせる事例である。私自身、とても頷けるところが多かった。
事例4 「ごく普通に生きたい」
- プロフィール
- 神奈川県庁に勤務するDさん。30代後半の男性。地元で盲学校高等部を卒業後、大学の教育学部を終え、1981年、神奈川県一般行政職中級試験を点字で受験し合格。神奈川県では、前年の1980年から点字受験の実施を認め、Dさんはその一人目の合格者。
- 仕事の内容と職場環境
- 神奈川県では、一般事務の場合、原則として、3年で異動がある。Dさんは、勤続15年の現在、4箇所目の福祉部障害福祉課に来て4年目。「来年あたり、また異動になると思いますよ」とさりげない口調。現在は、在宅障害者福祉の担当で、おもに、日常生活用具の補助金事務や緊急一時保護などの事務。パソコンを使用しての起案文書の作成。機器は、神奈川県では、職場を異動するたびに、新しく保証される。また、神奈川県が対応している、職場介助のアルバイト職員を中心とする協力で書類の処理を行っているが、「労働省の実施している『視覚障害者職場介助者制度』に倣って、県の制度として発足させてほしい」と願っている。
- 現在の心境、そして今後
- 「とにかく、一般の人と同じように普通に生きたいんです。特に、昇格への意欲があるわけではありませんが、みなさんと同じように、どこへでも異動するのがよいと思っています。異動すると、仕事を覚えるのにたいへんではないか、とのことですが、それは一般の人も大変なのですから。視覚障害者としてたいへんなことを考えるなら、細かいチェックなどの仕事の多い、中間管理職としての役割の時期をどう乗り切るかだと思います」
Dさんは、労働部、総務部、そして福祉関係で2箇所目の職場ということになるが、この「福祉」という視点での自分なりの専門性を感じるかどうかを尋ねてみると「できれば、福祉部は、あまりいつづけたくない職場」という答えが返ってきた。もっといろいろな分野を体験してみたいとのことだった。
<考察>
「障害者だからと言って、特別扱いされるのはよくない。一般職員と同じ扱いを受けてこそやりがいがある」(注3)と、Dさんは他のインタビューでも語っている。午後11時過ぎの電話面接となった。毎日ほとんど10時過ぎまで職場にいるという。「30代40代は、みんなそういうことが要求されるのが当たりまえの時期なんじゃないですか。別にがんばってるわけじゃなくて、ただ普通に生きたいだけですよ」自分の障害を前面に押し出し、その不便さを強調することも問題だが、「がんばっていないというがんばり」を少し感じずにいられないケースだった。
事例5 「職場介助者制度に支えられて」
- プロフィール
- 民間病院で事務職として働く40代後半の女性Eさん。地元の盲学校を卒業後、マッサージ師として就職した二つ目の病院で現在の事務職の仕事について7年目。
- 就職に至る経過
- マッサージ師としての仕事を続けていくうちに、体調を崩し、2年間の休職。自然解雇をただ待つばかり、という状態で思い悩んでいるとき、職場の配慮から、事務職として復帰。復帰の半年後には、職場介助者制度の適用を受け、現在に至っている。
- 仕事の内容と職場環境
- Eさんの勤務する病院は、ベッド数約70床。従業員120人規模である。ここでの仕事は、物療室の受け付け、予約の対応、相談業務など、物療室の管理・運営をいっさい預かっている。物療は、もともとマッサージ師としてのEさんの専門分野でもあり、その専門性が生かされている。しかし、事務職には、多くの書類に目を通したり、書き込んだりする作業が多く、明暗を弁別できるだけの視力しかないEさんにとっては、専門的知識だけでは補えない部分が大きい。そこで、職場介助者制度により、Eさんに対して職員を1名配置することで、文字の読み・書きの部分を補っている。職場介助者制度とは、詳細は後に述べるが、民間企業で働く重度視覚障害者(1・2級)が事務的業務に従事する場合、介助者費用として事業主に対し、一定の費用を助成する制度である。これは、支給を開始してから3年という期限付きの制度であるが、全国視力障害者協議会(以下「全視協」)などの協力を得て、7年間の延長を実現した。この病院では、職場介助者として、院内の職員をあてているが、実際、現在では、職員全体が担当を分担して決めるようにしてこれに当たっているので、「とても快適に仕事をさせていただいています」という答えを聞くことができた。
- 現在の心境、そして今後
- 現在の「快適な環境」を手にするまでには、やはり相当の苦労があったようだ。「マッサージの時には、患者さんとの関係だけで済んでいましたが、事務職となると、すべての職員とうまくコミュニケーションをとれるようになるのに3年くらいかかりました。最初は、『何でこの人の分まで書類を読んであげなきゃならないのか』とか、いろいろ聞こえてきました。でも、今は、介助者制度という公の制度に支えられて、必要なことははっきりお願いして仕事をしています」
しかし、今後に対する不安は大きい。3年間の期限付きから7年間の延長が認められたこの制度だが、あと3年でその期限が来る。そのときどうするか。これまで、仕事を遂行するためにはっきりと援助を求めたことも、また、それに快く答えた周りの同僚たちも、この制度があってこそ、それなりに対等な関係でいられたと、Eさんは感じている。「今後、また、この制度の延長を要求していくとしたら、それだけでも相当のエネルギーがいるでしょう。これから、それだけのエネルギーが持ち続けられるかどうか難しいですね」
<考察>
職場介助者制度、という制度的保証に支えられたケースである。職場自体にも、障害者を受け入れようとする理解の基盤があったものと思われる。そして、全視協という運動団体の存在も大きい。さらに、マッサージ(三療業)という職業が、とても体力を必要とする職種であるから、「職業選択の自由」を主張していくときに、経済的側面、精神的側面と併せて、本人の身体的条件(体力)の側面をも保証されなければならないことを教えてくれるケースである。
事例6 「自己研修の機会が少ないことも大きなハンディ、と痛感」
- プロフィール
- 大手のソフトウェア会社に勤務するシステムエンジニアFさん。32歳の男性。全盲。
- 採用に至る経過
- 地元の盲学校高等部普通科を卒業後日本ライトハウスに入所し、生活訓練と併せてコンピュータプログラマーの職業訓練を受け、計3年4か月在籍した。ライトハウス入所へのきっかけを尋ねると、前年、電話交換手の訓練を受けに行った先輩がいたこと、併せて、三療以外の道に進むための道としては、この施設の名前しか知らなかった、とも語っている。訓練終了後、職安を通して、1986年夏、現在の会社に就職した。地元に戻り、就職先を得たことを、とても幸運だったとFさんは感じている。
- 仕事の内容、職場環境
- 仕事の内容は、主に何人かでプロジェクトチームを組んで、依頼されたプログラムの規格、開発、設計、使用の指導、と一連の作業を行う。プロジェクトチームの中では、当然みんなと同等の役割を果たしている。このような仕事の性格から、組織替え(プロジェクトの組替え)が多く、Fさんも勤続11年目の現在、7、8回はチェンジしたという。このことは、視覚障害者にとって、とりわけ、仕事をする上での環境の変化、そのたびに、サポートの態勢づくりをはじめとする、コミュニケーションをはかることからスターとしなければならない、という困難がつきまとう。そして、周りの同僚たちがFさんを理解し、サポートに慣れた頃、また、組織が変わる。はじめの頃は、それがとても大変だったという。しかし、今は、ずいぶん慣れたようである。
パソコンは、視覚障害者が有する、普通文字の読み・書きの困難というハンディキャップを補う機能を持ち、その役割を果たしている。現に、Fさんはそのパソコンを扱うプロとしての道に進んだ。しかし、このパソコン機器の絶え間ない進歩を手放しで喜べない事態も起こっている。これまでのMS-DOS画面を音声で読み上げるソフトがある程度普及していたが、昨年登場したWindows95では、画面の音声読み上げのソフトは開発されつつあるものの、まだ実用的な環境とは言えない。そのため、社内では、ほとんどの作業はこのWindows95が使用されるようになり、これまでFさんが同等に携わってきたプログラムの開発の分野には関わることが難しくなった。さらに、社員としての技能を向上させるための研修も、音声対応が不十分な現状では、Fさんにとっては、有効なものにはなりえないので、交代で派遣される研修会にも行けない状態にある。「やはり新しい知識や技術を身につけることは必要ですから、ライトハウスでの再訓練、例えば、Windows95の基礎的なことなどかのコースを設けるなど必要だと思います」
Fさんが入社した1986年には、職場介助者制度は、まだスタートしていなかった。しかも、この制度が、雇用されてから3年を期限とするものなので、適用されることなく、現在に至ってしまった。同僚の協力を得ながら仕事をこなし、道内の出張は、相手先とコンタクトをとりながら一人で出かけることが多いとのことであった。
- 現在の心境、そして今後
- 「Windows95の登場で、プログラム開発の部分に参加できなくなったことは残念ですが、またそれに追いつくような実用的な画面の音声読みあげソフトの登場を望んでいます。長く仕事をし続けようとすると、当然責任を持たされる仕事が多くなりますが、そんなとき、同僚のサポートだけでは限界があります。企業秘密という問題もありますから、外部のボランティアなどに読んでもらうというわけにもいきません。やはり、職場介助者制度の継続的な適用によって保証される必要があります」
Fさんは、はじめ嘱託常勤職員として採用されたが、3年後、責任ある仕事をするためにも身分が保障される必要がある、と、雇用主と話し合いの結果、正職員となった。
<考察>
ある分野で仕事をし続けようとする時、日進月歩の技術革新をはじめとする社会の変化に対し、常に自己を高め、専門性を高める研修が必要であろう。視覚障害者にとって、この研修の機会の少なさは、ハンディキャップを大きくする要因となる。訓練施設における再訓練プログラムの必要性を強く感じさせるケースである。
事例7 「楽をしてお給料をいただけるなんて、羨ましい」
- プロフィール
- 民間企業にヘルスキーパーとして勤務して3年目のGさん。30代後半の全盲女性。
- 事例抽出の経過
- ヘルスキーパーは三療業に従事することの一つではあるが、一般企業での就労の事例としてここに取り上げた。昨年の夏、「ヘルスキーパーの実態」というGさんの一文を全視協の会報の中に見つけた。それは、私にとって、想像可能なこととはいえ、かなり衝撃的なものであった。そこで、今回の論文をまとめるに当たって、Gさんへの電話面接を試みた。
- 仕事の内容
- ヘルスキーパーとは、三療の資格を持ち、企業の労働者を施術の対象とし、産業衛生に貢献する業務を行う企業労働者である。
「意気込んで入社したものの最初の数カ月は順調に仕事があった。……入社させたものの視力は全然ない。必然的に忙しい事務の手伝いなどさせることができない。これが弱視ならちょっとした買い物、コピー、お茶くみ、……諸々の雑用をあいた時間に頼むことができる。……とにかく仕事は暇このうえない。……ある月など一月にトータルして六日間も仕事がなかったことがある。この屈辱をみなさんははかり知ることができるだろうか。……浅はかな人は『なにもしないでお給料がいただければこれほど結構なことはないじゃないですか?、楽をしてお給料をいただけるなんて!羨ましいな……』人間というものはなんと勝手なもので忙しければ忙しいで不平を言うし、暇なら暇で……でも私にしてみれば忙しいということはそれだけ充実しているのだから結構なことでは?、そう思ってしまう。……」(注4)
Gさんによれば、ヘルスキーパーの部屋は、社内の片隅にあり、施術を受けにこなければ、社員と言葉を交わす機会もないという。
<考察>
現在も、同じ職場に勤め続けていること、職場の環境はその後もほとんど変化はないが、今では、子育てを通して、学童保育の母親仲間たちとの交流に人間関係の充足感を見いだし落ち着いて来た、とのことであった。「仕事や職場にはそれほど期待していないので」と、私の予想されないほどの明るい応対であった。相当の葛藤があったこととは思うが、期待をせずに、しかもその場にいつづける、それもやはり一つの生き方として受け入れざるをえないのかもしれない。
事例8 「三療は絶対にいや。それじゃいったいなにが」
- プロフィール
- 電話交換手として採用されたが、9か月で退職し、現在家事手伝い。22歳の女性、Hさん、全盲。
- 就職に至る経過
- 地元の盲学校高等部を卒業。「絶対に専攻科には行きたくない」と強く主張し、障害者職業センターの職業講習で音声ワープロの技術を習得。習得直後、職安を通して大手スーパーに電話交換手として採用されたが、9か月で退職し、現在に至っている。
- 退職に至る経過
- 就職して数カ月くらいから不眠、食欲不振頭痛等精神的疲労に悩まされ、産業医等のカウンセリングを受けるようになった。スーパーなどのサービス業は、とかく商品などに関する客からの苦情の電話などが多く、「敏速かつ的確に担当部署に電話をつなぐ」「資料を調べて答える」などの判断力を要求され、それに応じ切れないまま仕事のミスを重ねるようになった。9か月で自ら退職。その後、就職していない。「いつまでもこのままで良いわけはないことはわかっていますが、どうして良いかわからない。私の話は、みんなにうまく伝わらないんじゃないかとか、いろいろな不安があります。一度、(職安から)新しい職場の話の電話が来ましたが、またダメになるかもしれないと思って……断りました」
<考察>
スーパー・百貨店における電話交換業務の難しさは、前述のDさんの事例でも登場した問題であったが、この事例の場合、その後の状況は全く異なっている。障害者職業センターのアフターケアとして職場訪問が行われたり、雇用者側も、電話交換の研修が必要であれば、いったん休職扱いにし、専門の訓練を受けてもよい、とまで言ってくれた。このように、環境に恵まれていたにも関わらず、本人にはすでにがんばり抜こうという前向きなものが欠けていた。この事例の場合、「専攻科へ行きたくない」「三療はいや」という意思表示は非常に強かったにも関わらず、このネガティブなものを前向きに展開する原動力とは、なしえなかったケースである。そこには、社会自立のための力が備わっていなかったという問題がある。結局、この事例の場合、特に、電話交換手としての職業訓練を受けていないことにも、問題があるのかもしれない。つまり、職業訓練センターは、職能や職業人としての自覚を持たせることを前提に、さらに、盲学校から一般社会へのワンクッションとしての役割をも果たす結果となっているかもしれないが、Hさんはその過程を経ていない。受講したのはワープロの講習だけである。Hさんが、ワープロの職業講習を受講した障害者職業センターのあるカウンセラーは「センターの職業講習の目的は、本来ワープロの技術講習にすぎないわけですが、就職の仲立ちをしたとなれば、このケースは、職業講習の盲点で起こったことです。」と語っていた。
<事例から見た課題>
以上見てきた事例を通して、次のような視点に立って課題をまとめることができる。
それは、一つの捉え方として、視覚障害者が、特に、三療以外の職種を選択する場合、その進路の選択、就職の実現化、職業人としての生活の維持(職務の遂行・継続・安定)という一つのライフサイクルに沿った、一連の課題が見えてくる。すなわち、(1)進路選択に関する情報の収集と、チャレンジ精神を持った努力(2)採用の機会を得ることと、雇用に関する諸制度の利用(3)職場環境への適応(4)職務の確保(5)職務領域の拡大(6)自分の地位の確保へと移っていく。そして、これらの課題の途中でドロップアウトしてしまったケースは、結局、退職をよぎなくされた事例として紹介した。
一人の障害者にとっての課題が、このように変化していく一方で、雇用する企業の側はどうであろうか。労働省日本障害者雇用促進協会が委託した「視覚障害者の職場定着方策に関する調査研究」に見られるように、企業の障害者雇用に対する位置づけは、「企業が果たすべき社会的義務」(65.9%)と答えた企業が断然多い。また、視覚障害に対する企業がはの理解不足は、後に詳しく述べるが、「トイレの設備も改善しなければならないのではないか」といった基本的なところでの誤解も未だに存在している。加えて、雇用形態や雇用条件など、日本の社会構造や労働行政そのものの体質からくる問題などもからまってくる。
そこで、次に、前述のようなライフサイクルにそった発想をベースに、雇用促進行政・制度上の視点も加えてその課題を分析し、解決策を考えていくこととする。
続きを読まれる場合は、「視覚障害者の就労の現状と課題」(3/4)へどうぞ。
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