特定非営利活動法人 タートル 情報誌
タートル 第3号
かつて、中途視覚障害者は、一旦退職すると、再就職は非常に厳しく、結果的に福祉に頼らざるを得ませんでした。近年のIT技術の発展は、視覚障害者の職域を拡大し、たとえ失明したとしても、それまでの経験や知識を生かしながら、働くことを可能としています。このような中、昨年4月17日付けで、厚生労働省から、「視覚障害者に対する的確な雇用支援の実施について」(障害者雇用対策課長通知)が出されました。当事者はもちろん、日本眼科学会を始め、多くの関係団体からも評価され、歓迎されています。この通知のキーワードは、「チーム支援」「連携」「協力」です。視覚障害者の雇用の促進と安定のためには、ハローワークを中軸に、医療・福祉・教育・訓練・労働の各関係機関の有機的な連携が重要です。
眼科医療との関係では、医療から労働への流れ(情報提供と連携)が重要です。誰もが目に異常を感じれば眼科を受診します。難治性であったり、進行性であったりすれば、就労にも困難が生じてきます。患者にとっては、予後と就労継続がどうなるかが一番心配です。患者の就労問題は生活の根幹に関わる問題ではあっても、疾患の治療ではないため、ロービジョンケアを行っている一部の医療施設を除いては、ほとんど相談にのってもらうこともできません。
私は、この通知を実効あらしめるためにも、ロービジョンケアが重要であると考えています。事実、少なからぬ事例がこれを証明しています。また、昨年12月19日の厚生労働省労働政策審議会の意見書でも、「視覚障害者に対するロービジョンケアなども含め、継続雇用支援を行うことが適当である。」と述べております。ちなみに、ロービジョンケアとは、キュアからケアまでを含む包括的な視覚リハビリテーションのことです。単に疾患の治療だけでなく、患者のQOLを高めるために、保有視覚機能を最大限活用し、視覚補助具の選定や訓練、生活や就労のアドバイスを行い、問題をトータルに解決することです。
このように考えれば、ロービジョンケアは社会的に重要な医療です。しかし、残念ながら、診療報酬(指導管理料など)の適用は今年度も見送られたと聞き及んでいます。中途視覚障害者の継続雇用を実現するためには、誰もが最初にかかる眼科において、適切なロービジョンケアを受け、できるだけ早期にハローワークに繋がるようにしなければなりません。「医療→福祉→労働」という従来型の流れから、「医療→労働→福祉(労働で繋ぎ止めながら必要に応じて)」という流れにしていく必要があります。
何れにしても、このようにして、労働の中心に位置するハローワークがコーディネーター役となり、チーム支援と適切なロービジョンケアで、中途視覚障害者の雇用継続が実現できれば、福祉に頼ることなく、納税者として働き続けることができます。ひいては、社会保障費の抑制にも貢献できます。そのためにも、ロービジョンケアのできる眼科医がもっと増えるとともに、ロービジョンケアが社会的に必要な医療であることが認知され、一日も早く診療報酬が適用されることを願って止みません。
日本盲人職能開発センターの北林です。よろしくお願いします。そして、皆さんから向かって右側に私どもセンターの指導員の廣川がおります。今日は当センターの紹介を私から、そしてこれからは廣川が中心となってパソコン指導をやっていくということで、廣川に事務処理科など、パソコン指導の実態と実際について話してもらおうと思っております。当センターにはいろいろな組織があります。職能開発センターの前身の「カナタイプ協会」というものがあります。これは非常に長い歴史を持ったもので、それが前身となって「日本盲人職能開発センター 東京ワークショップ」という通所授産施設が誕生したということです。ここに至るまでも相当な変遷があるのですが、杉並のプレハブを事業所としてというのが最初だったと聞いています。そこから前所長の篠島永一先生らが中心となって、現在の東京ワークショップを作っていったという経緯があります。その東京ワークショップの説明と、もう1つ日本商工会議所で行われているPC検定の説明を私が受け持ちます。後半の事務処理科についての説明は廣川に任せ、当センターとタートルの会との関わりも時間がありましたら話をさせていただきたいと思っています。
当センターの2階に東京ワークショップという通所授産施設があります。1980年にこのセンターの設立と同時に発足し、録音ワープロ速記という科目を持った身体障害者通所授産施設という位置付けになっております。録音ワープロ速記というのは簡単に言えばテープ起こしのことです。テープに録音された発言録を文字化する仕事を視覚障害の方たちが行っています。定員は40名ですが、現在46名の方が通所しています。実際のところを言いますと46名というのはキャパシティを超えています。職員の数も自立支援法の関係で減っている状態で、サービスが非常に低下しているということもあるのです。しかし売上高ではサービスを低下させないような自助努力をしています。
作業内容としては先程申し上げたテープ起こし、それからメディカル・トランスクライブというものがあります。これは都立駒込病院に当センターの利用者の方が出向して仕事をしています。CTやMRI、あるいはレントゲンや超音波などは今はすべてデジタル画像でパソコンの画面に表示されます。放射線科の医師がそれを見ながら所見をパソコンに向かって喋ります。喋った内容が音声ファイル(WABファイル)に変換されて、病院内のLAN(ローカル・エリア・ネットワーク)を通して当センターの利用者が使っている端末に送られて来ます。それを再生して録音所見を文字化するというシステムです。作業を簡単に説明しますと、医師が録音したWABファイルが画面上にリストとしてアップされてきます。上下矢印キーでそのファイル名を聞いて選ぶようになっています。エンターキーをポンと押すとすぐに再生できるような状態になります。そしてパソコンに繋いだフットコントローラーを操作して再生したり巻き戻しをしたり、あるいは早送りをしたりして録音された所見の内容を聞きます。あとはスクリーンリーダーで文字起こしをしていくという流れです。そういった画期的な流れを作るのには、1年ぐらい開発に時間がかかりました。PC-TalkerやXP-Readerなどスクリーンリーダーの開発もとのプログラマーにいろいろとお願いして、非常に使いやすいシステムを構築したということがあります。その他の仕事としてはテープ編集とか、ダビングという仕事もあるのですが、これはある意味、テープ起こしができない方の救済ということで今でも行われています。
作業時間は平日の午前10時から午後5時までとなっています。しかしながら授産施設では珍しいと言われるのですが、休日出勤とか残業などもよくあります。それだけ仕事量も豊富だということも言えるのですが、一方では、ある能力クラスの人たちに仕事が集中してしまっているという実態も否めないかなと思います。主な受注先としては厚生労働省が圧倒的で、次に国土交通省等です。一般の企業としては六法全書で有名な有斐閣、それから日本IBM、野村総合研究所、ヤクルト等の会社からも受注しております。年間受注量は2006年度の売上金額が1億円を超えています。昨年度の実績で1名あたりの平均支払は月額で112,000円となっています。
訓練期間は4月から3月までの1年間を要します。訓練内容としてはパソコンの活用とスクリーンリーダーの使用方法はもちろんですが、一番時間を要するのが「フルキー六点漢字」の習得です。ここに一番時間を要します。フルキー六点漢字あるいは、六点漢字という言葉を初めて聞かれた方は手を上げていただけますか。やっぱり半分ぐらいいますね。六点漢字というのは基本的には音と訓の組み合わせで、1つの文字に関して3タッチで1つの漢字を出すという仕組みです。例えば、「北林 裕」という文字を漢字で出そうとした場合、kitabayasiと入力して変換候補を音声ガイドで聞いて、エンターキーを押して確定するというのが一般的かと思います。フルキー六点漢字入力では、シフトキーを押しながら「レホキ」と打つと「北」という字がダイレクトに出てきます。「ノリハ」と打つと「林」が出てきます。同様にシフトキーを押しながら「マユソ」と打てば「裕」が出てきます。この方式だとスクリーンリーダーは要らないみたいですが、校正のときには、やっぱり不安ですから必要です。その仕組みを解説するとなると3時間はかかりますので今日のところは省略します。1つの漢字を出すのに3タッチで出すことができる技術を指が覚えていきます。本当に練習次第です。したがって習得するには1年間かかるということです。
40数名の方が仕事をされているわけですが、例えば1時間のテープを文字化して同じだけの支払額というわけではなく、能力評価をさせていただいております。スピードよりも正確さを重視して5ランクに分け、それに応じた支払いをするという形を取らせてもらっています。喋ったものをそのまま文字化するということであれば、わりとすらすらと書けるものです。しかし、実際のテープ起こしは大変な作業なのです。言葉を倒置したり、繰り返し言葉や余計な言葉をとらないといけないのです。つまり、そういったものを頭の中でまず整理して、文章にして書き始めるという能力が必要になります。
一般のトランスクライバー(テープ起こし従事者)がNHKでやっている政治座談会の内容をテープ起こししたとして、30分間に何文字ぐらい打てるでしょうか。30分間に書ける文字数というのはたかが知れているんですね。ちょっと幅はありますが、1,200文字から2,400文字ぐらいだと言われています。ところが、私どもの「フルキー六点漢字入力」をマスターした若い人で、訓練を終了して2年目・3年目になると、びっくりするような数字になってきます。2,400文字ははるかに超えてすぐに3,000文字にいきます。そして現在7年目の人は5,200文字を打ちます。2倍以上のスピードです。それだけの進化した入力方式になってきたと言えます。東京ワークショップというのはそういうことをやっているところです。もし興味がありましたら是非平日ご見学いただければと思います。
次にPC検定のご紹介をさせていただきます。商工会議所で行っているいわゆる検定試験です。現在、文書作成の3級というところしか残念ながら出来ていません。今年度内には、4級に当たるベーシックというものも、視覚障害者がスクリーンリーダーで受験ができるような形に開発を進めようと、今鋭意努力しているところです。2級というところになりますと、来年度の計画になっています。データ活用といういわゆるExcelを使ったものも、来年度中には実現出来るように働きかけをしているところです。知識問題と実技問題というものがありまして、知識問題は30問出題されます。解答時間は一般は15分ですが、視覚障害受験は1.5倍の23分いただいております。知識問題の出題の仕方等の説明は省略しますが、スクリーンリーダーはPC-Talkerですべて読み上げます。実技問題はWordの文書作成ですが、一般は30分のところを視覚障害受験は60分いただいています。これは問題の表を把握したり処理するのに非常に時間がかかるというところを主張して、2倍いただいているということです。もしそういった検定試験等に興味がありましたら後ほど、ご質問をいただければと思います。私の話はここで一区切りいたしまして、一旦廣川にマイクを移したいと思います。
廣川と申します。事務処理科の説明ということで時間を頂戴しました。事務処理科は平成6年に視覚障害者の一般就労及び継続就労、職場復帰を目的としてスタートしました。平成19年度で14期生が卒業し、来年度4月には15期生を迎えることになります。事務処理科ということで、事務処理に必要なPCの操作等の習得訓練は言うまでもありませんが、何と言ってもコミュニケーション能力も含め、社会人として必要な素養を身につけていただくために、ビジネスマナー等の勉強も行っております。秘書検定3級の問題が大体解けるようなレベルの内容です。それから簿記、日経新聞、そういった世の中の仕組みを解りやすく解説していただくために、某大手証券会社の審査部長をなさっていた方に講師をお願いしたりしています。
事務処理科の定員は10名で二つのコースに分かれています。5名は東京障害者職業能力開発校の委託訓練で「OA実務科」といいます。これはハローワークからの受講指示書に基づき当センターで1年間訓練をします。このコースは訓練手当てが出ます。後の5名は企業からの継続就労や職場復帰を目指している方で「事務処理科」という枠です。訓練期間は1年・6ヶ月・3ヶ月とあり、空きがあれば随時入所が可能です。最近は雇用の情勢もよくなってきて、今年度の訓練生はほとんどの方が企業からの内定をいただいています。
当センターは専従職員が少ない状態ですので、最近はハローワークを巻き込むようにしています。どういうことかというと、現地面接を実施しております。現地面接とは、実際にハローワークから障害者雇用を達成していない企業さんを当センターにお連れしていただきます。そして、まだ就職の決まっていない訓練生がOA室でパソコンを操作しているところを見ていただきます。スクリーンリーダー等の補助機器を使うことによって視覚障害があってもパソコンを使って事務処理ができることをご理解いただきます。例えばExcelを使ってピポットテーブルで集計をしたり、あるいはWordで表の2段組を作って、実際に企業に提出している書類を企業の方の見ている前で作成します。そして、「これを御社の志望動機と本人の職務経歴書とさせていただきますので、社の方にお持ち帰りいただいて、ご検討いただけたらと思います。」と、人事担当者にアピールしております。その結果、現地面接においでいただいた会社が9社、そのうち内定をいただいた方が4名でした。合同面接会よりもかなり良い成果が上がっております。
あとは何と言っても定着支援ということです。就職あるいは復職して3ヶ月以内に、できるだけ会社におじゃまするようにしています。公務員の方で、まだ完全復帰はしていないのですが、暫定的に戻られた方がいます。したがって、月に2回くらい現地指導というかたちで職場を訪問させていただいております。そういった支援をすることによって、会社あるいは団体側も、実際に復職した後も、あるいは今後も当センターと付き合って行きたいと思ってくれるようになりつつあります。
昨年から私も事務処理科の主担当になりましたが、昨年度は種蒔きであるならば、本年度は実ったかなということで、来年度に枯らさないようにしっかり取り組んでいきたいと思っています。視覚障害の方を含めた多くの障害者の方が、経済的自立を図る一翼を担えればと思っている次第です。雑ぱくではございますが、事務処理科についてご紹介させていただきました。
時間が余りましたので、講習会についてご案内申し上げなさいと上司から指示が出ました。講習会は別に主担当の職員がおります。年に10回ほど開催しています。10回のうち6回が基礎コースです。どういうことをやっているかと申しますと、基本的には点字の読み書き、あるいはパソコンの実際の活用方法、そして当事者の取り組み、企業の取り組みなどを網羅した4日間の講習会があります。火曜から金曜までの平日ですので、企業の方の参加が少ない状態です。それと応用コースというのもあります。そのコースはAccessの講習会を行ったりしています。JAWSの活用ということで、エクストラさんをお呼びして視覚障害の方が企業において、こういう機材を使えばこういった仕事ができるという提案が出来る講習会も、どんどん目指していけたらと思っております。随時ご連絡をいただき、ホームページの方をご覧になっていただいて、講習会にもご参加いただけたらと思います。それでは北林にマイクを移したいと思います。
北林です。廣川からご紹介させていただいたのは指導員養成講習会のことですので、お間違えのないようにお願いいたします。少し補足しますが、晴眼者の人にも白杖歩行とか、あるいはシミュレーションレンズを使ってCCTV(拡大読書器)を見たりとか、疑似ロービジョン体験をしたりというコマも用意しています。
あと5分ありますので1995年の話から色々とさせていただけたらありがたいと思います。東京ワークショップは1998年までは利用者に積極的に外に出るというか、いわゆる一般就労をしてもらうための働きかけをしていた時期がありました。つまり事務処理科が出来る前ということになります。篠島先生とカウントしてみたのですが、東京ワークショップの設立から事務処理科が出来るまでの間、一般就労できた人が何人いたかというと22名でした。なかなか就職が難しいと言っていた時期で22名というのは、数字的にはすごいなと二人で自己満足に浸り合ったというのがあります。しかし定着したのは15名です。22名中15名の定着率ですね。ところが1995年以降、まるで東京ワークショップ就職バブルというような時代がありました。その時代は14名中12名が定着しているんですね。ものすごい定着率だと改めて思いました。
実は失敗経験があります。最初の頃の人達、80年代後半もしくは90年代前半です。就職した人が全滅なのです。一人こちらの利用者として戻って来られた方もいらっしゃるのですが、全員が辞められています。相当ショックを受けました。その原因というのは就職出来たということだけで手放しで喜んだという部分があったのです。いわゆるフォローアップが足りなかったということなのです。会社に対して安心感を持たせるという部分です。会社とは何かというと難しいですが、上司なの、同僚なの、それとも経営者なのという話になると難しいのですが、会社に対して安心感を持たせることは非常に重要なことだと、その後反省したわけです。就職した本人も「フォローアップしてくれる、何かあった時にはすぐ来てくれる」という安心感です。特に95年よりも以前のパソコンのマシンは、ご記憶のある方はあると思うんですが、自分自身で色々な呪文のような設定のためのコマンドを覚えない限りは、何かトラブったときに、周りの誰も面倒を見てくれない。時間がないから見てもらえないとかいうことではなくて、訳が解らなくて見てもらえないという時代があったわけですね。CONFIG.SYS、AUTOEXECなど、ちょっと間違えるともう絶対に立ち上がってこないという時期がありました。そんな中ですので、安心感がなければなかなか就職は出来ないというのは当たり前のことだったのです。当たり前のことを反省したということです。ですから余計に一般の会社に入った時にフォローアップ、「大丈夫です、いつだって何かあった時には行きますから。」という姿勢を会社に対して見せる。当事者に対しても「大丈夫だよ、いつだって行くから。」「行くからと言って来てくれた試しがないじゃない。」と言われながら、それを言い続ける。言い続けたことによって、これだけの定着率を上げることができたのかなと思います。それが先程の廣川の発表の中で後輩に引き継がれていて、非常にうれしいと思うことの1つかと思います。
タートルの会では、創設したときに色々とご協力をさせていただいたわけですが、その後、北林はぱったりといなくなってしまったみたいな感じなのですが、陰ではちゃんとやっていましたので、その辺はご承知おきください。そういえば録音のセットも交流会があった時は私がやっていたなとか、色々と思い出すところがあって、感慨深いものがあります。NPO法人タートルになって、感慨無量ですね。そう思っております。本日はつたない説明で大変恐縮でございました。ご清聴ありがとうございました。
こんにちは、愛知県から来ました大脇多香子と申します。今日はよろしくお願いします。題名を付けて来ました「ただひたすらに・・・たどり着いた今がある」です。
「縁に触れて、それに気づかぬ人」「縁に気づいても、それを生かさぬ人」「縁に触れて気づき、それを大切にする人」と、いつもそばにいてくれる友だちが「今の私にぴったりくる言葉だね。」と、ステキなエールで今回の東京行きを見送ってくれました。
たくさんの大先輩方の前だからこそ伝えられる、今の私のありのままの気持ちをお話しようと思います。15歳で「網膜色素変性症」と診断されました。幼い頃から、いつも目が悪いことが私の邪魔をしました。正直言うと、目が見えなくなって楽になった分も大いにあります。
短大を卒業後は、大型量販店「ユニー株式会社」に入社しました。10年間は、カバンとアクセサリーを扱うお店で店長として、とてもやり甲斐のある販売職をしていました。時代も良く頑張れば成績も上がり、ごほうびに海外旅行にも連れて行ってもらいました。二人目の産休満了後、視力低下を指摘され、すんなりと復職できませんでした。それでもなんとか「とりあえず」の一言つきで復職しました。売り場での接客業に戻ったものの、もう限界を感じずにいられないほど見えなくなっていました。障害者手帳を申請すると、もう既に2級でした。もうそこまで見えなくなっていたのかと、驚くやら悲しいやら・・どうしていいのかわかりませんでした。でも悲しんでばかりではいられない、何とかしなければいけないと、これからの自分を模索し始めたのもこの頃でした。
視覚障害者となり、運よく同じ店の事務所に配置転換してもらえました。約5年間は、文字を拡大したり、黒い定規やシートを使ったり、印をつけたりして、不自由ながらも何とか業務処理をできていました。太いペンでメモを書いていましたが、だんだんと読み返すことが、困難になっていきました。見えていたはずの帳票に数字、文字処理ができなくなっていきました。黒のボールペンでサインをしたつもりが、赤色だったことに気がつかず、「あんたの目はどうなっとるんだ!色もわからなくなったのか?」ときつい口調で知らされました。「見えないなら、そういう仕事に変わるべきだ。」「仕事ができないのに、ここにいるだけなら給与泥棒だ。」挨拶もしてもらえず、連絡も「書いてあるのだから見ればいいでしょ。」と言われた事もありました。ズタズタに傷つき、ぼろぼろの精神状態でした。
見えないせいか、能力がないからなのか、努力が足りないのか・・それとも人格の問題なのか?その線引きが難しくて苦しみました。生きている意味があるのかと、自問自答の繰り返しでした。そんな中でも、ほんの数人の方が味方をしてくれました。見えなくなって、人の心がこれほど見えるとは何とも皮肉な現実でした。
上司に何度も呼ばれては責められました。私はいつも一人、相手は複数でした。働きたいと言えば、「何を考えとるんだ、命の危険をさらしてまでここに来て働く意味があるのか?」「今すぐに家に入るべきだ。いったい旦那は何を考えとるんだ。旦那に会わせろ。」と猛反発されました。一人ぼっちではどうにもならなくて、「ここにはいられない」と盲学校へ進学することで、現実から逃げようとしていました。
盲学校の訪問をきっかけに、名古屋ライトハウスのピアカウンセラーの新井さんと出会うことができました。張り裂けそうな爆発寸前の気持ちを、丸ごとぶつけるように話を聞いてもらいました。気持ちに寄り添って、温かく見守ってくださいました。時にはぐいっと引っ張られ、また時には立ち止まって振り返る大切さも学びました。
パソコンの恩師、星野さんとの出会いが待っていました。星野さんからの「会社を辞めてなくて、本当に良かったですね。きっと何とかなりますよ。」とのお言葉を信じることで、なえそうな気持ちを振り払い、「いつかきっと・・私だって。」と根性を奮い立たせて、自分の弱さをコントロールしていました。
ライトハウスで、タートルの会の『また日は昇る』を手に入れました。タイミング良く、そのタートルの会が名古屋で開催されると情報をつかみ、思いきって参加しました。ワラをもつかむ思いで発言しました。そして孤独との戦いに終止符を打つこととなりました。2004年11月のことでした。
愛知学院の橋本先生を通して、愛知視覚障害者協議会の梅尾さんとつながり、労働問題を得意とする中谷弁護士とつながりました。中谷弁護士の呼びかけで弁護団が結成されました。「継続勤務をする気はないか?」と問われ、もちろんそうしたいが、そんなことをとても口にできる状態でない現実を包み隠さず話しました。まずは「働きたい」という意志を伝えて、それから何をしていけばいいかを考えていこうと、全く先の見えないスタートでした。
弁護士を代理人に立てたことで、会社との関係に厚い壁ができました。初めての話し合いが行われたのは、1年半を過ぎた頃でした。でも今思えば、とても有意義な待ち時間でした。1日も仕事を休まず、休日を利用して名古屋ライトハウスへ通いました。点字の習得、歩行訓練、パソコン訓練と不安な気持ちをごまかすように、がむしゃらに取り組みました。
真綿で首をしめられるような痛みのない苦しみ、確実に見えなくなっている抱えきれない恐怖感、職場を通じた社会での孤独感、私だけという劣等感でまさにお先真っ暗の絶望の中、この辛すぎるハンディを受け入れ、数え切れない涙と共に再び歩き出すことができました。人に傷つき人に救われ、たくさんの出会いに恵まれて今があります。
2年間通った点字教室では、見えなくても楽しく生きていいんだよ、見えなくたって楽しく生きていられるよって、そんな空気に包まれていました。お互いに顔はわからないけれど、挨拶の声で誰だかわかるという、心地よさが安心でした。
子供はほうりっぱなしにできる年齢ではないし、私の母親は若年性アルツハイマーの末期の寝たきりでした。仕事はお店が22時閉店なので、毎日タクシーで帰ると皆寝ているという生活でした。休みの日は訓練に出かけて、今振り返ってみると「よく頑張ったなぁ。」と自画自賛です。
職場で視覚障害者は私一人、白杖も点字使用者も私一人、音声パソコン使用者も私一人。こんな最悪な職場の雰囲気の中、勇気を振りしぼって、一つずつデビューしていきました。見えなくなって、できることを失っていく中で、できるようになったことを披露するわけです。
だからこそ、格好よく使いこなしたいという闘志が、心の奥底でメラメラと燃えていました。仕事をしていたからこそ、習得したことをすぐに、実践に生かすことができました。それを思うと、現役真っ最中で、若かったからこそ、できたんだと思えるようになりました。
点字を習いだして、1年過ぎたある秋の日、ホットカーペットを出したときの出来事です。何気なく触ったスイッチに、「ON」と指が点字を吸い込みました。何も分からず夢中で読んでいた点字を、スーッと指が読んだという感激でした。あの不思議な感動の瞬間を、私は生涯忘れることはないでしょう。
職場では、私からの粘り強い要望である環境改善の必要性を提案し続けていました。初めは、弁護士と人事部の担当者だけでの話し合いでした。3回目から、私も加えてもらいました。その後は、弁護士一人と職業カウンセラー、パソコン講師、歩行訓練士が加わって、具体的な話ができるようになりました。
退職の言葉をちらつかせていた人事マネージャーの口から、「できることを、とりあえずやってみましょう。」と、耳を疑うようなお言葉をいただけました。
退職勧告から3年、2007年6月に、待ちに待った社内ネットワークにつながった音声パソコンの導入が実現しました。パソコンの設置の日に、情報システム部の方と人事部のマネージャーが来てくださいました。帰りの際、「とりあえず使ってみて、何か困ったことがあればまた考えましょう。」と、何とも理想的な言葉をかけていただきました。目指してきたゴールが見えたと同時に、新たなスタートラインに立ちました。
うれしかったと同時に、これからが本当の踏ん張りどころだと、ピリッと緊張感と期待感で気持ちが満たされました。私が視覚障害者として在籍することを、会社が認めたという事実を、堂々と発表したような、晴々しい気持ちでした。過去の自分がこれからの自分を励ましているようでした。
見えない私に、郵便物を配る仕事を残してあることが、嫌がらせではなく、私にできる仕事なんだと、思えるようになりました。点字の貼ってある100個ほどのポストに、手紙を入れます。受信したファックスも振り分けます。スキャナーで読めないものは、メンバーに目を借ります。
パソコンに飛び込んでくる緊急メッセージを、出力して処理することが、できない仕事でした。今は内容の確認もでき、該当者に連絡して配布します。Excelを使って75店舗分のテナントの変動経費を管理しています。
だんだん目が見えなくなっていった頃、自分に任されている仕事を手放すことが、居場所を失うようで怖くて、怖くてたまりませんでした。資料を家に持ち帰って家族に読んでもらっていました。そうまでしてでも、こなしていくしか、他に方法が見つかりませんでした。とにかく必死でした。
今は、私にできるファイル管理の部分に参加しています。そのフォーマットに、メンバーが入力して業務処理をします。私にできることは、ほんの一部のことですが、確実にできることがあることに意味があると思っています。どのパソコンよりも、フォルダの整理整頓がきれいにできていると自負しています。
マイカー通勤の直営従業員180人分の免許証や任意保険、車検、自賠責保険の更新時期を連絡して、Excelで管理しています。大元のデータ修正は、メンバーが担当しています。修正済みのデータを、細かくチェックして、パソコンだけで処理できる情報の部分を、私が担当しています。これにはこんなエピソードがあります。
以前は警備で管理していたものが、事務所管理に変更になりました。その際に、業務マネージャーがExcelで、データ入力をされていました。「大脇さんに担当してもらおうと思っておるのだけど、スキャナーにかけたら読めるのかな?」私は、「印刷をしないで、そのままデータでいただければ、確実に読めるし確認も編集もできます。」と伝えました。見えなくなって、初めて任された仕事でした。
勤務ローテーション表や、催事計画、人員配置表、電話帳もデータでもらっています。保健師の面談案内があると、該当者を一度だけ読んでもらいパソコンに入力します。私が連絡をしてスケジュールを組みます。クレジットカードの獲得キャンペーンの期間が終ると、名前と獲得件数を一度だけ読んでもらって、成績リストを作成します。
電話応対に必要なマニュアル、求人の応募受付、レジの打ち誤り、商品クレーム対応などもExcelを使っています。PC通信のテプラを使って、名札や、ラベル、きれいな点字を簡単に作れます。
ゴミ捨てに必要なバーコードは、点字を貼ったオリジナルのマイバーコードを愛用しています。ゴミ計量器を導入されたときに、社員なのにゴミ捨てまでできない仕事になってしまうことが、とても残念でした。でも、私にできる方法がひらめき、一緒に働く社員に相談をしました。「できるようになるなら、こちらも助かるし、一度やってみよう。」と協力してくれました。おかげさまでめでたく、ゴミ捨てができる仕事になりました。
毎日規則的に出力する帳票ならば、ファイルに点字さえあれば正確に閉じることができます。パソコンである程度の文字処理ができること、データで情報をもらえれば、内容をほぼ100%把握できることも浸透してきました。面接や受け入れも、目を使わずに言葉だけで、私なりのやり方で特に問題なくできています。計算問題の答え合わせ、YG検査の結果などどうしても目が必要な部分は、「お願いします。」と一言いえば、快くメンバーが引き受けてくれます。
全店朝礼にも積極的に参加しています。チラシを見ることができない、目からの情報がない私にとっては、店の動きを把握する重要な情報源です。レベルアップトレーニングでは、皆と一緒に笑顔の練習、接客に欠かせない言葉のトレーニングもします。何列目とか、向き合ってとか、そんな指示があるとどこからか「大脇さんは右向きね、」。「大脇さんは、2列目だよ。」と誰かが教えてくれます。
バックヤードですれ違う従業員に、しっかり挨拶ができるようになりました。手に荷物や書類を持っていたり、よく人が立っている場所など、自信がないときは、「通ります」と声を出して歩けるようになりました。制服を着て売り場を歩けるようになりました。「いらっしゃいませ」と、笑顔で堂々とお客様に言えるようになりました。従業員かもしれないし、柱の方を向いていたかもしれないけれども、笑われたことは一度もありません。
メンバーが忙しくしているときに、ついついできないことを悲観的に思う自分にはサヨナラしました。それがクリアできないのであれば、障害を背負って社会参加する資格はないよなと思えるようになりました。挨拶をして無視されると、つい見えないと思ってと、嫌な気持ちになるのもやめました。きっと、人間性の問題で、視覚障害がなくても同じ思いをするのだろうと思えるようになりました。
できそうだなと思う仕事に「私がやります。」と言えるようになりました。事務所での声出し、挨拶、電話応対、店内放送に視覚障害の有無は無関係です。Excel、Wordで仕上げたデータや出力した書類にも、視覚障害の有無は無関係です。イベントや催事など、イレギュラーな店内放送を名指しで頼まれるようになりました。新人さんに作ってあげた緊急時の対応、電話応対や店内放送など、詳細な手づくりの業務マニュアルを「私も欲しいわ」と言われたり、上司から「このデータに昇順チェックを入れて仕上げて欲しい。」忘れた頃に、「平均年齢を算出して欲しい。」とか、メンバーから「ちょっとメモにして、案内しといて。」とか。本当に少しずつですが、これなら出来ると認めてもらえることが、着実に増えています。
人的支援が必要なのか、スキルアップをすれば解決するのか、環境改善をすればいいものなのかを、試行錯誤しながら前進あるのみです。目を貸して欲しい部分を、簡潔明瞭に遠慮しないで言えるようになりました。助けてもらったことに、過剰ではなくさらりと「ありがとう」を言えるようになりました。
私が歩くと、サッと引出しを閉めてもらえること。いつもと違う所に物が置いてあることを教えてもらえること、椅子を引いたままで私がぶつかったときに、相手に「ごめん」と言ってもらえること、帳票のファイルが増えたり減ったり、場所が変わったりすると、教えてもらえること、自然な形でそんな関係が築かれていることを、改めて幸せに思います。
事務所の掃除を毎日私がしています。手探りでの机拭き、モップで床を拭きます。見えないことを気が付かれないようにごまかしながら、ぶつからないように物を倒さないように、おどおどしていたあの私が、上司やメンバーがいる中で堂々とお掃除をするのです。以前の私からでは考えられない姿です。
あるメンバーが、嬉しいことを言ってくれました。「大脇さんが入力して、私がそれを整えて、こうすれば二人でどんなものでも作れますね。まだまだ作ってほしいものがたくさんあるんです。私は、Excelが苦手で使いこなせないのでお願いしますね。」仕事なのに私はつい、「ハイ、喜んで。」と言っていました。
毎日最終に、発注機の持ち出しの管理簿をファイルします。機械を触って台数を数え、用紙の裏面を触って記入済みかどうかを確認しています。たまたま上司がすぐ傍にみえて「ふーん、なるほど。そうすれば書いてあるかどうかわかるもんなぁ。いやぁ・・さすがですな。」と言われたことがありました。決して嫌味ではなく、私なりの工夫、目で確認できない代わりの方法があるんだと素直に感心してみえる様子でした。
愛知県の岡崎盲学校の高校一年生の生徒さんが、職場の見学にみえました。ライトハウスを通して依頼があり、店長に相談しました。即答で受け入れてくださいました。偶然その日に、音声パソコンを導入してくださった前任の店長がお店にみえました。「大脇さん、元気でがんばっとるか?」と声をかけてくださいました。見学にみえる話をすると、「そうか、高校生に夢を与えることになるんじゃないかな。よかったな・・でもそれは、大脇さんの頑張りが、あったからこそだぞ。これから世の中は、ハンディがある方も、どんどん就職ができる社会にしていかにゃいかんでな。」とおっしゃいました。
自分なりの信念を貫き、突き進んできた今までが、「間違いじゃなかったんだ。」と確信できたような思いで深い一日となりました。あんなに辛かった職場での人間関係が、今は企業内ジョブコーチと呼べるほど、理解し合えるようになっています。私自身が変わったことが大きな要因です。気がつくと、視覚障害者となって生き返った自分を大好きになっていました。
私生活では、この春長男が中学二年生になり、次男が小学六年生になります。
去年の春、入学式の朝の出来事です。ピカピカの学生服を着た長男が、「お母さん見て!」とそばに来ました、洗い物の手を拭いて、そっと手を伸ばすと、おとなしく触らせてくれました。「見て=触っていいよ」の関係が自然に成立していることを、本当に幸せに思いました。力も強くなり、フライパンを上手に振って、料理をするようになりました。「お母さん、肉のひっくり返る音を、聞いとってよ!ネっ、わかる?すごいでしょう!」「俺ね、ジャンプすると天井に手がつくようになったんだよ。いい、天井を触る音を聞いとってよ!」自然に身についた私と息子たちの、コミュニケーション方法ができています。主人は少々乱暴な名古屋弁で、「もし俺が見えなくなったら、食わしてくれな。ワシはおみゃあさんみたいには、絶対に生きれん、絶対にできんと思う。なっ頼むぞ。」と、精一杯の彼らしい温かい言葉で、励ましてくれたことが、ありました。見えなくなってからの外出を「危ないから、やめとけ。」と言われていたら、今の生活はありえませんでした。
もし、視覚障害者として生き返ろうとしている私を、心から応援していてくれなかったら・・、もしきっと生き返るだろうという信頼がなかったら、ポイと私を駅において「気をつけてな、いってらっしゃい。」と言ってくれなかったと思います。あるとき、そんなふうに思う感謝の気持ちを、話したことがありました。「俺だって、一応心配しとるんだよ。」「えっそうなの?」「当たり前だ!俺は目をつぶって、点字ブロックの上に立たされたって、いくら方向を知らされたって、一歩も足が出んわ。おみゃあさんは、本当にすげえわ。電車に乗って、新幹線に乗って、ちゃんと予定をこなして帰ってくるもんな。帰って来ると、無事でよかったと正直ほっとするんだよ。」と言われたことがありました。白杖を持ち始めた頃は「俺と一緒に歩くときは、白杖は出さんでいいよ。」とやわらかく言われていました。スーパーで買い物をしているとき、人がよけてくれたことに気がつきました。それを主人に話をすると、「そうだよ、おっかさんが知らないところで、黙ってたくさんの人が、カートをどけたりしてくれとるんだよ。気付かんところで、いろんな人が助けてくれとるんだよ。」と教えてくれました。
そんな頃から、主人と歩くときにも、白杖を持たせてもらえるようになっていました。友だちも、「白杖のおかげで、周りの人たちが協力してくれるから、こっちも安心して楽なんだよ。」と言ってくれます。
障害を負ったのは私一人だけど、家族みんながそれを受け入れて、今の生活が成り立っているんだなあと、改めて実感しました。職場においても同様で、私自身が、与えられた病気と障害に対して、真正面から向き合えるようになったころから、少しずつ変わっていった気がします。家庭での居場所、そうして社会的な居場所がどうあるのかは、自分の気持ち次第で、ずいぶん変わるものなのかもしれません。
誰もが、つらい時期を乗り越えて、自分らしさを取り戻して、前を向いて歩き出せる社会にしていきたい、どうしようもない、悲しみの中、こっちだよとうまく言えないけれども、どん底からはい上がろうとする先に、手招きできるような、光る道しるべになれたらいいな、幸せになる権利を奪われたわけではないし、あきらめさえしなければ、きっと先への道があると、信じられるからです。
「雑草のごとく強く、白百合のごとく美しくあれ」これは、高校の卒業式で、恩師がプレゼントして下さった、私の、大好きな言葉です。薄っぺらの人生より、味わい深い厚みのある輝いた人生を楽しみたい、せっかく負ったハンディだから、謙虚にそして懸命に私らしく、胸を張ってキラキラと生きて行こうと思っています。ご静聴、ありがとうございました。
千葉県から来ました五味といいます。宜しくお願いします。私はタートルの役員と書いてありましたが、会社名が出ていませんでした。一応上場会社[三協精機製作所](現在は日本電産サンキョー)というところで、回るモーターの技術屋さんをしていました。
私は点字は分かるんですが、読むのが遅いのです。メモが見えませんので、暗記してしゃべらせていただきます。[起・承・転・結]というストーリーで、1.自己紹介、2.職務経歴、3.復職奮闘記、4.復職に当たって思うこと、この順序でしゃべらせていただきます。
まず自己紹介をさせて頂きます。長野県諏訪盆地の茅野市というところで生まれました。ご存じのように、長野県人は理屈っぽくていけないところがあります。
血液型はA型で、これもまたくそ真面目なところがあります。技術屋さんですから、1たす1が2でないと割り切れないという、非常に理屈っぽいかもしれませんが、ひとつ話を聞いてください。
私の視覚障害は、レーベル病という病気です。2005年5月7日(46歳の誕生日)に発病しまして、半年後に10p指数弁になりました。
4月までは視力が2.0、どちらかというと遠視ぎみでした。ちなみに高校を卒業する時、航空自衛隊幹部候補生制度というのを受けた時に、私は視力が2.5ありました。
それが4月まで2.0、5月に眼科のクリニックに行ったら、0.4で異常なしと言われてしまいました。6月になると0.04でそんな状況になっても異常なしと診断されました。それで結局6月30日に検査入院をすることになりました。
私の妻が病弱なため、長期入院は考えられず、早期に治してくれるようにお願いしました。 通常行なわない血液の[遺伝子検査]で病名が判明しました。
私の病状が安定したのがちょうど発病6ヶ月後の11月ですね。色がだんだん消えていきまして、緑色とか最後は点字ブロックの黄色が消えたのかな・・・という印象です。
私は技術屋さんで、自分で言うのも変ですが少しやんちゃなところがあります。5月に視覚障害になって47歳の私の誕生日、ちょうど1年後に15年住んでいた船橋から、八千代の方に中古住宅を買って引っ越ししました。
私は46歳にして眼が見えなくなって落ち込んでいたのですが、このまま落ち込み続けると、私の人生半分は暗くなってしまいます。本当に全く知らないところで、イメージだけで生きられるかどうか、[人生の賭け]で引っ越しをしました。引っ越してから2年弱、まだ生きていますので、メンタルマップで生きていけるなと、少し自信を持っています。
ちょうど半年くらい落ち込んだんですが、その年の8月に入りまして、上司に「すみません。身体障害者になりました。」と言ったら「何で勝手になるんだ。」と怒られました。「そうはいっても、なってしまったものはしょうがありません。」と言って、8月20日に当時の上司である支店長に、「通勤で事故でもあったら困るから、自宅待機しなさい。」と言われました。
それから約1ヶ月後、上司が私の家まで休業に関する条件等を知らせるためにやって来ました。その時に伝えられたのが「有給休暇と休職期間半年、それに休業期間1年、これがあなたの権利です。」という内容です。それでこの1年半の間に何かしないといけないなと思ったのが9月です。
私が落ち込んでいたところへまた不幸が起こりました。妻の父が10月1日にがんで亡くなったんです。お通夜とかお葬式は私も行きましたが、家に戻ってくると、女房が長女だったものですから、「お母さんが銀行の手続きとか市役所の手続きなんか大変だから、ちょっと応援にいく。」と言って、そのまま1ヶ月帰って来なくなったんです。
最初の1週間くらいは、なんとか自分の家にあるものを食べていました。最初は恥ずかしがりやで、スーパーに買い物にも行けなかったのです。それで約1ヶ月間で20キロ痩せました。嘔吐したり、下痢になったりと体調が崩れました。私が眼科で通っている国立病院の内科にかかりまして、血液検査をしてもらいました。その時は、右手右足が痙攣を起こしていました。私も歩行訓練とかしていましたので、そこの先生に「塩分の不足でそういうことがあるから、スポーツ飲料を飲んでみなさい。」と言われました。やってみると嘘のように1発で治りました。「嘔吐と下痢はカリウム不足の可能性があるから、野菜を食べなさい。」と言われました。その時は、コンビニのおにぎりとかサンドイッチばかり食べていたものですから、野菜不足らしくて、1ヶ月くらいでそういう内科の病気は治りました。
そのころ眼科の医者からはここが底だと、気休めめいたことを言われていましたが、結局は底を過ぎて視力もなくなってしまいました。あとは上がるしかないなと、何をすればいいかと考えました。自分で2005年のクリスマスに、万歩計がついている携帯電話を買いまして、これから毎日1万歩と決めて歩いてみようと歩き始めました。車両通行止めの石にぶつかって転んだり、自転車の通行止めが交互になっているところなんかで、避けたと思ったらぶつかったりしていました。団地の中で転んでいるんですが、誰も助けてくれないんですね。これは自分で努力しないといけない、自分の心の動揺を減らさないといけないと思いました。
その当時熟年離婚というのが流行っていました。うちの女房も体が弱いものですから、私が「おい、コーヒー」だとか「飯!」とか言うと、「眼が見えないのがなんでそんなに偉いのよ。」と怒り始めました。そんなこと言うなよというと、今度は“いない、いない作戦”で声も音も出さないんです。いよいよ熟年離婚が頭をよぎりました。
そこで、これは全部俺が一人でやるしかないなと思いました。そういうわけで、歩行訓練の他にも料理教室も行きましたし、ぶつかった足首に痛みがあるものの、もともと腰痛持ちだったので水泳や運動をやりました。とにかくいろんなことをしてきました。
視覚障害になりますと、引きこもったりする人が多いと思うんですが、1日1万歩と決めた船橋の時も、それまでの生活では昼間は車を運転したり、飛行機に乗ったりして、めったに運動をしていないものですから、最初は3千歩くらいで冷や汗がだらだら出ました。
そのうち1万歩くらい歩けるようになりました。歩いたかなと思って自宅のある4階まで上がって玄関の前で9,200何歩とか出ますと、真面目なものですからすぐまた降りて、1万何歩になるまで歩いて戻って来るとか、していました。
船橋から1年後に八千代に引っ越してきたんですが、中古住宅を買った時は、中古住宅販売という旗がパタパタはためいていたんですね。だから、駅から家まで約5千歩歩いて、自分の家がすぐ分かったんですが、引っ越しの日、女房と女房の母が先に行って引っ越し家具を片付けていて、私は後から追いかけていったんです。そしたら旗がパタパタしていないんで自分の家が分からないんですよ。
あとから女房に聞いたら、「家の周りを10周も20周も回っているのかと思った。」と言うんですね。声くらいかけてくれればいいのにと思いました。眼が見えなくて自分の家をどうやって理解するか、この感覚をおもしろいなと思ったのは、足の裏でアスファルトの軟らかさと、自宅の駐車場のコンクリートの硬さ、この差で自分の家が分かるようになったんです。足の裏にも眼があるんだなと思い、改めて感激しました。
あの時に自分の家が分からなかったら、私はいまだにどこにいるのか分からないのです。全くイメージのなかった八千代に、2006年5月に引っ越しまして、すでに2年弱になりますが、今でもかばんの中にチョコレートとペットボトルのジュースを入れまして、遭難した時になんとかなるだろうという気持ちで1日歩いています。
歩行訓練を受けてわかったことですが、点字ブロックがひとつ30p角ですので、1歩30pというイメージで設定して、多い時には4万歩、約12キロ、平均でも朝のチビとの散歩が5千歩、駅との往復が1万歩ですから1万5千歩は大体いっちゃいまして、非常に健康になりました。ちなみにチビというのは私の家の飼い犬の名前でして、女房の名前ではありません。
職務経歴ということで話をします。皆様は大体一つの職務である程度継続すると思いますが、私は3年に1回くらい職務が変わっていました。私のモーター事業部にいたころの上司である生産技術課の課長さんが、出世していく度に引っ張られました。生産技術課から次は生産管理部の外注管理課へと、これは数の明確化をするのだと言われました。
生産技術課の時はモーター技術概論を読みまして、生産管理になりますと生産管理概論を読みました。どうしても納期が乱れますので、多能工化とか最近やっている看板方式を使いまして明確化します。
その後、事業部長になった時に営業成績が悪くなりますと、「おまえ売れなくて満足しているか。」ということで、今度は東京の営業に飛ばされました。そこでもいろんな新しいお客さんを見つけたんですが、「東京でいつまでもごろごろしていて、なんで海外に行かないんだ。」と、台湾の方に戦線離脱をして飛ばされました。
どういう偶然かわからないんですけど、私が台湾に飛ばされた1日前に私の上司だったホリという人なんですが、台湾の社長として来ちゃいまして、また一緒なのという感じでした。
今度はまた運の悪いことに台湾で女房が病気になりまして、通常台湾では3年以上の勤務なんですが、3年未満で日本に帰らせてもらいました。
その後は、モーターの新市場開発課というところですとか、開発センターの企画営業、経営企画部、企画も結構おもしろいんです。消エネというひとつの概念から考えますと、本来モーターというのは磁石と電気で力を生んでいるんですが、これを反対に使いまして、力と磁石がありますと、電流が発生するという発電機ができるんです。この発電機の事業に取り組みました。
僕が最後にやったのは、携帯電話にカメラが付いているのがありますが、結構今の人は焦点距離から考えて、うまく撮れないということがありますので、センサーに対してレンズを動かすことで、ズームとかフォーカスを当てるという、レンズ駆動装置なんかを提案する仕事をしていました。
実際眼が見えなくなって、1年半しか時間がもらえなかったもので、ある人のアドバイスで1年100社くらい受ければ1社くらい受かるんじゃないかということで、他の会社へもその間に挑戦しました。まともに実践したんですが、結局116社落ちました。今、どの会社でも常に求められているのはスペシャリストなんです。
私が台湾から帰ってきた時、1991年頃はゼネラリストという何でもできる人が結構もてはやされていました。IBMのタスク・フォースですとか、シャープのキンバッチ、そういうヨコブシを通せる人が流行っていたんですけど、ゼネラリストとして全然いい思いがなかったかなというのがひとつあります。
生産技術にいたときに、生産計画を適当にしてはいけないんじゃないの、と言うとそんなら生産管理へいけとか、情報の質が悪いからこれだけ生産が滞るんだよ、と言うとおまえ営業へいけとか、どんどん一言で飛ばされてしまいまして、“口は災いのもと”なのかなというのが、私の職務経歴上の自己反省です。
私は8月20日から会社に行かなくなりましたので、有給・休職・休業期間を考えますと、2007年の4月17日に首になるのかなということで、その間に自分ができること、何ができるんだろうかと考えました。
視覚障害となってどのようなことができるだろうかを考えるのではなく、復帰して何ができないかを試してみようかなということで、端からいろんなことをやり始めました。先ほど触れましたように障害者就職面接会も116社行きました。料理教室とかオカリナの楽器をやったり、一番形になったのは水泳なんですけど、そういう意味では精神的にも肉体的にも強くなったと思います。
その間に東京の支店長が社内には私の処遇に対して苦労されながらも、私の家まで来てくれたんだなということでは感謝しています。
そのような時に私を支えてくれたのは、このタートルの会です。講習会に行くと、見えない人が皆一人で歩いて来るのがすごく不思議だったんですね。私は知らないところは怖いからと、当時は一人ではなかなか歩けなかったんですが、努力すれば皆一人で歩けるんだなと感じたのを覚えています。
その頃会社の人が書類を取りに来たんですが、うちの女房もきつくて「寝癖のついた頭で何をやっているの。」と言われまして、当時は五分ガリにしていました。今は黒い髪の毛になっているんですけど、実は白髪染めです。短く刈っちゃいますと、白髪が出てきてそれが見えます。当時は栄養失調気味だったものですから、顔色も真っ白で、五味は老け込んだなと思ったらしいんですね。そんな話を最近聞きました。
タートルの会でいろんなお話を聞かせていただいた中で、休職期間・休業期間というのは会社によってそれぞれですが、3年くらいある大きい会社もあるんじゃないのと、ちらっと聞いたことがありました。2007年の4月の時に、うちの営業支援部の私の窓口担当の方に、「1年半と決めた根拠はどこにあるんですか。」と電話で問い合わせたんです。そしたら翌日電話がかかってきまして、「半年延長します。」と言われまして、それくらいの問題でやっているのかなというのが、全然分からなかったんですね。
まだその頃は、2006年の9月から2007年の9月まで、1年間で100社受けるというのを目標にずっとがんばっていました。
半年延長ですから次は10月17日に期限がくるんですが、9月に初めて会社から文書が来ました。「労働規約何条により半年延長します。つきましてはご希望があれば、ご相談ください。」という紙がきたんです。こんな紙がまだくるんだなと思って、タートルの工藤さんに話したら「じゃ、五味はまだ首になっていないんじゃないの?」と言われたんですね。
確かに労働規約でいえば、首になっていないんだとその時初めて知りまして、それまで僕は首だと思っていたんですね。首になっていないんだったら、何かしなきゃいけないということで、音声パソコンのWordで作った復職願いというのを、会社に提出しました。それでも音沙汰がなかったものですから、家で悶々としていた時に、携帯で電話番号帳起こしをやっていたら、経営企画部の時の上司の携帯番号が見つかりました。
2007年にはその上司は、取締役から常務になっておりまして、常務にちょっと脅しちゃおうかなと思わず電話をかけました。「実はここ2年間ずっとこんな状況になんだけど、会社は今景気が悪いんですかね、だめなんですかね。」と言ったら「そんなことはないよ。俺が人事部長に言っておいてやるよ。」という話になりました。
翌日の朝、人事部長が慌てたような感じで「人事部長をやっているなんとかだ。大丈夫か。」なんて突然電話がかかってきまして「それなら会っていただけますか?」と言ったら「今は忙しいから4ヶ月先しか会えない。」と言われたんですね。僕の一生の問題と、何が忙しくて4ヶ月も会えないのか意味が分からなくて、どうしたものかと考えてしまいました。
10月にテレビに出る機会があったので、会社に脅しを入れました。それが功を奏したのか11月、海外出張の帰りに個人的にだったら東京で会ってやるという話で、人事部担当者は私の一年先輩なんですが、個人的に会ってもらえました。そこで言われたのが、営業支援グループの担当が私の顔を2年前見た時に、色が青白くて髪の毛は真っ白になっちゃって、とても働ける状態ではないという報告を受けている、でもだいぶ元気になったんじゃない、ということでした。
2年間音沙汰もないと、どういう状況かも分からないし、たまには顔を出せよなと言われまして、話が全然違うなと思いました。本音はどうだったんですかと言ったら、長野県というところで工場勤務なんかですと、通勤が車になっちゃいますので、視覚障害イコール車の運転ができないということで、私どもの会社では視覚障害になった人は、皆辞めていっちゃっているんですね。
じゃ私はどうなるんでしょうかというと、まだ考えていないと言われました。
これはまずいと、このまま放っておきますと私もタイムリミットが2008年の7月17日でなくなるものですから、何かやらなきゃいけないなということで、XPリーダーのソフトを持って、長野の下諏訪の駅前にあります本社に行きました。
突然に会社を尋ねて、XPリーダーが会社のシステムに乗るかどうか確認してくれと言ったり、勝手知った会社の中を一人で歩き回っていました。
いろんな人が「五味、何してんの?」と声をかけてくれて、話をしていると「何で五味は、会社まで眼が見えなくて来れるの?」と聞かれるんですよ。「何で来るって、電車に乗ってくるよ。」と言ったら「そういうことは聞いていない。」と言います。私も見えている時は、多分そうだと思うんですけど、先入観があるんですね。
視覚障害者というのは真っ暗でいつも怯えていて、何もできないという先入観があるようです。私が会社の中を歩いていると、危ない危ないと言うんですけど、自分はその工場に何回も行っているし、大体の場所のイメージがありますから歩けるんですが、会社の人は見えなくて、なんで歩けるか不思議がるんですよね。
私も最初は歩けなかったんですが、視覚障害者の女性は素晴らしく強いなと思ったことがありました。自分でやろうと思っても、なかなかできなかったんですが、ある女性、金子さんという人なんですけど「電車なんか駅員に言えば、全部やってくれるわよ。」と言われました。1年前くらいに、自分も試したことがあります。
指定席を取りまして、何月何日この電車に乗ってどこどこへ行きたいんだけど、私たち視覚障害者は何号車の何番の何が分かりません。ホームに立ってその何号車がどこに来るかも分かりません。それをサポートしてもらえませんかと言って電車で目的地に着くと、全部の駅に人が配置されます。電車に乗っても、車掌さんがここですよと教えてくれるんですね。それも素晴らしいなと思いました。
12月にはそんな形で、会社の皆に顔合わせができました。
2008年になりましたが、1月は相変わらず会社からの音沙汰がありません。私が出社しない間、今の大崎にある営業拠点では、営業という仕事は眼が見えなくてできるのかという大論争があったらしいんです。 別にいいじゃない、営業じゃなくたってという、そんな話があったようです。そんな中で2月1日に人事部長から、「2月の末までに五味さんの復職について方向付けを出すから、もう少し待ってくれ。」という電話があったんです。
これは復職できるかなと思って、喜んでいたんですね。そしたら2月の末近くになっても、電話が1本も来ずに、メールを出しても回答が来なくなりました。おかしいなと思って、今度は営業支店の営業支援グループの窓口担当に、電話をかけてみましたところ「五味さんすみません、忘れていました。」と言われました。ガクッですよね。
私どものような部品メーカーは、ベトナムだとか中国にいっぱい工場があります。人事部長は、海外の方の人事面接もやっているらしくて、なかなか日本にいないということが分かりました。オリエンテーションというのをやるように言われていまして、ついてはいつ都合がいいですかと・・・。都合もなにも2月末までにはっきりさせる、と言っていたんじゃないのということで、2月28日かな、大崎の営業支店のところに行きました。
向こうの方も私の復職に対して賛否両論があるというか、日本電産サンキョーは視覚障害者を雇っていないもので、事故があっては大変だとかそういう論争があったようです。
それを逆手にとって考えれば、多分、私の視覚障害という状況を鑑みて、会社は従業員である私の通勤や業務に対して安全を含めた責任があるので、上司になり手がないのかなと思うんです。それまでは私の配属は、営業本部付きで休業・休職していたんですが、新しく4月以降は、人事部付きで仕事をしてもらうという話を、考えていると聞いています。
次はどうなるんでしょうかと確認したところ、通常は1月に会社のお偉いさんの人事が決まるんですが、サブプライム問題で大分いろんなメーカーさんも景気が悪いみたいで、組織が決まっていないものですから、3月の1週か2週くらいにかかっちゃうかもしれませんが、その時には連絡しますというのが、営業支援グループの回答でした。
3月の2週といいますと、昨日までなんですよ。また連絡が来ない、変な会社だなと思ってこっちもいらいらしまして、昨日の夕方、水泳を終わって、疲れたといってお茶をしていたところにやっと携帯が鳴りました。
「もしもし、おたく誰?」と聞かれて変な電話だなと思って「五味ですが。」と言ったら「人事の何々だけど、俺電話かけ間違えた?ところで何か連絡いってるか。」と言われたもので「あなたからの連絡を待っているんですけど。」と言ったら「そうか。営業支援グループに言っておいたんだがな。ちゃんと連絡するように言っておくよ。」と言われて今日になっています。
多分うまくいっていると思うんですが・・・。そういう待遇で自宅待機しながら、給与体系は決してよくはないんですが、少しずつ自分の状況を分かってもらいながら、先ほど言った営業管理のデータをやるというのは、パソコンがあれば自宅でもできますのでやっています。そのほか人事の技術採用なんかは外の仕事になりますが、そのような仕事への指示もありますので、ある程度私が外で安全に歩けるというのは、分かってくれているのかなという気がしています。
私も3年間くらい留守していましたので、少しずつ分かってもらうように努力はしていきたいと思っています。ですから、いまだに先ほどの大脇さんのように具体的ではなく、まだ復職奮戦記という形で留まっています。
4番目、私はまだ就職していませんので、そんなに大きいことも言えないんですが、3年間で感じた復職について思うことが、起承転結の結になります。
1)自分に克つ。
視覚障害になると心がすごく動揺して、どうせ何もできないんだなと考えちゃうんですが、眼が見えなくても今音声ソフトがあったり、ここへ来ている人達みたいに堂々と歩いて来れます。
見えないからできないんじゃなくて、見えなくてもいろんなことを試してみればできるんだなという、自分が見えないからなんて言い訳をしない、そこの精神的な立ち直りが一番大切なことだと思います。
2)[見えなくて、何が出来ないのか?]と考え、行動する。
私が立ち直った言葉として、「眼が見えなくて何ができるんだ。」と言われた時に一度は落ち込んだんですが、これを逆さにとって、眼が見えなくて何ができないかやってみようと、いろんなことをやってみました。失敗もありますし、できなかったこともあります。やってみてできなかったら、できないんだからしょうがないかなという形で、お茶目でやんちゃな私はいろんなことをやっています。
3)人生設計を考える。
一番大きく思えるのが、私も46歳でしたので、最近の人は英語で言うとキャリアプラン、日本語でいうと人生設計が大きく変わります。急激に収入が減りますし、私の家は病弱な妻と小さな犬が1匹いるだけですから、そんなにお金はいらないんです。
私は技術屋さんだから石の上にも3年です。3年間はなんとかチャレンジしてみようと考えています。今年の5月7日がちょうど3年目になります。3年を過ぎたら何をやろうかなと思っています。
4)会話をして、理解しあう。
私も視覚障害が3年くらいになったんですが、もうひとつ大切なことは、会社の人としゃべることです。つまり、視覚障害者は真っ暗で怯えていて、何もできないんだと思われているわけですね。私は見えている人達とか会社の人などに、こういうことはできないけど、こうすればできるというのを、話していかなきゃいけないと思っています。
コミュニケーションというのは大切だと思います。
5)感謝の気持を持ち続ける。
これが最後の5番目なんですが、この3年間女房に眼が悪いのが何が偉いのよとか、いないいない作戦でさんざんいじめられているんですが、結局私も見えない分は誰かに助けてもらわなきゃいけないということが分かってきました。仲間や家族へは感謝しています。
そんな体の弱い女房と私との珍道中で、私も今年49歳になりますが、60歳くらいまではなんとか頑張って働こうと思っています。私が働こうかなと思ったきっかけがチャレンジド運動というもので、給与をもらって、税金を払って、社会貢献をしようと考えています。私自身今や障害者年金をもらっている身なんですが、とりあえず社会に参加したいなというのが本音で、これからも頑張っていきたいと思います。
因みに4月18日より、[嘱託契約]として復職いたしました。
皆様方のご声援のお陰と感謝申し上げます。 ありがとうございました。
以上日時:平成20年6月14日(土) 13:00〜17:00
会場:社会福祉法人日本盲人職能開発センター
記念講演 「視覚障害者の就労問題〜過去、現在、未来〜」
講師:道脇 正夫氏(元職業能力開発大学名誉教授、前玉名看護福祉大学教授)
会員交流会
閉会挨拶
特定非営利活動法人タートルは、成立の日から年度末までの4カ月の間、従前からの事業の継続と新たな啓発活動の一歩を踏み出すための準備段階として、NPO法人タートルの存在を関係者に周知を図るべく広報に努めた。その結果、行政、眼科医、経営者団体、労働団体等の視覚障害者の継続就労支援に、「連携と協力」がきわめて重要との共通認識がもたれることとなった。また、「雇用継続支援実用マニュアル」、新たに作成したリーフレット、情報誌タートルの配布先について、より広く関係者に、特にロービジョンケアに熱意のある眼科医等に送ることで、初期相談の事例に眼科医の紹介が増加した。今、ネットワーク社会の進行に伴い、タートルのホームページの充実化に呼応して、問い合わせもホームページを見てという事例が増えている。
2 事業の実施に関する事項事業名 | 事業内容 | 実施日時 | 実施場所 | 従事者の延べ人数 | 受益対象者の範囲及び人数 | 支出決算額(円) |
---|---|---|---|---|---|---|
相談事業 | (1)面接による個別相談 | 個別 5件、(名古屋 1件) 07/12/27,08/02/11,08/03/02 08/03/15 | 日本盲人職能開発センター(名古屋ライトハウス) | 20人 | 障害者、家族、関係者 20人 | 56,000 |
(2)電話による個別相談 | 電話 個別約20件 | 担当者自宅 | 20人 | 障害者、家族、関係者 50人 | ||
(3)メール、手紙による個別相談 | メール 継続相談 | 担当者自宅 | 10人 | 障害者、家族、関係者 50人 | ||
交流会事業 | 復職、再就職、就労継続について情報提供、会員相互の交流、情報交換 | 2回 2008年1月19日,3月15日 | 日本盲人職能開発センター | 20人 | 障害者、家族、企業人事担当者、就労支援関係者等 60人*2回 120人 | 109,000 |
情報提供事業 | 情報誌「タートル」の発行 | 2回 2007年12月21日,2008年3月15日 | 10人 | 障害者、家族、企業経営者、企業人事担当者、就労支援関係者 500*2回 1,000人 | 154,831 | |
セミナー開催事業 | 就労職種、実情、支援機器の紹介、就労の体験発表 | 実施せず | 都内 | 0人 | 障害者、家族、企業経営者、人事担当者、就労支援関係者、一般市民(不特定多数) 約300人 | 0 |
就労啓発事業 | 視覚障害者の継続就労を中心に、眼科医企業、経営者、労働団体、就労支援関係者、視覚障害関係施設代表者、マスコミ等に周知するための啓発活動を行った。120人 | 2008/2/11 | 東京・アルカディア市ケ谷(私学会館) | 20人 | 医療関係者、企業経営者、労働組合関係者、視覚障害企業従事者、就労支援関係者、視覚障害施設代表者、学識経験者、視覚障害当事者等。200人 | 489,845 |
科 目 | 決算額(単位:円) | 説 明 |
---|---|---|
(経常収支の部) | ||
T 経常収入の部 | ||
1 会費収入 | 215,000 | |
・正会員 | 65,000 | |
・賛助会員 | 150,000 | |
2 事業収入 | 40,500 | |
・交流会事業収入 | 40,500 | |
・セミナー事業収入 | 0 | |
3 補助金等収入 | 0 | |
4 寄付金等収入 | 305,000 | |
5 その他の収入 | 2,868,906 | |
・利息収入等 | 289 | |
・近藤正秋賞 | 300,000 | |
・任意団体からの繰入 | 2,568,617 | |
経常収入合計 | 3,429,406 | |
U 経常支出の部 | ||
1 事業費 | 809,676 | |
・相談事業費 | 56,000 | 借室料、交通費等 |
・交流会開催事業費 | 109,000 | 謝金、借室料、テープ起こし等 |
・情報提供事業費 | 154,831 | 情報誌発行費等 |
・セミナー開催事業費 | 0 | |
・就労啓発事業費 | 489,845 | 記念式典会場費、リーフレット印刷費等 |
2 管理費 | 309,059 | |
・役員報酬 | ||
・給料手当 | 0 | |
・什器備品費 | 0 | |
・光熱水費 | 0 | |
・消耗品費 | 143,695 | 封筒印刷費等 |
・通信運搬費 | 54,898 | |
・交通費 | 60,000 | 理事会等 |
・印刷製本費 | 0 | |
・租税公課 | 4,000 | |
・雑費 | 46,466 | 名刺ほか |
3 予備費 | 0 | |
経常支出合計 | 1,118,735 | |
経常収支差額 | 2,310,671 | |
V その他資金収入の部 | ||
1 繰入金収入 | 0 | |
・その他の事業会計繰入金収入 | ||
その他資金収入合計 | 0 | |
W その他資金支出の部 | ||
1 固定資産取得支出 | 0 | |
2 法人税等 | 0 | |
その他資金支出合計 | 0 | |
その他資金収支差額 | 0 | |
当期収支差額 | 2,310,671 | |
次期繰越収支差額 | 2,310,671 |
資産残高 平成20年3月31日現在 | \2,330,671 |
郵便預金残高 | \2,254,058 |
銀行預金残高 | \76,613 |
事務局所持金 | \0 |
1 事業実施の方針
NPO法人化初年度の実績を踏まえ、さらに事業の充実・強化を図る。職業、生活に悩んでいる中途視覚障害者を対象とするピア・カウンセリング(個別相談)の実施、情報提供、情報交換、仲間づくりを目的とする交流会の開催、交流会報告、就労障害の実情、会員の寄稿によるコラム、中途視覚障害者を取り巻く諸問題などについて社会の理解を深めるための情報誌「タートル」の発行、企業経営者、人事担当者を対象として、中途視覚障害者の実態、労働能力などを具体的に紹介し啓発を推進するセミナーの開催などを通じ、中途視覚障害者の就労環境の改善を図る。雇用主が視覚障害者を雇用するに当たっての問題点、要望などを調査してその雇用条件を探求する。そして、雇用主が安心して視覚障害者を雇用できる啓発事業を行う。2 事業の実施に関する事項
特定非営利活動に係る事業
事業名 | 事業内容 | 実施予定日時 | 実施予定場所 | 従事者の予定人数 | 受益対象者の範囲及び予定人数 | 支出見込額(千円) |
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相談事業 | 面接による個別相談 | 随時 | 日本盲人職能開発センター | 10人 | 障害者、家族、関係者 40人 | 180 |
電話による個別相談 | 随時 | 担当者自宅 | 5人 | 障害者、家族、関係者 100人 | 20 | |
メール、手紙による個別相談 | 随時 | 担当者自宅 | 5人 | 障害者、家族、関係者 100人 | 20 | |
交流会事業 | 復職、再就職、就労継続について情報提供、会員相互の交流、情報交換 | 4回(08年9,10,09年1,3月) 1回は地方 | 日本盲人職能開発センター 地方 | 10人 | 障害者、家族、企業人事担当者、就労支援関係者等 60人*4回 240人 | 330 |
情報提供事業 | 情報誌「タートル」の発行 | 4回 08年6,9,12,09年3月 | 5人 | 障害者、家族、企業経営者、企業人事担当者、就労支援関係者 500*4回 2,000人 | 400 | |
就労啓発事業 | 雇用主へのアンケート調査 (1)雇用主の雇用条件と要望をまとめる。(2)視覚障害者の働ける条件と環境をまとめる。 | 7回 (08年7,8,9,10月,08年1,2,3月) | 日本盲人職能開発センター | 35人 | 調査対象200社(東京100社、名古屋、大阪各50社) | 300 |
科 目 | 金 額 (単位:円) | 内容 |
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(経常収支の部) | ||
T 経常収入の部 | ||
1 会費収入 | 1,600,000 | |
・正会員 | 1,100,000 | 5,000*220人 |
・賛助会員 | 500,000 | 10,000*50人 |
2 事業収入 | 62,000 | |
・交流会事業収入 | 12,000 | 参加費 300*10*4 |
・セミナー事業収入 | 50,000 | 参加費 1,000*50人 |
3 補助金等収入 | 0 | 0 |
4 寄付金等収入 | 200,000 | 200,000 |
5 その他の収入 | 2,311,671 | |
・利息収入等 | 1,000 | |
・前期繰越金繰入 | 2,310,671 | |
T 経常収入合計 | 4,173,671 | |
U 経常支出の部 | ||
1 事業費 | 1,550,000 | |
・相談事業費 | 220,000 | 借室料、交通費 借室120,000 交通費100,000 |
・交流会開催事業費 | 330,000 | 講師謝金、テープ起こし等 講師謝金15,000*4 借室120,000 地方150,000 |
・情報紙発行事業費 | 400,000 | DTP、印刷等 DTP25,000*4 印刷70,000*4 |
・セミナー開催事業費 | 300,000 | 会場費、資料作成費等 会場費200,000 資料100,000 |
・就労啓発事業費 | 300,000 | 交通費、役務費等 |
2 管理費 | 630,000 | |
・役員報酬 | 0 | |
・給料手当 | 0 | |
・什器備品費 | 30,000 | |
・光熱水費 | 0 | |
・消耗品費 | 150,000 | |
・通信運搬費 | 150,000 | |
・交通費 | 200,000 | |
・印刷製本費 | 50,000 | |
・租税公課 | 0 | |
・雑費 | 50,000< | |
3 予備費 | 100,000 | 100,000 |
U 経常支出合計 | 2,280,000 | |
経常収支差額(T−U) | 1,893,671 | |
V その他資金収入の部 | ||
1 繰入金収入 | 0 | 0 |
その他資金収入合計 | 0 | 0 |
W その他資金支出の部 | ||
1 固定資産取得支出 | 0 | 0 |
2 法人税等 | 0 | 0 |
その他資金支出合計 | 0 | |
その他資金収支差額 | 0 | |
当期収支差額 | 1,893,671 | |
次期繰越収支差額 | 1,893,671 |
役 名 | 氏 名 | フリガナ | 住所または居所 | 就任期間 | 報酬を受けた期間 |
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理事 | 下堂薗 保 | シモドウゾノ タモツ | 東京都品川区 | 平成19年12月3日〜平成21年3月31日 | 無 |
理事 | 松坂 治男 | マツサカ ハルオ | 神奈川県横浜市鶴見区 | 平成19年12月3日〜平成21年3月31日 | 無 |
理事 | 安達 文洋 | アダチ フミヒロ | 埼玉県春日部市 | 平成19年12月3日〜平成21年3月31日 | 無 |
理事 | 新井 愛一郎 | アライ アイイチロウ | 東京都大田区 | 平成19年12月3日〜平成21年3月31日 | 無 |
理事 | 石山 朋史 | イシヤマ トモフミ | 東京都世田谷区 | 平成19年12月3日〜平成21年3月31日 | 無 |
理事 | 工藤 正一 | クドウ ショウイチ | 千葉県千葉市中央区 | 平成19年12月3日〜平成21年3月31日 | 無 |
理事 | 篠島 永一 | シノジマ エイイチ | 東京都青梅市 | 平成19年12月3日〜平成21年3月31日 | 無 |
理事 | 杉田 ひとみ | スギタ ヒトミ | 埼玉県春日部市 | 平成19年12月3日〜平成21年3月31日 | 無 |
監事 | 大橋 由昌 | オオハシ ヨシマサ | 神奈川県横浜市港北区 | 平成19年12月3日〜平成21年3月31日 | 無 |
監事 | 近藤 豊彦 | コンドウ トヨヒコ | 愛知県名古屋市守山区 | 平成20年4月1日〜平成21年3月31日 | 無 |
本号は1月と3月の交流会のまとめの掲載、そして特定非営利活動法人タートルの第1回定期総会の議決資料を掲載しています。事前によく読んでおいていただき、会員総会において質疑を活発に行えるようにと願っています。
タートルがNPO法人として2007年12月3日に成立してから、2008年3月31日までを報告し、平成20年度の計画と予算を審議願うことになります。平成19年度の事業報告と収支決算については、この間の4カ月のものです。その前の8カ月分については、創刊号に掲載しています。
任意団体から法人格を取得して最初の総会となります。何が一体どのように変わったのか。これについて明確なものは特にありませんが、まず、法人設立の周知に努めました。各界の代表に参加していただき、法人格取得を祝っていただくと同時に、タートルに対する期待や連携と協力を表明していただきました。この様子については、情報誌タートル(第2号)に掲載してあります。
平成20年度は本格的に社会に向けて啓発活動を行うための第1ステップとして、視覚障害者を雇用しようとする雇用主がどのような問題点や要望をお持ちかを調査します。その結果を分析し、次への行動に結び付けていこうとするのです。
NPO法人タートルというひとつの組織が活動を継続するにあたって、一般的には「人、物、金、情報」が必要とされていますが、どれをとっても不十分です。視覚障害者が「働く、働きつづける」の就労問題についての情報はそこそこもっているでしょう。十数年継続してきた活動の蓄積による情報ですが、社会に向けて広報していかねば、その情報は生かされません。ヒトについては、連携とか協力により他機関の人材の手助けに頼ることもひとつの手立てですが、直接的に動いていただくには中に入り込んで理解を深めて協力していただく形が望ましいです。ボランティア、協力者、支援者、いろいろな言い方はあります。賛助会員となっていただき、金は出すが、口は出さないといった協力の仕方を望むのは手前勝手ではありますが、私どもにとって最もありがたいことです。
とにかく社会に開かれた風通しのよい雰囲気を持つ組織だというイメージ、そして魅力的なメッセージを送り続けられる情報発信力を持つことを心がけるべきだと考えます。
特定非営利活動法人 タートル 情報誌
『タートル第3号』
2008年5月5日発行 SSKU 通巻2780号
■編集 特定非営利活動法人 タートル 理事長 下堂薗 保
■事務局 〒160-0003 東京都新宿区本塩町10-3
社会福祉法人 日本盲人職能開発センター 東京ワークショップ内
電話 03-3351-3208 ファックス 03-3351-3189
郵便振替口座:00130−7−671967
■特定非営利活動法人 タートル連絡用メール m#ail@turtle.gr.jp (SPAM対策のためアドレス中に # を入れて記載しています。お手数ですが、 @ の前の文字を mail に置き換えてご送信ください。)
■URL=http://www.turtle.gr.jp/