1998年10月9日第三種郵便物認可(毎月3回8の日発行)
2012年9月14日発行 SSKU 増刊通巻第4273号
雇用率引上げは絶好のチャンス
理事 篠島 永一(しのじま えいいち)
厚生労働省は、平成25年度から障害者の法定雇用率を引き上げるという。
その結果、民間企業は、1.8パーセントから2.0パーセントに、国や地方自治体は2.1パーセントから2.3パーセントに、都道府県の教育委員会は2パーセントから2.2パーセントにそれぞれ引き上げられる。この法定雇用率は障害者全般についてカウントするもので、個別の障害者について、雇用率が定められているわけではない。したがって、「難しい」とイメージをもたれている視覚障害者の雇用は、思うように進まない。
企業は、障害者の雇用率を達成しようとコンプライアンスに努めている。さらには社会貢献、社会的責任の一環として障害者雇用を環境問題と同等にとらえ、企業のイメージアップや株主への配慮、株価の動向にも影響する等の気遣いをしている。
そこで、雇用主も視覚障害者もこのたびの雇用率引上げをチャンスととらえて積極的にチャレンジしてほしい。
企業は、「目が見えない、見えにくい人たちの働く」を考えるとき、情報が不足していることからくる「移動困難者、仕事などできない」という先入観があって、雇用に躊躇するのではないだろうか。
NPO法人タートルは、企業の2つの基本的な懸念「安全に通勤できるのか?」と「どんな仕事ができるのか?」を知っていただくために、「優秀な人材を見落としていませんか?」というタイトルのDVDを自主制作した。ご活用願いたい。
目が不自由になると、通勤が心配になる。また、文字の読み書きができにくくなる。これを克服するためには訓練が必要となる。移動能力を付けるための歩行訓練、画面文字の拡大や音声パソコン訓練など視覚障害リハビリテーションを受けて、できなくなったことをできるようにするのである。
視覚障害者はいろいろな分野でいろいろな仕事をしている。その職場の同僚や上司は「目が見えない、見えにくい」とはどのようなことなのかを日頃の職場生活から体得できている。視覚障害者本人は「自分ができること、できないこと」を仕事をするなかで分かり合えるように不断の努力を重ねている。
このことは視覚障害者を雇用すれば「難しいというイメージ」が「案ずるより産むがやすし」に変わることを示している。雇用事例を増やすことこそ、視覚障害の理解と雇用につながる。入り口のところを突破すること。優秀な人材を採用するのだととらえることが必要である。
一般的に資格取得試験や入社試験は、視覚障害者への受験手段に対する配慮が不十分である。日商ビジネス検定試験や司法試験のPC受験が可能になってきた。視覚障害者に対して機会均等への合理的配慮が少しずつ進んできているといえる。公務員試験や民間企業の入社試験にPC受験が採用されることを強く望む。
NPO法人タートルは、中途視覚障害者の雇用継続の支援をしている。失業防止こそ、社会的コストの軽減につながり、企業にとっても貴重な人材を失わずに済む。雇用継続を支援することは、新規・再雇用にもつながる、と。
視覚障害者は、社内LANなどネットワークに入ることで、連絡調整はメール、情報収集は社内データベースなり各種ホームページから、届書やスケジュールなどPC上でこなせる。
障害者採用の人事担当者は、就職を希望する視覚障害者の意思、意欲、移動能力、文字処理能力など人柄と技術に充分な理解を示し、採用に踏切ろうとする。しかし、受け皿となる現場でどのような仕事ができるかが分からず、また、人事担当者も説明しきれず、採用を決断できずに見送られたケースが過去に多数ある。優秀な人材を逃したといっても過言ではない。
視覚障害者の雇用事例は数多く紹介されている。そこには自社ではどうなのかを考えるヒントがたくさん含まれている。それぞれの企業がそれぞれに仕事の創出と視覚障害との融合を図っていかざるを得ない。視覚障害者自身もそれぞれ違う、企業もそれぞれ違うのだから、個別的なのだ。
視覚障害者の雇用には、経営トップの理解と決断が極めて大きい。そのためにも我々当事者は、「視覚障害とは?」についての啓発活動をつづけねばならない。
理事 長岡 保(ながおか たもつ)
2012年6月16日(土)に日本盲人職能開発センターに於いて、2012年度通常総会が開催されましたので、以下のとおり報告します。
また、その様子は大阪、福岡の会場にスカイプで生中継されました。
1.日 時:2012年6月16日(土) 10:30〜12:00
2.会 場:日本盲人職能開発センター(東京都新宿区)
3.出席者:128名(うち委任状提出者数:99名)
4.次第
1)開会
2)議長選任
3)審議
第1号議案 2011年度事業報告
第2号議案 2011年度収支決算報告
第3号議案 監査報告
第4号議案 2012年度事業計画
第5号議案 2012年度収支予算
4)閉会
5.開催結果
議長に理事の下堂薗保氏が選任された。
その上で、第1号議案から第5号議案まで、異議無く賛成多数で原案通り承認可決された。(総会資料はタートル19号に掲載)
以上ですが、今年度の総会の特徴は、第4・5号議案の説明後の質疑を、議長の計らいで、フリートーキングとでも言うのでしょうか、タートルの今後について、どのようにしていったらよいか、色々な意見を述べてもらったところにあります。その内容を、紙面の関係上、要約して紹介させていただきます。
SK氏: 資金面をはじめ、各種課題があるので、これまでのように内々だけで検討するのではなく、タートルの活動を外に向け発信し、活路を見出すとか、若い世代の登用をするとか中長期ビジョンを作成し、検討していただきたい。
IH氏: タートル会員になり4年が過ぎ、比較的若い方であり、運営委員として、活動をさせていただくことになった。長期ビジョンはとても大事なことだと考える。また、単年度計画も、もう少し詳細にスケジュール化した方がいいと思う。
SM氏: タートルとして、今やっていることを明確化して、しっかりと血の通った活動・交流をやることが大切だと考える。また、今まで積み上げたノウハウをしっかり次の世代につないでいく事が大事だと考える。
AH氏: 現実、タートルは何ができるのか、何をしたいのかをもう少し明確化して、今後進んで行ったらよいと思う。そういう面で、SK氏が言うとおり若い人の力、若い人の発想は、とても大事なので、そのあたりをうまく融合していければよいと思う。
SE氏: タートルがいろいろといいことをやっているのは間違いないところである。それを少しでも多くの人に知ってもらうよう、HPに掲載しているが、ツイッターやフェイスブックで皆さんが発信していくのも一つと考える。
内々で活動するだけでなく、いろいろな人が入って来られるような場をつくりたい。例えば、セミナーに参加頂いた講師の方や参加された方々などに、もっと声をかけていくことなどを考えていけばよいのではと考える。
HY氏: 次の世代、その次の世代の年齢層がまばらにならないよう、タートルの九州地区を、つくり上げていきたい。
YH氏: まだ一歩ずつ積み重ねていく段階ですが、関西でタートルのことを知ってもらう啓発をしていきたい。
「私と仕事」 〜弁護士となって〜
弁護士 大胡田 誠(おおごだ まこと)氏
ご紹介いただきました弁護士の大胡田誠です。
本日は、タートルの会の講演に先立ちまして、視覚障害者に関する就労状況を大まかに調べてきましたので、紹介後に講演に入ります。
6年前の平成18年のデータですが、現在、日本には在宅の18歳以上の視覚障害者が、379,000人程度いますが、この中で就労中の人は、81,000人で、21.4%となっており、過去10年間低下し続けています。
10年前の平成8年では、26.2%で、4.8%も減少していますので、不況などの事情が、色濃く影響しているのだと思います。
また、視覚障害者の職種データでは、統計によると、按摩、鍼、灸の三療に従事している方が、29.4%の約30%程度です。その他、専門的・技術的職業に従事している方は11%、農林水産業に従事している方は8.6%です。
あとは、工場などで生産分野に従事されている方と思うのですが、生産工程・労務関係の方は7.4%、事務系に従事している方は7.4%、これまでで7割程度となります。残りの3割は、家業を手伝っているとか、学校の教員や、私のような弁護士などの職業に従事する方となります。
このデータから見ると、在宅のうち就労しているのが5人に1人、そのうち多数を占めるのが、三療を自営で営んでいる方、次の専門的・技術的職業では、電話交換手やプログラマーなどの方が多いようです。
これらの職業は、それぞれ課題に直面しており、三療の業界では、健常者の進出が激増しています。従来、三療の8〜9割は視覚障害者と言われていましたが、今は半数を切っていると聞いており、これからも健常者が大いに進出していくと思います。
また、電話交換手の職業では、ダイヤルイン方式が主流となり、交換手としての需要が減少しています。プログラミングでは、マウスを使って、グラフィカルなものをつくるプログラミング環境のGUI化が多くなり、従来の文字ベースだけのプログラミング技術では、太刀打ちできない状況になってきています。
このように、視覚障害者が得意とする業種では、今後就労しづらくなる反面、ITの進歩により、一般事務系の雇用分野に進出する可能性は高まってきているといえるでしょう。
先程の統計では、一般事務系に従事する方は、7.4%で、6,000人程度となっていますが、この業種を伸ばすことにより、視覚障害者全体における雇用率向上に繋がると思いますし、一人ひとりにとっても、職場に復帰することや、仕事を得るという意味では、この分野が今後注目されると思います。
それでは、「私と仕事」という演題をいただきましたので、現在における私の仕事内容と、私がどのように育ち、どのようにして弁護士になれたのかを中心にお話します。
私は、渋谷にある渋谷シビック法律事務所という弁護士事務所に勤めています。事務所には、全員で12人の弁護士がいますが、勤務年数が5年目ということもあり、中堅どころの役割となっています。
この渋谷シビック法律事務所は、東京の第一東京弁護士会という弁護士の団体がお金を出して作った、いわゆる公設法律事務所の一つです。
弁護士会が、何故このような弁護士事務所を作らなければならないのかといいますと、日本では、依然として、弁護士を雇うためには高額のお金が必要だったり、一見さんはお断りという事務所もあったりと、一般の市民の方が十分に弁護士のサービスを受けることが出来ていないからです。
これは問題だということで、お金がなくて着手金などが用意できない方、紹介者がいない方でも、誰でもが仕事を頼めて、十分なサポートが出来るようにしなければという趣旨でつくられたのが、渋谷シビック法律事務所をはじめとする都内に7つある公設の法律事務所です。
現在、私は常時50〜60件程度の事件や相談を取り扱っていますが、その中の半分から3分の2程度は、借金がらみをはじめ、自己破産、民事再生などの事件となっており、残りは、家事事件などによる相続や、離婚問題です。
また、国選の刑事弁護では、現在も2件取り扱っています。1つは子どもが親を殴って怪我をさせたという事件、もう1つは逆に、父親が実の娘を姦淫したという非常に残酷な事件です。
このような仕事の中で、私は最近インターネットを使った詐欺が増えていると感じています。例えば、出会いを求めて登録すると、異性からメールが届いて、メールの交換ができるような出会い系サイトがありますが、調べてみるとほとんどがサクラです。
何故サクラを使ってまでも、サイトが商売をしているかというと、このサイトを通じてメールをやり取りした場合、1通の送信・受信で、それぞれ200円とか300円などの料金がかかるからです。
しかし、一般ユーザー同士では、仲良くなるとお互いのメールアドレスの交換や、電話番号の交換をして、お金のかからない方法でやり取りをします。このようになるとサイト側は儲かりませんので、自分のサイトを利用させるべく、サクラを大量に動員させて、課金制のメッセージのやり取りをさせようとしているのです。
ちなみに、普通のオフィスビルの一室に沢山のパソコンと、サクラと呼ばれる男女が、パソコンに向かいメールを打っている場所を弁護士内ではメール工場と呼んでいます。
このような出会い系サイトの他に、競馬情報詐欺などもあります。「私どもの会社に登録すると、出来レースといって既に着順が決まっているレースの情報をお教えします」といううたい文句で顧客を勧誘するのですが、当然無料ではありません。予め配当金の何%かを支払えば、「レースの結果を教えます」と言うのですが、なんだかんだと勿体をつけて、最後まで勝ちレースの情報は教えてもらえずに、情報料だけを取られます。
また、最近では、自分の購入したクジ番号と、当選番号が合えばお金をもらえるというロト6での詐欺もあり、手口は、競馬詐欺と同様に、「このクジの番号は予め決まっているので、お金を払えば、あなたにだけ当選番号を教えます」というものです。当然、当選番号は決まっていませんし、任意に当てさせる番号なので、詐欺行為となるのです。
このように、インターネットは便利な反面、その匿名性や、クレジットカードなどで簡単にお金が支払えるという特性を利用されて、詐欺が横行しています。皆さん、うまい話は、嘘の場合が大半を占めますので、「もしかしたらこれは詐欺ではないか」と思ったら早めに弁護士に相談してください。
このような事件の他に、障害者に関する事件も代理人として担当しています。例えば、男性の視覚障害者が、駅で白杖をついて歩いていたところ、白杖が女性の足に引っ掛かって、転んで手首を骨折したため、女性がその視覚障害のある男性に対して損害賠償を求めているという裁判があります。
私は、視覚障害の男性側の代理人をしていますが、骨折された女性に対して、かわいそうだとは思いますが、十分な注意を払って白杖で歩いている際、白杖が足に引っ掛かって、転倒などをさせてしまうと多額の損害賠償を求められるというようなことになっては困りますので、大切な裁判だと思い取り組んでいます。
次に私は、弁護士の仕事において、どのような工夫をしながら、仕事をしているのかを話します。一般に視覚障害者は、読むこと、書くこと、移動することが大変だと言われていますが、私はITの利用と、アシスタントとの連携により、ハンディを克服しています。
ITの利用では、私が携わっている司法の分野は、メールなどでのやり取りは一切無く、裁判所とのやり取りは、書類を直接手渡しするか、もしくはFAXでの送信となりますので、私1人で処理することは難しいわけです。
しかし、最近はスキャナーで原稿を読み取り、OCRソフトで画像認識して、文字データに変換するというソフトの性能が向上していますので、私はOCRソフトを使って、音声パソコンで書類を読んでいます。書類の読み込みや調査が仕事の約3分の1で、音声パソコンを使って、書類を作成することが、もう3分の1程度です。
弁護士の業務は、判例と条文の調査が非常に不可欠なので、ITの進歩は、私にとって革命的な出来事でした。
当初は、インターネットの判例業者のデザインが、フラッシュを使っていたため、音声パソコンで読み上げさせることができませんでしたので、私はこの企業に出向いて、視覚障害のユーザーもいるので、使えるようにして欲しいと依頼したところ、多少時間はかかりましたが、問題なく全ての機能が使えるようになりました。
また、昔は条文の調査をする際、広辞苑よりも分厚い六法全書という法令の本で引いていましたが、最近は国のホームページや、民間でおこなっているインターネット上のデータベースなどから引けるようになりました。これにより、法令、法律、条例の他、厚労省の通知なども含めて、ある程度の判例と条文が引けるようになり、音声パソコンを使い、独力で判例と条文の調査ができるようになりました。
一方、どんなにIT機器が進歩しても、人の手を借りなければならない業務があります。例えば、書類をスキャナーにて電子データに変換する際、OCRの性能が向上したといっても、全ての文字を正確に認識することや、手書きの文書は文字認識することができませんので、アシスタントに認識間違いの文字修正や、直接入力して、電子データを作成してもらっています。
また、離婚事件で、男女がホテルから出てくる写真がある場合、自分で認識することはできませんので、アシスタントから写真の状況を聞いて内容を把握します。
その他、週の3分の1程度は、裁判所に出かけたり、刑事事件の犯人が捕まっている警察署での面会や、事件の現場を直接調査したり、地方の裁判所まで出張しますので、移動の問題が出てきます。
移動の際、基本的にアシスタントからの支援を受けますが、何度も行く施設は、私自身が、道にランドマークを覚えておき、2回目以降は1人で行けるように心掛けていますので、アシスタントも「この道の3本目を曲がると、裁判所です」というように、教えてくれるようになりました。
また、警察署の犯人に面会に行った帰り際に、「犯人は結構イケメンで、先生が帰られる時には、深々とお辞儀をしていました」などと折に触れて貴重な視覚情報を伝えてくれるので、その犯人の人柄が分かったり、どのような気持ちなのかを推測する材料となっています。
しかし、弁護士になりたての頃は、依頼者が弁護士事務所にきて、目の見えない弁護士が白杖で歩いてくると、依頼者に不安を与えてしまい、信用してもらえないという問題がありました。例えば、先輩と2人で面談している間は、「先生の言う通りです」などと丁寧な言葉を使うのですが、私だけが部屋に残ると、友達口調になり「先生だけで大丈夫ですか、あの先生をもう一度呼んで来た方がいいんじゃないですか」などと言われ、困ることもありました。
私が読んだビジネス書の中に、人が誰かに会った時に受ける印象は、何を元に形成されるのかという参考資料では、表情などの外観が55%、声のトーンや話し方が38%、言葉や話の内容が7%ということでした。
私も弁護士となり、法律の知識や仕事のスキルには多少の自信がありましたが、先程の研究に従うなら、それは、7%の部分でしたので、信頼と安心をしてもらうためには、表情を含めた外見と言葉の話し方やトーンにも気を配らなければいけないと実感しました。
そこで、1つ目の外観を向上させるべく、私は新宿の伊勢丹に行き、スーツ売り場の店員さんに、弁護士となって間もないのですが、依頼者の方に信頼してもらいたいので、スーツの着方を教えてくださいと聞いたところ、「スーツのデザイン性や、高額な生地ではなく、自分の身体の肩と袖に合ったサイズを着てください。また、色使いでは、スーツとネクタイとシャツの色を合わせて、3色以内に収めると、スッキリして見栄えがいいですよ」とのことでした。
また、外見に気を配る手段として、色を教えてくれる器械を持ってきましたので、実演します。シャツに器械を翳すと「白」、スーツに器械を翳すと「灰色」というふうに教えてくれるのです。
2つ目の話し方や声のトーンでは、昔ミュージカルの俳優をやっていた知人に発声のコツを聞いたところ、「座った体勢では、お尻を引き締めて、お腹に少し力を入れて胸を張り、肩の力を抜くこと。姿勢が一番大切だ」と言っていました。イメージとしては、頭のてっぺんから、ピアノ線のようなものでつり下げられているような感じです。姿勢と合わせて、「喉の奥を開いて、少しゆっくり目に低めのトーンで話をすると、依頼者は、自信のある弁護士」と感じるそうです。このような形で、外見の55%、声のトーンと話し方の38%の部分を向上させようなども努力してみました。
そして、弁護士の経験を重ねるうちに、信頼されるためには、相手の話をよく聞くことが、重要であることに気付きました。一見して当然のことだと思われるかもしれませんが、意識して人の話を聞かないと自分本位に話したり、相手が望んでいることとは別のことを頑張る場合がありますので、話をよく聞くことは大切なことなのです。
人間関係は鏡のようなものですから、相手に信頼され、理解されたいと思うなら、まずは、自分が相手を信頼し、理解しようと努めなければならないということを、弁護士の仕事をしていく中で学びました。
今、私が心掛けていることは、依頼者と面会する際、支離滅裂なことを言われる方や、道理が通らないようなことを言われる方がいますが、相手の話は、決して遮らないようにして、相手の感情が出てきた時に、タイミング良く相槌を打つようにしています。
例えば、「旦那に浮気をされ、本当に辛かったのです」というように相手の感情が出てきた時に、タイミング良く「そうなのですね」と相槌を打つと、話を正面から受け止めてくれているという印象を与えます。
また、相談者との会話中に、時々「これは、こういうことですね」などと自分の言葉で相手の話を要約してあげると、一つのレンガが、一つずつ積み重なっていくように、依頼者との良好な関係が築かれます。
現在、弁護士となって5年目です。仕事にも流れができてきて、仕事が面白いと思えるようになりましたが、一番の喜びは、依頼者から感謝された時に尽きます。
例えば、刑事事件で弁護を担当した方から、刑務所の中から、手紙が郵送されてきたことがあります。その方がいた中国地方の刑務所には、刑務作業に点訳や朗読の課程がありましたので、「私は点訳を勉強して、いつか先生のお役に立とうと思います」という手紙をもらい、弁護士になって本当に良かったと思いました。
次に私の生い立ちの話となりますが、私は生まれつき強度の弱視で、先天性の緑内障という病気で、いずれ失明するだろうと小さいころから言われており、小学校6年生の12歳の時に全盲となりました。
今でも覚えていますが、理科の実験でホウ酸を使う機会があり、ホウ酸は、目薬の原料らしいと聞いたので、実験中に隠れて、ホウ酸を目に入れてこすってみたりしていました。あとで聞いた話では、ホウ酸は目を洗う薬の材料なので、何の効果もないということでしたが、当時は視覚障害を受け入れることに大きな抵抗があったことを覚えています。
中学校からは、一般の学校に行くのは困難ということで、東京の筑波大学附属盲学校に入学しましたが、当初これまで自分ができていたことができなくなり、友達とも離れ離れとなり、自分はみんなと同じ世界ではなく、これから別の世界で生きるのだというふうに、暗い気持ちでいました。
ところが、中学2年生のころ、夏の読書感想文は何を読もうかと、図書館で探していたところ、日本で初めて点字を使って司法試験に合格された弁護士の竹下先生が書いた『ぶつかって、ぶつかって。』の本に出会いました。
私は目が悪くなり、これからはマッサージ等の仕事しかないと思っていましたが、目が悪くても、頑張って勉強すれば、弁護士になれるのだと気付かされると同時に、もしかすると、いろんなことができないと思っているのは自分だけで、できることは多いのではないかということをこの本によって知ったわけです。
その後、主たる国立大学を受験しようと問い合わせたところ、「今年は準備が間に合いません。来年であれば考えます」という対応でしたが、慶應義塾大学は受験できましたので、試験を受けて何とか補欠で合格しました。
それまで、盲学校で中学時代と高校時代を過ごしてきた私にとって、大学に入学したことは、目の見える人の社会に入った大きな出来事でした。
しかし、下宿先を探す際、借家等の家主に問い合わせたところ、「目の見えない学生の一人暮らしの方に、お貸しすることはできません。火を使ったら危険ですから」と言って貸してくれるところが見付かりませんでした。結局、学校から1時間以上離れたところにある下宿に入居することになったのですが、これは、初めて社会の差別を痛感した瞬間でした。
また、大学の授業中に教授から、「大胡田君前に来てくれ。ある学生から、君の点字を打つ音がうるさい。やめさせてくれという意見があるので、君は学生の座っていない後方の席で授業を受けてくれないか」と言われました。私は、大学生となり、希望に胸を膨らませていた矢先の出来事でしたので、思わずその場で涙ぐんでしまいました。
ところが、晴眼者の学生から、「先生、それはおかしいです。大胡田さんも自分たちの仲間なのだから、好きな席で授業を受ける権利があるはずです。点字を打つ程度の音であれば我慢するので、受けさせてあげてください」という声の後、30分程度の大討論会となりました。結局、教授の方も折れてくれて、これまで通り私の好きな席で授業を受けられるようになりました。
このように、大学での経験を通じて、社会は目の見えない人に冷たく、辛いものだと感じる反面、辛い時に差し伸べられる手は、本当に温かく有難いものなのだと知り、私も手を差し伸べられるような人間になりたいと思い、弁護士になりたいという気持ちが一層強くなりました。
次は、司法試験のこととなりますが、私は最終的に5回の司法試験を受験しましたが、ハードな試験であることは間違いありません。私が合格する前は、誰でもが受けられる試験でしたが、ここ5年ほどで司法試験は、専門の法科大学院を出た方を対象に、卒業資格が受験資格となる制度となり、法科大学院を卒業後、5年以内のうち3回しか受験できず、この3回に失敗すると、受験資格がなくなるという厳しい試験に変わりました。
私が合格した2006年は、この新しい司法試験が始まって第1回目の試験でしたが、この試験の始まりに際して、私はあることを画策しました。これまで、司法試験は点字や拡大文字での受験が認められていましたが、私は中学生から点字を勉強しましたので、点字の読み書きが遅く、司法試験のような長大な文章を時間内に読むことができないため、自分の音声パソコンで、何とか司法試験を受けさせて欲しいと、法務省に交渉しました。
新しい試験方式で始まる年でしたので、法務省も制度を変える以上、いろんな人が受験できるシステムを構築する必要があり、よい時期だということで、音声パソコンでの受験を認めてくれました。
試験当日、音声パソコンを会場に持ち込んで、そのパソコンを使って問題を読み、ワープロで作成した回答をプリントアウトして提出するという受験方法でした。
また、司法試験の時間は非常に長く、一般の試験時間は、4日間で22時間30分となり、私の場合は、マークシート試験で2倍の延長、論文試験で1.5倍の延長が認められたので、4日間で36時間30分の試験時間となりました。このように司法試験は、頭が良くても、法律的に能力があっても、体力がなければ勝ち残れない試験だと感じました。私は4日間の試験終了後、もう二度と受けたくないという思いでした。
試験では、何度も難しい問題に直面して、これは無理だなと思う瞬間がありましたが、みんながベストを尽くして、受かるために必死の思いで受験している中、人より一歩前にでなければいけないと思いました。
最近読んだ本に、宮本輝という作家が競馬の騎手と対談した記事があり、競馬のゴール直前では、騎手の能力も近く、馬も拮抗しているという状況で、何が勝敗を決めるかというと、騎手の気迫だと言うのです。そこで、宮本輝が騎手に、「先生はそう言われますが、みんな必死になり、勝とうと思っているので、気迫は同じなのでは」というと、騎手の方は、「確信を持った気迫と、そうでない気迫があり、頑張ろうという気迫だけでは、意味がない。自分は、勝てるという確信を持ち、頑張る気迫のある人が勝つ」と言うのです。
最後の最後で確信を持つためには、毎日の練習、毎日の馬の手入れを欠かさずおこなうことが必要であり、いざというときの自信や確信の量はそれまでに積み上げてきた努力の量に比例するというわけなのです。
これは、人生においても同様のことが言えると思います。これから先、何か困難なことがあっても、負けないためには、毎日の努力を欠かさずに、自分自身がやれるという確信を持つことが大切なのです。
ところで、このような講演の際、「大胡田さんは、ストイックに頑張られていますね」などと言われますが、実のところ、私はストイックではなく、快楽主義者で、楽しいことが大好きです。このような自分が何故弁護士となり、現在仕事ができているのかを私なりに分析してみます。
私は、常に、目の前に壁がある場合、壁の高さだけを見て諦めるのではなく、意識して、どういうふうに乗り超えていこうかという発想をするようにしています。
私はこの3月に本を1冊出したのですが、その本の帯には、「だから無理」より「じゃあどうする」のほうが面白い!と書きました。
今まで、私が生きてきた中で1つ学んだのは、何かにぶち当たった時に、無理だと
諦めるのは簡単だが、思い止まり、ではどうする、じゃあどうすると思えた方が、絶対に人生は面白くなるという確信です。
この先も、いろいろと困難なことが待ち構えていると思いますが、その時も、「だから無理」よりも、「じゃあどうする」の方が面白いという言葉を自分に言い聞かせ、生きていきたいと思っています。
では、私の話をこれで終わりたいと思います。ご清聴ありがとうございました。
☆プロフィール
1977年静岡県生まれ。先天性緑内障により12歳で失明。
筑波大学付属盲学校の中学部・高等部を卒業。
慶應義塾大学法学部卒業後、同大学院法務研究科(法科大学院)修了。
2006年、5回目のチャレンジで司法試験に合格(苦学、8年に及ぶ)。
全盲で司法試験に合格した日本で3人目の弁護士になった。
2007年 渋谷シビック法律事務所に入所。
債務整理や家事事件(相続、離婚など)、国選弁護などに従事するほか、障害者の人権問題についても精力的に活動中。
「10年の空白を越えて」
(システムソリューション会社勤務) 会社員 SR 氏(36歳、東京都在住)
私は、システムソリューションの会社に勤務しております、SRと申します。大学卒業から、障害の発症、ワークセンターでの訓練から就職するまでに乗り越えてきたこと、また働き始めて感じた、これから乗り越えていくことについて、お話しさせていただきたいと思います。
唐突ですが、私は大学卒業後、約10年間、空白期間があります。そのような私が、契約社員という非正規の雇用形態とはいえ、企業に採用していただいた経緯について、お話させていただきます。
10年間の空白期間、何をしていたかと申しますと、何をやりたいのかわからず、3年間飲食店でアルバイトをしながら、模索していました。そのアルバイトも、人間関係でいやになり辞めてしまいました。しかし辞めてみると、まずやることがありません。私は学生の頃から、知らない街を散策したりするのが好きでしたので、近郊の街を散策するようになりました。また、遠い異国の地に行って放浪してみたいという願望も持ち合わせていました。その時期に、インターネットで、バックパック旅行と言うものを見つけ、心が魅かれました。今まで知らなかったバックパック旅行について、インターネットで検索し、自分で調べられることは、すべて調べて準備をしました。準備をしながら、自分の意志でバックパック旅行に出る、という決意をしました。
当然、両親には反対されることは、わかっていましたので、出発の前日まで黙っていて、当日になって「今から当分、外国に行って来る」と告げて旅立ちました。
2003年の、東南アジアでの「サーズ」と呼ばれる重症急性呼吸器症候群が、ちょうど出発前夜にニュースで報道されたことも重なり、単身で、長期間見知らぬ土地に行くのですから、出発前夜は本当に怖かった記憶があります。
10カ月の旅行中、様々な国、人とのふれあいをとおして、これまで真っ暗闇にしか見えなかった自分の人生の先には、実は道がつながっているのだ、ということに気付きました。 このバックパック旅行の体験から、私は、未知のことにも勇気を持って行動すれば、道は開ける、ということを学びました。
帰国後、意欲的にアルバイトをしておりましたが、しばらくして、精神のバランスが崩れ、たとえば誰かが自分の悪口を言っているように思い込んでしまい、攻撃されていると感じてしまう統合失調症という病気を発症してしまいました。
服薬により、精神は落ち着きを保ち直しましたが、病前と病後で、自分自身が何をするのにも意欲がわかないように変わってしまった、と感じるようになっていました。
パックバック旅行をとおして、やっとつかんだ、人生を前向きに生きるという思いと、ハンディキャップを負ってしまったという、現実との狭間で、とてもつらい時期を過ごしました。そのうち、病気に甘える思いが表れ、いわゆる負け癖がついてしまい、何をやっても、私は病気のせいで駄目なのだと、無意識に、自分にマイナスの暗示をかけてしまっていました。
そんな私を劇的に変えた事象が、父親の死去と、とある方との出会いです。
まず父親の死去により、今まで完全に経済的に頼っていた私は、自分が、なんとか稼いでいかなければならない、という現実に直面いたしました。
私は当時、病気の為に頭がはたらかず、病気の為に仕事ができない、と思っておりました。ところが、それが、ちょっとした勇気から、私の人生は、好転しました。
簡単にそのエピソードについて、ふれさせていただきます。父親の死去の直前に、定期的な通院をしていた病院の薬局で、以前、病気の患者会で知り合った人を、偶然見かけました。 当時私は、自分の病気がばれてしまうのが嫌で、会話をする気が起きませんでした。しかし、その時は、自分の病気をなんとかしたいという思いから勇気を出して「病気の方の調子はどうですか」と話かけてみました。そこでその方から、ケースワーカーさんの事を聞きました。
その後、父親の死去に伴い、私の肩に生活がかかっている現実に直面し、ふとケースワーカーさんの存在を思い出し、相談してみよう、と思いたちました。ケースワーカーさんが、就職サポートセンターを勧めてくれた時、働くのは億劫というか、正直、面倒くさい、と思っていました。でも、生活保護になると、引っ越しをして、他の家に住まなければならなくなる。それなら、自分で、家賃や生活費を稼ごうと思い、就職サポートセンターに、通おうと考えました。
初めて就職サポートセンターに通った初日、電車から見えた自宅を見て、母親を一人残して、現実に俺が頑張るという気持ちが、一気にわいてきました。
就職サポートセンターに通ってから、心に決めたことは、できないと思い込まないことです。できないと思い込む心を、徐々にできる、と思うことにしました。そうすると、あきらめていた心が、意欲やチャレンジ精神を、徐々に取り戻していきました。
次に、就職サポートセンターの講師の方との出会いについてです。チャレンジ精神を取り戻しながらも、慣れない環境に、緊張をしながら通った就職サポートセンターで、IT即戦力講座という講座を受講した際の講師の方です。
ITの「I」の字も全く知らなかった私は、授業スタイルに面食らいました。講座が始まって4回目ぐらいだったと思います。授業でいきなり、「CSS」というのは何か、という質問が飛んできたのです。
今でこそ、「CSS」とはホームページを作る際に、文字の大きさや、フォントの種類の変更といった、デザインやレイアウトを定義するもの、とわかってきましたが、当時は何のことかさっぱりわからず、訳のわからない世界に拒否反応を起こして、「わかりません」と答えました。講師の方は「それではインターネット検索で調べてみよう」と提案されました。
そこで検索窓に、「CSS」と入れて検索をしてみたものの、出てきたページはどれも専門用語で書かれたサイトばかりでチンプンカンプンでした。やっぱりわからない、とすぐにあきらめた私でしたが、講師の方は、隣の人と一緒に調べてみよう、と周囲とコミュニケーションを図ることを提案されました。すると、不思議なことに、解決方法が見つかったのです。専門的に書かれているページが多い中、簡単にわかりやすく書かれているサイトも存在したのです。「CSS」とは、「cascading style sheets」の略でWebページ(ホームページ)のデザインやレイアウトを定義するもの、と書いてありました。
そのときは、あまり感じませんでしたが、一つの気付きにであったのだと思います。私は、こういう感じで物事を理解して、自分流に取り込んでいけばいいのだな、と気付いたのです。授業のペースは速く、手取り足取り教えてくれるスタイルではないので、生徒からの非難や、授業から抜けていく者も増えてきました。
私は、わからないながらも、何とか食いついていきました。自分でやっていくしかない、という必死さが、じわじわと、みなぎって来たところだったのです。何とか授業に食らいついて、やる気だけはありました。やる気を継続し意欲をキープすることで、授業の目標に掲げた、サポートセンターのホームページを作る、ということを達成できたのです。それは、「HTML」や「CSS」は、丸暗記の必要はなく、どのサイトをみれば解決法が書いてあるのか、解決までの道のりの、たどり方がわかればよい、ということに気付いたのです。 コツさえつかんでしまえば「あとは自分がやっていくのだ」という意欲をキープして、一歩ずつ地道にやっていくだけです。いろいろな方々からアドバイスをいただきながら、地道にやっていったら、自分でも驚きましたが、何も知らないところから、サポートセンターのホームページを完成させる、というところまで、たどり着いたのです。
まだ序章でしたが、大きな自信につながりました。障害になってから、初めてのブレイクスルー体験でした。
その後、その講師の方がセンター長を務めることになった、ワークセンターへ転籍したのですが、ワークセンターでも多くのことを学びました。ワークセンターの立ち上げに伴って、一期生として転籍しましたので、まず利用者がいませんでした。
これからワークセンターの運営の柱になる、訓練生による仕事も、模索している最中でした。私は、ワークセンターの存続に、訓練生として必死の思いで応えよう、と思っておりました。今思えば、私自身に物足りないところも、多々ありました。
しかし気持ちは、自分自身の未来へ、そうしてワークセンターの存続へと向いていました。しだいに、ワークセンターの訓練生も増えてきました。そうすると、いろいろな方がいて、お互い訓練生同士が、よく思ったり、思わなかったりした時もあります。
そういう、何事も思うようにいかない、生きづらさ、も、会社に入って、社会人としてやっていくうえでは、経験できて良かったと思っております。
ワークセンターで、リーダーの役割を任せていただいた時です。私は訓練生をまとめきれずに、技術を学ぶために来たのに今はその技術を学ばずに、人の面倒をみているだけではないか、と思ったこともあります。そういう、不平や不満も、感じることができたのは、ワークセンターが生きた学びの場であったからです。今私が、社会人一年目でやっていくのに、ワークセンターでは役に立たないと思っていたことが、非常に役に立たっています。逆説的な感じなのですが、私も、後になって気付いたことです。
役に立たたないと自分が思うことも、頑張るというのは、社会で生きていく上では、よく出会う状況だと思いますし、必要な能力の一つなのではないかな、と今は思えます。他の訓練生が、技術で着実に芽を伸ばしていく中、リーダーという、私にとっては望んでいなかった役割を、意地でもまっとうしきったということが、ワークセンターで学んだ大きな収穫です。やはり「継続は力なり」だと思います。
それから、未熟な我々障害者を温かく見守り、支えてくださった、スタッフの方にはお礼を申し上げたいと感じております。多くの訓練生が仲間だ、と認め合える環境が、ワークセンターにはありました。皆で、切磋琢磨し合える世界の縮図が、ワークセンターにはありました。その縮図から多くを学んでいたことに気付かされる日々です。
努力の大切さ、必死になること。ライバルがいること、仲間と協力していく大切さ。不平不満がある中で、組織としてどう行動するのか。未知の分野にもチャレンジ精神を持って望むこと、ライバルに向けられる憧れや嫉妬、などもありました。
さて、ワークセンターでの訓練も1年を迎えようとしていました。サポートセンターから数えると、1年10ヵ月が経とうとしていました。就職に際し、私も希望条件などいろいろありました。主にワークセンターでは、Webデザインを学んでいたのですが、私を欲しい、と言ってくれるところはほとんどなく、あせっていたのを覚えています。
そんな時、ワークセンターから「年齢の制限が引き上がったから受けてみないか」とシステムソリューションの会社を勧められました。Webデザインの世界に行くものと思っていた私は、システムソリューションは無理だと思いました。
しかし、心の中では密かに、ワークセンターで、自分が身につけられなかった、データの処理や分析の仕事ができるかも知れないという、あこがれも抱いていました。そして、ワークセンターに関わる多くの人の応援を受け、私は、全力で面接に向かいました。
障害者の面接だから、一回で合否が決まるもの、と甘くみていた私は、現実に向き合いました。そう甘くはなかったのです。障害者といえども、厳しく会社側はみてきました。私は3回の面接に必死に全力で臨みました。「落ちたな」とか「興味なさそうだったな」と落ち込んだりもしました。しかし、ここまでがんばってきた1年10ヶ月のすべてを出しきろうと思っておりました。最後は必死さが伝わって何とか採用していただきました。
入社3ヶ月目ぐらいまでは、なにせ初めての就職で社会人デビューなので、35歳にして浮かれていました。ところが、現実が見えてくると一気に疑心暗鬼にとらわれてしまいました。まず、生活が想像よりきついことがあげられます。親元で長らくアルバイト生活をしていた私ですから、中途入社で障害者枠での社会人生活のスタートが、これほど厳しいものだとは想像がつきませんでした。仕事も、ワークセンターで行なっていた仕事の、何倍かの密度と量がありました。働き始めた頃は、電車でよく居眠りをして、駅を乗り過ごしそうになったものです。
しかし、頭の回転も、病気になったばかりの頃のよどんでいた時に比べ、今では、病気をほとんど意識しなくなるぐらい、良くなってきましたし、障害に負けないようにがんばっていこうと思っています。そうしないと、自立ができません。
これから乗り越えていくことは、自立に向けて、まずは会社の正社員の方々と同等な働きが、できるようになることです。コピー、書類の整理、ファイリング、申請書類等の記入および処理、PCのセットアップ、データ入力、データ処理、ソフトウエアの貸し出し、郵便物の配布、郵送などいろいろ仕事を任せていただきましたが、これからは抽象的ですが、作業から仕事に意識を変化させていく必要を、感じております。
まだ私も、つかみきれてはいないのですが、与えられた作業をこなすだけより、自ら価値を生み出す仕事を、つくり出していかなくては、と頭では少し意識し始めたのですが、正直まだ実感としてはわかりません。仕事をつくり出すという意識の変革について、これから乗り越えていかなければと思っております。
やはり、これから社会人として、また正社員を目指す身としては、多くの経験と多くの時間が必要となると思っております。一歩ずつ地道に、着実にまた、障害に負けず、あきらめずに、道のりを歩んでいきたいと思っております。
私たちの歩んできた道のりは、障害になった前後でもつながっているのですから、多くの方と、障害を意識しない、個性として考えられる人生を共有できたら嬉しく思います。
最後になりますが、今まで歩んできた人生は、無駄なことなどないと思います。障害になる前の人生を、必要以上に責めないでください。意味のなかったものと思わないでください。自分の信じる道に正直に生きていけば、おのずと道はつながります。私からの最後のメッセージです。楽しくがんばりましょう。
本日はお忙しい中、講演会にご参加いただき、また、私のつたない話に耳を貸していただき、どうもありがとうございました。
★プロフィール
1976年 東京都杉並区に生まれる。
2000年 経済学部卒業後、就職もままならずアルバイト生活を3年続ける。
2003年 一念発起し単身バックパック旅行に出る。
2004年 10ヵ月の旅を経て帰国する。アルバイト中に精神のバランスを崩し、精神疾患となる。
2010年 生活全般、精神的にもドン底のなか就労移行支援事業所「ワークセンター」に通い、就職する決心をする。
2011年 ワークセンターでのITをはじめとした1年間の訓練の末、念願のIT企業に就職し、現在、勤務中。
会員 匿名希望(男性、48歳、千葉県在住)
まず病歴ですが、15年前、左眼に原因不明の視神経炎を発症、薬物治療実らず弱視となりました。その半年後、今度は右眼も同様に発症したため転院、同じ薬物での治療でしたが、用法・用量を変更した結果、視力ならびに視野ともに回復しました。以降5年間は、右眼に対する再発防止治療として用いていた点眼薬の影響で硝子体除去2回、白内障1回、緑内障1回の手術を行いながらも通常通り勤務していました。
2005年2月に2回目の緑内障手術を行いました。手術は1回目と同じ内容で順調に進んでいましたが、先生から「もうすぐ終わりますよ」と声を掛けていただいた直後、激痛とともにまさかの出血が起こり、網膜剥離となりました。別の病院を紹介され網膜剥離の手術を6回行いましたが、視力が回復することはありませんでした。
休職せざるを得なくなりました。看護師から「視覚障害者でも立派に稼いでいる人がいる」と言われても半年間は何もやる気が起こらず、家でブラブラしていました。上司との約束で毎週金曜日に会社に連絡を入れることになっていましたが、何もしていなかったので当然話題もなく一週間が早く感じられ電話するのが苦痛だったことを覚えています。そんな折、上司から「何も努力しない者には手をかさない」、また妻からの後押しもあり思い切って市役所の窓口に電話しました。たまたまその曜日は視覚障害者福祉施設の歩行訓練士が自宅近くの市の施設にいることを聞き、すぐに出向いて話を聞くことができました。そこで点字訓練やスクリーンリーダー、拡大読書器、そしてタートルのことを教えていただきました。数日後、タートルの相談会で、いろいろな情報を得ることができ、少し気持ちが和らぎました。またスーツ姿の方がおり、「視覚障害者であっても会社勤めができる」という希望を持ちました。そして何よりも仕事を終えて疲れているにもかかわらず6名もの方がわざわざ自分のために集まってくださったことに感謝の気持ちで一杯になりました。
早速点字を自宅近くの市の施設で、パソコンをトライアングル西千葉で教わることになりました。ここで良かったのは、スキルの習得はもちろんですが、短時間の訓練であっても毎日、決まった時間に家を出ることにより生活にリズム感が出てきたことです。動けるようになったら無理のない範囲で行動を起こすことは大切だと感じました。半年間のパソコン訓練が修了後も3ヶ月間、日本盲人職能開発センターへ通いました。晴眼時は自己流だったパソコン操作が基本を学ぶことによって正しくできるようになり、関連知識も身につけることができました。この時期学んだことは現在の職場で大いに役立っています。休職期間も終わりに近づいた頃、直属の上司と本社人事部の担当課長に訓練現場を視察してもらい、そこにタートルの方にも同席していただき、復職後の具体的な職務、復職の時期等について話し合っていただきました。会社が合併する前の大変な時期ではありましたが、周囲の方のおかげで何とか職場復帰を果たすことができました。
復職後、6年近くが経過しました。当初は合併直後の新会社という独特の雰囲気、営業から内勤への職種変更、そして障害者となっての勤務開始ということで正直勤務は辛いものでした。行きは「今日こそは」と洋々と、帰りは思うような仕事ができず肩を落とす毎日でした。そんなある日メールの誤送信をしてしまいました。送信先は10年前にお世話になった得意先の方でした。ご丁寧に誤送信を知らせていただくとともに私の眼について心配してくださり、返信メールの末尾に「電話するように」とありました。帰宅時電話したところ「あせらずに、じっくりかまえてボチボチと」と励ましていただきました。この一言は胸に浸みました。何かにあせっていた自分がホッとした気持ちになりリセットされた感じがしました。
職場で平素から心掛けていることは、「1年生社員のつもりで、自分ができることを積極的にやる」ということです。総務系の部署であるため、まず外線電話に進んで出るようにしています。関連部署へ取り次ぐ際、社員と話すことになりますのでコミュニケーションを図るきっかけになっています。同時にお客様の問い合わせ内容に応じて取り次ぎ先を選定しますので各部署の業務内容や担当者を覚えることにもなっています。また当然、自部署内では一人ひとりの担当業務が定められていますが、そのすきまにある業務や突発的な業務で自分ができることも行うようにしています。私は通勤時の混雑を避けるため少し早めに出勤していますので、現在は会社移転でその必要はなくなりましたが、以前は空調の電源を入れたり(夏場は喜ばれたような気がします)、数箇所ある執務室入口扉を開けたりしていました。主な担当業務は社内におけるコンプライアンス推進です。ご存知のようにコンプライアンスというものは、全社員に関わることですので、研修会の企画立案、実施等の事務局的な業務を推進していく上で全社員と接点を持てるチャンスがあります。このチャンスを活かすために例えばちょっとした確認事項であっても必ず連絡をとるようにしています。また事務局から要請するコンプライアンス関連の作業は直接の業務以外に時間を割いていただくことになりますので、誠意を持って実施を依頼するようにしています。晴眼時は、あまり人に頼ることなく自分一人で仕事ができ、また多少の無理もききましたが、今は当然そのようにはいきません。今になってようやく相手の気持ちや都合を考えることの大切さ、組織の一員であることを実感しています。まさしく入社1年生です。視覚障害者が私一人ということでパソコンにおけるスクリーンリーダーや画面拡大テキストで不都合が生じた際の処置でてこずったり、相手の表情がわかりにくいため話しかけるタイミングがズレてしまい迷惑をかけること等、上手くいかないことも多々ありますが、それらも含めてあせらずにじっくりかまえていこうと思います。
明日からも周囲の方への感謝の気持ちを忘れずに、職場にて「頑張っています」とまでは言い切れないにしても「頑張っているつもりです」と言えるようしっかり取り組んでいきます。
「あきらめずに、気長に」
副理事長 新井 愛一郎(あらい あいいちろう)
■パチンコ屋で涙
東京都港区三田の慶応大学に通じる「慶応中通り」という通りがあります。昭和49年4月1日、私はそこを通りながら、これからいろいろな状況でここを通ることになることなど予想もせずに自分の職業人生をスタートさせました。
私は先天性の弱視で、右の視力はゼロ、左は、当時は0.07程度でした。弱視という言葉も、また自分以外の弱視のことも知らずに、もちろん障害者手帳のことなど知らずに、ただルーペと、かけメガネ式の弱視レンズを購入して、私は社会保険の現場事務の仕事をスタートさせました。
人一倍負けず嫌いで、「頑張れば何とかなる」という気持ちを自分の支えにして修学時期を過ごした私は、同じように「頑張ればどうにかなる」という気持ちで働きだしました。
しかし、「どうにかなる」ということは、仕事を開始して、3日目に見事崩壊しました。
会社から出された書類を見ながら台帳に記入して、大型コンピューターに読ませるようにテープにパンチをしていく。細かな書類をチェックしながら接客する。私の就職した社会保険事務所の仕事はそんなものでした。「自由に書いてください」と渡された「身上書」には、「視力が悪くて大変だから、仕事を辞めたい」と書かざるを得ませんでした。「頑張ればできる」という私のこれまでの生き方が、一瞬のうちに否定されたような瞬間でした。家に帰れば親が心配する、話せる人もいない中で、私は慶応中通りにある、パチンコ屋で人知れず涙を流しました。「試験を受け直して、他の公務員になろう」と決意しました。そして、就職し直して新しいところが決まったら親にも話そうと思っていました。
とにかく細かな作業が多いので、書類に鼻をくっつけてルーペで文字などを見ました。そうすると、「そんなに近づけて見ていると、目が悪くなるよ」と言われるのです。悪気があっての言葉ではないのだと思いますが、当時はそんな言葉が平気で飛び交っていました。
当初の担当は、すぐに変えてもらいましたが、そこでの仕事は番号と名前を台帳に書き写す仕事。一日何千人分も手書きするのですが、私には、赤と黒のボールペンの違いが分からずに、何千も赤で書いていました。もちろん、それがわかって大騒ぎになりました。もうこの時は、「これで決まりだ。もう駄目だ」と思いました。「疲れているからだよね。ゆっくりと仕事して」と先輩は言ってくれますが、どうしたって、私には、色の違いがわかりません。「こんなものがわからないのでは、事務仕事などできない」これが率直な結論でした。
■時間の経過とたくさんの出会い
私は、働き出したその秋に、いくつかの公務員試験を受けました。でも一次試験は受かっても最後までは受からなかったし、国家公務員試験に受かったものがなぜまたほかの公務員試験を受けるのかと問われて、まともな回答は出せませんでした。
そうこうするうちに、入力作業の少ない事務のほうに担当を変えてもらいました。限られた業務でしたが、少しずつ仕事の幅も広くなりました。新しい仕事ができるかどうかは不安でしたが、断らずにチャレンジしていきました。会社の財産の差押えなどの絶対無理なのではと思う仕事も体験できました。
仕事を始めると、終わるころには、当初無理だと思われた仕事も、時間が経つと「これは自分に向いているかも」という気持ちも出てきました。とにかく慣れていくこと、経験していくこと、できる仕事をどんどんやること、これで何とか時間が経過していきました。でも、「いつかは自分に本当に合う仕事をしたい、それまでの我慢だ」という気持ちは捨てきれませんでした。
こんな中で、私は、私以外の多くの弱視の人たちと知り合いました。弱視者問題研究会の仲間たちでした。若い人たちが多かったが、「見えないことを素直に自己主張していこう」というメッセージはこれまでの生き方を大きく問い直すものでした。
障害者手帳の3級も取得しました。弱視が働き続けることの大切さなども考えました。いろいろな問題で悩んでいる多くの弱視の人たちと交流しながら、「見えなくても、見えづらくても、元気で生きていこう!」ということを人に話しながら自分にも言い聞かせていました。そして、タートルの人たちとの交流も始まりました。職場でも人工透析をしていながら働いている職員などと、職場での障害を持つ者同士の交流会なども行っていきました。
■視力の低下と働き続けること
しかしながら、だんだん白内障が進んで行きました。拡大読書器なども何年も要望を出して購入してもらいました。視力は低下していきましたが、そんな時期にタートルの仲間との出会いは、大きな励ましとなりました。私の気持ちも、だんだんと「逃げ出すこと」から、拡大読書器を使って「働き続けること」を考えるようになりました。視力低下はちっともつらいことではありませんでした。
関西の職員の中に糖尿病網膜症で視力低下した人がいて、組合の人が東京で弱視の人がいるということを聞いて、職場見学に来たことがありました。働き続けることが他の人のためにもなるんだ、と私自身を勇気づけることもありました。
でも、こんな気持ちになれるには20年もかかってしまいました。たくさんの回り道をすること、この方法しか私にはできませんでした。
とにかく、あきらめないこと。気長にやること。私はこれが一番大切なような気がします。そのなかからきっと良い出会いがたくさん出て来ると思います。
■終わりに
今もたまに、慶応中通を通ります。以前あったお店はほとんどありませんが、変わらずに私を包み込んでいるこの「通り」は、私の歴史を見守っていてくれるようです。
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◆ 今後の予定
10月6〜7日(土・日)
第13回日本ロービジョン学会学術総会(文京シビックホール)
10月28日(日)
第4回視覚障害者就労支援推進医療機関会議(国立京都国際会館)
11月21日(水)
第5回視覚障害者雇用継続支援セミナー (中野サンプラザ)
12月1日(土)
タートル忘年会 (両国 ホテルベルグランデ)
2月16日(土)
交流会 (日本盲人職能開発センター)
◆「ロービジョンケア登録眼科」のリサーチ方法について(情報提供)
ロービジョンケアの診療報酬化が、平成24年4月1日から実施されました。
各都道府県内のどこの眼科が実施しているかについて、(公益社団法人)日本眼科医会が取りまとめ、当該ホームページにおいて公表しているので、参考までにお知らせします。
アクセス方法は、「日本眼科医会」を開き、「ロービジョンケア施設」というところに進むと、全国の登録眼科を都道府県別に閲覧可能です。
そこには、次のような注意書きがあります。
「ロービジョンケアを行っている施設の医療機関名、所在地、電話番号等が記載されています。各施設によって受診時の条件が異なりますので、備考欄に記載されている内容を必ずお読み下さい」とあります。
また、活字文書で取り寄せたい方は、厚生労働省地方厚生局、たとえば、「関東甲信越厚生局」東京事務所とか、「九州厚生局」福岡事務所等々に問い合わせると、当該管轄区域内の登録眼科医を紹介してくれます。
情報誌は、本年度も4回発刊の予定です。
今回は、3月交流会の講演と、総会時の記念講演を掲載しております。また、【職場で頑張っています】と【定年まで頑張りました】の両方の投稿をお願いし、ボリュームが多くなりました。
タートルの情報を、会員全員にお伝え出来るのは、唯一この情報誌です。
編集を担当する者として、会員のためにこの情報誌を有効に活用できればと考えております。そのような考えのもと、定年まで勤め上げた方の体験や知恵、現在職場で頑張っておられる仲間の熱い意気込み、必要なお知らせや情報提供などをお伝えできればと思っているところです。
ちょっと、欲張っているかも知れませんね?
また、情報誌の編集に当たり、以前から個人情報保護、プライバシー等について、意識はしていたのですが、今年度から、講演者、原稿の投稿者の意向を確認し、氏名の掲載要領を本名、イニシャル、匿名のいずれかで、掲載させていただくこととしました。
会員の皆様、どうぞ、趣旨ご理解の程、お願い致します。
情報誌に関し、ご意見等をお聞かせ下さい。
( 長 岡 保)