1998年10月9日第三種郵便物認可(毎月3回8の日発行)
2013年3月6日発行 SSKU 増刊通巻第4431号
「自助・共助・公助」
理事 下堂薗 保(しもどうぞの たもつ)
東日本大震災後「自助・共助・公助」を耳にする機会が、一気に増えているように思います。辞書によれば、「自助」は、自分の責任で、自分自身が行うこと。「共助」は、自分だけでは解決が困難なことについて、周囲や地域が協力して行うこと。「公助」は、個人や周囲、地域あるいは民間の力では解決できないことについて、公共(公的機関)が行うこと、などとありました。つまり、未曾有の大震災に対して、国民全体が連携協力し、助けあいの精神で復興に全力を傾注すべきであるとの意味が込められているように思います。
実は、タートルは発足時からこの「自助・共助・公助」の概念に似たことをやってきた思いがあるので、強く共感するものがあります。
私は、視認障害が強まるに従い、文字処理や安全な単独歩行並びに就労継続に不安を持ちはじめ、前途に希望を見失いそうになったころ、心の動揺を禁じえない体験をした記憶があります。そんな境遇に陥ったとき、私を心身両面で支えてくれたのは、まず同じ境遇の仲間だったり、視覚障害者団体や公の機関でした。そのようなころ、仲間同志お互い励まし合い、情報や意見交換ができ、助け合えるグループがあってもいいな、ということから、ミニ集団が立ち上がりました。
こんなミニ集団を経て、今日のNPO法人タートルにつながってきましたが、その草創期から継続就労のため「自助・共助・公助」の概念は、次のように運営に生かされてきました。自助では「障害の受容」、安全な単独歩行、支援機器の活用法、良好な人間関係がいかに重要であるか等(変化対応)を学び、共助ではお互いに励ましあい、ICTのスキルアップ、よりよい工夫の情報交換、それらの共有、そして、後に続く仲間へ次々伝えつなぐ「恩送り」を、公助では、医療、福祉との連携協力、かつ社会資源の活用、制度面の改革に声を上げ続けることなどです。
以上のように「自助・共助・公助」は、まさに、タートルの活動を端的に表現していると思っています。そのようなことを念頭に、視覚障害を患った際、個々人は仲間と意見交換しながら、障害の受容やスキルアップ、安全な単独歩行の習熟に励むようにする一方、NPO法人は、団体として、視覚障害者の継続就労、雇用促進・拡大や、誰もが望む「障害者ディーセントワーク(働きがいのある仕事)につなげられるように支援し続けることで、更なる「生活の質(QOL)」の向上の実現に寄与するものと「自助・共助・公助」の語に接し、改めて思いを強くしている今日このごろです。
『信じる気持ちとつながる心』
会員 清水 晃(しみず あきら)
皆さんこんにちは。本日講演させていただきます清水晃です。
ご紹介の中にありましたように、職リハでの訓練は継続していますが、現在はその中にあるトライアル雇用というような形で、職場連携訓練を活用しています。職場連携訓練先は、地元での就職を目指して、長野県内にある一般企業の建設会社にて実習しています。
実質は訓練生なのですが、いまは新潟の自宅から、長野にある職場連携訓練先に通っています。本日は、よろしくお願いします。
まずは、簡単な自己紹介をいいますと、年齢は38歳です。家族は、最愛の妻と、子供が4人の6人家族です。病名は、網膜色素変性症で、手帳は2級です。中心視野は、5度から10度ぐらい残っています。いまは、老眼鏡の眼鏡をかけています。というのは、白内障が併発して、手術で眼内レンズを入れましたので、少し視力が上がり、0.3ぐらいは見えるからです。
この網膜色素変性症の自覚症状は小さい頃からありましたが、自分がこの病気の告知を受けたのは、20代の頃です。いま考えると、小さい頃、田んぼで野球などをする時、よく転んだり、ボールが見えないことが、自覚症状だったのだと思います。小さい頃、地元で少年野球団に入っていましたが、フライがよく取れないこともあり、ライトの8番でした。その頃、何故フライが取れないのかと思ったのですが、自分は運動神経が悪いものだと、ずっと思っていました。
高校生の頃は、バスケットボールでパスを上手く受け取れずに、何度も眼鏡を壊したり、大学生の頃も、サッカーをしている時に、ボールを頭でヘディングしようとすると、ボールが消えるように見えて、よく眼鏡を壊した記憶があります。単純に、自分は運動神経がないのだろうと思っていました。
それから、夜盲は小さい頃から少しずつありました。雪国の新潟県には、主要な道路に流雪溝という側溝があり、大きさは、幅約1メートル、深さ約2〜3メートルの側溝があります。正直、側溝ではなく、穴と言っていいぐらいの物が道路に沿って繋がっており、決まって新品のジーンズを買った後、よく側溝に落ちていました。というのは、学生の頃、お金遣いが荒く、9,800円程度のものを買って、2〜3日気持ちいいなと調子づいていると、大体そこに落ちるのです。
高校・大学では、高校は日本で卒業し、大学は、韓国に留学しました。まだ障害の告知は受けていませんでしたので、自分の意思で韓国の大学に進学することを決めました。日本の大学には受かったのですが、入学金の明細を見て、親から「お金がないよ。あきらめなさい。」と言われましたが、当時の韓国の大学は安かったので、「一人で行ってやる」と思い、カバンを一つ背負い、韓国に行きました。それから、93年から99年の6年間、韓国で勉強している時から、海外ボランティア活動を続けています。大学の在籍中、いろいろと辛いこともあり、くじけそうになりながら、歩んでいましたが、周囲の皆様からの助けもあり、それを乗り越えるためにも頑張ってみようと、1年休学して、海外ボランティア活動を行いました。主にインド、パキスタン、アフガニスタンに行き、大学卒業後も引き続き職責をいただいて、NGO活動をしていました。
先程、初めてひどいショックを受けたと話しましたのは、大学を卒業する23歳の頃に、クラスメイトの婚約者と結納をしようとした際に、母親から障害の告知を受けたからです。あとから知りましたが、母親は看護士をしていましたので、私が小さい頃から病気であることを知っていたのです。私は韓国の家庭が身分や背景などを大変気にされることを知っていましたが、正直に韓国人である彼女のご両親にそのことを伝えたところ、大変お怒りになられて破談となりました。
大学は1999年に終わりましたが、3年間程度NGOをしていた時に、今の妻と出会いました。NGO内のリーダーの方にマッチングをしていただいて、今の妻には私の診断書を見せて、「これからこうなりますよ。大丈夫ですか?」ということで承諾をとりました。妻の方も「大丈夫です」ということで、結婚が成立しました。いまになって、稼ぎが少ないとか子供の面倒をみないとか、いろいろと文句を言われていますが、妻との出会いはとても大きかったです。南インドのアーユルヴェーダと言えば、女性の方はお分かりだと思いますが、オイルセラピーの盛んな地域です。妻は、ケララ州という地区の出身で、インド人のイメージにある、白く細身の長髪女性ではなく、肌の色は黒い方です。妻は、髪の毛は少し天然パーマということもあり、ストレートヘアにあこがれていますので、私の知らないうちに私のヘソクリでストレートパーマをしています。しかし、仕事や勉強などにおいてくじけそうになりますが、妻の後押しがあったからこそ今の自分があるのだなと感謝しています。
また、海外から帰国後も、田舎だからということではないのですが、障害者に対してはオープンにしない風潮がありましたので、家の中に閉じこもった生活をしていました。結婚後も、両親からあなたは家にいなさいということで、月に3万円から5万円ぐらいの小遣いをもらいながら生活をしていました。ただ、数年後に子どもが生まれた際、父から「そのようになったのであれば、茣蓙を敷いた上に座り、空き缶を持って道にいれば、いくらか貰えるだろう。そんな努力もおまえは出来ないのか」などとよく言われました。しかし、自分は両親から小遣いをもらっているため、反論できないという辛さがありました。
妻は、幾度もそのような仕打ちを見ており、「義父の言葉が分からず、私にはできることが少ない、どうしたらいいのかな」ということで泣いていました。その後、妻は自分ができる仕事で、時間の調整ができる仕事を探していたところ、パソコンの出張サポートがありましたので、早速勤め始めました。妻は自分で車を運転して、お客様の自宅まで行き、インターネット接続の設定業務を1回当たり約4,000円でしていました。運転距離は1日約600キロとなり、約5年間続けていました。
自分の目の病状の進行と合わせて、両親との確執もありましたので、結局追い出されるような形となり、妻と二人で20万円程度を持ち、アパートも決めずに実家を出ました。その後、就労先を探さなければと思い、市役所にて身体障害者手帳の申請を行い、手帳を交付していただいた後、職業訓練校にて受講しました。そこから視覚障害者枠にて地元の大手半導体の企業に就職しました。勤務先での業務内容は、生産業務における工程管理や在庫管理と合わせて、海外に滞在していた経験がありましたので、国外から入る受付窓口の業務をしていました。
しかし、就労中に現在も治療中である白内障が発病して、地元の眼科医に相談したところ、「あまり考えずに、取ってしまえばいいですよ。手術しましょう。」と簡単に言われましたので、自分はよく理解せずに手術をおこない、1ヵ月ほど休職しました。ところが、休職前は、生産管理業務や、国外からの受付窓口の業務などをしていましたが、復職後は、「清水は大丈夫なのか?」などというふうに目を付けられて、職場内の雰囲気が少しずつ変化していきました。
それと合わせて、業務ではエクセルの表で6ポイント程度の文字を使い在庫管理をしていましたが、当時は音声リーダーの訓練はしておらず、画面拡大のみで業務をしていましたので、思うように業務ができずミスが多くなってきました。どうしようかと考えていたところ、就労支援をしていただいたワーカーの方から、「職能開発センターでのイベントがありますよ。支援してくれるタートルがありますよ。」と教えていただきました。
早速、電話を掛けたところ、受付の方から下堂薗様に繋いでいただきました。それから現在に至るまで、事あるごとにアドバイスをいただいており、井上英子先生の学校のことなども教えていただきましたので、早速勤務先に伺いを出してみましたが、人事部からは「あまりそういうことは…」という対応でした。その後も、人事部に何度も伺いを出してみましたが、「その話は少し待ってください。」と言われ続けて、3ヵ月待ちましたが、最後まで在職者訓練を受けさせてもらえませんでした。
それから、私の勤務先は、親会社が100%出資して株式を公開している企業なのですが、親会社の意向が非常に強いため、経営合理化の流れが直接きて、従業員の約600人のうち100人を請負に回すのと合わせて、障害者枠で雇用されている私にも話がきました。
ある時人事部の主任から、「少し話があるので」と気軽な感じで連絡がありましたので、応接室で待っていたところ、人事部の主任、課長と、総務部部長の3名で、3対1の面談が始まりました。人事部からは何かに付けて、「何でおまえはそうしているのか、勤務態度がなっていない」、総務部部長からは、「勤務終了時刻の5分前に退社するのは何故ですか。誰の許可を得てそんなことをしているのですか。」などと言われ続けました。総務部部長の指摘につきましては、前任である取締役から、雪の降る日などは、「おまえは目が悪いから、暗くなる前に帰りなさい。」ということで、退社を許可されていたのですが、平社員の私が3人を相手に言えるわけもなく、一方的なあら捜しが2時間程度続きました。最後には「何故危険回避をしていないのか。何故こういう対策をしていないのか。」などと事細かに言われて、泣きながら土下座して、「すみませんでした」と返答しました。このように、最後の最後まで心境を追い詰められることが、退職するまでに3回程度ありました。
面談以降は、出勤時に総務部に挨拶後配属部署のデスクに座って業務を行い、退勤時に総務部に挨拶後退社していましたが、挨拶に行った際、必ず一言二言何かを言われていましたので、過度なストレスとなっていました。しかし、自分は過度なストレスを感じつつも、パソコン訓練を受ければ何とか道が開けると思い、総務部に、訓練の資料と合わせて、下堂薗さんと工藤さんからいただいた人事院の資料などをことあるごとに見せましたが、会社からは、対費用の効果の問題や、訓練を受けたからといって100%元の業務に復帰できるのかなどと懸念されてしまい、結局訓練を認められずに、会社を辞めざるを得なくなりました。総務部からは最後に、「いても給料は出ません。今年度のあなたの給料は、来期の予算から出していますが、どうするの。」と言われましたが、当時の自分は、自分で食事も取れず、夜も眠れず、手は震えてしまうような半分欝病の状態でしたので、正常な判断ができませんでした。ですから、なるべく円満退社ができるようにと思い、いくらかの退職金をいただいて、退社しました。
その後、下堂薗さんと工藤さんから、所沢の職業リハビリセンターを紹介していただいて、センターでいろんな知識やパソコンスキルの習得、就職活動ができました。現在、受け入れ就労の訓練をしている会社は、障害者雇用率を達成しているため、障害者を受け入れなくてもいい会社なのですが、職業リハビリセンター、地元のハローワーク、長野労働局の連携で、受け入れ就労訓練までの流れをつけていただきました。それから、職業リハビリセンターでは、ビジネスマナーの訓練の一つとして、電話応対訓練をしていましたが、海外に長期に渡って勤めていた講師の方から、「ことあるごとに、自分をPRできるチラシを作り、配りなさい。」というアドバイスをいただきました。早速、パワーポイントを使い、「自分のことは正しく説明できる。」ということを伝えるべく、2カ月程度かけて自分のPRを作成しました。その後、作成した20ページ程度の書面と、PRデータのDVDをワンセットとして、企業やハローワークに30セット程度配りました。
皆さんは、パワーポイントを使い書面を作成しなくても、企業の担当者の前でパソコンスキルを確認していただければいいのではと思われるでしょうが、私は地元での就職を目指す中で、埼玉の施設から地元までの所要時間や、企業側との面談時間などの調整が困難だと思い、そのような方法を使いました。その結果、数社の企業から反応があり、現在行っている企業の方も、自分が作成した資料をよく見ていただいたことにより、研修まで行うことができました。このように、自分の障害を明確に理解した上で、どのように見えるのか、どのような機器を使えばどのように変わるのかを、相手に伝えるというよい勉強の機会となりました。
現在職業訓練を受けていますが、先週末に市役所から書面の郵送物が届きました。採用されるわけがないだろうと思いつつ受けた試験でしたが、2次面接が通りましたという仮内定の書面でした。しかし、その市役所の採用試験では、試験問題が5ポイントの薄い文字で、解答用紙がマークシート方式で、視覚障害者には何の配慮もされていませんでした。そのような試験方法でしたので、結局解答用紙には何も書けずに、試験問題に丸印を書く程度しかできませんでしたが、試験担当者の誰かに試験問題の丸印を転記していただいたおかげで、1次試験を合格して、2次面接も通過することができました。というわけで、来年の春からは公務員の道を歩むようになるかと思います。
当初タートルの相談会に来た時は、妻と2人で何も分からない、何もできないという不安が渦巻く心境でしたので、やれることはやろうという思いで、無我夢中で走っていました。それから、私が訓練施設に行く直前に、妻の四番目の子どもの妊娠がわかり、どうしようかなと悩みました。というのも、私の両親は、一人目から三人目とも、出産を手伝ってくれず、全て私がしたからです。でも授かった命ですから、大切に育てようと思い、私が訓練を休んで、四番目の子どもを含めて4人分の食事などを作りました。当時の私は精神的にも弱く、不安定な心境でしたので、訓練を辞めようかなと思いましたが、妻から「訓練に行って、頑張ってください。」という一言と、子供が授かったことを心の支えにして生きていこうと決めました。四番目の子どもが生まれて、一人目の子どもからのことを思い浮かべると、全て私が人生のどん底にいる時に生まれているのです。子どもが生まれる度に、頑張らなければならないと思う気持ちから、一つ一つ勝ち取ってこられたんだと考えさせられて、訓練に行きました。
また、訓練中自宅に帰省するための交通機関は、バスの車両事故が恐かったので、毎週末新幹線を使い自宅に帰省していたところ、妻からは「あなたは、新幹線の中に住んでいるのでは」と言われていました。出産後も、子どもがある程度落ち着くまでは、自宅に帰省していました。
それから、就職先が決まる以前、親からの連絡は音信不通だったのですが、半導体工場への就職が決まった後、「孫が見たい」などと言って、自宅に頻繁に来るようになりました。いまさら何だと言いたいのですが、孫をかわいがり、お小遣いをくれます。その反面、お小遣いを子供たちに内緒で、家族の食事代にしているので何ともいえない気持ちです。このように、目標を達成するためには、いろんな障害があり、自分が思う100%は達成できませんでしたが、何とかもがいて、いまの道まで来ることができました。
話が横にそれますが、先日の職場実習の際、実習先の部長から、「あなたは、もう38歳です。いまさらリハビリ訓練をして、簡単な事務処理ができると言って、大きな顔をして職場に入ってこられては困ります。社会経験を充分にしている年代ですから、確実な業務ができなければなりません。」という話をされました。また、きつい言い方ではなく優しい表情で、「それぐらい厳しいことを理解しているのであれば、就職を目指しなさい。」と言われましたので、私もその通りだと思いました。
今までは、障害を乗り越えることやリハビリなど自分のことで精一杯で、目の前の壁を乗り越えては深い落とし穴に落ちて、何とかもがいて出て2〜3歩歩くとまた落ちて、また這い上がるという繰り返しでした。他の人は100メートル程度歩いているのに、私は10メートルしか歩いていないのではないかと思うような人生でしたが、何とか頑張ってここまで来ることができました。それも、懇意にしてくださったタートルの皆様や、地元の就労ワーカーの皆様、支援団体の皆様、訓練施設の皆様、役所の皆様など、いろいろな方に支えられてきました。皆様からの支援がなければ、私は落とし穴から這い上がれない人生だったと思います。
ここでは話すことのできないことが多々ありますが、二つほどお話します。私は視覚障害者で妻は外国人ということもあり、子どもの友達からは、おまえの父さんは杖をついていると言われたり、黒んぼなどと言われるいじめにも遭いました。私も職場に勤め始めると何か言われるかもしれませんが、私にできることは、一生懸命に声を出しながらもがいて、「これが必要で、これはできて、これができない。」ということを、相手の目を見て真剣に伝えることです。
このような発言・行動に対して、多くの皆様からの協力や支援をいただいて、現在の状況までくることができたことに、心から感謝しています。これからがスタートなので、実績という話はまだ先のことなのですが、私の人生から言えることは、動ける身体があるのであれば、一生懸命もがくということです。もがくことにより、立ちはだかる壁は崩れますし、崩れるまでに至らなかったとしても、どこかにわき道ができたり、はしごなどができたりして、困難を乗り越えられるのだと感じています。私一人で乗り越えることができない場合は、皆様から多くの支援をいただきましたが、その時に自分を信じられずにいたら、苦悩や苦難を乗り越えることができなかったと思います。それと合わせて、妻は、「あなたは大丈夫」と私を信頼している言葉を掛けてくれたので、自分を信じることができたのだと思います。
私は今後、新しい環境に一歩踏み出すわけですが、皆さんと一緒に歩んで行けるように、頑張っていくとともに、地元の新潟に帰省したら、皆さんが繋がり合える輪を作り上げていこうと思います。また、地元では男性の視覚障害者も厳しい環境におかれていますが、それ以上に女性の方が厳しい環境となっています。といいますのは、特に若い女性になると、両親に家から出してもらえず、恋愛や結婚、社会生活なども困難となり、結局年齢を重ねていくだけの状況となっています。私も、何十年かしてある程度落ち着いたら、障害者の皆さんが前向きに歩んでいけるように、少しでもお役に立てることができればいいなと思います。
以上で講演を終わります。ご静聴有難うございました。
☆講師プロフィール☆
新潟県生まれの38歳。妻と子(2男2女)との6人暮らし。病名は網膜色素変性症で夜盲と視野狭窄あり。高校卒業後、韓国の大学に留学(入学)。大学卒業後、インドとアフガニスタンでの難民支援活動に従事。その間に、現地で結婚。その後帰国し、一般企業に障害者求人で採用されるも、病状悪化に伴いやむなく退職。そして「NPO法人タートル」のサポートにより「国立職業リハビリテーションセンター」に入所。訓練も1年を経過し、現在就職に向けて活動中。
「出会いから復職へ」
会社員(会員) 村田 喜彦(むらた よしひこ)
あらためまして、皆さんこんにちは。枚方からまいりました村田喜彦と申します。まずは自己紹介からさせていただきます。現在の住まいは枚方ですが、京都で生まれました。子どもの頃から、先天性の弱視で左目の方がずっと悪く、右目も良くはありませんでした。水晶体脱臼をしていましたので、正常に左右のバランスを取って見えていた目ではなかったのです。左目の方が悪く、高校生ぐらいの時に左目は見えなくなってしまいました。その後右目だけで見てきたのですが、その右目は徐々に視力が上がり、車の運転などをするぐらいにまでなっていました。しかしながら就職の直前に、1度目の網膜剥離を発症しました。
今まで、けっして良い目ではなかったのですが、重篤な見えにくさというものを経験しました。それが1度目の網膜剥離で、いまから25年ほど前のことです。子どもの頃から、目が良く見えていた記憶はなく、人の見え方と直接比べることができないので、自分では自分の見え方が当たり前で普通のものと感じていました。私は金融機関に勤めておりますが、本来なら平成元年4月から就職ということが決まっていました。2月に、1度目の網膜剥離を発症し、それは配属支店が決まったという連絡を受けたのと同時期でした。
大きな障害は、自分にとっては初めてでした。左目が見えていなくて、見えている右目を網膜剥離でやられたので、すぐに緊急手術をし、入院生活となりました。右目に眼帯をされると、もう完全に自分では何もできず、トイレ一つ行けないし、ご飯も食べられない状態で、当時は本当にどん底に突き落とされたような感覚でした。落ちるところまで落ちたら、あとは上がるしかないという考えになるまでは、本当にしばらく時間がかかったのです。その当時は、まだ景気も今ほど悪くなかったので、何とか会社にも内定のまま待ってもらいました。丸2年の間、内定のままで待ってもらい、それから就職という形を取らせてもらいました。
その後、会社から就職の条件として、障害者手帳を取得してほしいということで、当初取得した時の等級は6級でした。一番細かいものを見ることのできる黄斑部まで、一度に網膜剥離をおこし、伝票を書いたり、細かい文字を見ての仕事には向いていないということで、金融機関で現金を専門的に扱う現場的な部署で長らく仕事をしてきました。
そこで十数年、仕事をしてきたわけなのですが、もう間もなく5年が経とうかと思いますが、平成20年1月に2度目の網膜剥離を発症しました。それこそ重篤な状態になりました。視野欠損も大きく、もちろん入院・手術後もすぐに仕事はできませんし、家から一歩出ること自体がもう怖くて、何もできない状態にまでになったのです。入院・手術をした時に、医師から言われたのは、網膜剥離の手術はしたけれど、もちろん視野・視力は元通りにはならないし、手術の後も目の状態が落ち着くのに、1年半から2年はかかるだろうということでした。その時点で、今後会社勤めの生活は、もう無理なのだろうという気持ちにもなりました。一時的には自暴自棄にもなりましたし、将来というか、この先が不安なものでしかなかったのです。
その時のことを今振り返ってみると、自暴自棄にはなりましたが、一時的に心がフリーズされたというような状態でした。焦って、何をしようとか何をやっていこうとかを前向きに考えられず、立ち止まったというか、何も動かないような状態にしばらくなっていたような感じがします。医師からは、1年半から2年、目の状態が安定するまで自宅療養をしなさいということで、会社の方も休職扱いをしてもらい、家にはいましたが、その休職にも限度があります。休職期限は3年半であり、いつしか次第に、自分の将来的なものを決めないと、何かしなければという気持ちが、次第に自分の中に芽生え出し、考えが起きたというか、そういう心持ちになっていったのです。
1年半とか2年という期間は長いようで短いものです。何か動かなければと思い、退院してから約1年後に、自分の将来をどういう具合にしていくべきか、とにかく情報を集めたく思い、とりあえず市役所の障害福祉室に電話してみました。いまから思うと、それが今日のテーマである「出会いから復職へ」というところへの端緒というか、きっかけへのモーションになるのです。たまたま市役所に電話をした時に、自分はいまこういう状態で会社は休職しているし、これからどうしようか悩んでいると話しました。自分の中では、もう会社勤めには戻れないだろうし、三療の方で生計を立てていくようになるのかという、本当におぼろげなイメージだけは持っていました。
電話をしたその日、その時に、市役所で電話応対をしてくれた職員の後ろを、地元の地域支援をしているNPO法人の理事長が、偶然通りかかったのです。その場では、電話はつなげてもらえなかったのですが「ちょうど、視覚障害の相談をしてくれるNPOがあるので、そこに電話をしてみてください」という話になりました。翌日そのNPOに連絡を取ったところ、「詳しい話を聞きたいし説明もするから、ぜひ来てください」ということになりました。その地元のNPOは視覚障害だけでなく、他の障害をお持ちの方の援助・支援もされているところでした。後日そこへ行って話を聞いてみました。
そのNPOから、日本ライトハウスの紹介を受けましたし、後々ですが、このタートルの存在も教えてもらいました。一つの動きを始めたことにより、次々と話がつながり、人とつながるという、出会いを経験させてもらうようになりました。私は子どものころから、今で言うロービジョン、当時は弱視と言っていましたが、弱視であるがゆえに、目の障害などに知らず知らず耳を傾けていたのか、ライトハウスの存在を割と早いうちから知っていたのです。自分から関わりを持ったり、伺ったりということはしていなかったのですが。今から何年前になりますか、もう7〜8年前になりましょうか。自分のかかりつけの眼科主治医から、たまたまですが、日本ライトハウスのパンフレットをもらったのです。「将来どんなことに役立つかわからないから、このパンフレット持っておいたらどう?」と言われ、そのパンフレットをもらって帰りました。
その後、どういうところかよく知っておいた方が良いかと思い、電話連絡をさせてもらいました。見学というか、「どういう所なのか見せてください」ということで、数年前に放出の方に伺った経緯があります。そこで話を聞かせてもらって、障害者年金という制度があって年金が貰えることを、初めて知りました。自分もその対象になるかと調べたところ、対象であることがわかりました。その時は深い知識もなく、障害基礎年金の方で照会しましたが、そこで初めて教えてもらったおかげで、年金というものの恩恵も受けられました。
話が前後して申し訳ありませんが、地元のNPOから日本ライトハウスを紹介してもらい、ライトハウスはどういう活動をしているのか、現在の自分の強い障害の状態になってから、日本ライトハウスの方でどういうサービスが受けられ、自分のためになるのか、実際に行って体験させてもらったらどうかとアドバイスを受けました。地元のNPOの方と一緒に日本ライトハウスへ行き、そこで初めて音声ソフトや拡大読書機など、ロービジョン支援機器のデモンストレーションを受け、自分にも役立てられると感じました。自分の目の見え方では、三療の方しか考えられなかったのが、復職も可能なのかなと、その時にちらっと浮かんだというか、気持ちの中に生まれたのです。
見学に行かせてもらったあとで、タートルという存在があることを、その地元NPOから教えてもらいました。復職についても支援してもらえるようだということでした。何もできなくなったと思っていた自分の行く先は、三療に限られるとそれまで思っていたのが、復職という道があり、応援してくれる支援団体もあることがわかりました。タートルへのアプローチは、事務局へメールで問い合わせをしました。さっそく返事をもらいました。当時の担当役員さんから電話をもらい、「復職ということは十分考えられる。会社と切れていなくて、つながっているのなら、復職という道も視野に入れたらどうか」とアドバイスを受けました。そののちに、現在の役員さんへつないでもらい、いろいろな情報を提供してもらいました。一昨々年、タートルの交流会へ初めて参加させてもらった時に、復職して仕事をすることは可能だということが、参加者の皆さんのお話などからわかりました。自分にもできるのかもしれないなということも感じました。
つながりや出会いというものは、本当に不思議というか、次々につなげてもらい、京都にロービジョンケアをしてもらえる眼科があるとタートルを通じて教えてもらいました。先ほども申しましたが、私は京都出身であり、一旦は東京のタートル本部経由で、京都につなげてもらったことになります。そこでは、どういう方向に進めば、復職へ近づけるのかを教えてもらい、その中の情報提供として、日本ライトハウスで、パソコンスキルや、会社勤めへの足掛かりとしての訓練を受ければ、復職も考えられると教えてもらいました。
その話を聞いた時は、自分の中ではまだ、元の会社への復職と三療の方へ進む方向との二つを同時に考えていたわけです。どちらへも進めるように、視覚特別支援学校の方へも足をはこんでいました。入学に向けての願書や診断書なども取り寄せ、あとはそれを提出し、試験を受ければよい段階まで進めていました。ロービジョンケアの側からの、日本ライトハウスへ行き復職という道を考えたらどうかというアドバイスとで、岐路に立っていたわけです。自分ではなかなか決心がつけられずにいたのですが、最終的には、ロービジョンケアでお世話になった先生方に背中を押してもらい、日本ライトハウスにお世話になることに決めました。先生方をはじめ、関わってくださった皆さんから、「会社へ復職したい。こうすれば仕事をすることができる」ということを、アピールする方法を教えてもらい、その道を辿らせてもらいました。
少し具体的なことを述べますと、ロービジョンケアの眼科医師から会社産業医宛てに復職への可能性を示した前向きな情報提供書を作成してもらえたこと。それに前後して日本ライトハウスから会社へ支援機器類の情報提供、併せて人事部に訓練内容を見学させることにより理解を深められたこと。それらのおかげもあって、復職をさせてもらうことができたと思います。
今回の「出会いから復職まで」というテーマは、本当に自分にぴったり当てはまるものです。自分の力、能力的に秀でるものが特にあるわけでなく、人の力というか、人のお世話になって、本当に人から教えてもらい、後押ししてもらい、道も選択させてもらいました。後押しをされ、引っ張ってもらって復職がかなったと思います。自分は今までそういう経緯を辿ってきたように思います。
復職させてもらってから「今自分はこんな仕事やっています。こういう仕事をつくりました」と言える状況までは、まだ至っていませんので、心苦しい部分はあります。今日、声出しで皆さんのお話を聞いていると、いま現在もお仕事をされている方が、結構多くいらっしゃるので、今私が話をさせていただいたことが、どこまでお役にたてるかどうか、ちょっとわかりません。
しかし、現在仕事に就いておられる方にとっても、出会いだとか、人と出会ってからのきっかけみたいなものが、本当に大事なのだろうと思います。私はこの数年間落ち込んだり、いろいろな経験もしました。そういうマイナスというか、落ち込んだことがあったがゆえに、今現在はその反動で、バネが跳ね返るように、いろいろな人と出会い、お世話になっているのだと思います。つたない話でも、こうしてさせてもらえるような、きっかけをいただけたと思って、感謝しています。これまで、人前でお話しする機会もなくて、どこまでお伝えできたかわかりませんが、私からの話は、このぐらいにさせていただきたいと思います。
どうもありがとうございました。
「仕事を継続させるために工夫していること・困っていること」
会社員(会員) 的場 孝至(まとば たかし)
的場と申します。住まいは奈良県で、勤務先は大阪府の守口市です。全国規模の民間企業で事務職の仕事をしています。眼の状況は、右は0で左は0.01で、弱視と言っていいのか、あまり見えていない状況です。生まれつきの弱視です。幼少時から視覚障害者でしたので、見えないことが当たり前の中で、日常生活をしてきました。
小学校の時には、まだ0.1ぐらいの視力があり、一番前の席に座ると黒板の字も見えましたし、教科書も見えました。小学校を含め、高校まで統合教育でした。小学校は、地域の小学校に通いましたが、授業はともかくとしても、ドッジボール、野球、運動会(練習も含む)などの運動系は、目が見えないことが不利になりました。見えないから、運動関係は苦手になるのです。仲間はずれとは言いませんが、少しそれに近いようなこともあったりしながらも、近所の友達と遊びながら、小学校は過ごしました。
中学校は地元ではなく、大阪市西区にある公立の花乃井中学校という弱視学級が設置された学校に通いました。地域の中学校に、大阪市教育委員会が弱視学級を設置していました。授業はみんなと一緒に受けるのですが、体育、技術家庭など、みんなと一緒にできない授業があった時に、1人の先生が補助についてサポートしてくれる形式の学校でした。中学になり、英語の授業が始まりました。アルファベットがきちんとAからZまで書けるのか、大文字・小文字の区別ができるのか、社会では、世界地図がきちんと確認できているのかなど、授業で見えないからついてこられないと懸念されることを、サポートする体制が、弱視学級では整えられていました。毎日6時間目の授業が終わった後、別の教室に行き、サポートを受けました。「今日は困ったことはなかったのか?」と聞かれます。たとえば、「地図が見えなかったです。」と言うと、地図帳でその場所を開いて「ここはわかりますか」と、もう一度ゆっくり時間をかけて説明してもらうことができました。中学校はそのような設置がされていましたので、恵まれた環境でした。弱視で同じ立場の生徒は自分を入れて4人いました。自分ひとりだけが見えないのではなく、同じ思いをしている生徒がいたということです。小学校の時は、自分ひとりだけが見えない状況でしたが、弱視学級の中学校に通ったことで、同じ立場の友達ができたことは非常に心強いものになりました。
高校は奈良県の公立高校でした。小学校の時に0.1あった視力が、中学校で0.08、高校で0.06ないし0.04と、徐々に悪くなっていきました。高校としては、引き受けたからには、責任をもって卒業させましょうということで、サポート体制が整備されました。学力的に授業についていけていたことが幸いで、視力低下により授業が理解できないということはありませんでした。定期試験の拡大印刷、体育の授業に補助の先生が一人付くなどのサポートを受け、高校を卒業し、数学の教員を目指し理系の大学(数学科)に進学しました。
ところが、大学入学後の4月の時点で、高校卒業前に見えていた教科書と黒板が、教室の大きさ、一番前の席と黒板との距離の違い、自分の視力低下などの要因が重なり、非常に見えづらかったのです。想定外でした。それに加えて、高校までの数学と大学の数学は違いました。理系の世界でいうと、高校までの数学は、計算問題のようなものです。大学の数学科は、数学理論の追求でした。なぜこの公式が成り立つのかという勉強でした。
当時の自分にとって、聞いて学べるようなものではありませんでした。半年ぐらいは理解不足がありながらも授業を受けていましたが、数学の教員は難しいと思いました。しかし、せっかく大学に入ったのだから卒業はしよう、数学の教員は諦めたとしても、職は他にもあるだろうと思いました。とにかく、大学に入ったのだから卒業しようと思い、理系から文系への学部変更試験を受け、文系の経営学部として卒業しました。
卒業学年の時は、就職活動をしました。現在、39歳になりましたが、昭和48年生まれで、いちばん学生が多かった時でした。受験勉強という言葉がありましたが、その当時は受験戦争と言われていました。おそらく昭和46年生まれがいちばん多かったと思いますが、浪人をした人が後から後へとくるので、いちばん多い時期に大学に入学をして、就職活動をしました。バブルが崩壊した後でしたので就職難を迎えている時代で、学生があふれていました。
しかし、就職を目指して、各就職説明会に行きました。その時の視力は0.04弱ぐらいだったと思いますが、重度の視覚障害者ですから、その障害を理由に、なかなか内定がもらえませんでした。鉄道会社を受けますと「電車を運転できますか?」という質問が、平気で出てきました。今であれば「はい、できます!」と言えますが、その時はそのような余裕はありませんので「いやぁ、ちょっと・・・」と言葉をつまらせていました。採用担当者が断ろうとする方法です。視覚障害者は、移動できないと思われていたのか、本来の面接ではないところに時間がさかれました。経験された方がいらっしゃると思いますが、「今日の面接会場へはどのようにして来ましたか?ひとりで来たのですか?」、「階段は大丈夫ですか?」などというような質問が8割くらいで、本題はほとんどありませんでした。なかには、「食事はできますか?」という質問もありました。
今までは、理系から文系への進路変更、視力低下していくなかでの小学校から大学までの学校生活などは何とかしてきましたが、就職活動をしている時には、重度視覚障害者は無理なのか、晴眼者と差があるところなのかと思いました。とはいえ、何もしないと始まりませんので、名古屋、大阪、東京の障害者を対象にした就職説明会に順番に行きました。名古屋に行ってもだめで、大阪に行ってもだめで、東京だけが残り「東京に行ってもだめなのだろうなぁ」と思いました。家族からは「東京の就職説明会に行ったら、東京で就職になってしまうよ」、「今までさんざん就職活動をしてきて、世の中の厳しい現状から、行っても無駄ではないのか」と言われました。しかし、「せっかくここまでしてきたのだから、だめでもいいから半分観光も兼ねて、東京の就職説明会に行ってくる」ということで東京へ行くと、企業の数が全然違いました。名古屋、大阪では50社から60社くらいでしたが、東京は300社ぐらいあり、幸いにも現在勤務している会社に出会いました。
特に今勤務している会社に就職したくて面談ブースに行ったわけではなく、勤務地のひとつに大阪があったからです。就職説明会では、勤務地が近畿圏の会社をまわりました。「どうして、この会社を受けるのですか?」と、どこの会社の人事にも聞かれましたが、まさか「勤務地が近畿圏だから」とは言えず、明確な志望動機が答えられませんでしたので、次の面接へはなかなか進みませんでした。1996年のオリンピックイヤーに就職活動をしていました。アトランタオリンピック直後が東京の就職説明会で、「自分はスポーツはできないけれども、スポーツ観戦は興味があり好きです。スポーツや体を動かすことに携われたらいいかなぁ」と言ったのが、どう影響したのかはわかりませんが、面接が進み、今の会社から内定をいただくことになりました。
内定までの選考は時間がかかりました。9月に最終面接を受けて、その後3カ月ぐらいは何の連絡もありませんでした。「ここもだめだったんだな」と思い、新たな進路を考え始めていた、12月初旬に、「選考が長引いたが、採用になります」ということで、連絡をいただきました。幸い、新卒で就職することができました。しかし、「就職活動しても結果がでないなぁ」と思った時は、「理療の勉強をしなければいけないのかな?」ということで、いくつかの盲学校、神戸視力障害者センターの理療科を調べました。「いよいよ理療の勉強をするのか、今までは何とか晴眼者と一緒に進めたのに、新卒での就職はできないのか」と、少し後ろ向きな気持ちの時がありました。しかしながら、今の会社から内定をいただきましたので、理療化への進学という考えはなくなりました。
内定したものの、思い出してみると、面接の時には視覚障害のことをあまり聞かれていなかったのです。「どれぐらい見えているのですか」、「仕事をするにあたり、必要な設備はありますか」ということを聞かれていませんでしたので、「視覚障害のことを理解しているのだろうか?」と不安があるまま、4月から仕事をすることになりました。その状況のなかで、仕事を始めていくのですが、いままでがそんな視力でしたので、アルバイトをしたことがなく、初めて仕事をするということで会社に行きました。会社はどんなところなのか、ドラマの世界しか頭にありませんでした。新入社員はコピーをとり、花見の場所をとりに行くのかなと考えると不安になりました。会社の方も、視覚障害者を採用したことがないため、対応方法がわからなかったようです。ですから、不安に思っていたドラマのようなことはなく、ひとつひとつ確認から始まりました。「必要な設備はありますか」と聞かれました。当時はまだ拡大読書器を使えば文字処理ができていましたので、「拡大読書器が必要です」と答えました。会社がすぐに用意できるものではないと思い、「テレビを用意して下さい」とお願いをし、拡大読書器本体は、自宅で使っているものを会社に持っていきました。自分の所有物を会社に設置し、テレビを会社に買ってもらい、それで文字処理を始めました。こうすればできるということを示しました。
今は白杖歩行をしていますが、入社当時は、0.02ぐらいの視力がありましたので、白杖を持たずに恐る恐る歩行をしていました。通勤と移動はできるということで勤務は始まりました。法人営業部に配属されましたが、具体的に仕事は何をするのかという不安がありました。会社としても視覚障害者の採用が初めてでしたので、どのような仕事をさせたらいいのか、わからなかったようです。
たまたま7月に新店がオープンするということで、その仕事をすることになりました。営業スタッフは、会員集客のために、パンフレットを持って毎日営業に行きます。そのパンフレットは数種類ありました。お店の概要、タイムスケジュール、価格表、招待券、申込書などをひとまとめにして封入する必要がありました。営業スタッフがそれをしていると、本来の営業活動ができませんので、営業が持参するパンフレットを準備する仕事をすることになりました。朝9時過ぎから夕方5時過ぎまで、ひたすら数種類あるパンフレットをひとまとめにして封入するのです。単純なことなのですが、今までしてきたことがありませんので、はじめは効率が悪かったです。数は忘れましたが、たとえば初日に100できたら、2日目は150になり、日々数は増えていきました。営業スタッフは複数人いますが、いつでもパンフレットを持って行ける体制が必要でしたので、いかに速く多く作るのかがポイントでした。それ以外の仕事としては、送られてくる郵便物の仕分け、郵便物を郵便局に出しに行くことでした。今となれば、それが正社員が毎日する仕事なのかという疑問がありますが、営業スタッフが営業に専念できるように取り組みました。
2ヶ月が経ち、仕事に慣れてきたとき、ほとんどのスタッフが出張に行くことになり、「部長とあなただけしか事務所に残りませんので、電話がかかってきたらとって下さい。今日から始めてください。」と言われました。電話をとることになったものの、かかってきた電話に対して、お客さまの用件や連絡先を聞き取り、お客さまが指名するスタッフにきちんと伝達できるのか、そのスタッフが社内にいるのかわかるのか、外出しているスタッフの帰社時間が書かれているホワイトボードが見えないのはどうしたらいいのかなど、不安がありました。その不安を上司に相談したところ、「とりあえずとれば、周りのスタッフがサポートするから」ということで、電話をとり始めました。電話をとった時に「Aさんはいらっしゃいますか」とお客さまから聞かれますと保留を押して、「Aさんはいますか」と周りに確認しました。周りのスタッフが、Aさんがいるかどうかきちんと教えてくれました。いない場合は何時に帰社するのかも教えてくれる環境でした。2週間ほどは不安がありましたが、数をこなすことで電話対応に徐々に慣れました。メモをとって渡すことがありましたが、きれいな字で書けませんでした。それについて指摘を受けることはなく、「読める字であれば、まあ良いだろう」ということでした。電話対応をすることで、仕事の内容、お客さまの要望や問い合わせ、スタッフがしなければならないことなどがわかるようになりました。電話対応をしたあと、自分が何をしたらいいのか、何を求められているのかということがわかるようになりました。
そうして2年目になったとき、本社で管理業務をしている管理職の方が大阪に転勤してきました。管理関係の各仕事を教えてもらいました。取引先への請求書の発行、会社間の契約書の作成、売上計上方法、伝票処理などです。それぞれの期限、注意事項など、細かく教えてもらうことができ、管理業務の基礎になりました。また、エクセルでのデータ集計、加工についても教えてもらうことができました。3年目になり、管理業務の質を高めようとしたとき、その管理職の方は本社に転勤で戻ることになりました。管理業務を身につけるには短い期間でしたが、仕事の基礎となる重要な1年になりました。もう1年あれば、質を高めることができたのにと残念な気持ちでした。そのため、3年目になった段階で、管理業務をひとりですることになりました。わからないことは、本社に聞きながら自分ですることで、それが次第に身についていきました。
当時はまだ、すべてが紙ベースで、書類には上司が所属長印を押していました。作成した書類に印鑑を押してもらっていました。それが3年目ぐらいでしたが、5年目ぐらいになると、慣れてきたということで、営業で多忙な上司は、しっかり書類を見なくなり、「印鑑を渡すから」ということになりました。上司も営業で外出が多く、事務所にいることが少なかったのです。上司が事務所に戻ってくるのを待っていると、仕事が進まなくなり、「今日は何時ごろ帰社されますか?」と聞きますと、「遅くなり、事務所には戻れないので、印鑑は押していい」と言われました。自分で担当者印を押し、所属長である上司の印鑑を押すことが続きましたが、間違いもトラブルもありませんでした。本社はどこまでその現状を認識していたかはわかりませんが、的場から送られてくる書類には、所属長印が押してあるので、確認されているものということで、すべて処理されました。そうなると、「視覚に障害はあるけど、仕事は正確にする」ということで、周りのスタッフとの関係が更に良くなっていきました。
私は緑内障のため、眼圧のことを意識してお酒は飲まないのですが、周りとのコミュニケーションが大切だと考え、仕事終了後にお酒の席に誘われたら、行くようにしていました。お酒は飲まないのですが、その席に行くことで、勤務中には話さないたわいもない話ができました。コニュニケーションが円滑になることで、お互いがわかり合えることもありました。目が悪いだけで、そこをサポートすれば仕事は正確にすることを、周りのスタッフが自然にわかっていきました。
私が書類を確認して印鑑を押し本社と調整をするということが、5年ほど続きましたので、周りとの信頼関係は高まっていきました。一方で、業務は膨大化していました。7、8名の営業スタッフの管理業務をひとりでしているわけですから、朝から夜までしても終わりませんでした。残業になり、9時や10時まで仕事をしていました。終日拡大読書器に向かい、書類を見続けていましたので、疲労もありました。しかし、はじめは週に1、2回の残業でしたが、徐々に業務が煩雑化し、ほぼ毎日残業となりました。それでも時間が足らず、週末に自宅に持ち帰り仕事をしました。自宅で仕事をすることでやっと片付き、月曜日に一からスタートしていました。やはり晴眼者には速さでは遅れます。それをどこで補うのかというと、夜遅くまでするか、週末に自宅でするのかということになります。休みの日は、仕事をしているか休養かで、プライベートな時間はありませんでした。
2004年秋ごろ、視力が低下してきたのか、いよいよ拡大読書器で処理していても追いつかなくなってきました。仕事が円滑に進まないことでストレスを感じるようになりました。このまま、残業や週末に自宅で仕事を続ければ、体調を崩してしまい、取り返しのつかないことになると思いました。また、業務が遅れることで、会社、周りのスタッフに迷惑をかけると思いました。上司に「視力的にきついので、業務の見直しをしてほしい」とお願いをしながらも、後任者がいないこともあり、3ヶ月は現業のままでした。
2005年4月に組織改変があり、部長が変わりました。部長は本社で、大阪には入社時からの上司がいましたが、その上司が退職することが決まっていましたので、この機会に再度相談しなければと思いました。「どうしましょうか?」と上司に再度確認したところ、上司が退職することもあり、直接本社の部長に相談するように言われました。そして、本社の部長に電話をして「着任早々、申し訳ありませんが…」と、視力の状況と業務内容を説明したところ「状況はわかりました」ということでした。翌日、本社の部長から上司に「本人からの申し出があるけれど」と実態確認がありました。「本人の申し出の通りです」と現状とこれまでの経緯が説明されました。それから2週間ほどすると、後任者を決めるから担当業務を洗い出すようにと指示がありました。仕事を一通り洗い出したところ、視覚障害者がひとりでしていた業務を、晴眼者ふたりに引き継ぐことになり、「なんということなんだ」と思いました。もう少し早く相談し改善がなされていれば、ストレスを感じることにもならなかったと思います。しかしながら、相談に対して紳士的に受け止め改善されたわけですから感謝でした。
自分の担当業務を引き継いだ後は、新たな業務として、部門の数値進捗管理(売上、経費、利益の進捗管理)をすることになりました。本社にはそれが精度高くできるスタッフがいなく、結果としては、いいタイミングでの業務内容変更となりました。数値進捗管理をするわけですから、エクセルでの業務がほとんどになりました。その時は、まだズームテキストを使えば何とかなっていましたが、また徐々に見えづらくなり、会社にPCトーカーを買ってもらいました。音声でのパソコン操作がわかりませんでしたので、日本ライトハウス情報文化センターで2時間の講習を受け、基本的なエクセルの操作を学びました。講習後、会社で日々の業務をしながら、音声での操作に慣れていきました。ズームテキストをメインに、PCトーカーを補助的に使う状況が2年弱続きました。
日常の業務としては、管理業務での実務は引継いでいますので、その結果を確認するとともに、営業スタッフの営業進捗を管理する仕事になりました。業務内容から、話をする相手は前から管理職が多かったのですが、数値進捗管理をするようになり、部長職と話をする機会が増え、会社や部門の動きが今まで以上にわかるようになりました。管理職の会議にも出席しますので、大阪の営業スタッフより最新の社内情報を知ったり、言えないことがあったりしました。入社以来人事異動はなく、同じ部署で仕事をしていますから、経験と情報が蓄積されました。大阪のスタッフや異動で着任してきたスタッフから「これはどうなのですか」と聞かれることがよくありました。管理職から聞かれることもあり、自分は必要とされていると感じました。
そのような環境で仕事をしていましたが、また少し見えづらくなったため、補助的に使っていたPCトーカーをメインに使うようになりました。ズームテキストで一応拡大はしていますが、あまり活用できていない実態です。
通勤には、8年ほど前から白杖を使うようになりました。仕事を継続させるためには安全に通勤することが大切だからです。怪我をしてはいけませんし、自分自身が白杖なしで歩行するのが少し辛いことを、2004年秋ごろに感じました。白杖の使用にあたっては、日本ライトハウス視覚障害リハビリテーションセンターで訪問指導という方法で、通勤ルートや日常でよく使う場所の歩行指導を受けました。白杖を使わないと歩けない状況になる前に、先に指導を受けました。現在は白杖歩行となりましたが、安全が確保できました。長期的に会社を休んでの指導は受けず、仕事や通勤、日常生活に必要な指導をその都度、日本ライトハウスで受けました。今でもその指導を受けることがあります。その時は、会社を休むことになります。音声でのパソコンの操作方法、安全を確保するための歩行指導を受けるということで、会社に休みの申請をしますが、上司からは「あなたにとって必要なことなのだから、行くべきだろう」と快く承認をいただけています。
現在はPCトーカーを使い、営業部の数値進捗管理、管理業務の結果確認の業務を継続しています。これだけをするのであれば、エクセルでのデータ処理となりますので、PCトーカーで対応できるのですが、社内システムにはPCトーカーが対応しない部分があります。例えば、勤務実績は社内システムに入力するのですが、それがPCトーカーでは対応しないため、勤務実績報告ができないのです。従来は紙ベースでしたので、できていたのですが、システム化されたのです。事情を説明したところ、エクセルで報告すれば、上司が代行入力することで解決しました。また、本社(東京)へ会議で出張の時は、出張申請と交通費の精算を社内システムでするのですが、これもPCトーカーでは対応しませんので、大阪にいるスタッフが代理で申請をする方法をとっています。その申請ができないから出張がないということはありませんでした。他にも個人情報理解度確認テスト、IT運用理解度確認テスト、方針理解度確認テストなどが社内システムで実施されますが、設問を代読してもらって、回答したものを代行入力してもらっています。こういったことからも、見えないことが直接の原因でできないことへのサポート体制は整っていると思います。
PCトーカーでは社内システムに対応しなく、解決するためにはJAWSを使う必要があります。会社に状況を説明し購入の要望を出しましたが、高額と費用対効果ということから、なかなか了解がとれない現状です。それを解決することが今後の課題かと思います。会議資料や社内情報などは、パワーポイント、PDFが多く、これもPCトーカーでは対応しません。会議で説明されたことは、しっかりと聞き取り、重要なことは記憶するようにしています。重要事項については個別に説明してもらうこともありますが、情報は数えられないほどありますので、取捨選択しています。時間は限られていますので、そのような工夫も必要になります。仕事や日常生活を有意義にするには、視覚障害者関係の情報をとることも必要ですし、社内の情報をとることも必要ですが、情報は散乱しています。必要な情報を効率よくとるとともに、情報を捨てるという工夫も必要だと思います。情報をとり出すときりがないわけですから、割り切らないといけないと思います。自分が情報不足であることは理解していますが、今は仕方ないと思っています。方法によっては、スキルを高め、JAWSを使いこなして、パワーポイントやインターネットなどから、今以上の情報をとることができます。今の自分の課題はそれですが、どこかで割り切らなければいけないという気持ちがあるため、なかなか着手できていません。
今、入社から16年が経ちました。入社した時には、期間はわかりませんが、長く続けられるのか自分でも心配でしたが、よく続いていると思います。会社、上司、一緒に仕事をするスタッフに、自分ができることを明確に伝えることができたのだと思います。視覚障害が直接の原因で、できないと断ることは簡単でした。そうしてしまうとその業務をすることはなくなりますが、他の業務を制限してしまうことにもなると思い、できないことを、どのような工夫をしたらできるようになるかを考えました。諦めたら終わりだと思いました。時間をかければできるのか、人的サポートがあればできるのか、ハード面が改善されればできるのかなど、できるための工夫が何かないかを考え、会社に伝えました。そうしたところで改善されないこともありますので、我慢をして業務を継続することも必要です。
仕事に専念するために、安全に通勤するということで白杖を使っての歩行指導、音声でのパソコンの基本操作の講習を受けました。幸い、白杖歩行、音声でのパソコン操作をするしかないという状況になる前に準備を始めましたので、自分の障害状況を少し余裕をもって受け止めることができました。大学時代には京都ライトハウスで、点字の指導を受けました。1年間、週に2回ほど指導を受け、ゆっくりですが触読ができるようになりました。見えなくなってから点字を勉強するより、少し見えている若いうちに点字の基礎を勉強したほうがいいかと思い、先に時間をとり準備をしました。今回の講演のメモを点字で準備したり、駅の券売機に表示されている点字を読んだりするなどで、ほとんど使うことはありませんが、役立つ時もあります。進行性の目の病気の方、そうでない方、個人個人状況は異なりますが、少し先のことを意識し、受ける必要のある指導はないかを考えてみるのも、大切なことではないかと、今の自分を振り返って思います。
自分自身にも課題はあり、先ほども述べましたが、16年勤務しているとはいうものの、定年まではあと21年もあります。社内システムに音声が対応しないこと、パワーポイント資料が読めないことを解決する必要があります。他にもできていないことはありますので、諦めることなく、課題を解決するために工夫をし続けなければならないと思っています。民間企業は、業績が悪くなれば人件費を削減されることもあります。報道されていましたように、関西の大手電気メーカーの社内情勢は厳しいと思います。業績が良い時は事業を拡大するために人員数が増えますが、業績が悪くなれば人件費削減やリストラになります。自分が勤務している会社も人員整理されていますので、安定して仕事を継続させることの厳しさを感じています。その対象にならないために、常に危機感をもって仕事をし、自分ができること、自分しかできないことを多く作り、「存在意義」を会社に伝えなければいけないと考えています。
話が転々としましたが、以上です。
◆会員・賛助会員の募集
NPO法人タートルは、疾病またはけがなどで視覚障害者となった人が“仕事を続けて行く”ためには、どのようにしていったらいいのかを模索し、支援し合い、そして見えなくても働けることを広く社会に知ってもらうことを目的として活動しています。
人によって“見えない状況”はいろいろですが、見えなくても普通に生活し職業的に自立したいという願いは同じです。一人で悩まず、とにかく気軽にご連絡ください。一緒に考えて、着実に歩んで行ける道を模索しながら頑張りましょう。
また、タートルは、視覚障害者ばかりでなく、当法人の活動をご理解いただける晴眼の方の入会も心から歓迎します。
☆会員募集のページ
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当法人では、相談事業、交流会事業、情報提供事業(IT・情報誌)、セミナー開催事業、就労啓発事業等を行っております。このような事業の企画運営にご協力いただき、一緒に活動するスタッフとボランティアを募集しています。事務局、イベントの運営、在宅での編集作業等、いろいろあります。会員としての活動協力は勿論、会の外からボランティアとしての協力も大歓迎です。
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◆ 今後の予定
6月8日(土)
2013年度定期総会を予定。
3月16日(土)の理事会で決定し、5月初旬頃にご案内できるようにしたいと考えております。
2013年度定期総会も、 東京(日本盲人職能開発センター)を中心に各地スカイプでの中継を考えております。
情報誌第23号は、5月初旬に定期総会の資料を主要内容として発刊予定です。
◆情報誌第21号の一部訂正について
【定年まで頑張りました】のコーナーの中で2箇所です。
@「お蔭さまで、定年を迎えました」
一般財団法人職員 会員 梅澤 正道(うめざわ まさみち)氏の投稿記事の冒頭部分です。
「早いもので、あれから12年。」を削除。
A同氏投稿記事の終盤です。
「東京YMCA」を「東京YWCA」に訂正。
ことのほか寒い冬でしたが、必ず春はやって来るものですね。この情報誌が皆様のお手元に届く頃は、きっと、桜の花便りで、賑わっている事と思います。
さて、今回は、都合により、【定年まで頑張りました】のコーナーに替わって、【職場で頑張っています】の記事を2件掲載させていただきました。この2件の記事は、11月に、関西地区において、有志が交流会をもたれた際、村田さんと的場さんがお話をされたものを、お二人にお願いし投稿していただきました。
9月交流会で講演してくださった、清水さんは、4月から、生まれ故郷の市役所職員として、スタートされるとのこと、おめでとうございます。会員みんなで、エールを送りましょう。
(長岡 保)