特定非営利活動法人タートル 情報誌
タートル 第4号

1998年10月9日第三種郵便物認可(毎月3回8の日発行)
2008年8月20日発行 SSKU 増刊通巻第2883号

目次

【巻頭言】

「NPO 法人タートルに課せられた調査研究事業に思う」

副理事長 松坂 治男

本年度実質的に初年度を迎えたNPO 法人タートルは、平成20 年度厚生労働省障害保健福祉部から調査研究委託事業を受託することになり、うれしい第一歩を踏み出すことになりました。このことは、法人格を取得して社会的に認知されたことに併せ、任意団体当時から地道に積み重ねてきた実績が公的機関から認知されたことと言っても過言でないと思っています。

調査研究テーマは、「視覚障害者の就労の基盤となる事務処理技術及び医療・福祉・就労機関の連携による相談支援の在り方に関する研究」というものですが、NPO 法人タートルが基本方針としている「連携と協力」と「ネットワーク」の拡充に則しているテーマでもあります。この調査研究事業を円滑にかつ、的確な成果を上げるため、「学者、日本経団連、連合、眼科医、訓練施設、企業経営者、当事者等」さまざまな立場の協力を得て構成する検討委員会と、視覚障害者を現に雇用している各企業を訪問し、ヒアリングによる調査をするワーキンググループを立ち上げました。

検討委員会は、道脇正夫委員長(職業能力開発総合大学校名誉教授)以下10 名で構成し、ワーキンググループは、私・松坂治男座長以下10 名で構成して実施することにしております。

言うまでもありませんが「タートル」の原点は雇用継続支援にありますので、さまざまな職種・業種で現に働いている視覚障害者の事例を広く調査して、支援の在り方、連携協力の仕方等をまとめることとしています。具体的には、首都圏・中部・関西・九州15 企業をワーキンググループのメンバーがペアで会社を訪問し、同一の調査項目に従いヒアリング調査を行うこととしています。

この事業は、来年3 月までには報告書として取りまとめ、厚生労働省に納品しなければなりませんが、NPO 法人タートルが本格的に始動しはじめた初年度に本事業を推進するにあたり、このような事業を地道に行うことは、外部の協力者と意思の疎通が計られ、より深い「連携と協力」が深まり、ネットワークの拡充等が視覚障害者の就労継続への支援体制を強めるものにつながるものと、改めて信じてやまないものです。

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【総会記念講演】

視覚障害者の就労問題
〜過去、現在、未来〜

道脇 正夫氏(職業能力開発総合大学校名誉教授・前九州看護福祉大学教授)

道脇と申します。今日はお招きをいただきまして、ありがとうございます。私は2 年前に学校の教員を辞めまして、この3 月に九州から東京に戻ってまいりました。50 年余り職業生活を送ってきましたが、その間いろいろな仕事をしながら、障害者の就業問題についてどんなことを考えていたのか、しゃべりたい気持ちもあるだろうと、篠島先生等がお考えいただいて、お招きをいただいたと思います。

今日は「視覚障害者の就労問題〜過去、現在、そして未来」という大それた題をもらっているわけですが、話題を二つに分けて、前半は、学校を卒業してから、公務員と学校教員との50 年余りの職業生活の中で、障害者の職業問題に関してどんな仕事をしてきたのか、そして、それぞれの時期に、担当者として、どんなことを考えていたのかということを5 つのステージに分けて、許される限りざっくばらんにお話をしてみたいと思います。

後半は、障害者関係の仕事体験の中から障害者、特に視覚障害者の雇用問題、あるいは職業問題の解決のために、どういうことを今後とも考えていかなければならないのか、第一線から退くにあたって私なりに考えていることを6 点ほどに絞って今後の課題という形でお話申し上げたいと思います。

まず、前半のキャリアですが、まず第1 ステージは初職のステージです。学校を卒業して、行政に入りましたのが昭和29 年(1954 年)です。当時は非常に就職難の時代でしたが、労働省の職業安定局雇用安定課の職業指導係というところに配置されました。月給が安くて、学生時代にもらった奨学金やアルバイトで得ていたものよりも、給料の方が安いという状況ではありましたが、今考えると、給料は安くても非常にいい時代だったという気がいたします。仕事は余りなく、勉強しろと上司はいってくれるのですが、何を勉強しろとはいってくれません。そのなかで、与えられた仕事らしい仕事といえば、「障害の種別に応じて就職可能な職業にはどういうものがあるのか、一覧表にまとめる」という仕事でした。成果が形になったのは翌年(昭和30 年)「身 体障害者適職一覧表」としてですが、その基礎データをまとめる作業でした。

日本では、「障害の種別に応じてそれぞれ適職があり、その職業に就職することが、本人の、また受け入れ先の企業の最大の利益につながる」という考え方が古くからあり、そのような考えのもとに職業紹介・指導の道具がいくつか作成された、その中のひとつです。私の知る限りでは、最初に作られたのは昭和8 年(1933 年)の「職業紹介実務必携」に採り入れられたものです。その後も昭和39年(1964 年)に至るまでいろいろ形は変わってはいますが、作成されてきておりました。例えば、最も大掛かりな昭和39年に作成された「適職早見表」では視覚障害者を全盲・準盲・片眼社会盲・両眼社会盲・弱視に分けて、それぞれ「ベンチワーク」といいますが、代表的な職業名を66 種あげてそれぞれの適否を評価したもので、公共職業安定所の窓口で障害者の適職探索の資料として活用しようというものです。この種の考え方、又それに基づく道具に対しては、当時からいろいろ批判もあったのですが、雇用施策の検討などの折にも、この考えが頭をもたげてくることが結構現在でもみられるものです。

技術的な話はさておいて、この時代にこのようなものが、取り上げられた社会的背景について一言ふれておきたいと思います。私が大学に入りましたのは昭和25 年(1950 年)ですが、進駐軍といいましたが、まだ占領が続いていた時代です。

昭和27 年(1952 年)に、講和条約が締結されてわが国は独立を回復、国際社会への復帰がかなったのですが、独立国として解決すべき戦後処理の課題が数多くあり、その一つに、障害者の社会復帰の問題がありました。当時、なお東京の街頭には白衣を着た傷痍軍人の募金等を訴える姿も多く、これら傷痍軍人を中心とする障害者の職業援護対策の充実が強く要請されていたのです。これに応えて、政府は、昭和27 年に「身体障害者職業援護対策要綱」を閣議決定しました。「閣議決定」ということですが、今振り返ってみますと、この職業援護対策要綱がその後の障害者の職業援護、支援の仕方を基本的に方向付けることとなったと、私は理解しております。例えば働く意思と能力のある障害者は公共職業安定所(以下、「安定所」という)に求職登録をする、国が安定所を通じて登録者の現況、帰趨を把握し、そのフォローをしていくという求職登録制度もこの対策要綱で決められたものです。あるいは、職業訓練の強化とか適職研究などが要綱の中で決められていました。この流れが、昭和35年(1960 年)の身体障害者雇用促進法の制定につながっていったわけです。

このような背景のもとで、職業安定行政も障害者の職業援護に真剣に取り組んでいこう、その具体的な仕事の一つとして、まず国立更生相談所長の高瀬安貞先生の座長のもとに委員会を作って「身体障害者適職一覧表」を作成して安定所の担当者に参考としてもらおうということだったのです。

第2 のステージは、昭和35 年に制定公布された身体障害者雇用促進法の施行業務に携わった時代です。昭和30 年(1955年)から見習いと称して、北海道庁、広島県庁、次いで、東京の墨田公共職業安定所とほぼ2 年ごとに職場を変わっておりました。

ご承知のとおり、昭和35 年7 月に身体障害者雇用促進法が制定、同12 月1 日に公布されました。身体障害者雇用促進法は、職業安定行政の中でも障害者の雇用促進ということに関する単独法として、初めて作られたものであります。同法には、職場適応訓練が、また、努力義務という段階ではありましたが、身体障害者の雇用率制度(1.3%)が設けられました。

その頃、私は女子紹介係を担当していたのですが、昭和35 年の12 月1 日に、突然、雇用促進法の施行関係の事務をやれということで東京都労働局職業課の方に転勤を命ぜられました。雇用促進法の雇用率関係業務と職場適応訓練及び安定所の新組織体制づくりの3 つの問題が私に与えられた仕事でした。職場適応訓練は「職適」と呼ばれ、非常に好評を持って迎えられました。安定所の直接業務を担当している職員もこれで何か新しい取り組みが始まるのだという実感を持ったものです。「職適」は障害者関係業務で手当ての支給とか、あるいは事業主に委託費を支払うというような、予算に絡む仕事が障害者業務に持ち込まれた最初の仕事で、業務関係の人には書類の作成が煩雑だという声も上がりましたが、個々の障害者の職業援護に本格的に取り組むんだなという感じを職員皆が抱いたのも事実でした。

しかし、これは全く私の個人的な見解ですが、行政内部では、障害者業務を担当する人に光があたった訳ではありませんでした。当時日本は、中学校卒業者が“金の卵”といわれ始めた時期で、神武景気、岩戸景気、さらにいざなぎ景気と続く経済の驚異的な進展が始まった時期にありました。行政や地方自治体の主な関心は新規労働力、新規学校卒業者の確保の方に向いていて、障害者のことは担当者に任せておけばいいと、そういう感じが多かったのではないかと、これは私の私見ですが、そういうものがありました。むしろ、内部では障害者の仕事に打ち込んでいる人は特異な人、奇特な人だと、口には出さないが、そんな見方をしている人が多かったのではないか、まして、処遇となるとむしろ恵まれない点が多かったような気がします。

当時、東京の安定所の中では、例えば脳性麻痺者のことについては大森安定所のA さん、肢体不自由者一般については立川安定所のB さん、知的障害者については墨田のC さんというふうに、それぞれこの障害者のことはこの安定所のあの人にということが、担当者間では評価されていましたし(残念なことに視覚障害者に特に詳しいという人のお名前をあげることはできなかったと思います。

月に1 回開かれる求人求職連絡交換会という名の勉強会で講師をこれらの人が勤めておりましたし、外部の人に講師を委嘱しようとすると、「A 安定所にあの人がいるではないか」と逆に指摘されることもありました。これなども一例に過ぎないのですが、むしろ、内部より外部の方に高く評価されていた方々が多かったと思います。しかし、そんな雰囲気のなかで障害者の担当職員の方々は、非常に熱心に自分のこととして障害者問題に取り組み、汗水たらして、1 人奮闘しているというのが実態でした。障害者の雇用促進法ができました当時は、安定所はまだ予算も非常に不十分で、求人開拓に力を入れよという号令がかかりましても、今では想像できないと思いますが、相手からの電話は受けることができるが、外へはかけられないという電話機が安定所には数台設けられている状態でしたが、その中で、担当の方々は障害者に非常に親身になってこつこつと奮闘していました。

余分なことですが、職場適応訓練制度ができたときに、従来からありました福祉法に基づく職親制度との調整を本来は行うべき問題であろうという感じを持っていましたけども、そのようなことは話題にもあがりませんでした。福祉と労働とが昔のように一体となった現在でも、なかなか一度できた壁、特に役所の機構の硬さというものを乗り越えるにはいろんな抵抗があるように思えてなりません。

第3 のステージは昭和51 年(1976 年)5 月に、雇用納付金制度の創設を柱とする雇用促進法の大改正がありましたが、その改正に伴う施行の時期です。この間、私は昭和35 年の雇用促進法の施行時から15 年間ほどは、本省の係長や、地方の安定所長、あるいは職業研究所の設立準備、続いて研究室長等の仕事に従事して、直接的な障害者関係の仕事からは離れておりましたが、このステージ以降障害者関係の仕事に専ら従事するという経過をたどることとなりました。

昭和51 年の法改正により、新たに雇用納付金制度が、従来事業主の努力義務であった雇用率の履行の担保という性格をも持ちながら新たに設けられました。現在は変更されていますが、雇用納付金制度が発足した当時は雇用促進事業団(現在の特殊行政法人「雇用・能力開発機構」)に雇用納付金業務が任され、さらにその業務の一部を身体障害者雇用促進協会(現高齢・障害者雇用支援機構)へ委託するという、2 段階方式となっておりました。

昭和52 年(1977 年)からの3 年間、私は新設された雇用促進事業団身体障害者業務部の業務課長として、わずか10人足らずの課員でしたが、第1 に雇用納付金の徴収、それを原資とする調整金・報奨金あるいは助成金の支給業務などの雇用納付金業務、第2 に各都道府県に所在する障害者職業センターの設立業務(これには用地の取得、庁舎の設計、業務内容の検討など)が主な仕事でしたが、我が職業生活のなかで最も多忙な時期でありましたし、課員の皆さんにも大変な仕事を要求して、迷惑を掛けたものと今でも済まなかったなと思い出すことがあります。この間に考えていたことを2、3お話します。

まず、障害者雇用納付金業務に関係しての感想です。当初予定しておった見込み額よりも、実際の納付金額が倍近くなったことが一つ。予算見込み額は障害者の雇用実態調査をもとに算出されていたのですが、これが大きく異なったということは、事業所で実際雇用している数が報告されている数よりも少なかったことに原因しているわけですから、従来障害者の認定、判定がかなりルーズであったのではないか。納付金を算出する段になって、詳細にみていくと法に規定される障害者に該当しない人をも従来障害者として扱っていたのではないか、そんな疑問も抱かされました。もちろん、現在はそういうことはなくなっていると思います。

次に、雇用率未達成の企業のなかには、1 億円を超える金額を納付しなければならない大企業が結構ありました。しかし、分納も認められていたのですが、一括して億を越える納付金を即納するというところが大半でした。障害者の雇用義務を果たしていないということで、罪逃れの意識が働いているのか、あるいは厄介者扱いで払うものは払ってしまえば文句はないだろうと考えているのか、納付金が集まってくるのは担当としては喜ばしいことではあるのですが、何か割り切れないものを感じました。

また、オプタコンという言葉についての思い出があります。納付金とは別にもうひとつ新たに就職する障害者に対する作業用機器購入のための貸付金制度がありました。視覚障害者の「オプタコン」をこの貸付金の対象にしようとしたところ、実施要領を作成するときに、なんでオプタコンという、カタカナ言葉を使うんだということで、各方面からクレームが付いて、結果として、「視覚障害者用文字読取器」という名前に落ち着きました。オプタコンを皆が使っているんだから、それでいいだろうと個人的には思っていましたが、当時はカタカナ言葉に対する抵抗が強く、それに比べて、現在は特に福祉関係でもカタカナ言葉が非常に多用され、その好対照が逆に気にさえなります。現在は適当な言葉が見当たらないとカナ言葉のまま、安易に使い過ぎているように考えられてなりません。原語がどのような内容のものか、それをよくよく検討して日本語に置き換える作業が昔はあったはずです。医学用語などを見ると、先人が、いかに原義を咀嚼して日本語に表わそうとしたのかが偲ばれます。

最近は、流行語的に使われた言葉が4、5年も経つといつの間にか消えてなくなっていくということが、この世界では多いような気がいたします。耳触りのよさ、格好の良さといった段階での言葉の解釈は、本物ではないし、それゆえに定着しないのではないかとも考えてしまいます。

次は、障害者職業センターの設立に係ることです。もともとは心身障害者職業センターという名称でしたが、あくまでも公共職業安定所の補完的な存在でありました。ですから、初期に設置されたセンターは都道府県庁所在の安定所に地理的にも隣接して建築され、文字どおり安定所の専門的・技術的な仕事をセンターの方が引き受けるという形となっていました。当時、全国の全ての都道府県にセンターを設置するという具体的な計画はなかったのですが、大蔵省と予算折衝する過程の中で、当然年次計画があるんではないか、それを持ってこいということを指摘されて、1 年に5 ヶ所から8 ヶ所全国の各都道府県に障害者職業センターを、それと障害者勤労体育施設を1 年に3 ヶ所くらい作るという計画を、急いで作成して提出、大蔵省もそれを認めてくれる運びとなり、その設置は毎年かなりのスピードでスムーズに進んでいったわけです。むしろ世の中がそのようなものを要求する時代となっていたのでしょう、

そう私は思いました。ただ、当時援護係というのはわずか3 人の職員で、1 年に5ヶ所や8 ヶ所の職業センターを作るというのは、大変な苦労でした。土地の取得に関しては、私はぜんぜん知識がありません。田んぼの中の水路が国有地だという知識もない素人でしたので、非常に苦労いたしました。特に当時は、公共事業の促進という号令がかかりまして、関連の事務も非常に多くなり、援護係は実際の業務の仕事よりも、報告に追われるときもありました。いずれにしろ、業務の充実には力をまわす暇もなかったことが当時悔やまれてなりませんでした。

第4 のステージが、国立職業リハビリテーションセンターの時代であります。事業団の納付金関係の仕事に目鼻がついて、マスタープラン作成に関わった国立職業リハビリテーションセンターに転勤しました。当時大施設化の動きがあり、国立職業リハビリテーションセンター、吉備高原の職業リハビリテーションセンター、それと脊損センターというように、労働行政のもとでも大規模施設の設置が続きました。日本が経済的に富んでいく、そういう時代の産物だったという気がいたします。

私は国立職業リハビリテーションセンターに、国際障害者年である昭和56 年(1981 年)を挟んで昭和55 年(1980 年)から58 年(1983 年)まで、職業訓練部長として在職しておりました。職業訓練部の中で指導員免許を持たない唯一の職員でしたが、実は、ここが私に視覚障害者と直接仕事を一緒にするきっかけを与えてくれたところです。

当時、全国の公共職業訓練施設では、指導員が訓練生とコミュニケーションできないというだけの理由で、聴・視覚障害者をほとんど受け入れておりませんでした。このような傾向に対して、治療から社会復帰までの一貫したリハビリテーションの実施、厚生省関係の身体障害者リハビリテーションセンターとの有機的、一体的な運営ということが国立職業リハビリテーションセンター設立の大きな目玉でもあり、身体障害者リハビリテーションセンターで必要な医学的・社会的リハビリテーションサービスを修了した人を訓練生として受け入れるという原則が打ち立てられました。そこで、公共職業訓練施設としては表面きって視覚・聴覚の方々を訓練生として受け入れることとなったのです。こうして、私は視覚障害者と直接仕事をするようになりました。

当時視覚障害者の在籍する訓練科は、電子計算機科と構内電話交換科の2 科でしたが、センターでは先生も訓練生も、視覚・聴覚の訓練生も一生懸命に努力している、これだけの努力をしているのにこういう人々の進路が開けないということは、むしろ社会の方に問題がある、こういうことを強く意識させられました。それまで、日本の点字表記法を考案したことで有名な静岡出身の石川倉次先生が、小学校訓導の試験に合格して、私の出身地の千葉県の茂原小学校の先生をやっていたということぐらいの知識しか持ち合わせていなかった私でしたが、それだけに、障害を持った人、特に視覚障害者・聴覚障害者が、これだけの努力をし、しかも一定の訓練実績をあげているのに、なんで報われないのかということで、強く反省しました。その対策の一つとして、コンピュータ会社はじめ関係機関の人にも入ってもらい、「視覚障害プログラマーの生産性向上に関する研究委員会」をセンターに設置し、いろいろと勉強させてもらいました。そのなかで視覚障害者の長岡先生が、「科学技術の進歩は、多くの利便を社会にもたらしているが、その成果を享受できない人を一方で作り出している。それでは進歩とはいえない。それはすでにある格差、差別をむしろ助長するものである」と指摘され、「こういったIT 技術の進歩の成果こそ障害者の生活向上のために向けられるべきである」という考え方に、共感を覚えました。

「国立職業リハビリテーションセンター10 年史」の中にちょっときざな言い方ですが、私は次のような趣旨の感想を寄せました。「この国立職業リハビリテーションセンターで、職業リハビリテーションに尽くせという命をもらいました。これを宿命として自分で受けとめます。自分でこの意志を大事に育て、育んでいく、それが自分の運命だろう。今後は、センターで与えられた命を受け入れ、それに忠実に生きているのかと、自分に問い続ける生き方をしていこうと、心に決めています。」今でも、このことを忘れはしませんし、職業リハビリテーションセンターでの生活は、自分にとって非常に大きな意味があったのだと考えています。

次の第5 のステージが、障害者の指導員の養成に携わった期間であります。昭和58 年(1983 年)に職業訓練大学校(現職業能力開発総合大学校)に福祉工学科ができ、障害者の職業訓練に携わる指導員の養成を、初めて行うということとなりました。その趣旨に感ずるところがあり、センターを最後に、国家公務員を退職して教職に移ることとなりました。そこも平成10 年(1998 年)に定年となり、次いで公設民営校の九州看護福祉大学に社会福祉学科が新設されたのを期に、そちらに移りました。これも視覚障害者の関係の方々の絆でお世話になったわけでありますが、この職業訓練大学校と九州看護福祉大学という学校で、昭和58 年から平成18 年(2006 年)まで、合計23 年間、指導員の養成という仕事に携わることになりました。

今、全国の大学の中で、伝統的な社会福祉学部がもちろん一番多いのですが、「福祉」という語が付いた学部が27 種類もあります。この学部の中で、障害者の就労に関する指導員の養成を目指していると標榜している大学はひとつもないといっていいと思います。九州看護福祉大学の中で、何とか取り入れようと努力もしたのですが、雇用の問題は福祉とは別の世界だという考え方が、学内外にあって、なかなかこの壁を崩すのは難しいような気がいたします。

このように、指導員養成の方に20 数年携わった形になるわけですが、この間に今ひとつの活動の場が与えられました。調査研究活動であります。これは視覚障害者だけではなくて、肢体不自由者関係で啓成会という機関があります。関東大震災の時に、被災障害者を対象に、職業再教育を行った近代的な意味での職リハの先駆機関といっていいと思いますが、そこの方々と一緒に研究をいたしました。

それと、視覚障害者関係では、篠島先生をはじめ、多くの先生方とチームを組みまして、新しい職域の開発に関する研究をしました。その成果は、ヘルスキーパーをはじめ、3 冊の指導ガイドブックとなっています。それがしばらくの間労働省の視覚障害者対策ということになると、必ずその3 部作が登場しました。また、日本盲人会連合(日盲連)でも色々一緒に研究活動の仕事をさせてもらいました。

福祉用具法が作られます時には、通産省の委員会の委員として、また福祉機器開発の助成審査などに関わりました。また、国家公務員点字受験が認められたのは平成3 年(1991 年)だったと思いますが、その後、人事院が各省の人事担当者を集めて、視覚障害者をどうしたら雇用できるのかという研究会を開いておりますが、点字受験後の視覚障害者の役所関係での職場を作るために、色々関わらせていただきました。

以上、5 つのステージに分けてみると、障害者の雇用促進、開発の進展に応じて、それぞれの節目、節目で、それなりに働く場を与えていただいたことに深く感謝しております。

次に後半の部ですが、この経験の結果として、私が考える障害者特に視覚障害者の職業問題解決の課題を6 つ、時間もなくなってしまったのでごく簡単にお話したいと思います。

第1 は、リハビリテーションの関係職員・専門職にも、障害種別に得手不得手というものがあります。ある人は肢体不自由者については詳しいけれども、視覚障害者については知らない。あるいは知的障害者については関心があるが、肢体不自由者についてはできれば避けたいなどと、専門職の人にも得手不得手があります。同じことは障害者の就職の受け入れ先である企業にもあると思います。

全国重度障害者雇用事業所協会(全重協)という障害者を多数雇用している事業所が集まって組織している社団法人がありますが、私はそこで調査を長らく手伝っておりました。そこで次のような分析を行い、一昨年の職業リハビリテーション研究発表会で報告しました。その内容は、雇用している障害者の全数のうち、各障害種別の割合を算出すると、@肢体不自由重点型、A視・聴覚重点型、B知的障害重点型、C肢体・視聴覚重点型、D知的・肢体不自由型、E知的・視聴覚重点型、F均等雇用型 の7 つのグループに分けられることが分かりました。

次に、経年変化をみました。年次を追って7 つの型が変わっていっているのかどうかを分析したわけです。すると、視・聴覚障害者を雇用している企業は、特定の企業に限られる傾向が強いということが分かりました。つまり、感覚障害者を雇用する企業は他の障害に比べて固定化しているということです。

リハビリテーションの専門職の人にも得手不得手があるように、ある企業は肢体不自由には造詣が深いが、視覚障害者は遠ざける、又、ある企業は知的障害者の雇用には熱心で工夫もするが視覚障害者は自分のところでは無理だと最初から決めてかかっている、そんな傾向があることを物語っているといえます。知的障害者や精神障害者、特に知的障害者については、行政の指導があったときには受け入れる企業も増えていくのですが、感覚障害、視覚・聴覚障害者については変化が余りみられないということです。

ということは、視覚障害者の雇用の裾野というのは、まだ余り広がっておらず、固定化しているのではないかということを示唆しているのではないでしょうか。 1 週間ほど前(6 月8 日)のNHK 教育テレビの中途失明者の社会復帰を取り上げた番組の冒頭で、「中途失明者の就労分野は限りなく狭い」というのが最初の解説の言葉でありました。このことは、先ほど述べた企業のタイプ分けをみても、過去もそうだし、残念ながら現在も続いているといわざるをえません。視覚障害者の雇用の現実は、現実として認めて、そこから出発するしかないと考えます。

2 番目として、障害別の雇用率ということを、視覚障害者関係の方々は長年主張されておられました。これがすぐ実るということは考えにくいとは思いますが、この現実をみるとき、障害別雇用率の設定という主張は無理なものではないし、むしろ社会の理解促進に役立つものと考えられます。

3 番目として、社会の啓蒙・啓発活動は、さらに一層の努力が望まれるわけですし、当事者である皆さん方も積極的に、自分の努力・苦労・心配などを語りかける、そういう機会をより多く持つべきではなかろうかと思います。社会一般は「同情はすれども理解せず」ということは続いています。私自身が国立職業リハビリテーションセンターに行くまでは、そういう態度でした。視覚障害者を遠くから見ている段階でした。直接、接することによって人は変わっていくわけであり、そういう努力を今後とも強化する必要があるでしょう。

4 つ目としては、特にこのIT 技術を使って新分野を開発してきたというのは、民間の施設の方々の力が非常に大きいと思います。日本盲人職能開発センターの創設者であられた松井先生も、本来こういう基礎的なものは公共機関がやるべきではないか、我々がやったものを国の方が後を受け継いでやっているというのは本末転倒ではないか、というお叱りを受けたことがございますが、そのとおりだろうと思います。特に、IT 技術を活用するためには、中途半端な人を数多く集めるよりは、IT 技術に詳しい人、そういった人々の参加を求めるべきです。コーディネートする人が視覚障害者であれば一層ベターだろうと考えます。

5 つ目ですが、これは人事院の研究会でも申し述べたことですが、視覚障害者の適当な職務が自分の職場には見当たらない、それゆえに視覚障害者の雇用を考えてみようとしても、採用人数をごくごく絞った形で検討してみようというのが一般的な進め方です。それも一理あることはあるとしても、チームで仕事をするということも視覚障害者の場合考えられる別な方向ではないか、むしろチームプレイを前提に複数の視覚障害者を雇用して、少し長期的な眼でその成果をみていくということも考慮しながら知恵を絞っていくべきではないかという感じがいたします。

最後の第6 の提案ですが、障害者の教育訓練に携わる指導員の養成の問題です。社会の各方面とも現在大きく変わりつつあります。障害者自立支援法の施行に伴い、種々問題が提起されておりますが、今必要なことは職業に関係する各分野が、換言すれば教育・福祉・労働といった各分野がそれぞれの与えられた責任を果たすとともに、全体として切れ目のない、訓練生を中心にすえた、一貫した指導援助システムを構築することであり、各分野はそのシステムの一つとして機能すべきではないかということです。そのための指導員の養成を、考えなければならないと考えます。

社会福祉施設、中でも障害者の施設では、作業指導員あるいは生活指導員という職種に従事している方が数としては多いわけですが、そういった人々に特別な国家資格はありません。悪くいうと、福祉系の大学では社会福祉士のための受験勉強をしているというようなところがあり、障害者の就業、あるいは障害者の職業発達を支援するということは別な分野のことと考える人が多いということは先に述べましたが、各分野で直接障害者の職業訓練、職業教育、作業指導にあたる職員の資格をどう考えるのか、またその養成システムは如何にあるべきか検討することが必要となってきていると考えます。

指導員の資格と養成方法の改善は、単に学生に勉強の目的を与えるということだけでなく、また指導員の労働条件等の改善に役立つというだけでもなく、全体として切れ目のない、訓練生を中心にすえた、一貫した指導援助システム、指導援助の内容、又指導法それ自体を関係の専門職の人々がより深く考え、実践する糸口になるものと私は信じています。

職業社会への参加と障害者の職業発達を目指した指導のあり方を考える時期に来ているのではなかろうかと考えております。皆様のご意見も伺えれば幸いと思います。 ご清聴ありがとうございました。

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【第1回定期総会報告】

事務局長 篠島 永一

総会は、平成20年6月14日(土)、午後2時半から4時まで、社会福祉法人日本盲人職能開発センター会議室で行われた。まず、議事に先立ち、司会の選出を行い、安達文洋理事が選ばれ、ついで司会より議長の選出が諮られ、重田雅俊会員が選出された。

重田議長は、会員総数185名に対し、出席者数46名、委任状数102名、総計148名となり、定款第26条の規程による会員総数の2 分の1 以上に達しており、総会の成立を宣言した。

ついで、下堂薗保理事長から開会挨拶があり、議長より本総会の議事録作成は杉田ひとみ理事、議事録署名人は新井愛一郎理事と篠島永一理事、3 名もこれを了承して議事に入った。

@第1 号議案(平成19 年度事業報告)
下堂薗保理事長より平成19 年12 月3日の法人成立の日から平成20 年3 月31日までの間の事業報告がなされた。ついで、議長より質疑を求めたが、「異議なし」の声が上がり、全員これを承認した。

A第2 号議案(平成19年度収支決算報告)
篠島永一理事より同期間の収支決算報告がなされた。さらに設立登記時、財産目録の固定資産に点字プリンター等を掲載していたが、購入時期が平成16 年2月であり、耐用年数が既に過ぎているので削除したい、と。設立当初の財産目録の修正について東京都等の了解を求めたところ、理事会で承認していることが明確であれば、そして総会において承認されればとのことから、承認を求めたいとの意向が出された。
議長からの質疑の求めに対し、特に質問がなく、全員に異議なく承認された。

B第3 号議案 会計監査報告
大橋由昌監事から監査報告がなされた。会計監査については帳簿、領収書等の証憑を精査した結果、正当に処理されており、特に問題はないことが報告された。また、事業監査に対するコメントとして、個人情報保護の観点から相談事業における個人情報の扱いについて慎重を期してほしいと指摘があった。
議長より監査報告に対する承認を求めたところ、全員に異議なしとのことで承認された。

C第4 号議案(平成20 年度事業計画案)
理事長より、事業計画の概要説明があり、質問等には各担当理事が答える旨の報告がなされ、質疑に入った。
近畿地区代表の堀康次郎会員から厚生労働省の国庫補助交付内示の内容について、質問が出された。
工藤正一理事から回答があり、厚生労働省の国庫補助交付の内示については、申請金額936 万円の約3 割カットの680万円の内示金額について受けるかどうか、支出内訳の見直しは後で検討するとして、とにかく受けることとし、特別会計で処理すること。また、調査研究のテーマは「視覚障害者の就労の基盤となる事務処理技術及び医療・福祉・就労機関の連携による相談支援の在り方に関する研究」で、具体的には検討委員会とワーキンググループを組織して調査事項を吟味し、企業に訪問調査の形で視覚障害者の雇用の場における様々な望ましい環境整備のあり方を調べ、関係諸機関との連携・協力に資する資料を年度末までに作成する。
ついで、中国地区代表の藤井貢会員から、地方交流会の時期と内容について、そして広島地区における地方交流会の開催要請があった。
石山朋史理事から回答があり、地方交流会は平成21 年1 月の第3 土曜日を予定し、関東、関西地区からの地の利を考慮し、名古屋での開催を検討する。内容の詰めはこれから行う。また、広島交流会の開催については平成21 年度の計画で検討したい。
中村輝彦会員から、就労啓発事業の具体的内容と進め方について質問が出された。
安達文洋理事から回答があり、事業計画では予算にも計上しているところであるが、厚生労働省からの調査研究との擦り合わせを勘案しながら、アンケート調査の内容と対象企業について検討する。

D第5 号議案(平成20年度収支予算書案)
篠島理事より概要説明があり、質疑に入ったが、特に質問はなく、承認された。

E第6 号議案 役員等の選任
篠島理事より、役員等の退任と就任の提案があり、森崎正毅理事の退任、設立総会の折に2 名の監事の要請に対し近藤豊彦会員の監事就任について諮ったところ、全員に異議なく承認された。また、総会の承認事項ではないが、理事会において決定された、新たな北海道地区代表に和泉森太会員と九州地区代表に藤田善久会員、和歌山地区代表に山本浩会員から湯川仁康会員に交代が報告された。そして関東地区の運営委員として、植村滋樹運営委員及び高橋真樹運営委員は辞任を申し出ており、また、小林千恵運営委員は会社の仕事が忙しく運営委員会等への参加もままならず退任を勧め、この3人の退任の報告と、伊藤常美会員と松尾牧子会員の両名の関東地区運営委員就任について報告があった。

以下に役員等の名簿を掲載しておきます。
定款の第13 条に理事の定数が定められており、9 人以上15 人以内とあります。目下、欠員の補充を必要としています。

〔平成20 年度役員名簿〕

理事長 下堂薗 保
副理事長 松坂 治男
理事 安達 文洋
理事 新井 愛一郎
理事 石山 朋史
理事 工藤 正一
理事 篠島 永一
理事 杉田 ひとみ
監事 大橋 由昌
監事 近藤 豊彦

〔地区代表、運営委員等名簿〕

北海道地区代表 和泉 森太
東北地区代表 金子 光宏
関東地区運営委員 伊藤 常美
関東地区運営委員 内山 義美
関東地区運営委員 五味 清和
関東地区運営委員 大脇 俊隆
関東地区運営委員 重田 雅俊
関東地区運営委員 長岡 保
関東地区運営委員 松尾 牧子
関東地区運営委員 向田 雅哉
中部地区代表 星野 史充
和歌山地区代表 湯川 仁康
近畿地区代表 堀 康次郎
中国地区代表 藤井 貢
補佐 西村 秀夫
四国地区代表 横田 弓
九州地区代表 藤田 善久

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【連続交流会記録・1月交流会】

【職務に必要なスキルの向上】
〜研究職の場合〜

主任研究員 渡部 隆夫氏
(日立製作所 中央研究所 システムLSI 研究部)

皆様、明けましておめでとうございます。日立製作所 中央研究所の渡部と申します。本来なら昨年の3 月に、ここでお話をさせて頂く予定だったのですが、当社の都合で今日になってしまいました。 特に幹事の方をはじめとして、色々な方々にご迷惑をおかけしたことをお詫び申し上げます。

本日の内容ですが、まず私の会社と仕事の概要それから今の視覚の状態から始めさせて頂きたいと思います。次に、本論の前半として、これまでに受けた一般的な訓練と、仕事上どういう支援またはサポートを受けているかということをお話したいと思います。後半は、本日の主題であるところの技術系の研究職という仕事に必要なスキルは一体どういうものがあって、それを向上するためにどういう工夫をしているかということをお話できればと思っています。そして最後に、日頃考えていることをお話します。一つは、私のように中途で視覚が悪くなり見えなくなっても、それに対して結構、順応できるものだなということ。もう一つは、今後、仕事の上でどのような事を目標にしていくか、なんてちょっと偉そうですが、そういう話をさせて頂ければと思います。

さて、私の働いている会社ですが、東京の国分寺市にあります。駅から健常者であれば歩いて10 分弱くらいだと思います。周りはマンションですとか、都営団地だとかがある住宅街です。会社内は、なかなか環境のいい所です。敷地は結構広く、正門を入ると橋があり、その下に小さな川が流れています。また、奥の方には池があって、そこに湧き水があります。多摩川の支流に野川という川があるのですが、その源流だそうです。

会社の中は、組織上、四つの研究センターに分かれております。情報システム、ストレージ・テクノロジー、ソリューションLSI とライフサイエンスの四つです。 私が所属しておりますのは、ソリューションLSI 研究センターという中の、システムLSI 研究部というところです。LSIは集積回路あるいは、半導体とも言われるものです。携帯電話とかパソコンだとかいろんなところに使われている、いわゆるチップと呼ばれているものですね。 その中のメモリという記憶に関わる研究をやっております。

私の仕事であるLSI の話をしてもつまらないと思ったので、私達、視覚障害者になじみのある合成音声の研究をやっている人にお願いしてサンプルを借りてきました。ちょっと、その音声を流してみたいと思います。

(合成音声)「奈良県斑鳩の里にある法隆寺は、世界最古の木造建築物で、607年聖徳太子が建てたと言われています。特に古代寺院の形が完全に残っているため、非常に価値の高いものです。32 メートルの五重の塔は、重厚で安定感があります。」(音声終わり)

今のは、人間の肉声ではなくて合成音声なのですが、我々が普段聞いている合成音声に比べて、だいぶ自然だなという感じを持って頂けたと思います。私の会社では、これだけではなく、私が携わっているLSI、集積回路ですとか、先程申しましたメディカル関係とかいろんなことをやっています。総勢が約960 人で、そのうち研究職が約840 人だったと思います。私は1983 年に入社しましたので、かれこれもう25 年くらい働いています。

私の視覚の状態ですが、10 年くらい前にどうもおかしいということで、大学病院で診てもらったところ、網膜が次第に変性する網膜色素変性という病気と判り、治療法は無いと言われました。お医者さんからは、「中心を残して段々と見えなくなって来るよ。」と言われていたのですが、まだまだ先のことと気楽に考えていたら思いのほか進行が速くて、今、私は1級の障害者です。昨日2〜3 年前に別のセミナーで話した原稿を聞いていたら、その時より明らかに悪くなっているなと思いました。今、視野としては2〜3 度ありますが、その部分もほとんど役に立たなくなりました。蛍光灯とかヘッドライトとか、自分で発光しているものの存在は判りますが、左右で像は一致しませんし、それぞれの像も粗い点描画のようではっきりとはしないので、仕事上視覚は使っていません。パソコンのスクリーン上の文字も墨字(紙に印刷されたり手で書かれた文字)も見えないので、音声で仕事をしています。

次に技術系の研究職とは、どういうことをする仕事かをお話します。私は幸いなことに、薬品やガスを扱って実験を行う部署ではなく、設計の部署だったので、ほとんどデスクワークで、ラッキーだったかなと思っています。具体的な内容は置いておいて、日常一番多いのはパソコンを使った書類の作成です。例えば、研究のレポートを書いたり、特許を書いたりします。またプレゼンも行います。もちろん、人の書いた文献ですとか、特許を読んで色々勉強しなければなりません。

私がこれまでに受けた訓練ですが、最初に受けたのは、白杖の歩行訓練でした。5〜6 年前だったかと思います。そろそろ危ないなと思いましたが、最初は白杖を持つのに抵抗があって、足の悪い人の持つ杖に、発光テープをつけて夜だけ使ったりしていました。

東京都盲人福祉協会の山本さんという方にお願いして、最初はうちの近くで訓練を受けました。その後一度会社に来て頂き、会社の中の安全面を同僚や勤労の方と一緒に見て頂いたり、会社から家に帰るまでの私の歩き方を見て頂いたりしたこともあります。今までに都合3 回くらい訓練を受けたと思います。私は会社に行くのに、バスと電車を乗り継いで行きます。バス停から職場まで安全な道を遠回りすることもあり、私の足で約30分かかります。このため毎日の通勤だけで、かなりの訓練になりました。しかも私の眼の病気は、いきなり見えなくなるのではなく段々と悪くなる病気なので、それも幸いして自然に白杖の歩行が上手になっていったかなと思っています。

自分なりの歩行訓練の工夫についても、お話しておきます。私は先程言いましたように3 回くらいしか訓練を受けなかったので、階段歩行があまりうまくなかったのです。ある時、駅でどこかのおじさんにサポートしてもらって、中途(後天的な視覚障害)ですかと言われたことがあります。「分かるんだな、下手なんだな」と思ってちょっと悔しかったので自分なりの訓練を始めました。私の居室は2 階にあります。ジュースを買う自動販売機が2 階と3 階にあります。それ以来、必ず階段で3 階に行くようにしました。それからお手洗いはどの階にもありますが、4 階まで階段で行くことにしました。こうして、仕事をしながらの訓練に心がけました。そうしたら不思議なもので、4階まで上がると最初のうちはバランス感覚も悪いし、杖も下手なので結構疲れたのですが、足腰も鍛えられるし、だんだん階段歩行もうまくなって、コーヒーカップを持ったまま階段の途中で片足を上げた状態で静止することもできますし、人の気配などにも敏感になりました。今でも駅で色々な人がサポートしてくれるのですが、「おお、速いとか、すごいとか」、結構言われるようになったのでうれしいなと思っています。

私の受けたもう一つの訓練は、眼の悪い方は皆さんが受ける訓練なのですが、パソコンを音声で操作するための訓練です。ここ四谷のセンターで受けました。先程の歩行訓練士の方から、当時ここの所長をなさっていた篠島先生を紹介して頂いたのが、きっかけでした。篠島先生には、私の関連会社で働いている視覚障害者の方を紹介して頂くなど、色々と貴重な情報をご提供して頂きました。

私のパソコンの先生は、井上先生でした。仕事をしながら習ったので、正規のコースを取ることが出来ず、井上先生に無理をお願いして、初めのうちは先生のお時間の空いている時に合わせ、会社は半休を取って不定期に見て頂きました。

なかなか先生もお忙しいということで、最終的には毎週1 回、火曜日の午後に訓練を受けました。他にも仕事をしながら習いたいという方がいるからということで、一緒に訓練を受けました。半年位の期間だったと思います。私は、仕事上パソコンを使うことが多かったため、見えていた頃でも特殊記号を別にして、タッチタイピングができました。そのため、音声での操作は比較的短期間で大体できるようになりました。最初は主にPowerPoint でのプレゼンと図面作りを習いたいなと思っていたのですが、結局Word とかExcel も教えて頂きました。井上先生のお陰で休職をせず、仕事を継続することができました。

次に、会社から受けている支援について、お話します。 先程お話したように、以前、歩行訓練士の方に会社の中の安全面を同僚や勤労の方と一緒に見て頂きました。そのお陰で、私の居室のある廊下は、常時点灯して頂けることになりました。その当時はもうちょっと見えていたのですが、今も蛍光灯が光っているのはなんとか判るので、有難いと思っています。それから、始めにお話した橋にある車止めの上部を白く塗って、目立つようにして頂きました。また、私の居室の近くでは、柱の角など、ぶつかりそうな箇所の顔の高さの位置にクッションになるシールのような物を貼ってもらっています。最近では、廊下に新しく設置されたセキュリティドアの開閉スイッチの下の床に、小さな点字ブロックを貼り付けて判りやすくして頂いています。

パソコンの音声読み上げソフトに関しても必要なものを導入してもらいました。 主に、利用しているのはXP Reader です。ただしメールソフトとして使っているOutlook Express は一部しか読み上げないので、IBM のホームページリーダーについているデスクトップリーダーも併用しています。また、一部のソフトでJAWSでないと読み上げないものもあるので、JAWS も買ってもらいました。その他に「よみとも」といって、これもご存知だと思うのですが、スキャナーで本などの印刷物をスキャンした後に、文字認識をしてテキストに換え、音声で読み上げてくれるソフトも使っています。それからすごく便利だと思っているのは、そのままでは読み上げないPDF ファイルをパソコン上でファイルのままテキストに変換してくれる「やさしくPDF」というソフトです。これは、給与明細やPDF の文献や資料の読み上げに重宝しています。

昨年までは、隣に座っていた研究チームの方が何かと私をサポートしてくれていたのですが、テーマが変わり、その方が他の部署に移ったので、上司が色々と心配してくださり、私をサポートしてくれる人を派遣でつけてくれました。その方は、定時内において私の仕事を助けてくれます。PowerPoint の図面など特に資料の校正で助けて頂いています。私が作るとあちこち歪んだり、はみ出たりしていますので、大変ありがたいです。また、社内のイントラネットの手続きで、どうしても音声でうまくできないところがあります。関連部署の方にかなり改良して頂きましたが、どうしても操作できないところが残っています。そういうところも手伝ってもらっています。

さて、次に、技術系の研究職として、一般の職業とは異なる点について、お話したいと思います。研究職の仕事では、文書を作ったり、プレゼンをするということが多いのですが、その前に定量的に問題を考えたり、技術の比較を行うことが必要です。もちろん、見えなくても皆さんご存知のように、音声でExcel は使えるのでExcel で計算すればいいですし、(パソコンソフトの)メモ帳を使ってアイデアを書き込み、音声で聞き直して考えてもいいのですが、やっぱりそらで考える、要するに空中で考える訓練は必要という気がします。

そらで考えるスキルを向上させるために、自分に科した訓練をご紹介します。 まず、1 から9 までの四つの数字を適当に思い浮かべます。簡単な例にさせて頂きますが、例えば、1 と1 と3 と3 を思い浮かべて下さい。その四つの数字をまず1 回ずつ使って、加減乗除で10 にすることを考えます。まず3 と3 を掛けると9 ですね。1 と1 を掛けると1 ですね。さっきの9 と今の1 を足すと10 になりますね。まずそこまでやっておいて、今度は1 と1 と3 と3 の4 つの数字を11 と33という二つの二桁の数字だと思うのです。

それに対して、加減乗除をやるというのをそらでやるのです。最初は足し算ですから、11 と33 を足して44 ですね。33から11 を引くと22 ですね。11 を33 倍しますね。その時に、はたと「どうしようかな」と考えます。そろばんを知っている方とかインド式数学じゃないですが、そういうことで機械的にやるというのは訓練にならないので、そこで作戦を考えます。33 と11 を掛ける時に、まず33 を10 倍してやりましょうと。そうすると330 ですね。330 に1 個忘れた33 を足せばいいやと、363 が答えですね。最後に33 を11 で割り算します。今は簡単な例で、たまたま割り切れて答えは3 ですが、大抵は割り切れないので色々と作戦を考えながら、小数二桁までそらで求める努力をするのです。行き帰りのバスとか電車の中でやると、最初は結構、頭が疲れます。でも段々できるようになります。

短期記憶というのでしょうか、いくつかの途中経過をしばらく覚えておくための頭の中の引き出しが増えてくるのですね。訓練しないと、その引き出しの数が足りなくて、計算の途中経過を覚えられないのです。毎日会社の行き帰りに考えていると、だんだん訓練されて記憶の引き出しが増えていくのです。皆さんも後でお暇だったら、ちょっと難しい例として、6 と7 と8 と9 を使って、そらで考えてみてください。6 と7 と8 と9 で10 を作るというのは結構難しいですね。次に67と89 で加減乗除をしてみてください。67掛ける89 とか、89 割る67 ってなかなかきついと思います。その度に「どうやればできるかな」というのを考えてやっていくと、そらで考える訓練になります。

ちょっとだけヒントです。67 掛ける89をやるのだったら、89 は90 に近いですね。だから67 を100 倍して、6,700 というのを作っておきます。そこから1 割引いてやると90 倍したことになって、更にもう1 回67 を引けば89 倍したことになります。このようなことをそらでやっていくと、だんだんそらで考えることが得意になって仕事にも役に立ちます。

そらで考えることと通じる点もあるのですが、人のプレゼンですとか、人の書いたものを音声で聞いて理解する訓練というのも必要だと思っています。特に私達は人のプレゼン資料が見えないので、人がPowerPoint で説明しているのを理解することは、すごく重要だと思うのですね。それをどうやればできるようになるかというと、もちろんパソコンで高速の音声を聞くことに慣れていけば、ある程度できるのですが、私が役に立ったと思っているのは、録音図書です。例えば、点字図書館のインターネットを通じて聞ける録音図書がありますよね。私はあれが好きで、いろんな本を聞きました。それから、今は星も月も見えないのですが、見えていた頃は天文が趣味だったので、ボランティアの方に『天文ガイド』という月刊誌を毎月朗読してもらって、それを聞いています。最初のうちは音声で理解しにくい所もありました。特に、読者の天体写真というコーナーがあって、データだけ読んでもらっていると、なんかすごく味気なくて本当の写真が見たいなと思っていました。最近は写真のデータを聞くと、なんとなく思い浮かぶのですね。「この人はこういう機材でこんなふうに工夫していて、何とか山で何月何日の夜の何時に撮ったから、こんな写真だろうな、寒かっただろうな」とか、いろんなことが思い浮かびます。そういうことをずっと続けていると、これが仕事上の人の文献だとか、人のプレゼンを音声から想像して理解するのにすごく役に立っているような気がします。

自分のプレゼンとか、自分の文献も書かないといけないのですが、井上先生に教えて頂いたので、Word はもちろん、PowerPoint もある程度使えます。そこで、まず自分で作っておいて、サポートして頂いている方に体裁を整えてもらったり、場合によっては言葉で説明したものを図面にしてもらったりしています。

それから、私どもはアイデアを考えたら特許を出さないといけないのですが、そのためには文章と図面から成る特許明細書というものを書かなければなりません。文章はいいのですが、図面が問題です。プレゼン用の図面とは異なり設計図のようなスタイルなので、音声で作成するのが難しいのです。その図面をどうするかということで、今私がとっている方法は、私がメモ帳でこういう図面を作ってくださいというのをテキスト書きするのです。例えば、1 番の箱が右にあって、そこの下からこういう矢印が出ていて、どこにつながっていてというのを全部文章で書きます。それをサポートしてくれる方あるいは、特許部の方なりに図面起こしをしてもらって、私が聞きながらもう1 回チェックをして、特許を作るというようなことをしています。

自分のプレゼンをどうやるか、という話がまだ残っていましたね。自分のプレゼンについては、パソコンで音声を聞きながらとか、いろんなやり方を試みたのですが、ストーリーと使う図面を自分の頭の中に叩き込んで、記憶に頼ってやるのが良いと思っています。自分で作るので、ストーリーも頭の中に入りやすいと思います。パソコンやレコーダを使ってキーワードを音声で聞きながらやるという手もあるかもしれません。今日もそうしようかなと思ったのですが、やっぱり頭の中にストーリーを入れてお話しすることにしました。その方が多分スムーズにいきます。ただちょっと困るのは、人が作ったプレゼン資料を、自分が説明しなければならないというケースです。人が作った資料のストーリーは覚えにくいですし、暗黙に通ずるものがないので、それは結構難しいかなと思います。

以上、お話してきたようにして、私はなんとか休職せずに仕事を継続しています。最近思うのは、「中途で見えなくなっても結構適応できるものだな」ということです。たぶん頭の中で、段々と神経の繋ぎ替えか何か起こるのでしょうね。最初のうちは、どうしても見える情報を頼りに、見えないのに見ようとして仕事や歩いたりして却って苦労していたように感じます。最近は視覚の優先順位が聴覚とか触覚より、自分の中で落とせることができたという気がするのです。それが大きな変化でした。もちろん、今でも見えていた頃よりも疲れますが、あまり自分で見えないからいやだなと思ったり、大変だなと思うことが随分と減ったような気がします。

我々、中途の視覚障害者というのは、生まれつき見えない方とか幼い頃に見えなくなった方と比べたら、盲人スキルという点ではかなわないし、死ぬまでにそれを超えるレベルまではとてもいかないと思います。それでも、ある程度の年月、仕事をしていたという経験があるので、訓練を地道にやっていき、周囲のサポートさえあれば、「それなりに適応できるのではないかな」という感じがしています。

最後に、これから仕事をいつまで続けられるかわかりませんが、少なくとも自分のために会社が払っている給与よりも大きな利益を産み出していくことを目標にしたいと考えています。視覚障害のため、事業部の方と一緒に製品開発をバリバリやるという訳には行きませんが、アイデアを特許にしたり、新しいテーマを考えたりすることで研究職として会社に貢献できればと思っております。

長々と取り留めのない話をさせて頂きましたが、以上で終わりたいと思います。 どうもありがとうございました。

(講演者 注:本稿は、お話した内容を忠実にテープ起こしして頂いた後、講演者の責任で読み易いように多少の修正、加筆を施して作成しました)

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【視覚リハ研究発表大会報告】

第17回視覚障害リハビリテーション研究発表大会における
ワークショップを担当して

東北地区代表 金子 光宏

去る7 月21、22 の両日、仙台市において第17 回視覚障害リハビリテーション研究発表大会が開催され、NPO 法人タートルは初日に開催されたワークショップを担当しました。以下は、同研究発表大会報告書用としてまとめたものですが、同協会の承諾の下に全文掲載し、報告といたします。(分析:金子光宏)

ワークショップT(報告)

「視覚障害者の就労継続支援について〜
連携と協力のあり方を考える〜」

日時:平成20 年6 月21 日(土)
14:30〜16:00
会場:仙台市医師会館交流室1

○金子 光宏(コーディネーター、特定非営利活動法人タートル東北地区代表)
菅原 淳(宮城労働局障害者雇用対策課地方障害者雇用担当官)
島崎 敏彦(宮城障害者職業センター所長)
陳 進志(東北労災病院眼科部長)
下堂薗 保(特定非営利活動法人タートル理事長)
工藤 正一(特定非営利活動法人タートル理事)

1.課題の設定

視覚障害者の職域は、依然として「あはき業」に依存しているが、近年ではIT技術の発達等を背景として、事務職に就職するなど、職域が拡大しつつある。一方では、在職中に受障した人の雇用の継続が課題となっており、視覚障害者の雇用の促進と安定のために、リハビリテーション関係者による支援に対する期待が高まっている。

そこで、今回は、労働行政の立場から、障害者雇用の概況とハローワークの役割について、専門相談支援の立場から、専門機関としての支援手法と障害者職業センターの役割について、医療の立場から、就労問題を抱える患者に対するロービジョンケアの実際について、当事者支援の立場から、「視覚障害者の雇用継続支援実用マニュアル」の作成の目的と活用についてという4 つのアプローチをモデルに、その連携と協力のあり方を考えることとした。また、討論に資するため、具体的な事例とともに最近の労働行政の動向について報告してもらった。

2.課題の解決に向けて

視覚障害者の雇用継続支援のために必要な体制、援助、期待等について、雇用の動向と各アプローチにおける援助の現状をふまえ、その課題と解決方法を探った。

(1)大会開催地である宮城県の雇用の現状

宮城県における障害者の雇用状況は、障害者雇用件数、実雇用率の推移を見ると、着実な伸びを示している。視覚障害者については、やはり「あはき業」(あんま・はり・きゅう)が多いが、少しずつそれ以外の職種に就く人も増えつつある。

(2)地域における支援の困難性

相談を受ける時には、既に退職してしまっている場合が多い。また、自営業や中小企業の場合には、どうにもできないケースが多い。特に自営業をしていて失職した人は、事務経験がないため、IT を訓練して再就職ということもなかなか難しい。
また、視覚障害を抱えながらでは、交通の便の悪い地方では再就職は非常に困難である。復職、再就職事例も少ない。
それだけに、必要な訓練を受け、退職することなく、継続雇用がなされるようにしていくことが望まれる。

(3)支援チームによる援助が重要

就労に関する支援機関は、障害者の態様に応じた職業紹介、職業指導、求人開拓等を行う「ハローワーク」のほかに、専門的な職業リハビリテーションサービスの実施(職業評価、準備訓練、ジョブコーチ等)を行う「地域障害者職業センター」、就業と生活両面にわたる相談や支援を行う「障害者就業・生活支援センター」、職業能力開発を行う「国立職業リハビリテーションセンター」、「日本ライトハウス」、「日本盲人職能開発センター」をはじめ、障害の態様に応じた多様な委託訓練を展開している「障害者職業能力開発校」などがある。雇用の実現のためには、ひとつの機関だけで問題を抱え込まず、支援団体や関係機関等と連携、協力して、チーム支援を行うことが重要である。

(4)人材の育成が急務

視覚障害者は、マイナーな存在であることに加え、障害者雇用対策の対象が多様化している中で、視覚障害者はどうしても隅っこに押しやられてしまいかねない。そこで、ハローワークなど職業リハビリテーション機関において、意識的に勉強する取り組みをすることが必要である。ハローワークにたまたまいい人がいれば、いい連鎖を生むが、その人が人事異動でいなくなると、始めからやり直しになる。また、視覚障害者に対応できるジョブコーチは非常に少なく、能力開発校においても、視覚障害者に対応できる指導員は非常に少ない。ハローワークで視覚障害に対応できる人材を育成することに併せて、これらの人材育成も急務である。

(5)地域障害者職業センターの役割

地域障害者職業センターにおける就労支援の進め方は、インテーク(受付)→アセスメント(情報の収集と整理等)→プランニング(就労支援計画の作成)→具体的な介入(職場復帰支援)→フォローアップ(職場定着支援)という流れになっている。また、医学的リハビリテーションの段階での職場復帰に向けてのアドバイスや、職場復帰への不安の解消など、本人に対する職場復帰支援も行っている。

(6)就労支援機器の活用と社会的ネットワークの構築

視覚障害者の就労については、就労支援機器の活用が有効である。特に、コンピュータは、文字処理のツール(墨字の読み書きができる)として、その役割は大きい。したがって、地域においては、視覚障害者向けの就労支援機器の操作方法等を訓練する専門家の養成が急務であり、その支援を継続的に行うためには、社会的なネットワークの構築が必要である。
高齢・障害者雇用支援機構では、視覚障害者向け機器、職場復帰の事例、職場改善好事例などをホームページで紹介しているので、ぜひ活用していただきたい。

(7)雇用継続に向けた眼科医の理解啓発

ロービジョン外来の事例を見ると、ロービジョン外来に来るまで何の支援も受けていなかったり、ロービジョン外来受診の目的が不明確だったりすることが多々ある。その原因としては、雇用支援に対する眼科医の理解・知識不足が考えられる。眼科医を取り巻く医療関係者(看護師・視能訓練士・医療ソーシャルワーカーなど)の支援力アップが必要である。

(8)マニュアルを活用したロービジョンケアの重要性

眼科医の忙しい日常診療においては、患者の日常生活における困難をしっかり聞き出すのは難しい。しかし、雇用継続支援には、一定の手法がある。「視覚障害者の雇用継続支援実用マニュアル」の中にチェックリストがあるので、ロービジョン外来において、ぜひ活用してほしい。

(9)人事院通知の活用

公務員については、平成19 年1 月29日、人事院通知(「障害を有する職員が受けるリハビリテーションについて」)が出されている。主治医の的確な対応によって、本通知に基づいて、地方公務員がリハビリテーション訓練を受けた事例がある。これは、本人の眼科受診のときに、職場の上司に同行してもらって、シュミレーションキットを使用して困難さを体験してもらうことにより、訓練の有効性と必要性の理解につながった事例である。
また、同通知がきっかけとなって、民間企業においても研修扱いでリハビリテーション訓練を認めてもらった事例がいくつか報告されている。

(10)各支援機関の連携と協力の重要性

平成19 年4 月17 日、厚生労働省は全国の労働局に対して、「視覚障害者に対する的確な雇用支援の実施について」を出し、雇用継続支援について、関係機関の密接な連携と協力によるチーム支援を指示している。本通知が発出されて1 年経過し、通知の効果が期待されている中、タートルに寄せられた相談の1 つに、例えば、中途視覚障害者を抱えて困っている事業主→ハローワーク→タートルへと繋がったが、問題は当事者が疑心暗鬼になり、会社人事部からのリハビリの提案をも拒否している事例があった。これは、まさに眼科医が本人の背中を一押しすると動き出すと思われ、ロービジョンケアの重要性を示唆している。適切なフォロー(連携と協力)を図りながら、雇用継続を成功させたい事例である。
また、建設工事の現場監督をしていて、労災事故で両眼眼球破裂した患者が、ロービジョンケアを行う中で職場復帰を果たした事例がある。眼科医から地域障害者職業センターに繋ぎ、以後、多くの関係者の連携と協力により事務職で職場復帰を果たした事例であり、まさにこの厚生労働省通知を先取りしたモデルケースである。

3.まとめ〜今後の方向性を求めて〜

中途視覚障害者の雇用継続のためには、まずはハローワークの職員が視覚障害者の雇用についてきちんと理解することが重要である。窓口での対応については、国の通知を各職員がきちんと理解しておくことが望まれる。「視覚障害者の雇用継続支援実用マニュアル」のチェックリストを活用して、アセスメントを行うことも有効である。

眼科医には、治療だけでなく、患者さんの生活にも目を向けることが求められる。医療機関からきちんと支援機関につなげることができれば、仕事を辞める前に雇用継続支援ができる。「視覚障害者の雇用継続支援実用マニュアル」の眼科医用チェックリストを活用して就労についてのアセスメントを行っていくことが有効である。

タートルでは、104 人のアンケートから就労事例を整理した。本人の了解を得られた事例は、近くデータベース化して公開する予定である。

行政文書や、いろいろな資料には、「連携」や「協力」によって雇用促進を図る、との記述がある。それを実現するためには、単なる理念に終わることなく、実質的なつながりが必要になる。「人事院通知」や「視覚障害者の雇用継続支援実用マニュアル」については、誰もが情報を共有して、支援者が共通認識を持っておくことが大切である。

連携と協力の今後については、それぞれがお互いに評価、検証しながら、実効あるものにしていくことが期待される。今回のワークショップのように、交流の場を通して、関係者がお互いに理解を深めることは、その連携と協力の基盤づくりの第一歩となるものである。

本ワークショップの参加者数は発表者を含めて約60 名であった。その内訳は、視覚障害当事者、福祉施設職員、医療従事者などであったが、特に今回は、眼科医、視能訓練士、医療ソーシャルワーカーなど医療従事者の参加が多く見られた。 また、いわゆる歩行訓練士など、視覚障害生活訓練専門職の参加が多かった。その他、地域で活動している支援団体や、障害者職業能力開発校などからの参加も見られた。

中途視覚障害者の事例は他に比べると数としては多くはないが、内容においては切実なものが多い。眼科医など、参加者が予想を越えて多かったのは、そのような状況を反映するとともに、昨年まで3 回にわたり視覚障害リハビリテーション研究発表大会と日本ロービジョン学会学術総会が合同会議として開催されてきたことにより、両者の理解が深まった結果とも思われる。何れにせよ、就労問題に対する関心の高さを知ることができた。

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【お知らせ】

2008 年度「特定非営利活動法人 タートル」
連続交流会年間スケジュール

理事 石山 朋史

6 月の総会も終り「特定非営利活動法人 タートル」は、これから今期の活動を積極的に行っていきます。その中で今期も連続交流会および地方交流会を開催させていただきます。内容とスケジュールについては次の通りです。

1. 連続交流会(東京)

9 月20 日(土)
テーマ「就労継続・復職・再就職; 職務に応じたIT 活用のスキルアップ」

10 月18 日(土)
テーマ「ロービジョンケアで医療から労働への連携を」

2009 年3 月21 日(土)
テーマ「就労継続・復職;就業・雇用に関する制度」

2. 地方交流会(名古屋)

2009 年1 月17 日(土)
テーマは詳細が決まり次第告知いたします。

なお参加者の交流を深める参加者交流会につきましては前期に引き続き自由参加で講演終了後に開催いたします。
普段、なかなか交流することの出来ない会員同士で情報交換やコミュニケーションを取ることで情報の幅を広げていただければと思います。
また、会員のメリットを明確にするために連続交流会において非会員(会員の同伴者は除く)の参加については有料になります。
それでは今期の連続交流会にご期待ください。詳細につきましては開催の約1 ヶ月前に会報、ホームページ、メーリングリスト等で告知させていただきます。

【その他行事予定】

●視覚障害者就労セミナー

日時 平成20 年11 月6 日(木)
13 時から17 時
場所 中野サンプラザ

●忘年会

12 月13 日(土)(詳細未定)

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【編集後記】

今号はちょっと硬い記事が多かったようですが、視覚障害者の就労問題の歴史を垣間見ることができる内容となりました。これから秋から冬にかけてはイベントが続きます。 多くの皆様のご参加をお待ちしています。

〈お詫び〉

情報誌タートル3 号(前号)の交流会記録に編集の手違いにより渡部隆夫様のテープ起こしの校正前の下書きを掲載してしまいました。渡部隆夫様他関係各位にはたいへんご迷惑をおかけいたしました。お詫び申し上げます。改めまして、渡部隆夫様の講演記録を情報誌タートル4 号(今号)に再度掲載させていただきました。

(編集担当 杉田 ひとみ)

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