(以下本文)

1998年10月9日第三種郵便物認可(毎月3回8の日発行)2024年4月25日 SSKU増刊通巻 第7879号

SSKU
特定非営利活動法人 視覚障害者の就労を支援する会 情報誌

情報誌タートル 第63号 特別号

~人を決して差別しない、心温かい信念の人~ 

和泉 森太氏 追悼文集

目次

和泉森太氏
追悼文集の発行に当たって

理事長 重田 雅敏

和泉森太 回顧録
2023年3月19日

和泉 徹彦氏

和泉森太さんを偲ぶ会
2023年5月20日

側面から支えてくださった人々
柴田 優子氏 竹内 栄治氏 陳 進志氏
山田 信也氏

和泉森太氏との思い出・偲んで
和泉 一雄氏 甲斐 幸二氏 笠井 和代氏
野尻 許子氏 久保 賢氏 窪田 進氏
嶋垣 謹哉氏 東郷 進氏 長岡 保氏
西田 朋己氏 二見 徳雄氏 吉田 重子氏
和田 光司氏 下堂薗 保氏 工藤 正一氏

和泉 森太氏 追悼文集の発行に当たって

認定NPO法人 視覚障害者の就労を支援する会(通称タートル) 理事長 重田 雅敏

和泉森太氏は、現在のタートルの前身、中途視覚障害者の復職を考える会(タートルの会)の初代会長である。1995年の6月に、視覚障害が進行し仕事の継続が困難になった人を助けようとタートルの会を発足させた時、視覚障害当事者であった工藤正一氏・下堂園保氏・新井愛一郎氏の3名から、その人望を見込まれ、是非にと乞われて会長を引き受けてくれた人である。詳しい経緯については本文に譲るが、大変人脈が広く、様々な活動に精力的に取り組んできた人で、どっしりと構えていて頼りになる人であったという。
タートルの会が発足した年の暮れに私も初めて和泉氏にお会いしたが、その存在感と声の力強さから畏敬の念を抱いたことをよく覚えている。人の前に出て、どんどん引っ張っていくタイプの人ではなく、ただいるだけで存在感があり、後方からそっと見ていて肝心な時には後押ししてくれるようなタイプの人であった。ああ、こんな人がそばにいてくれれば「安心して踏み出せる。力を発揮できる」と思わせてくれるような人なのである。
タートルの会は、その発足当初から、当事者3名と和泉氏が国家公務員であったことで、法律や制度についての知識が豊富で、行政の仕組みについても造詣が深いという特徴を備えていた。中でも和泉氏は仕事上の役職だけでなく労働組合の役員としても活動し、働く者や弱い者の立場をよく理解していた。「見逃せない」「ほうっておけない」という気持ちの強い人であった。行動力も抜群で、記者会見をおぜん立てしたり、遠くの地方まで自腹で駆けつけるなど、働く中途視覚障害者の窮状を何としても救おうと型破りなパワーを発揮した。和泉氏と連日夜遅くまで話し合ったり考えたりする中で、知識や自覚を高め、社会的な課題を知り、自分たちは何をどのように成すべきかという共通理解が生まれた。こうしてタートルの会は産声を上げて、よちよち歩きをしている時期にもかかわらず、熱気にあふれた強固な団体になったのである。タートルの会が和泉氏という人物に出会えたことは、とにもかくにも幸運であった。
そこに新宿区四谷にある旧名 日本盲人職能開発センターの篠島永一次長(当時・後に所長となる)が加わり、同センターに活動の拠点を置くことができて、視覚障害者への職能訓練機関や就職先にも様々な繋がりを持てるようになった。センターに行けば必ず所長が優しく出迎えてくれるし、電話をすればいつでも所長が対応してくれる。
こうしてタートル会員の交流は定着していき、相談のための電話も常時受け付けられるようになった。当然、和泉会長を始めタートル役員の活動範囲も増えて、タートルは大きく成長することになる。このタートル初期の様子やエピソードについては、本文後半の投稿者の声で紹介している。
四谷のセンターでは、定期的に話し合いが持たれたり、個別相談が開かれたりするようになったが、いつも和泉会長が真ん中にいて、存在感と威厳のようなものを醸し出していた。黙っていると少し怖い人にも思えたが、優しい口調で尋ねられたりすると、何か温かいものに包まれたような気がしたものである。初めて参加した人を見つけたり、会場にぽつんと孤立している人に気がつくと、さっと来て、「どうしましたか」、「その後職場はどう」などとさりげなく声をかけてくれた。それだけで、職場で肩身の狭い思いや孤立して心細い思いをしている者にとっては、これは決して大げさな表現ではなく、大海原をずっと漂流していた遭難者がやっと陸地を見つけたような安堵した気持ちになれた。強力なパワーと存在感の和泉氏だが、さりげない一言で繋がって心のよりどころとなってくれるのも和泉氏なのである。
タートルも来年は30周年を迎える。全国に会員も増え、心の病を抱える人やICT関連の課題もさらに増えている。ZOOMによって全国の会員と繋がることができたが、コロナによって仲間同士が対面で会えないさみしさも生まれた。眼科医会とのつながりが軌道に乗り、マスコミにも取り上げられて、タートルの名前も少しは知られるようになったが、職場で困難に直面して一人だけで悩んでいる視覚障害者が、まだまだ後を絶たないのが現状である。相談先や仲間と繋がれさえすれば何とか道は開けるのだが、残念ながら行き届いてはいない。このような人たちがいる限り、タートルの存在意義も決してなくならないだろう。
いま、和泉氏という大きな後ろ盾、心のよりどころ、強いリーダーが旅立ち、心にも組織にも大きな穴があいてしまったようなさみしさが襲ってくる。和泉氏は生前「諦めちゃだめだ」と繰り返し言っていた。就労だけに絞っていえば、我々の前には他のどの障害よりも困難な情報障害というバリアが立ちはだかっている。働く視覚障害者自身も、現在のタートルも「諦めちゃだめだ」という教えを肝に銘じて、ひるまず前進していくことこそ、和泉氏への一番の恩返しになるのではないだろうか。

最後に、担当責任者が病気のため、編集が進まず発行が大幅に遅れてしまいましたこと、深くお詫び申し上げます。早々に原稿をご提出いただいた皆様には、大変ご心配をおかけし、申し訳ありませんでした。
改めて、追悼文集の発行に当たり、追悼集会での発言や原稿の投稿等、たくさんの皆様のご協力を頂きました。心よりお礼申し上げます。この和泉森太氏の追悼文集は、タートル初期の貴重な歴史を語っています。一人でも多くの方に読んでいただけることを願っております。

和泉森太 回顧録 2023年3月19日

嘉悦大学教授・和泉徹彦氏ブログより引用 https://izumit.jpn.org/?p=758
和泉 徹彦

父・和泉森太が2023年3月10日に世を去りました。享年75歳でした。長男である私の言葉で父の生涯を回顧します。
父は1947年、団塊の世代として東京に生まれました。4人兄弟の3番目の次男でした。父方の祖父・勇太郎は日本交響楽団(後のN響)首席チェロ奏者、祖母・不覊子はタイタニック号遭難から生還した元鉄道官僚・細野正文の娘でした。父には同年同月生まれで兄弟同然の付き合いをしていたという従兄弟・細野晴臣がいます。
音楽家としての祖父は破滅型の人物だったようで、家計を顧みなかったと祖母からよく聞きました。兵庫県西宮市に居を移してからは、父は弟と朝日放送児童劇団に所属して家計を助けていたそうです。児童劇団では標準語を使用する必要があったため、関西で生活しながらも関西弁になることは無く、父から関西弁を聞くことはありませんでした。
父が母と結婚したのは1973年です。その3ヶ月後に長男である私が生まれました。母は幼稚園教諭、父は日本社会事業大学の学生でした。私に続いて3人の妹が生まれて、4人の子持ちになりました。
大学卒業後に父が就職したのは、相模湖病院という精神病院のソーシャルワーカーでした。その後、国立神戸視力障害リハビリテーションセンター(現在、国立障害者リハビリテーションセンター自立支援局神戸視力障害センター)の生活指導員に転職します。国家公務員になったことに当時西宮在住であった祖母は喜んでいたようです。
1979年に厚生省本省の行政職への転換を打診されて東京に転勤することになります。
地方採用の上級職待遇ではありましたが、幹部を目指すキャリア上級職ではありませんでした。
千葉県市川市に家を借りていましたが、公務員の給料で4人の子持ちの家計は苦しかったようです。父は生活保護申請して補足給付を受けられるのではないかとふと思いつきました。当時、社会局生活課という生活保護行政を司る部署の課員だったこともあり、上司から止めてくれ、官舎を世話するからとの言質を得たそう。東京都北区赤羽台の公務員宿舎に引っ越すことになりました。
本省では、介護保険制度創設準備の時期にシルバーサービス振興室に所属して、いわゆる福祉ミックスとしての民間活用の方針を形成した貢献があったようです。京極高宣教授(後に日本社会事業大学学長、国立社人研所長)を老人福祉専門官として厚生省に招聘し、大学から学者を行政職に呼んで、また大学に戻ってもらうサイクルを作ったそうです。難しい仕事として生前の父が少しだけ漏らしていたのは、生活改善係長という同和対策を所管する話でした。「地域改善対策特別措置法」の延長について、利害関係者と酒を酌み交わし懐に飛び込むような交渉をしなければならなかった、詳細は墓場まで持って行くといった話を聞きました。
本省勤務の合間の地方勤務は埼玉県所沢市等のリハビリテーションセンターや附属病院でした。労働組合・全厚生の執行委員長という組合専従も経験しました。最後は函館視力障害センターの指導課長として定年を迎えました。
霞が関には、病気などで中途失明して現職を追われる国家公務員の方々がいました。そういった方々の相談にのっていた父は、有志の方々と「中途視覚障害者の復職を考える会(通称:タートルの会)」を創設し、初代会長に就任します。現在は認定NPO法人タートルに発展しています。今でこそ公務員の社会貢献としての兼職は誉められる風潮がありますが、当時は大臣官房から目を付けられる状況だったようです。
最後の任地となった函館に定年後も住み続けます。地元の方々の願いに応えるため、NPO法人ユニバーサルホーム函館をつくる会を設立して、初代理事長に就任します。障害を持つ方でも安心して暮らせる住宅を確保することを目指し、サービス付高齢者向け住宅の補助金等を得ながら「はこだての家 日吉」をオープンします。残念ながら、役人人生を送ってきた父にとって採算を取る民間事業の経営は難しかったようで、資金繰りに窮して周囲に迷惑をかけながら、最後には失意の中、東京の実家に戻ることになりました。
晩年、新幹線や飛行機を使った遠方までの徘徊をするようになり、家族は振り回されました。現地でへたり込んでいて救急車を呼ばれたり、タクシーに行き先を明確に指示できず警察に保護されたりして、想定外の出迎えを求められたからです。2022年11月には北海道余市で帰宅旅費も無く保護されたときは言葉を失いました。
父の死は、2023年になって地元の地域包括支援センターのお世話にもなり、要介護2の認定を受け、在宅での生活を安定させようとした矢先でした。自宅の風呂場で亡くなったため、検死の必要があり、警察の事情聴取にも応じなければなりませんでした。病院のベッドで亡くなるのでなければ一律で変死扱いになってしまいます。死亡届を提出するにあたって、病院で亡くなると「死亡診断書」、検死を受けると「死体検案書」という違う書類になることを初めて知りました。遺体は警察署で一晩を過ごし、検死の結果の死因は虚血性心疾患(心臓マヒ)となりました。溺れていたわけではなく、巷で話題になるヒートショックだったのかもしれません。
本人の希望で、医学部解剖実習用の献体の登録をしていました。遺体保存状況にも関わるので引き取りまでそれほど時間をかけられないのと、本人も生前から葬儀はいらない・数年後に骨が返還されたときに納骨のお経を読んでくれれば十分と言っていましたので、親族のみのお別れとしました。本人の意志を尊重します。
父の生き様を振り返ると、公(おおやけ)に報いる姿が浮かび上がります。公僕として当然のことかもしれませんが、仕事を離れても頼ってくる不遇の人々の役に立ちたいと行動してきた姿がありました。75歳という年齢は、男性の平均寿命よりは短かったものの駆け抜けた人生としては十分な長さがあったようにも思います。友人知人の皆様には、生前のご厚誼に感謝を申し上げて、結びとさせていただきます。

和泉 森太さんを偲ぶ会

オンラインZOOMにて開催 2023年5月20日

重田(司会) こうして大体の経歴を見ても、和泉さんは困っている人を助けるところにずっと寄与されてきたのだと感じました。この対談では、和泉さんはどんな方だったのかという辺りにポイントを置いて聞いてもらえたらと思います。早速ですが、タートルが立ち上がる前の話になりますが、和泉さんとの出会い、会った時の印象、どういう経緯で出会ったのか。工藤さん、新井さんにまず聞いてみたいと思います。そして、和泉さんがタートルの初代会長になるまでのお話も伺えたらと思います。
では、和泉さんとの出会いと経緯を、工藤さんから話してもらえますか。

工藤 和泉さんに、最初に出会ったのはおそらく私だと思いますが、1990年4月、私が職場復帰のため当時の国立身体障害者リハビリテーションセンター(国リハと略すこともあります)で訓練を受けていた時に、私の部屋に訪ねて来られました。国立職業リハビリテーションセンターでの訓練期間も合わせて一年間は、非常に親しく交流させていただきました。広い敷地を一緒によく散歩しましたが、和泉さんは仕事明け、仕事が終わった時や土曜日など、よく訓練生のみんなを居酒屋に連れていってくれました。そういう人間味ある優しさとともに、厳しい面も持っている人でしたが、入所生に非常に慕われていました。
そして、和泉さんの話から少し離れますが、私は91年4月に労働省に職場復帰をしたのですが、視覚障害がある国家公務員が他にもいることがわかり、92年5月、下堂薗さんや新井さんなど7人が竹橋会館に集まり、「視覚障害者の国家公務員の会」を作りました。後に続く人たちに同じ思いをさせてはいけない、交流し励まし合うことで辞めないで済むようにしようということで、会を立ち上げたのです。
そんな時、92年に、眼の病気のため中途失明した厚生省職員の秋元明さんという人が神奈川県総合リハビリテーションセンターで生活訓練を受けていて、そこの職業更生科の科長さんから「お会いしたい」と電話が掛かって来ました。私の職場復帰が新聞に出ていたので、連絡を取ってきたのです。秋元さんは厚生省の出先機関の職員で、職場復帰が一年後に迫っているという話でした。そこで私は和泉さんに電話をしました。そうしたら、「早速、全厚生(労働組合)に連絡を取ってみるよ」ということになり、そこからまた和泉さんとつながったわけです。そのようにして、秋元さんは神奈川総合リハビリテーションセンターの生活訓練から、日本盲人職能開発センター(現在の日本視覚障害者職能開発センター、我々の間では「四谷のセンター」と略されることもあります)の職業訓練につながりました。
和泉さんは秋元さんが職場復帰するまで、ずっと彼に関わっていました。そして、3か月後の94年3月にいよいよ職場復帰をしなければいけなくなって、「どうしようか」という話になりました。そこで私が職場復帰する前から親しくしていた毎日新聞の記者(当時、厚生省記者クラブ所属)に頼んで12月9日の「障害者の日」に記事が出るようにしてもらいました。その時の厚生大臣は大内啓伍さんでした。和泉先生は怖いもの知らずでしたので、前日に厚生省当局にリークしておき、次の日に大きな記事が出たのです。それが「障害者の日」でしたので、厚生省側は結構慌てたようです。大臣からも「これはどういうことだ」と、「職場復帰をさせなくて良いのか」という話にもなったようです。
このようにして秋元さんの職場復帰が実現し、松井新二郎先生がかつて自分のいた内務省(厚生省の前身)に、しかも自分のところで訓練して職場復帰につながったことに、感無量といった喜びようでした。秋元さんのお祝いの会を職能開発センター近くで行いましたが、これらがマスコミの記事にもなって、タートルの会の結成につながっていくのです。

重田 ご存じない方への補足になりますが、松井さんは日本盲人職能開発センターを創設された方ですが、その頃のことで何かエピソードがあれば、新井さんからも是非お話を聞かせてほしいのですが。

新井 タートルの前身は、国家公務員が集まって、交流会を始めたということですね。私自身も自分以外の国家公務員を知らなかったので、そういう交流を非常に求めていたし、それをすごく期待していました。ところが、秋元さんの問題で、かなり大きな転換の役割を果たしたのが、和泉さんでした。すごく多くの経験をされてきたことに裏付けられ、非常に考えが広い人でした。同時に、いろいろな知識や体験を持っていたので、和泉さんが傍にいると安心できました。そういう意味では、和泉さんがいると、私たちも大きな視点でいられる感じがして、安心していた記憶があります。

重田 その当時の新井さんはどんな状態だったのですか。

新井 やはり、自分自身も少し視力低下していました。私は80年代からずっと弱視の方の相談をしていましたが、自分の問題はなかなか提起できませんでしたから、同じ職種である国家公務員の情報交換には期待をしていたのです。ですから、私の意識の中では、和泉さんの登場により、中途視覚障害者全体の方向づけが非常に大きくなされた気がします。

重田 和泉さんが起爆剤となって脚光を浴びたというのか、視覚障害者の就労問題に関しての世間の注目を浴びたという感じでしょうか。ここまでの話で、和泉さんがかなりすごい人だということが、私にも少しわかってきました。工藤さん、和泉さんがタートルの会長になるまでは、どういう感じだったのでしょうか。

工藤 秋元さんの相談があったのが92年で、タートルのできたのが95年6月ですから、その3年間は秋元さんを中心にしながら、いろいろな職場復帰の相談も行っていたと思います。そして、秋元さんの職場復帰がはずみとなり、公務員かどうかを問わず、四谷のセンターには多くの電話が掛かるようになって、「なにか会を立ち上げよう」という話になりました。
それで、どういう会則にするか、誰が会長になるかなど、話し合いました。年の功から言っても「下堂薗さんが良い」という話になりましたが、首の皮一枚で繋がっているような現役公務員でしたので、簡単ではありません。下堂薗さんは弱視者問題研究会の会報などに、実名を伏せて、「のろま堂」という名前で執筆していた具合で、「オレも、今はちょっとなあ」ということでした。それで、和泉さんに「先生、お願いできますか」と言ったら、「橋渡しをするまでの間ならいいよ」ということで、本当に気さくに受けてくれ、みんなほっとしたことを覚えています。

重田 昔は、今以上に風当たりが強かったですからね。なかなか矢面に立って会長をするというのは、やはり抵抗が大きかったのでしょうね。和泉さんは会長を5年間ほどされて、それから、下堂薗さんになったわけですね。

工藤 和泉さんは、本当は目立つのがイヤな人ですが、一度引き受けると腹が据わってくるのですね。先ほど、新井さんが言っていたように、本当に方向性などを明確に出してくれるし、徹底した現場主義で、徹底して障害者に寄り添い、来るものは拒まずという感じでした。

新井 当時は、四谷のセンターで相談会を始終やっていたのを思い出します。

重田 それは、どんな方が多かったのですか。公務員に関係なくいろいろな人が来たとか。

工藤 学校の教員もいたし、大手旅行会社の人もいたし。

松坂 あとは印刷会社の人も、デザイナーもいましたね。

工藤 生命保険会社の人もいました。

松坂 それから、ガス会社。

工藤 そうですね。

重田 私もその一人だったかもしれませんね。やはり、毎日新聞記事が大臣を動かし、厚生労働省が大騒ぎになったからでしょうか。世間全体には窮地に立って埋もれている方が大勢いたと思いますから、タートルが有名になることで、そちらに皆さんが集まって来た感じでしょうか。新井さん、どうですか。

新井 大きいことではないのですが、和泉さんに障害年金の件でお世話になった人が何人もいます。それは、何か大きなものをやりましたということではありませんが、本当にそういう意味でお世話になった方が多いですね。

重田 では、支援の好事例というのでしょうか、郡さんの支援にまつわるエピソードがあると伺いましたが、その辺り、工藤さんどうですか。

工藤 そうですね。郡さんは情報・通信会社の方でしたが、年末に解雇をちらつかされている状況でしたから、日本労働弁護団や、無料でやってくれる民主的な法律家を探して連絡を取り、江東区にある法律事務所に相談しました。法律事務所での話が終わったあとに、一杯飲みながらという感じでしたが、和泉さんと一緒に江東区役所の労働組合の会議室で、江東区労働組合総連合と打ち合わせをしたこともあります。郡さんの職場復帰が実現できた時には、「郡さんの復職を祝い、仲間を励ます集い」(98年10月21日、ビアステーション両国、大雨の悪天候にもかかわらず43名参加)で盛大にお祝いをしました。

【当時の会報 タートルから一部、抜粋】
タートル1998年12月15日号より
郡さんの復職を祝う会を終えて
当会の会員である郡さんは、10月16日、元の会社に復職されました。
これは、何よりも本人の並々ならぬ努力と、仲間の支援と、会社の理解があったからこそ実現したものです。
そこで、10月21日、東京両国駅前の「ビアステーション両国」において、「郡さんの職場復帰を祝い、仲間を励ます集い」が行われました。平日夜の大雨の悪天候にも拘わらず、43人の参加がありました。
当日は、内山幹事の司会進行のもと、和泉会長の開会の挨拶、篠島事務局長の乾杯の挨拶に続き、来賓として出席された日本盲人職能開発センターの光岡法之所長、東京東部法律事務所の大森浩一弁護士、江東区労働組合総連合の田村勲事務局長、日本労働者協同組合連合会の鍛谷宗孝専務理事の各氏から、それぞれお祝いの挨拶をいただきました。
また、全国視覚障害者雇用促進連絡会の竹下義樹会長からの祝電、福島県安達町の久保賢さんからのメッセージが披露され、大阪からお祝いにかけつけた二見徳雄さんからは、「二見裁判」の近況報告がありました。
そして、私が、相談を受けて以来の経過報告をした後、参加者一人ひとりから郡さんに対して、心のこもったユーモア溢れた励ましの言葉が送られました。
しばらく歓談の後、郡さんから、これまでの経過を振り返りつつ、今後への決意と、これまで支援してくれた方々に対する感謝が述べられ、最後に、下堂薗副会長の閉会の言葉で締めくくられました。
この時、私は2年前の郡さんの発言を思い出していました。
「障害者として雇用されながら、こういう形で解雇されようとしていることが残念でならない。他の障害者のためにも何としても実績は残したい。そのためにも、復職して仕事を続けたい。今なら、訓練を受ければ、それなりの仕事はできると思う。今後のためにも、リハビリだけでも権利として保障させたい。会社は嫌いではないし、会社には多くの仲間もいる…」と。
今、全国にはどれだけの中途視覚障害者が悩み、退職を余儀なくされているだろうか。
そういう意味で、郡さんは今、多くの中途視覚障害者の頂点に立ち、全国の仲間を励まし、牽引者となって頑張っていかなければならない立場に立たされました。
とはいえ、やっと復職できたばかりで、まさにこれからの職場定着が大きな課題だというのに…。これは郡さんだけの課題ではなく、実は私たちの多くが現実に抱えていることでもあるのです。また、今なお、「見えないと何もできないのでは?」という偏見が、私たちの復職を現実に阻んでいます。
今後、タートルの会として何をすべきか、改めて考えさせられた次第です。(工藤正一)

※会報はここまで
重田 やはり、郡さんの場合は、難しいケースだったのでしょうか。弁護士さんが入ってようやくという感じですか。

松坂 そうだと思います。12月末に解雇ということで、解雇が撤回されたのは一日前でした。

重田 ギリギリだったのですね。それは、確かにお祝いですね。

工藤 そうでしたね。他にも、本当にたくさん相談がありました。タートルができた直後、徳島の小学校の先生、重田さんもご存じですよね。

重田 はい、知っています。

工藤 笠井先生は徳島の野尻さんの紹介で所沢の病院(国立身体障害者リハビリテーションセンター病院)で和泉さんにお会いし、四谷のセンターを見学し、篠島先生にも会われました。そのことが、「職場復帰して頑張ろう」というきっかけになったのだと思います。

重田 何か、すごく熱気を感じますね。活動自体も華々しいし、皆さんが自分のことのように、すごく力を入れて頑張っていたのだと思います。上手くいった時には、皆で飲みに行ったということですね。新井さんはどうですか。和泉さんはどんな感じでしたか。

新井 当時は計画を立てていろいろ行うというより、時代的な背景もあったのではないかと思います。やはり、このままでは雇い止めになるというケースが結構あったということでしょうか。ただ、それに関わるとなると、当時はオンラインなどないですから、皆が四谷のセンターに集まることになりました。やはり、和泉さんは非常に精力的で、本人との話の場を何よりも大事にしていました。だから、何度もここに集まったという記憶がありますね。

重田 相手を元気づけながら、親身になっていろいろやってくれたのでしょう。明るい性格と行動力と、そして人脈もすごそうですしね。

工藤 私が忘れられないのは、和泉さんが「オレ、熊本まで行ってくるよ」と言ったことです。当時、熊本県の外郭団体の商工会連合会に職場復帰を目指して訓練していた甲斐さんという人がいました。眼科の髙橋 広先生が間に入ってくれて、職場復帰は認められたものの、「決められた期日までに、所定の能力発揮が確認できなければ辞めます」という念書を書かされたのです。
その時には、さすがに弁護士にも相談しました。弁護士もこれはひどいと。しかし、弁護士には頼らず本人が頑張りました。やはり大切なのは仲間内の励ましと信頼です。職場でもそう簡単にクビを切るわけはないだろうという楽観的な部分もありましたが、やはり一度復職さえすれば、そこは10年、20年と働いてきた職場ですから、周りの人も何とかしてあげようと支えてくれるのです。それに応えて、本人も頑張ったということですね。最終的には見えなくなって職場復帰を果たした彼自身が、人事・総務関係の最高責任者となって、皆が働きやすい職場作りをしましたね。

重田 やはり本人が苦労した分だけ、皆さんも配慮ができたり、優しくなったりするのでしょうね。

工藤 そうだと思います。その時も和泉さんは熊本まで行って、その人やその人の先輩や後輩と一緒に飲みながら、職場復帰を働きかけていました。また、和泉さんは当時の県知事とも知らない仲ではないようでしたので、そういう意味で「怖いもの知らず」でした。

重田 和泉さんが、熊本県知事のことを知っていたわけですね。すごいですね。そういう形でタートルが立ち上がり、相談する人も大勢集まったのですね。スタッフも立ち上がったばかりで社会情勢も厳しい中でしたが、やりがいもあるし、成果も少しずつ上がってきた状況だったのではないでしょうか。これまで、公務員が中心のタートルに、少し新風が入ったということですが、松坂さんは民間の代表として、その頃タートルに加わったと聞きました。その辺りのお話をお願いできますか。

松坂 私は、96年の1回目の総会の時から関わりました。以前は国家公務員が多かったのですが、今後は民間の相談も多くなるということで、私以下3人、つまり私と北神さんと阿部さんが幹事に加わりました。体制を整えるために、推薦されたという形です。
それまで、私はタートルには1回しか参加していないのです。幹事会の時に来て、幹事の皆さんのいる前で30分以上独壇場で話をしました。「何もやってくれないハローワーク」といった話をしただけなのです。
そういった関係でしたが、私は視覚障害になって、初めてこういう会と接触をしました。何も知らない私でしたが、関わっていくことで、多くのことを勉強できるようでしたから、私も勉強をするつもりで幹事になりました。その頃の会長に和泉 森太さんがいたのです。
先ほども労働組合の話が出ていましたが、私が記憶しているのは、福島の人の支援です。和泉さんから「松坂君、一緒に行こう」と言われて、パソコンをかついで福島県二本松市の岳温泉で開催された労働組合の団結集会に初めて参加しましたが、飲み会の宴会場の垂れ幕にスローガンが書かれてありました。視覚障害となった久保さんの支援をしていこうと集まった会でした。私は、「このようにパソコンを使えば文字書きもできる」ということを実演したことが、非常に記憶に残っています。

重田 松坂さんが実演した時、雰囲気はどうでしたか。

松坂 「おぉー」という歓声が上がりました。Windows95の時代ですよね。

重田 95Readerは懐かしいですね。福島の人たちもそういう状況を初めて見て、「こんな働き方があるのだ」と、きっと思ったのでしょうね。

松坂 民間企業では、印刷会社で写真を撮っていた人がイジメに遭って、上司から「お前なんかクビだ」と言われた。でも、和泉さんから「頑張れば何とかなるよ」と励ましてもらっていたら、視覚障害者より上司が先に飛ばされたそうです。視覚障害の人は商品をカメラで写す仕事をしていたのですが、同じ仕事はできなくても、定年まで頑張りました。

重田 それはすごいですね。

松坂 その人も同じ和泉さんという人でしたが、当時は和泉さんの息子さんもメーリングリストに出ていたので、和泉 森太さんは(和泉親)と名乗っていました。

重田 息子さんにも、ずいぶんメーリングリストの管理をやってもらいましたね。さて、少し時代は下がるかもしれませんが、松尾さんが初めて和泉さんに会った時の印象はどうでしたか。

松尾 時系列も年代も忘れてしまいましたが、視覚障害になって国リハで訓練を受けたいと思い書類を送ったところ、当時ソーシャルワーカーをしていた和泉先生が「話をしましょう」ということになりました。お会いして最初に言われたのが、お手紙をもらったけれど、切手が貼っていなかったと。どうやら母が貼り忘れたようですが、よく届いたものだと、すごく嫌味っぽく言われました。ですから、最初は感じの悪い人だなと、ちょっと思いました。でも、話を親身に聞いてくれました。

重田 最初はあまり良い印象ではなかったのですね。

松尾 何だか声も低くて渋いし、「大丈夫なのかな」と思いました。本当に親身になってもらえるのかしらと最初は心配でした。

重田 実は、私も95年頃に会っているのですが、最初の印象は怖い方だなと。どういう方なのか全然知りませんでしたが、工藤さんや篠島先生、新井さん、下堂薗さんといった、そうそうたるメンバーの中央に座っていて、何かオーラがあるのです。でも、実際に話してみると、すごく優しくて面倒見が良いのです。
では、吉泉さんが来ていると思いますが、吉泉さんからも、和泉さんとの出会いをお聞かせ願えますか。

吉泉 今までの皆さんのお話にあまり付け加えることはないですが、私の関係で言うと、先ほど息子さんの話が出ていましたよね。和泉会長の時でしたが、タートルでもメーリングリストを始めようという話になりました。ただ、和泉さん自身はあまり得意ではなかったようです。私がメーリングリストの話をすると、何かイジメを受けているみたいだと言うのです。でも、そういうことも大事だろうなということはきちんと理解してくれて、メーリングリストの立ち上げと管理に関しては、息子の徹彦さんに話をしてくれて、滝口さんと私の3名で行いました。徹彦さんにはいろいろと技術的にも教えてもらいましたし、書き込みもしてもらい、ホームページの立ち上げにもご協力いただきました。
また、昭和40年代に、横浜税関で失明して復職した馬渡藤雄さんをバックアップした記録、『職場に光をかかげて:失明した労働者が職場に戻る日』(1981年、中村紀久雄著)を和泉さんがデータ化してくれて、タートルのホームページに載せました。そういった地味な仕事もしてもらいました。

工藤 データ化するに当たり、その本を書かれた中村さんのご家族と連絡をとり、許諾してもらいました。

吉泉 それから、本筋とは違いますが、とてもざっくばらんで、ユーモアのある人でした。旅行にも一緒に行きましたが、「川越に芋アイスを食べに行く会」というのを行いました。厚生省には中途失明の田中さんという人もいましたが、和泉さんは田中さんをとてもよくご存じで、サポートもしていました。その頃、田中さんは川越にいたので、芋アイスを食べに行こうということになったのだと思います。

重田 面白いですね。顔も広いし、いろいろな人脈もあるし、大物なのにアイスを食べに行くとか。所沢の利用者たちに人気があったのは、やはりそういうところがあったからかもしれませんね。

吉泉 あと、とても印象に残っているのが『中途失明~それでも朝はくる~』(1997年12月9日発行)という本を出した時のことです。「まほろば」という出版社ですが、和泉さんが声をかけていろいろと頼んでくれました。最初の出版でしたから、皆さんも次から次へと意見が出てきます。
きっと、和泉さんには自分の考えもあったでしょうし、「こういう方針で」という考えもあったと思います。でも、話し合いの時になると、「こうやるべきだ」という自分の意見はほとんど言わずに、他の人の話を本当によく聞いていた印象があります。それで、いろいろと揉めはしましたが、何とか本を出せることになりました。四谷のセンターで何度も何度も会議をしましたが、和泉さんの懐の広さを感じましたね。

工藤 まほろばの社長は、和泉さんと私の共通の知人でしたが、問題は資金をどう工面するかでした。実は、和泉さんが共済組合から借金して全部自分で立て替えてくれました。奥さんには内緒で借りたのかもしれません。和泉さんは本当にそんな人なのです。

重田 そこまで親身になってやってくれるのは、私たちにとってはありがたいことです。その当時の本ということで、改めて読んでみたい気もします。
後半は、函館関係からになりますが、オンライン会場からも聞いてみたいと思います。福岡の藤田さんはいますか。

藤田 会話という会話は特になかったのですが、皆さんが言われているように、私も威圧感を感じましたね。「この人はただ者ではないな」という感じです。私は若輩者でしたし、30代前半でしたから、「自分が話しかけてもいいのかな」という感じはありました。気が合っただけに、訓練施設で出会っていれば、和泉さんともっと気軽に話せたのかもしれません。

重田 東京ならきっとどこかに飲みに行ったりしたのでしょうが、そういう機会はなかなか無いですからね。ありがとうございました。
長岡保さんはいらっしゃいますか。和泉さんのエピソードなりを、是非お聞かせ願えればと思います。よろしいでしょうか。

長岡 私もそんなに関わりはなかったのですが、四谷の集まりの時には「あれ、この人は何だろうな」という印象を持ちましたね。周囲は視覚障害者ばかりなのに、晴眼者でどっかりと座っていて。でも、話をすると優しいのです。そして、アドバイスのようなことを、ぼそぼそっとさりげなく言うのです。そんな人でしたね。そのうちに函館に行ってしまって、なかなか会う機会がなくて、たまに戻って来られるとタートルの会にも顔を出してくれました。そういう時に、よく声をかけてくれました。そういう優しさのある方だと、私はずっと思っていました。定年になって函館から帰って来られた時に、「ちょっと体調が悪いんだ」と言って、以前のような元気がなかった思い出があります。

重田 ありがとうございました。それでは、和泉さんが函館に行った時のエピソードを聞きたいと思います。松坂さん、函館の話ですが、和泉さんの最後の任地は、函館の視力障害センターだったでしょうか。その辺りをお願いしてもいいですか。

松坂 私が60歳の時に函館で自立訓練を受けましたが、その時に和泉さんは既に退職していました。でも、私の身元引受人のような形で一緒にセンターに行って、皆さんに紹介してくれました。また、センターではお酒を飲みに行くところが「梁川」と決まっていました。私も、自立訓練で五稜郭の向こうまで何度か歩いて行きましたが、そのお店は五稜郭から少し入ったところにありました。行きだけは歩行訓練をしましたが、ここで和泉さんと飲んで、帰りはタクシーで帰るから、帰りの歩行訓練はしませんでした。和泉さんは元々お酒が強くて、浦霞のお酒をよく飲みました。先ほどコーヒーが好きだったという話が出ましたが、和泉さんと私は、コーヒーを飲むのが好きということと、たばこが好きということが共通していました。

重田 男のつき合いですね。たばことコーヒーと酒ということで。

新井 タートルの函館交流会をしましたよね。

重田 では、その話を新井さんからお伺いしたいのですが。

新井 和泉さんが函館に転勤した関係で、タートルの交流会を函館で開催しました。大勢で函館に行って、センターでコーヒーをご馳走になったり、行きつけのお店に行ったりした記憶があります。皆で一緒に行ってお世話になりました。

松坂 温泉も行きましたね。皆で銭湯に行って。

重田 やはり和泉さんにとっても、タートルのメンバーが東京から函館に行くのは、嬉しいことだったのでしょうか。工藤さんは何か函館辺りのことで、知っていることはありますか。

工藤 今、話に出た函館の「梁川」という行きつけの店ですが、センターの皆さんもよく行くところで、タートル交流会の時に、二次会でそこに集まりました。皆が帰ってしまって、私と妻だけが残り、店主ご夫妻と4人だけになりました。よもやま話から、私の妻と親戚同士であることがわかり、あまりの偶然にびっくりしました。今はそのお店はたたんでしまったようです。

重田 函館と言えば松尾さんですね。函館で再び会うことになったと思いますが、当時のお話はどうですか。

松尾 実は森太先生が函館で勤務になった時に「面白い先生がいて、こんなことをしているよ」という紹介がメーリングリストで流れたので、それに私が飛びつきました。「私のような人でも、訓練してもらえそうですか」と聞くと、山田 信也先生が間に立って繋いでくれました。
それがきっかけで、函館には年に2回、3回と行くようになりました。その時も、いつも空港まで和泉先生が迎えに来てくれました。でも、先生は車を運転しないから職員を使って車で迎えに来てくれました。そして、すぐどこかにご飯を食べに連れて行ってくれました。そんなことがありましたね。
 あとは、訓練以外のことですが、楽器の弾き方が下手で、私が顎関節症になってしまって、アゴが開かなくなったことがありました。和泉先生はご自身で料理もされ、「つらいでしょう」と、私のためにサンドイッチ用の薄いパンを使って、私に噛みやすいようなサンドイッチを作ってくれました。そんなエピソードもあります。
また、楽器に関しては、先生のお父様はチェリストでしたから、和泉先生はお父様のチェロをお持ちでした。「梁川」にチェロを持ってきていて、「たまに弾くんだ」と言いながら、少し音を鳴らしていたことを覚えています。
そして、私は函館で訓練を受けるようになってから知ったのだと思いますが、先生の良いお声について、聞いたことのある人もいるのではないでしょうか。先生の従兄弟は細野晴臣さんなのですね。タイタニック号で生き残られた方の末裔ということですね。そういう話をしてくださったのも訓練中でしたか。「今度、タイタニックの記念式典に招待されたから、行ってくるんだ」というお話もしてくれました。
函館で私は和泉先生から点字を教わりました。「私はそんなに読めません」と言いながら教えてくれたのですが、訓練の時には必ずコーヒーを出してくれました。一緒に訓練を受けたメンバーで、「和泉先生のおかげでコーヒーが飲めるようになった」と話してくれた人もいましたし、先生が入れてくれたコーヒーは、何と言うか本当に忘れられない味というのでしょうか。とてもいい思い出だと思っています。
やはり、私も年金のことではすごくお世話になったし、低い声で淡々と話されるのですが、すごく親身になってくれたことを、今でも思い出します。何だか話しながら涙が出てきてしまいました。

重田 本当に優しい方なのですね。

松尾 お酒も強かったけれど、飲んでいる席ではよく寝ていましたね。「先生」と声をかけても、全然反応しなくなってしまいますね。

重田 豪傑なのですね。子どもの時には兄弟で劇団に入っていたので、大阪弁とか関西弁は覚えなかったと聞きましたね。劇団は標準語ですからね。生い立ちから見ても、なかなか多彩な方ですよね。

松尾 本当に、自分のことはさておいても、視覚障害者のためにいろいろ動き回ってくれたのだと改めて思います。

重田 そういう形で、函館で何年間かお仕事をされて、退職され、しかしその後はすぐに帰らずに、大きな事業を起こしたということですね。松坂さん、どんなことに取り組まれたのでしょうか。

松坂 地元の視覚障害者たちから視覚障害者の住めるアパートが無いという話を聞いて、視覚障害者と聴覚障害者のアパート「はこだての家 日吉」を作りました。私も、実際に何泊か泊まりにいったことがあります。3階建てですが、エレベーターがあります。

松尾 私も泊めていただきました。一度、和泉先生に声をかけてもらい、「はこだての家 日吉」で演奏をさせてもらったことがあります。

重田 私は見学だけでしたが、設備がすごいですね。いろいろと考えられて創った建物なのだと思います。施設を立ち上げるのは大変だったでしょうね。何億というお金が動きますしね。もちろん補助金も貰いながらだったのでしょうが、仲間集めも資金集めもさぞかし大変だったと思います。

松尾 資金繰りが大変だということは、よく言っていましたよね。

田中 よろしいでしょうか。田中と申します。

重田 田中章治さんですね。何かご存じですか。

田中 まず、私の自己紹介的な話をさせてもらいますが、私は昔、函館視力障害センターに2年間勤めていました。日吉という場所は職員の官舎があるところなのです。そこに実際に建てられたわけですが、正式には「はこだての家 日吉」と言っています。立ち上げに関してですが、先ほどお話があったように、本当に視覚障害者に役立つためにということでした。週一回ほどのペースで集まって、計画を作り上げるまでは、本当に努力をされていました。もちろんメンバーは何人かいましたが、皆で「こうすべきだ」「ああすべきだ」と話し合い、視覚障害者にとって住みよい賄いつきのアパートを作ろうということで、NPOの立ち上げ時から和泉さんがその中心になって活動をされたと聞いています。

重田 和泉さんがいなかったら、多分できないでしょうね。

田中 では本題に入りますが、私たち視覚障害者にとって、特に視覚障害者が高齢になった時には、こういう施設があると本当にありがたいわけです。だから、視覚障害者の高齢問題に対しては、一石を投じたものになると思います。私が所属する東視協(東京視覚障害者協会)の高齢者委員会で、是非和泉さんに「はこだての家 日吉」の話をしてもらおうと、2021年の10月24日に、「はこだての家」の問題に絞って、和泉さんに講演をしてもらいました。ご病気だという話も聞いていたので「どうなのかな」と思いましたが、講演を楽しみにしていました。当日の朝になって奥様から「今日は行けないかもしれない」という連絡を貰いました。「どうかな」と思いながら半信半疑でお待ちしたところ、きちんと時間直前に現れ、非常に内容のある講演をしてくれました。ご病気ということで、少し迫力は足りないと思いましたが、内容がとにかく素晴らしかったです。本当に勉強になりました。そんなことがありましたので、ちょっとお話をしてみました。

重田 いい話が聞けました。ありがとうございます。私も立ち上げたところをホームページか何かで拝見しました。特に北海道では、函館市などで歳をとってしまうと、視覚障害者はかなり遠隔地の老人ホームに行かなければならなくて、住み慣れた地元から離れてしまうということでした。歳をとってから住む場所が遠隔地になるのは、厳しいことです。そこで、「地元の人が地元に居られるような家を作っておかないといけない」ということが書いてありました。やはり、そういう気持ちが大事ですし、和泉先生は優しい人なのだなと思いました。

田中 そのとおりですね。

重田 話を聞かれた方も感じたと思いますが、いろいろな会議の結果として、「はこだての家」ができたのだと思います。この建物は障害者のために、非常によくできているのです。ですから、函館山の夜景も良いかもしれませんが、特に視覚障害のある人は、是非「はこだての家 日吉」の見学に行かれたら良いのではないかと思います。田中さん、どうもありがとうございました。
そろそろ「まとめ」に入っていきたいと思います。皆さんの方で、何か話したい方はいらっしゃいますか。
では、嶋垣謹哉さん、よろしくお願いします。

嶋垣 本当に惜しい人が亡くなって、私もすごくショックを受けました。一言で言うと、今は和泉さんのような人も少しずつ増えてきましたが、30年ほど前に差別的なことを絶対にしないという人は、本当にいなかったのだと思います。和泉さんから言われたことで、私の印象に残っていることが2つあります。1つは先ほどから話に出ている函館の「梁川」で、和泉さんが私に言ったことです。それは「何故、目が不自由になったら会社を辞めなくてはならないのか」と何度も繰り返して言ったことです。言われてみればそのとおりの話ですが、視覚障害になった人自身も「目が不自由になったら、こういう仕事は続けられない」と思う気持ちを、私も含めどこかに持っていることが当時は多かったと思うし、それが一般的だったような気がします。

重田 ある意味で、今でもそうではないのでしょうか。

嶋垣 ただ、和泉さん自身は、別に目が不自由ではないですよね。そういう人から言われたということは、私の考え方にものすごくインパクトを与えたわけです。そして、もう1つですが、和泉さんは不条理に対し、すごく真っ当に立ち向かう人だったということです。2つ目は具体名に近いのですがある患者団体があって、私はその役員をしていましたが、和泉さんから「医者にペコペコしているような団体なんて、存在価値なんかないよ」と言われたのです。それも本当にすごく心に残りました。
そういう気持ちを皆どこかに持っていますが、それをストレートに言える人は、当時もあまりいませんでした。だから、この人には本当に差別というものが全く感覚の中に無いということや、不条理なことに対してはどこまでも闘うということを、すごく感じたのです。今でもそのことが強く残っています。果たして今はどうかというと、和泉さんが言っていた2つのことに関しては、正直に言うと世の中がまだ変わっていないような気がします。
タートルに参加されている方には、今でもいろいろな形でご苦労されながら仕事をしている人が多いと思います。例えば、雰囲気としては表面上では「差別が無い」といろいろ言いますが、具体的になると「禁止ではなく解消」とか、「機会増進」など、よくわからない世界ですよね。もし和泉さんがお元気でいたら、「ふざけるんじゃない」という思いが人一倍強いのではないかと思います。やはり、そういう姿勢を、とにかくこれからは見習っていく必要があるのではないかと思いました。

重田 同感ですね。いいお話を聞かせてもらいました。チコちゃんの問答みたいですね。「視覚障害者で働くのはどうしていけないの?」と言われて、「ええっ」と言って、ジャジャーンと音楽が鳴りそうです。当たり前のことでありながら、実際に現実の社会ではそれが行われないということを確かに感じますね。ありがとうございます。他に誰かいらっしゃいますか。

佐藤 大田区の佐藤正純です。私も和泉さんには本当にお世話になって、いろいろと言っていただきました。とにかく今お話があったように、絶対にあきらめないということを言われたのです。だから、こんな身体になっても、とにかくやることは必ずあるはずだから「頑張れ、頑張れ」と言ってくれて、それを糧にして私も頑張ってきました。「この大学では、目の見えない講師の先生を配した前例がありません」と言われて、「オレが前例を作るぞ」と思って頑張りました。それは和泉さんに言われたことが私の頭の中にあるからです。「前例がないのなら、オレが前例を作るぞ」と今言えるのは、24年前に和泉さんが言ってくれたからです。それで、現在の私があると思っています。

重田 素晴らしいですね。ありがとうございます。私もずっと教員をしてきましたが、「目の悪い教員は前例がない」ということと、「目の悪い教員は一人前には働けない」という2つを必ず言われました。今も、全盲の人たちが100人ほど普通の高校や中学校で英語や数学を教えていますが、今でもやはり壁があるのです。「前例がない」とか、「一人前に働けるのか」ということを言われると、胸に結構ズシンと来ます。でも、和泉さんのような人が傍にいてくれたら、そういう言葉も跳ね返せそうな気がしますね。タートルの中でも、そういう役割を果たせる人を作っていかないといけない気はしますね。ありがとうございます。他に、いらっしゃいますか。中村さん、どうぞ。

中村 台東区の中村照彦です。私が所沢の国リハにいた頃、和泉先生は宿直の時よく来られ、一緒に話をしました。視覚障害者のためのいろいろな事業の話を聞いたことが、私のその後のきっかけになりました。函館のような「視覚障害者のためのものを考えている」という話も聞きました。ちょうどその頃、私は国リハの学友会長をしていたので、その時に初めて視覚障害者のためにそういうことをすべきだと思いました。
それで、卒業してから3年ほど修業をして、国リハでは教えないようなマッサージや鍼きゅうの事業をしようと思いました。私自身にはそういう技術がなかったので、いろいろなところから先生を集めて、高田馬場でスクールを作りました。そんなこともしましたが、今は20名の視覚障害者とともに、間違いのないような事業を行っています。いずれにしても、きっかけは、「視覚障害者のために何かをしなければいけない」という和泉先生の言葉で、それがずっと頭に残っていました。私がいまあるのは和泉さんの話があったからで、それが自分の考えのもとを作ってくれた感じがしています。私には和泉さんとそれ以上の付き合いはありませんが、タートルの私学会館の集いに参加し、その時からの付き合いです。そんな思い出がありましたので、ちょっとお話をいたしました。

重田 どうもありがとうございました。そろそろ時間ですが、最後に、発足時の人から、「和泉さんのこんなところを学んでほしい」とまとめていただけたらと思います。では、最初に工藤さんからお願いできますか。

工藤 和泉さんは公務員らしからぬ公務員でしたが、ある意味では本当に公務員らしい公務員でもありました。自分を雇っているのは国民だという感覚なのです。私は同じ公務員ということで、わからないことを、和泉さんに調べてもらったりしました。私が今あるのは、本当に和泉さんのおかげですし、特に年金に関しては耳学問でかなり勉強をさせてもらいました。それから、「はこだての家」についてですが、厚労省からの助成金ではなく、国交省から助成金を引き出したそうです。厚労省なら福祉という色合いが強くなりますので、それをしたくなかったと話していました。それだけに引き継いでくれる人がきちんと育たなければ、函館を離れられなかったのではないでしょうか。私も、和泉さんの「困った人は見捨てない」という精神を引き継いでいきたいと思っています。

重田 工藤さんにそれだけ言わせるというのは、やはり相当な人ですね。神様のような、スーパーマンのような、それでいて隣にいるオジさんのような感じもあって、やはり惜しい人でした。新井さん、いかがですか。

新井 先ほど、和泉さんがいると安心感があるという話をしましたが、その安心感は一体何かと言うと、「見えなくても働き続けることが一番大事だ」という辺りを、ブレずに強く持っていたことです。「見えなくても働き続けよう」ということがタートルの一番大事なことで、和泉さんがドンと構えていてくれたことが、私たちの安心につながっていたのだと思います。これは基本的なことですが、すごく大事だと思います。

重田 是非、新井さんにもドンと構えてもらって、皆さんの光になって導いていただけたらと思います。では、三代目会長の松坂さん、和泉さんの遺産はどんなところになりますか。

松坂 和泉さんの歳を改めて知りましたが、3つしか離れていないのです。自分にも3年後にまだできるかという問いはありますが、和泉さんは仲間を集めて結集し、いろいろなことをやっていました。目立たないが、皆から慕われるというような感じでした。派手でなくても、皆のために確実に一歩ずつやっていくことを忘れずに、これから取り組んでいきたいと思います。誰でも視覚障害になると、「一人」とか「私だけ」という気持ちになってしまいますが、仲間がいることを改めて感じました。偉大なる指導者を失ったことは残念で仕方ないですが、篠島さん、和泉さんに対して恥ずかしくないように、これから生きていきたいと思います。皆さんの協力をお願いいたします。

重田 ありがとうございました。こういう人材は、なかなか出て来ないのだと思います。見習いたい点は本当に数多くありますから、是非見習っていきたいと思います。
では、最後に紅一点ということで、松尾さんからお願いします。

松尾 メーリングリストには(和泉親)と書いてあったので、「和泉シンタ先生のシンは『親』という字だ」とずっと思っていた話を休憩時間にしていました。
発足当時、障害者に対してはまだまだ風当たりが強くて、なかなか普通どおりにその人が生き生きと働けるような状態ではありませんでした。しかも、「健常者」という言い方は、私自身も差別しているようであまり言いたくないですが、そういう状況の下で、見えている方が視覚障害者と一緒になって働きかけてくれたことは、すごいことだと思います。現在のタートルにおいても、健常者の方が大きなサポートをしてくれていますよね。本当にどこの会社でも、どんな世の中でも、それが当たり前になれば良いと思いますし、和泉先生のような関わりが普通になってくれたらなと思います。分け隔てなくという部分では、自分自身も本当に見習っていきたいと思います。

重田 素晴らしいお話でした。日本国民全員が煎じて飲みたいような話です。今日は本当にいいお話をたくさん聞けたので、今後のタートルの力になるのではないかと思います。2時間近く経ちましたが、話は尽きないと思いますし、和泉さんと一緒に活動した人たちがリアルでどこか飲み会に行けば、きっと永遠とお話を続けるのではないかと思います。本当に見習いたい点がたくさんある方だと思いました。和泉さんのような人が身近にいてくれたことは、私にとっても大変有意義な時間というか、宝物だったというか、そういう気がしています。今後は皆さんそれぞれの文章による投稿もいただいて、和泉さんの追悼集というか、思い出集を残していきたいと思います。では、これで「和泉森太さんを偲ぶ会」は終わりにしたいと思います。今日はどうもありがとうございました。

側面から支えてくださった人々

「タートルの会」設立当時の思い出 -和泉森太さんを偲んでー

柴田 優子

白い壁の事務室。灰色の事務机が並んでいる。昔ながらの黒い電話機が2、3台机の上においてある。そこにいるのは、若い職員が一人。
 「タートルの会」の設立の直接のきっかけとなった、公務員の秋元明さん(故人)の職場復帰についてのリポートを「視覚障害者の皆さんへ」(現、NHKラジオ第二放送「視覚障害ナビ・ラジオ」)で放送するために職場を訪問した時の記憶をたどってみた映像です。1994年4月のことでした。当時、私はこの番組のキャスターとして、毎月1回の、「マイク訪問」を担当していました。この事務室の映像が、今でも、鮮明に浮かんできます。
公務員(厚生事務官)で、視力低下のためのリハビリ期間を終えて現職復帰した秋元さんについては、朗報として、番組で詳しく紹介するための訪問でした。この日は、復帰後まだ日も浅く、秋元さんも復帰できた喜びより、戸惑いの方が強かったように見えましたが、将来に向かって頑張りたいと、一生懸命模索しているご様子を番組でお伝え出来たのではないかと思いました。
下堂薗保さん、工藤正一さん他、視覚障害者の公務員の集まりのメンバーの方、また、支援者の立場にあった和泉森太さん達の協力の結果、秋元さんが現職復帰できて、その後1995年6月に「タートルの会」は正式に発足しました。私は、その後、2000年3月までこの番組を担当して、「タートルの会」の活動に関心を持って取材していたと記憶しています。
設立の貢献者である和泉森太さんとも、取材中によくお会いしましたが、視覚障害者の福祉のために強固な意志と熱意をもって取り組むお姿が思い出されます。時には強い態度で、復帰側の職場の方と交渉等をなさったと思いますが、にこにこした表情を絶やさない方で、明るい笑顔が、今でも浮かんできます。又、会の発展を考える時、日本盲人職能開発センターの松井新二郎さん、篠島永一さんの生前の多方面にわたる支援活動も思い出します。現在の「タートルの会」の発展の様子を知る時、視覚障害者当事者のご努力、支援者のご尽力を想い、心が熱くなります。
ラジオ番組担当中にインタビューした方々に視覚障害をどう乗り越えて就業を続けたか等、具体的なお話を聞いた記録をまとめて、「視力は零、でも可能性は無限大」というエッセイにして2002年から2年間発表しました。(メディカ出版月刊誌「眼科ケア」)インタビューした方々からは、「困難を乗り越える力」を私が頂いたと、今も感謝しています。
それ以来、折に触れて、私が様々な場で視覚障害者の実情や雇用問題にどう取り組んでいるか等を紹介すると、聞いた人達が、心に響く話として、「人生に起きる様々な障害を乗り越えて生き抜く勇気」を得る事ができたといっています。「タートルの会」のメーリングリストも導入当初から拝見してきて、長いお付き合いの「タートルの会」の活動がいつまでも、悩み迷える方々を支え続けていくように、応援しています。

和泉森太先生を偲んで

(株)まほろば 代表取締役 竹内 栄治

弊社は出版・印刷業を営む目的で、1994年に創業いたしました。
会社設立して3年を過ぎた頃、先代社長・竹内照夫が旧厚生省に仕事で出入りしていた関係で、「タートルの会」の会長をされておられた和泉先生に声を掛けていただき『中途失明~それでも朝はくる~』の出版のお手伝いをさせていただくこととなりました。私は他業種から、まほろばに転職して3年目。慣れない仕事でかなりとまどった事を覚えております。
和泉先生と初めてお会いしたのは、(社福)日本盲人職能開発センターでした。当時は中途視覚障害者の方の現職復帰をどう実現していくべきか、真剣に悩まれておられました。あれから26年という時が経って、和泉先生の訃報に接し、当時の姿が走馬灯の様に浮かんできます。
正に信念の人でありました。
この心に漂う寂寥感を如何にすべきか…。
慎んでご冥福をお祈りいたします。
合掌

和泉森太先生の思い出

あさひがおか眼科 陳進志(仙台市)

私が和泉森太さんと会ったのは2000年の函館でした。当時和泉森太先生は函館視力障害者センターに勤務されており山田信也先生の同僚でした(視力障害者センターで訓練を担当していた職員は当時利用者から「先生」と呼ばれていましたので以後も先生とします)。
山田信也先生に会って初めてロービジョンケアに触れた私は毎週山田先生の官舎で開かれていた勉強会に参加することになりましたが、そこで出会ったのが和泉森太先生でした。
勉強会では見えにくさの体験や遮光眼鏡作り、教科書の輪読など様々な勉強をしましたが、私の楽しみは勉強会の後の飲み会でした。和泉森太先生も同じだったようで、山田先生が寝てしまった後、二人だけで飲みながら語り合ったことも何度もありました。私も和泉先生もいつも最後は酔っぱらってしまうので、どんな話をしたのかあまり覚えていないのが残念ですが、和泉先生から聞いた印象に残った話は、やはりタートルの会が始まるきっかけになった「事件」です。正確な内容は他の方が書かれると思いますが、霞が関の厚労省本省に勤務されていた時、和泉先生は労働組合の活動に従事されていて、中途失明のため従来の仕事ができなくなった方から「首を切られそうなので助けてほしい」という相談があったそうです。解雇は不当であると考えた和泉先生は、職員と上司の面談の席に組合の人間として同席したのですが、こっそり新聞記者をカーテンの陰に待機させ、話し合いの様子を取材させたそうです。マスコミが関わることで結果的に解雇は食い止められ、障害のため従来の業務ができなくなった職員の雇用継続に向けた取り組みが始まり、その運動がのちにタートルの会(現在のタートル)発足につながったとおっしゃっていました。
困っている人を放っておけない和泉先生の性格が感じられるなと当時は思ったものですが、現在の労働組合や新聞の影響力の低下を思えば隔世の感があります。当時の函館の精神病院の医師・看護師の患者に対する態度にいつも憤慨していたことも、冬場、靴に滑り止めとして鋲を打ってもらいに地元民向けのマーケットである中島廉売の靴屋へ行った話も、弱い立場の人間に寄り添い、庶民の目線で対象を見つめる森太先生らしいエピソードだと思います。私はいつもそんな森太先生が大好きで気持ちよく飲んでいましたが、年下で常識のない医者の僕をどのように思っていたのでしょうか?
私の本棚には、今も先生からもらった、「労災補償 障害認定必携」があります。また、先生が初代理事長になった函館の障害者・高齢者むけのアパート「はこだての家 日吉」には、今後も一会員として関わらせていただきます。本や会報を読むと、森太先生に触れられるような気がします。
困っている人の立場に立って、必要なことは断固として実行する、たくさんの大事なことを教えていただいた和泉先生、本当にありがとうございました。

和泉森太さんの思い出

山田信也

私は現在、国立障害者リハビリテーションセンター自立支援局福岡視力障害センターで働いています。私と和泉先生との最初の出会いは、確か福岡視力障害センターの職員宿舎の建替え問題で、職員の労働組合の支部長をしていた時だと覚えています。当局と硬直状態となり、予算返上も止むなしとの判断をしていた時に、全厚生の中央執行委員としての先生が、やんわりと諌めてくれたことを思い出します。その時だったと思うが、先生と同窓であることを知りました。
平成9年に『中途失明~それでも朝がくる~』で原職復帰を支援した鈴木さんの手記と共に少し文章を書かせてもらった。平成元年からロービジョンケアに取り組み始めた一つの成果でもあったが、これを契機に中途視覚障害者の復職支援に取り組むことになるとは、思いもよらなかった。『中途失明II~陽はまた昇る~』で嶋垣さんの手記の中に名前をのせてもらったことも懐かしい思い出である。
 前後するが、平成11年に函館視力障害センターに配置転換となり、その年の6月から弘前大学病院でロービジョン外来を中沢満教授から要請されて関わらせていただくこととなった。その外来に、森太先生がこの人と思われる方を紹介していただくことにもなった。
函館勤務となってすぐに、地元の視能訓練士や函館盲学校の教諭、センターの職員とロービジョン勉強会を毎週水曜日に私の自宅で行なっていた。そこに、森太先生自らの転勤とともに参加していただくこととなった。勉強会では、ロービジョンケアの基本的な本や様々な論文抄読を行なった後、残れる人で飲み会をしつつ、本心で討論する時間を持った。そこには、いつも和泉先生がおられて、朴訥とした雰囲気で、ご自身で考えられた率直な思いなどを聞かせてもらった。
函館の市電の五稜郭駅の近くに「梁川」という居酒屋があった。そこで、よく森太先生と出くわすことがあった。先生の周りには様々な職種の人がいて、楽しげに杯を傾けられていたことも思い出の一つである。
ロービジョンの人たちと年に数回、函館合宿なるものを企画した際にも、時間の許す限りお付き合いしていただいた。先生は多くを語られなかったが、その姿というか、雰囲気とでも言うのだろうか、どこかホッとするような暖かさが自然に滲み出ていたように思う。
公務員を退職されて、函館の地で第二の人生を歩まれたことも、函館の土地柄にとても心惹かれてのことだったと思う。定年退職したら一度お会いしょうと思っていたものの今回の訃報を聞くこととなった。
私が、ロービジョンケアを真直ぐに取り組めたのも、和泉森太さんと出会ったことの意味は大きかったと思う。亡くなられて出会いを振り返る中でそう感じている。
これから、自分自身も先生のように、褒められもせず、苦にもされず、自らの信念に真直ぐに生きようと思う。出会いは人にはつくれない。だからこそ、出会えたことの意味を問い続けていこうと。
合掌

和泉森太氏との思い出・偲んで

和泉森太さんをしのんで

和泉 一雄

私と森太さんは、同じ名字ですので森太さんとよばせていただきます。
あれは1993年の師走か94年の春ごろだと記憶しております。仕事に限界を感じて、電話帳のタウンページで国立リハビリテーションセンターの番号を調べて電話したところ森太さんが電話に出られて、来週の土曜日に中途失明の会の集まりがあるので来る様に進められたのが始まりでした。
四ツ谷のセンターから程近い喫茶店でいろいろ話を聞いていただき、とにかく会社を辞めずにどうしたら会社に残れるかを考えつつ最後にマッサージを考えても遅くはないし、どちらにしても、これからの道のりは大変だけど仲間がいるから一緒に頑張りましょうと言われました。
あれから23年あまり、タートルと共に勉強させていただき、6年前に定年退職の4文字を勝ち取り、故人となられた四ツ谷のセンター長の篠島先生との約束を果たすことができました。
ほんとうに多くの事がありすぎて、今も思い出したくないことや、乗り越えられそうも無いことも数多くありました。そのとき森太さんには、「泣いてもいいから、へこたれるなよ。まだまだやれるよ。なんとか工夫しなさい」などと言われたり、「この会は『わら』なんだよ、君もわらをもつかむ思い出来たんでしょ。それを『丸太』にするのも『いかだ』にするのも君しだいだよ」と叱咤激励されたこともありました。
今は、のんびりおだやかに暮らしております。森太さんのおかげです。そして会の皆様のおかげで、裕福ではないですが幸福な毎日を過ごしております。森太さんありがとうございました。心より合掌いたします。

和泉森太さんを偲んで

熊本市 甲斐 幸二

和泉さんの突然の訃報を聞き、大変な驚きと深い悲しみを覚えました。まだ現実を受け入れ難いのですが、ここに哀悼の意を表します。
私は、平成13年47才のとき視覚障害に陥り、休職を余儀なくされました。この休職中に、和泉さんと私との共通の知人から紹介を受け、対面したのは熊本の居酒屋でした。そこでは、高い見識と豊富な経験に基づく貴重な話を伺って、一言一句が心に響き奮い立つ勇気を与えてもらいました。
また、和泉さんに感じたのは、官庁の役人然としない在野精神と現場主義に徹し、障害者に寄り添いながら、血の通った仕事をする方だということでした。私の復職については、首の皮一枚つながるとても危うい状況でしたが、熊本県の当局に対して、タートルの会や眼科医の高橋広先生、工藤正一さんは勿論のことですが、和泉さんも強力に後押しいただいたものと思っています。本当に私にとって忘れられない方です。有難うございました。 どうぞ安らかにお眠りください。
これをもって追悼の言葉といたします。

和泉森太さんをしのんで

徳島市 笠井 和代

私が和泉さんに初めてお会いしたのは、1999年11月でした。当時、私は小学校教員でした。見えにくさから眼科を受診したところ、網膜色素変性症と診断され、治療法がなく、やがて失明しますと宣告されました。病気休暇をとり、毎日泣いて暮らしていました。
そんな折、視覚障害教師の会の全国大会が徳島市で開催され、地元紙に掲載されました。それを企画した中村先生は、網膜色素変性症でした。同じ目の病気の人が、教員として活躍されていました。その時、和泉さんが講師として招かれていました。そして、徳島県盲人福祉センターという施設があることがわかり、すぐ訪ねました。
そこの野尻相談員は、「私も同じ網膜色素変性症なのよ」とおっしゃって、私の辛く苦しい思いを聞いてくださいました。胸のつかえがとれ、涙があふれてきました。さらに、野尻さんは、所沢の国立リハビリテーションセンター病院を受診するよう勧めてくれました。また、和泉さんが同病院で相談員をされているから、お会いするようにと仲介もしてくれました。
11月4日、父とともに国リハを訪ね眼科を受診しました。診察後、先生は「教員を続けたい」という私に、「補助機器や訓練や指導法の工夫などにより可能」とアドバイスをしてくれました。また、ルーペや拡大読書器など、さまざまな補助機器にも直接触れさせてくれました。目からうろこの驚きの連続でした。
相談室では、野尻さんから私について話を聞かれていた和泉さんが、すぐにこれからどうしたらいいか具体的にお話くださいました。まずは、身体障害者手帳の交付を申請すること。手帳が交付されたら、盲人福祉センターなどで歩行訓練やパソコン講習が受けられること。拡大読書器などの補助機器の購入も自治体の補助が受けられること等々。
帰り際、和泉さんから、「今夜は、タートルの会の役員会があるから、のぞいてみませんか」と声をかけられました。この何気ない一言が、私とタートルの会を結び付けてくれました。その夜、職能開発センターに集まった人たちは、白杖をついているものの、まるで見えているかのようにさっそうと歩き、テープ起こしの訓練生たちはパソコンを使って仕事をしていました。
「見えなくなって、なにもできなくなった」と思い込んでいた私は衝撃を受けました。さらに、工藤さんや篠島さん、山口先生にも励ましの言葉をいただきました。この日の出会いはずっと後々まで私を支えてくれました。感謝の気持ちでいっぱいです。

和泉森太さんを偲んで

徳島市 野尻 許子

1998年、私は、網膜色素変性症の進行により、定年まであと2年を残して退職しました。障害者手帳の等級は2級でしたが、まだ中心視力が残っていたため、前職の経験から、県立盲人福祉センターの相談員を務めることになりました。タートルを知ったのは、新聞紙上で、『中途失明~それでも朝はくる~』の紹介記事を見たからです。早速、本を取り寄せ、即、入会しました。また、網膜色素変性症協会があることを知り、徳島にも支部が出来ないかと、仲間集めを始めました。何人かのRPの人たちの中に、盲学校の中村先生がおられました。1999年、中村先生が担当され、全国視覚障害教師の会の研修会が徳島で開催され、講師として和泉さんが来られたのです。その時、私は和泉さんにお会いしご挨拶をしました。
ちょうどその頃、小学校の先生の復職相談を受けていました。当時、まだ徳島ではロービジョンケアをしている病院はなく、補助機器の情報も乏しいものでした。そこで、国リハでの受診と適切な補助機器の選定などを和泉さんにお願いしました。その時、和泉さんが、「何より、復帰するんだという強い意志が大切だ」とおっしゃられたのを覚えています。
お陰さまで、小学校の先生は復職を果たし、十数年勤められました。先日の偲ぶ会で、多くの方から和泉さんのエピソードをお聞きし、タートルの礎を築かれた素晴らしい方だったのだと感じ入りました。
和泉さんにいくら感謝しても、感謝し尽くせません。ご冥福をお祈りいたします。

和泉森太さん、ありがとうございました

二本松市 久保  賢

私が和泉さんとお会いしたのは、平成10年1月のことでした。当時、私は旧安達町役場に勤めており、ちょうど平成9年8月に失明のため入院し、平成10年1月に退院したときでした。
入院中にタートルが発刊した中途失明の本がきっかけで、中途失明でも働き続けることができるということがわかり、タートルの事務局に連絡して、その月の会合に参加させていただきました。
和泉さんが当時の会長としてお話していただき、大切なことを教えていただき、また復職のための大きなエネルギーをいただきました。そのとき、まずは組合に相談し、復職にむけての応援体制をとる必要があること、また家族の理解が必要になるなど、復職にむけての心構えや、どういった方法で復職へ持っていくかなど、情報、アドバイスをいただけました。
その後も毎月タートルの会合に参加させていただき、その間に、生活訓練や職業訓練などを受け、平成11年11月に無事復職することができました。これもタートルをはじめ、組合の仲間のお蔭と感謝しております。
現在は、合併した二本松市役所の議会事務局で議事録をおこす業務をしております。ただ、今の業務もAIの発展に伴い、この業務で働き続けるのは困難な状況になりつつあります。私も新たな職域を広げて、働き続けたいと考えております。
今まで働き続けられてこられたのも、和泉さんをはじめ、タートルの皆様、組合の応援、理解してくれた職場など、様々な方のお蔭と思っております。
和泉さん、ほんとうにありがとうございました。

NPOタートル初代会長和泉森太さんの思い出

窪田  進

和泉森太さんの訃報を聞いて驚きました。なぜなら私とは世代が一緒だからです。私は昭和23年2月生まれで、森太さんは昭和22年7月生まれだと思います。ですから現在の平均寿命から見ると、まだまだだと思うからです。平均余命ならあと12年くらいあるからです。
さて、私が森太さんとお会いしたのは私が病院勤めをやめて開業した年だと思います。開業したといっても、すぐに順調というわけにはいきません。ということで、障害年金の受給が受けられないかと思ったのです。山梨県の年金事務所に行って相談したのですが、対象外だと言われたのです。
そのころスパンを知り、パソコンの勉強など考えていた時に、松阪さんと知り合いタートルを紹介されました。そこで、障害年金について、和泉森太 初代タートル会長に相談したところ、あっさりそれは対象になるとのことで、再度、山梨の年金事務所に行きました。
なんと、今度はあっさりと認めてくれました。特に説明をしたわけではありません。ということで、無事に年金を受け取ることができました。そのころのタートルの活動は地方交流会などもあり楽しかったです。私が地方交流会に参加したのは、新潟で行われたときが初めてだと思います。新潟では互いに情報交換をして、いろいろな人と知り合いました。
印象に残っているのは、全盲でありながら市会議員をしている人がいました。盲導犬を連れて参加していました。集まりの後で二人で飲みに出かけました。私も若いころ、電電公社、今のドコモですね。そこにいたことがあり、彼もやはりそこにいたのです。もちろん、場所も部署も違いましたが、同じ会社だったのです。
和泉森太 初代会長は函館に障害者のための施設を開所しました。そこに住んでいたので、友人のNさんと函館経由札幌というコースの時に、はこだての家にお邪魔しました。親切にお世話をしてくれたので、とても快適でした。そのあとNさんと函館の東横インに泊まって函館観光をしたときに、ガイドボランティアを探したのですが見つかりませんでした。それで和泉森太 初代会長が案内してくれることになりました。函館の朝市や奉行所、函館山いろいろ案内してもらいました。
こうしてみると、とても面倒見の良いことを思い出します。ヘビースモーカーでした。お酒も好きでした。淡々としていつも物静かだったと思います。同世代でしたが一目置く存在でした。最近はお会いする機会もなかなかなかったので突然の訃報を聞いてとても残念です。
もっとお話を聞きたかったと思います。

亡き和泉森太さんとの思い出

さいたま市 嶋垣 謹哉

私にとっての和泉森太さんは、タートルの初代会長というよりは国立函館視力障害センターの課長さん、タートルメーリングリストで「函館の和泉です」と登場なさる和泉森太さんでした。
初めて単身で函館をお訪ねした時、馴染みの居酒屋さんで、和泉さんがおっしゃられた言葉がずっと強く印象に残っています。
「目が不自由になったからといって、何で退職しなきゃならないの?」中途で視覚障害者となった当事者の私自身が、本当に働いていけるのだろうか…と、どこか疑問視しているような点を、グサリと射貫くお言葉でした。
和泉さんの歩まれた人生のいつ頃からなのかは、私のような凡人にはわかりませんが、差別と偏見ということへの反発、凄みさえ感じられる姿勢をお持ちの方でした。
おかしなことはおかしい、やるべきことはやらなければならない、一貫して静かなる闘志で、75年のご生涯を歩まれたのだと思います。低いお声と、なぜか響く高笑い、和泉さんのお声は一生忘れません。本当にお世話になりました。ありがとうございました。

森太さんのご冥福をお祈りします

東京都 東郷  進

森太さんはリハセンで、私は盲学校なので仕事の直接のつながりはありませんでしたが、年金相談で助言をもらう間柄でした。私が全視協(全日本視覚障害者協議会)の事務局長をした80年代後半に、目が見える人の目線がほしくて役員を引き受けてもらった事があります。それが個人的付き合いの始まりでした。
役員会が終わると必ず飲みに行き、カラオケも一緒にしました。彼はフランク永井の「こいさんのラブ・コール」をよく歌っていました。
彼が函館市に引っ越してからも、全視協や仕事の出張の折に、声をかけると必ず顔を出してくれました。ある雪の夜も、電話をすると自転車で駆けつけてくれたことがありました。修学旅行で函館を訪れた時に、五稜郭駅近くの飲み屋に生徒を案内して、「安くて旨い」と喜ばれた店がありました。この「梁川」も彼に教えてもらったものでした。
彼は、僕と同じく、はたから見たら、真面目に仕事をするタイプの人ではありませんでしたが、日本酒と芸術・余暇を楽しみ、よく僕たちを楽しませてくれました。全厚生の副委員長をした割には、左翼政党にもクールな見方をしており、自分を見失うことはなかったと思います。心よりご冥福をお祈りします。

和泉森太さんの追悼に寄せて

埼玉県鶴ヶ島市 長岡  保

私は和泉森太さんとは個人的と申しますか1対1で食事したり飲んだりといった付き合いはありませんでした。交流会、総会、相談会など、会としての集まりの時及び終了後の飲み会では、よく皆さんと一緒に同席させていただきました。和泉さんは会の集まりに来られた際は、いつも私に一言声をかけてくれました。(おそらく他の方にもそうだったんだろうなと思います)
函館赴任中の和泉さんの帰省と、タートル交流会がたまたま重なったということで、交流会に顔を出されたことがありました。その折、函館の宿舎が函館駐屯地の近くにあるとのことで、毎朝自衛隊のラッパで起こされているよと話してくれたことを思い出しました。太めの声で、いつもゆったりとした優しい話し方でした。
タートルの会が発足して1年以上過ぎたころ、タートルの交流会を教えていただき、参加させてもらうようになり、何回か参加しているうちに、会長の和泉さんが厚生省の現職の公務員であるということを知り、驚きました。
役人は減点主義で、余計なことには首を突っ込まない、自分に不利になるようなことは引き受けないというのが、一般的風潮だったと思います。私もその類でした。ところが、この人は、出世とか自分の立場が不利になるなどということは全く問題視していない。この人は、「障害を持っていても誰もが働ける世の中にすべきだ」という強い信念を持って、タートルの代表を引き受けたのだろうなと思いました。公務員としては滅多にいない凄い人だなと思いました。
タートルの会発足のきっかけは、当時視覚に障害を持つ現職の公務員7名の話し合いだったと聞いておりました。全員が首の皮1枚で就労ができていたと想像します。おそらく会の代表になって会をけん引し、先頭に立って国や役所、企業などと交渉できる状態の人はおられなかったと思います。そのような中で、よくぞ和泉森太さんというすごい方を見つけて誘い込んだと感心せずにはおられませんでした。
先般5月20日オンラインによる「和泉森太氏を偲ぶ会」に参加し、工藤さんや新井さん、松坂さんの説明を聞いて、改めて和泉森太さんの凄さとご家族様のご理解と支えに頭が下がる思いがしました。
和泉森太さんのご冥福をお祈り申し上げます。

和泉先生を偲んで

西田 朋己

「和泉先生」、私はそのように呼ばせていただいていた。
和泉先生でまず思い出すのは喫煙所のこと。交流会などでは、いつも「行くか…」といった感じで誘っていただいた。厚かましくも誘導してもらい、一服をご一緒させていただいた。函館での交流会では、和泉先生が函館視力障害センターにご在職だったご縁で、皆でセンターを訪問した。その時、和泉先生は、自らコーヒーを入れて皆に振舞われた。上等のコーヒーで、そのよい香りに、和泉先生の愛用のパイプから出る、これもよい香りが混じっていたのが思い出される。
次に思い出すのは、不遜にも以下のような質問をしたこと。「『最大多数の最大幸福』っておかしいですよね。少数派の視覚障害者の幸福はどうなるんですか」という私の疑問への返答は、「マックス・ウェーバーは少数派のことも考えているよ。一度読んでみるといい」というものであった。高校の倫社で習った「マックス・ウェーバー」という名前に気おくれして、和泉先生のご存命中に報告ができなかったことが悔やまれる。
最後にお酒をご一緒させていただいた時には、既に故人になられた方のお名前が出てくる中で、「君はまだ生きているから…」と励ましていただいた。
和泉先生はどのような方だったか。「大きな人」、甚だ抽象的な言葉だが、小人の私にはそれしか思い浮かばない。大河ドラマで坂本龍馬が西郷隆盛を評して、「西郷という男はよくわからん。大きく叩けば大きく鳴る。小さく叩けば小さく鳴る。西郷とは、まったく良き鐘のような男ぜよ。」というのがあった。私にとっての和泉先生は、まさしくそのような人であった。
和泉先生、本当にありがとうございました。

和泉森太さんの訃報を受けて

宮崎県延岡市 二見 徳雄

6月2日朝、久しぶりに、千葉の工藤正一さんから電話をいただき、気候の話をした後、3月に初代タートルの会長をされていた和泉さんが亡くなられたことを知りました。お年も私と同じ75歳とのことでした。心よりお悔やみ申し上げます。
私が45歳で視神経炎という病気になり、会社の薦めもあって、休職制度を利用したものの完治せず、障害者手帳を取得しました。
会社は、完治しなかったのだから復職させることはできないとの立場に固執したため、やむなく関西電力を相手に復職を求める裁判をおこしました。49歳のときでした。
その後に大阪視覚障害者の生活を守る会を知り、日本ライトハウスに通い始め、補助ソフトや拡大読書器の訓練を受けました。
和泉さんとの出会いは1997年6月のタートルの会の総会でしたが、東京まで妻と一緒に、裁判の支援要請に伺いました。和泉さんはじめ多くの方から私に対し励ましをいただき、私の「支援する会」にも入っていただきました。当時のことを思い出すと、和泉さんや皆さんの発言やタートルの会の方針等を聞き、私の経過と比較すると先駆的な運動をされていると強く感じました。
和泉さんは大阪での「支援する会」の総会にも参加してくださいました。裁判は、民事調停法に基づく事実上全面勝訴の形で和解が成立し、53歳で再雇用という形で職場復帰を果たしました。
視力の弱い私が最も困難に感じたのは、情報を得にくいことでしたが、タートルの会から視覚障害者の雇用状況の分かる資料をたくさん送っていただき、弁護士も私も、当時本当に励まされ助かりました。中途障害者にとって不安な現実を救ってくれるのは、相談相手、つまり「会」の存在です。
タートルの会の総会に参加し、私たち夫婦はホテルで1泊し、「寅さん」の柴又を見物して帰ったことを思い出します。和泉さんの訃報を聞いて、20数年前のことを思い出しながら、改めてご冥福をお祈りいたします。

和泉先生を偲んで

札幌市 吉田 重子

私は、先生の本来の功績を理解しているものとは言えない。しかし僭越ながら、北海道に住むものとして、拙文を書かせていただくことをお許しください。
北海道は、視覚障害者の就労問題、いやむしろ、就労につなげようとする環境作りそのものが、首都圏等に比べると相当遅れている、と私は思っている。そのような中にあって、和泉先生が奮闘してくださっていたことは、とても貴重なお働きであったことを改めて感じている。
函館で、生活訓練を受けた知人に先生の思い出を尋ねてみた。「毎朝訓練生が集まると、先生自らコーヒーを入れてくださって、いろいろ話をした。それがなんだか救いだったんだよね」
忙しい先生には、来札の折、時間を割いていただいて、ロービジョンの友人の相談に乗っていただいたこともあった。時間がないとおっしゃりながらも、話をしっかり聞いてくださり、函館に通っての視能訓練が受けられるよう手配してくださった。
先生が最後に手掛けられた「特定非営利活動法人 はこだての家 日吉」を見学させていただいた。先生の厚生行政分野における知見を活かし、共生、個々人が尊重される生活環境を目指した工夫がなされていた。「ここは食事が美味しいんです。施設の食事がおいしいことはとても大事です」と嬉しそうにおっしゃられたのが印象的だった。
突然先生から電話をいただいた。私が知らない話が多い。しかし、とても親しくお話をされている。正直少し戸惑ったが、なんだか悪い気はしない。「今度函館にいらっしゃい。一緒に飲みましょう!」というようなことをおっしゃって、その電話が私にとっては最後の会話となった。
何だか不思議な印象の和泉森太先生、ありがとうございました。

和泉先生の思い出

横浜市 和田 光司

私がタートルの会に参加したのは会の発足から三年目からで、交流会や懇親会には欠かさず出席し、MLにも参加していました。4年間ほどと短い参加でしたが、つい先頃20年ぶりに会報のバックナンバーを読み(聞き)直し、懐かしい思いでした。
 弱視だった当時の私は、四ツ谷駅までは何とか行かれたものの、当初は交流会の会場の職能開発センターまでは行かれずで、そんな時は和泉さんが駅まで迎えに来てくれました。私以外にも数人が白杖片手に駅前で往生しており、和泉さんがまとめて誘導してくれたことを思い出します。
私も公務員でしたが、組織や職種の関係上、「雇用の継続はかなり厳しいよな」と、和泉さんや篠島さんが気にかけてくれました。和泉さんとは同和問題や人権問題の関連の話も幾度かし、そんな中でも「ノーカラード」の話は今でも鮮明に覚えています。場所は居酒屋の「テング酒場」でした!(笑)
目の見えない者は肌の色で差別をしないが、それが良いのかそうでもないのかなど、晴眼者の和泉さんと視覚障害者の私とが、あれこれと話をしたことも懐かしい思い出です。仙台、広島、新潟と地方交流会にも参加しましたが、広島では人権について白熱した話になり、「そんなのはどっちでもいいから、ひとまず飲め」とビールを注がれたことも懐かしく思い出されます。
和泉さんが函館へと移られた後、函館のセンターの食堂で美味しそうにコーヒーを飲んでいたなど、そんな話もセンターの職員から聞かされもしました。退職後も函館に留まり、様々な活動をされていたことも承知はしていましたが、以降特に会話や交流はありませんでした。
いつぞやの懇親会で、「此処の席が空いているから座りなさいよ」と和泉さんに誘導された若い女性が私の前の席に座りました。タートルから離れ既に20年が過ぎ、今や全盲なれど、私も何とか定年まで勤め、ぼちぼちながらも前期高齢者となって暮らしていますが、あの時の懇親会で和泉さんに誘導されて私の前に座った女性は何故か今?私の嫁になっています!(笑)

和泉森太 初代会長を偲ぶ

下堂薗 保

初代会長和泉さんを偲びご冥福をお祈りします。
そもそも晴眼者の和泉さんがなぜ初代を引き受けてくれたかなど、出会いからご披露します。
国家公務員事務職で働いていた視覚障害者3人が出会い、自らの知り合いに声を掛けて賛同者を集めました。その結果7人が集まったので、この7人が軸になり、当初は細々と2か月に1回の割合で会合を開き始めました。そのうち参加者が増え、交通の便のいいところはないかという話題が出始めた頃、日本盲人職能開発センターの松井新二郎先生から、「もし君たちがいいなら、この施設を無料で使っていいよ」という願ってもない嬉しい提案を頂戴しました。このことは、全員から一も二もなく了承され、早速使わせてもらうこととなりました。それが今日までも若干の変更はあるものの続いており、一見センターの付属機関みたいな様子を呈していると言っても過言でありません。
このような経緯で、視覚障害国家公務員事務職を考える会として、集団の議論も熱を帯び始めていました。そのうち、いつの間にかこの輪の中に和泉さんも加わっていました。何とも言いようのない絶妙なやり方に全然違和感はなく、まるで仲間どうしの感じでした。
なぜ、時間つぶしみたいな行動をとったかについては、推測ですが同じ厚生省(当時)の職員の秋元君が音声ワープロの研修を受講中だったので、励ますために同センターにはよく来ていたようで、ついでに松井先生への挨拶はしっかり毎回欠かさないなど、きちんと決めるところは決めていたようです。ところで、当の秋元君の職場復帰が遅れ気味だったことが気がかりだったので、厚生省の担当補佐官に「何か問題があるなら誰か大物と連れ立って陳情に上がります」などと申し入れたら、担当補佐官から「それには及びません」ということで、見事な交渉術で秋元君の4月からの職場復帰が実現しました。
この秋元君の職場復帰を祝って、松井先生のご酒席を頂戴して祝賀会を開催すると、NHKをはじめ多くのマスコミが報道をしてくれました。このことを知った障害者団体からは、「大したものだ」と称賛を頂戴しました。そうしたら、「こんなに世間に広まったのだから、いつまでもほおかぶりしたような状態では世間が許さないよ。早々に旗揚げすべきだ」とハッパをかけられました。
そこで、初代会長を誰にするか検討したが決まらない。尻をたたかれ始めたが、3人は皆尻込みし、らちがあきません。これを見ていた和泉さんが、「何というだらしない連中だ。俺でよかったら俺がやってやるよ」と。我々3人は頭をかきかき「お願いします」ということで「タートルの会」の旗揚げが実現することになりました。
旗揚げ直後の課題は、手記集『中途失明~それでも朝はくる~』を出そうということになりました。しかし、出版に70万円必要ということになり、誰もが金貧乏ということで、これには参りました。困ったと頭を抱えていたら、和泉さんがどこからだったかよくわかりませんが、用立てしてきてくれました。この本は障害者団体はもとより、晴眼者間でも人気沸騰で、2回ほど刷り増ししましたが(初版5千部、増刷3千部)、未だに求める声が聞こえたりしています。
まあ、和泉さんは本当にいろいろ知恵も体力も貸してくれた恩人です。「生老病死」といいますが、それにしても早々にあちらへ逝ってしまいました。あちらでも、何かと他人様へ役立つことを志しておられるのでしょうか。叶うものならこちらへ舞い戻ってきてもらいたい心境です。ともあれ、どうぞ安らかにお休みください。改めて長年のご支援ご協力に深謝し、ご冥福をお祈りいたします。合掌。

和泉先生と一緒に歩んだタートル草創期の思い出

千葉市 工藤 正一

タートルの前身は1992年5月、中途視覚障害者の国家公務員7人が竹橋会館(現在のKKRホテル東京)に集まり、「視覚障害国家公務員の会」を立ち上げたことに始まります。やがて、厚生省職員秋元明さん(故人)の復職支援が契機となり、1995年6月に中途視覚障害者の復職を考える会(タートルの会)が設立されました。
私と和泉先生との出会いは1990年4月ですが、私が職場復帰を目指し、国立身体障害者リハビリテーションセンター(当時)で訓練を受けた時です。訓練期間中は、私の部屋によく訪ねて来られ、福祉制度、労働組合、障害者運動について語りました。和泉先生は、中央官庁の役人らしからぬ徹底した現場主義で、決して人を差別せず、常に弱者に寄り添い、当時の訓練生から一番慕われていました。また、人、物、情報、組織など使えるものは使おうという柔軟な考え方をしていました。先生は私より一つ年上で、何かと話が合い、私の最も信頼できる頼もしい先生でもありました。また、時々散歩に連れ出してくださり四季折々の季節の変化を楽しませてくれる心優しい先生でもありました。
私は訓練を無事終了し、1991年4月、労働省(当時)障害者雇用対策課に復職しました。復職後間もなく、私の職場に神奈川県総合リハビリテーションセンター職業更生科(当時)の科長が訪ねて来られ、秋元さんの職場復帰の支援をしてほしいと言われました。私は、日本盲人職能開発センター(当時)に繋ぎ、厚生省の労働組合の力も借りなければならないと考え、真っ先に和泉先生に相談しました。以後、和泉先生はタートルとともに歩むこととなり、草創期のタートルとその後のタートルに多大な貢献をされました。その和泉先生が2023年3月10日に亡くなられたことは誠に残念でなりません。
話を戻しますが、忘れられない思い出の一つは、秋元さんの休職期限もいよいよ迫ってきて、ここで何か方策を考えねばと、思い付いたことは、秋元さんが頑張っている姿を「障害者の日」に新聞記事にしてもらうことでした。私が懇意にしていた毎日新聞の記者が、厚生省の記者クラブにいたので協力をお願いしました。1993年12月9日、毎日新聞朝刊に、「中途失明の厚生省職員、復職願い訓練の日々 休職の期限控え、仲間たちも応援」という大きな見出しと大きな写真の記事が掲載されたのでした。
その時の厚生大臣は大内啓伍氏でしたが、当然大臣の目にとまり、厚生省は大騒ぎになったことは言うに及ばずです。こうなることを予想して、和泉先生は事務方に事前に説明していたので、全て丸く収まり、めでたしめでたしです。秋元さんの職場復帰を祝う会には、がんで闘病中の松井新二郎先生が病を押して参加してくださったことも忘れられません。
これがきっかけとなり、タートルの会を設立することになったのですが、誰が会長になるかということでは、難儀しました。本来なら当事者が会長となるべきであるのに、首の皮一つでつながっているような面々でしたから、成り手がいません。それを見かねた和泉先生にお願いするしかなかったのです。よくも引き受けてくれたものだと、今さらながら、頭が下がる思いです。
もう一つ、『中途失明~それでも朝はくる~』の発刊も忘れられません。これは、中途失明者の苦悩と葛藤の記録としての、手作りの手記集『視覚障害をバネとして』がベースになっています。相談した人に体験を書いてもらい、それをまとめたものですが、コピーして、200部以上が活用されました。それを1995年6月のタートル設立時に、正式に発刊することを確認しました。しかし、何分にも素人集団であることに加え、資金もなく、なかなか実現には至りません。それでも、1997年12月9日の「障害者の日」に、『中途失明~それでも朝はくる~』として、発刊に漕ぎ着けました。この時も、資金面では和泉先生の借金(共済貸付)で賄ったのでした。
和泉先生は「新しい酒は新しい革袋に盛れ」ということをよく言っていました。つまり、当事者でない自分がタートルの会長をいつまでもしていることはよくないので、時期が来たら変わってもらいたいということなのです。しかし、2001年6月まで、私たちは和泉先生にすっかり頼り切っていました。そのお陰で、草創期から未来に向かう地盤を築くことができました。
その後、2003年12月9日には『中途失明Ⅱ~陽はまた昇る~』を発刊しました。そこでは、視覚障害者を雇用している企業の取材ルポと当事者の寄稿文により実態を紹介し、リハビリテーション、家族の支え、視覚障害者の日常生活について紹介をしました。また、2015年には『中途失明Ⅲ~未来を信じて~』を発刊しました。ここでは、タートルが設立20年を迎えるにあたって、タートルはどのような活動をし、どのような成果を生み出してきたのか、何より個々の仲間はどう頑張ったのかを就労事例として記録しました。
この仲間の頑張りこそがタートルの宝であり、今後へ引き継ぐべき何よりの財産です。また、タートル設立当時は皆まだ若く、エネルギーもあり、仙台市を皮切りに、全国各地で地域交流会を活発に開催したことも懐かしい思い出です。
タートルは2025年6月には設立30年になりますが、振り返ると、既に故人となられた仲間も少なくありません。和泉先生をはじめ既に故人となられた仲間の皆様のご冥福を心からお祈りし、これまでのご活躍に心から感謝申し上げます。

お知らせコーナー

☆タートル事務局連絡先
Tel:03-3351-3208
E-mail:m#ail@turtle.gr.jp (#を除いて送信してください。)

ご参加をお待ちしております!!(今後の予定)

◎交流会

今年度は、11月、1月、3月の第3土曜日、13:30~15:30までオンラインで行います。毎回、講演を聴いたあと、講師との質疑応答の時間も設けます。

◎タートルサロン

上記交流会実施月以外の毎月第3土曜日の14:00~16:00に行います。情報交換や気軽な相談の場としてご利用ください。
他にも、原則第1日曜日には、テーマ別サロン(偶数月)、ICTサロン(奇数月)も行います。

正会員・賛助会員の募集 

正会員は年会費4,000円、賛助会員は年会費一口3,000円です。
賛助会員の会費は「認定NPO法人への寄付」として税制優遇が受けられます。
詳細はホームページをご確認ください。
https://www.turtle.gr.jp/about/h02-join/

ご寄付のお願い

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寄付は「認定NPO法人への寄付」として税制優遇が受けられます。
詳細はホームページをご確認ください。
https://www.turtle.gr.jp/h03-kifu/

一人で悩まず、先ずは相談を!!

「見えなくても普通に生活したい」という願いはだれもが同じです。職業的に自立し、当たり前に働き続けたい願望がだれにもあります。一人で抱え込まず、仲間同士一緒に考え、気軽に相談し合うことで、見えてくるものもあります。迷わずご連絡ください!同じ体験をしている視覚障害者が丁寧に対応します。(相談は無料です)

ICTに関する情報提供・情報共有を行っています。

タートルICTサポートプロジェクトでは、就労の場におけるICTの課題に取り組んでいます。ICTについては、専用のポータルサイトやグループメールをご活用ください。

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編集担当者

理事長 重田 雅敏 理事 工藤 正一 理事 杉田 ひとみ 理事 松坂 治男 理事 藤田善久 事務局長 芹田 修代
協力者 高橋 律子氏

奥付

特定非営利活動法人 視覚障害者の就労を支援する会 情報誌
『タートル第63号』特別号
2024年4月25日発行 SSKU 増刊通巻第7879号
■ 発 行 特定非営利活動法人 視覚障害者の就労を支援する会 視覚障害者の就労を支援する会 理事長 重田 雅敏
■ 事務局 〒160-0003 東京都新宿区四谷本塩町2-5 社会福祉法人 日本視覚障害者職能開発センター 東京ワークショップ内 電 話03-3351-3208 ファックス 03-3351-3189
■ NPO 法人タートルの連絡用メール m#ail@turtle.gr.jp (#を除いて送信してください)
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